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10月のバラ 【9】
この国では婚約者の男性から女性の家に送られる支度金は天文学的な金額を要する。
そのため、この国の男たちは皆、晩婚だ。
アリーモスクなど荘厳なモスクが並ぶ一方で貧しいスラム街が密集している地区でもあるイスラム・カイロを案内してくれた「眼鏡をかけたアトキンソン」ヤスル
(この男はなんと私と生年月日が全く一緒、「1965年10月4日生まれ」と歳も同じの28才であるという。
そのことをハン・ハリーリー市場にあるレストランで知った。私は賞味していたチ
キンカバブを吐き出して、「奇跡だ!」と叫んだ。きっと、世界はどこかで繋がっ
ているのだと妙に歓心したものだ)が、カイロ博物館で指輪を無くして落ち込んで
いる私を慰めてくれるつもりなのか、
「10年来の許嫁がいるのに稼いでも稼いでも支度金がたまらない」と嘆いてい
た。
実は、この国(イスラム国家全般に通じることだが)の結婚でもう一つの特徴は、双方の親たちで相手が決まってしまうということだ。しかも地方などでは、結婚式当日までお互いの顔も知らないまま結婚という、厳格なお見合い結婚の風習も残っている。
「ダ・ガーリー(高い買い物)な場合も多い」従って、(従ってというのもなんだが)離婚率は当然(当然というのもなんだが)高いそうだ。
ヤスルはイスラム国家の結婚観を一通り説明してくれた後、
「ふう、あなたはどう思います?」と大きく溜め息をついて尋ねてきた。
「どう思うって言われてもどう答えていいかわからないけど・・・」モジモジ伝える。
「でも国民の98%はムバラクでは経済は建て直せないと思っているのですよ!」
-おいおい、いつから政治経済の話にすり変わっているんだ!-
これから長い演説と質問攻めがはじまりそうな悪い予感がして私は食後の熱いミント・ティーを慌てて飲み干し、
「さあ、もう出ましょうか」と、ヤスルに伝えた。
彼は名残おしそうにしながらも(慌ててデザートを食べて)渋々席を立ち私に続いた。
にこやかにウェイターが渡してくれた伝票にはしっかり彼の食事代も含まれてい
た。
この国で得た教訓は多い。インテリは皆、議論好きで、嘘くさく、しかもせこい。まあ、野暮なことは言うまい。ヤスルも由緒正しきエジプト人だったのだ。
人にちょっと親切、 人からちょっと小銭を・・・。
カイロ市の標語にでもどうだろう。
新婚さんは藤椅子に到着して腰掛けた。シャイマーた二人から離れた。再び妻の元へ擦り寄ってくるに違いない。
楽団たちは最後の雄叫びを力を振り絞って誇示していた。
いよいよ、バンドマンたちの出番であった。
いやーずいぶん引っ張ったなーここまで! 案の定、黄色の合羽を着た楽団は会場を後にしだした。
もう御用はございませんとばかりに疲れ切った表情で。
ただ一人、その薄くなっている後頭部はともかくとして、後ろ髪を引かれる思いをして、名残おしそうに、かつ恍惚状態の人がいる。
そう、似合っているかどうかはともかく派手なシャツを着た我らがデブおじさんだ。
ヒーローのご退場というわけでもなく、後ろ姿はとても寂しそうだった。
枯れ果てたブルース・ウィリスみたいな雰囲気が漂っているパンチパーマの兄さんが、派手デブおじさんから主導権を奪い取り、観客に「こっち向かんかい」とばかりに、大声で前口上を述べ始めた。熱くなるほどハチャメチャなジェイムズ・ドレイファスだ。
そして、お昼の演芸ショーのような前奏に続いて「ダンスミュージック」が始まった。
いきなりガチガチのアラビア歌謡なのであった。ずっこけそうな真打登場だ。
一瞬、広場は静止したかのようだったが、一斉に人々は立ち上がり、踊り始めた。漆黒の夜空が揺らいでいる。祭の「証」はまさにこの瞬間にあった。
村の人々にとって、そして私たちにとっても何にも変えがたい珠玉の一瞬だった。記憶の古層にとどまり、安らぎと祝祭のトポスへ導いてくれるに違いない。
今朝、 ピラミッド入場口でモーセスに捕まった時、 こんな場面を想像できたか---。
その時、私はオババ3人組と離れて舞台下にいた。
赤いドレスを着たシーワは両手を揺らしジプシーのように体をくねらせながら、私が撮影するビデオの前で踊った。白のドレスを着たシーワと同年代の眼の大きな女の子も、シーワと同じく幼いながら妖艶な踊りシーワとコンビで魅せてくれる。
その昔、この村はピラミッドの盗掘者たちが築いた村だった・・・彼女らがその末裔であることにかわりはない。私は彼女たちの陰影にジプシーのなれの果てを映し
とった。
私はビデオを回しながら、強烈な刺激と興奮とこれまでの「出会い」に身が震えるのを覚えていた。
いずれ、いつか見る夕焼けに溶け込むように邂逅することだろう。
私は、この瞬間を分かち合う最愛の妻へ振り返って満面の笑みを投げかけた。
妻も満面の笑みを浮かべていた。が、その笑みは別の意味があった。
彼女はオババたちからもらったピスタッチオをぽりぽり貪っていたのだった。
曲が変わった。
観客に徹しきれない踊り好きな人たちは次々と壇上に上がっている。
壇上では女たちがアラブ独特のうねるような曲調に合わせて腰をくねらす。
なかでも、どこで買ったのかかそれとも手製なのかパステル色の薄いシルクのスケスケのドレスを着た髪の長い女は群を抜いて光っていた。アラブのジェーン・シーモア。
「こりゃ、たまらん」もしかして彼女はベリーダンスのプロかもしれない。
2年前、イスタンブールのとあるホテルのレストランのショーにて、暗い客席で目が釘付けになった、スポットライトを浴びて一枚一枚また一枚衣装を剥ぎ取っていくウィノナ・ライダー似の美人ダンサーの姿とダブらせた。
ウヒャヒャヒャヒャヒャヒャ。
唾を呑み込み思いも掛けない状況にわくわくして、ステージ上へ眼はボルト締め
だ。
しかし、いつまでたっても彼女には何の変化も見受けられず、美しく舞いながら蝶への妖しい脱皮は幻となった。
そのかわり彼女は(しっかり自分も壇上に上がり、踊れや踊れといらぬ指示をだしている仕切り屋禿げ鷹じいさんから杖のような棒を渡され)棒を掲げて踊っているばかりで垂れた涎はそのうち乾ききってしまった。
その棒は何の変哲もない棒であったが「幸福を呼ぶ踊り棒」とでも言おうか、壇上は溢れんばかりの人だかりになり、皆でその棒を奪い合っていた。
それでも次々と壇上を目指す人々、とくに女は熱い。
その時、おぞましいものを見た。
マツ・ウメ・カメの三人組みのうちの一人のオババがその重い体をステージに預けようとしているのだ。
一人では重力に勝てないようで、昇れない。壇上のジョンウェインと今日初めて真の役にたったというような禿げ鷹じいさんの二人がヒーヒーいわせながら引っ張り上げていた。
その様は傷を負ったセイウチだかトドだかオットセイだかゴマアザラシを助けるため、岩場へ引っ張り上げている行き掛かりの罪なき漁民の構図であった。
私は見てはいけないのか見て得したのか複雑な心境でその「暴挙」と「救助」を見守っていた。
エジプトもごたぶんにもれず女性の社会的地位は高くはない。
彼女たちは日頃の抑圧の鬱憤をはらすかのように腰を振っては、派手デブおじさんとは違った意味で、恍惚の人となっていた。
私の妻、つまり社会的地位があり、家庭的地位はもっともっと断然ある彼女は平穏を愛する人で、踊りには興味がないとばかりに、やはりピスタッチオの皮をむいでは口に運ぶ「作業」に余念がないようだ。
しかし、彼女の「我が道行く」はピスタッチオ20個ほうばるほど長くは続かない。
すっかり治癒され、幾分脂肪も落としてきた(なわけはないか)、トドならぬオババは凱旋気分揚々だ。その爽快な気分を他人に押しつける豪快さをもさらに充実さ
せたようで、相変わらずピスタッチオの皮を剥く「平和な人」に、
「あんたもどう?気持ちいいのよやってごらん、やってごらん。だまされたと思っておやりなさいよ。さあさあ、やってきてごらん。世界が変わるのよー。楽しいわよー」
しきりに勧める大きなお世話セイウチ、もといオバサンになっていた。
妻の周りはいつも物見の人だかりであったが、いつの間にかモーセスの姿があっ
た。
「俺たちは天使じゃない」彼は、 私の鋭い「俺たちに明日はない」視線に感知せ
ず、
「ユー、ダンスダンス、ウィズシー」イケシャアシャアと厚かましく勧めるのだ。
私は彼のヘラクレスのような逞しさとヘルメスのような軽さに感心させられる。
頭が下がる思いは断じてしないけど。風土が人をつくるのか・・?エジプト万歳!
私は戦時中はなんでもありの卑怯きまわりない下士官に成り下がり、オババたちやモーセスとの協調路線に転向し、「眼下の敵」へ攻撃した。
「はよ、踊ってこんかい。みんなせっかく勧めてくれよんのに、気い悪うしたらいかんやろが」と、柄にもなく照れて手を横に振る彼女へ砲撃するのだ。
彼女はじつはまんざらでなかったのか、あっさりオババの軍門に下り、モーセスに先導されて正面ステージへ向かった。
そして壇上では今度も間違いなく見てはいけない光景に出くわすのだった。
彼女はどうひいき眼にみてもリズム感がなく傍らで踊るジプシー妖艶女と対照的だった。
壇上には禿げ鷹とジョンウェインともう一人先導さんがいる。彼は刑事コロンンボ役のピーター・フォークがちょっと顔面神経痛になったような顔のひょうきんな男
だ。
禿げ鷹がジプシー女の棒を妻に持たせ、二人を向かい合わせにして踊るよう強要した。
ますます見てはいけないものを・・・ビデオのファインダーを通して覗くビデオはしっかり録画されてはいた。
激しいアップテンポな曲に変わった。
エジプト人はディスコチックなダンスは苦手なのか壇上は散るように人が消えた。
残るはコロンボのみとなった。ようやく歌手パンチのオン・ステージになった。
彼の歌は抑揚があまりない。というよりも肝心なハーモニーのときに決まって彼はマイクを離し「音が割れてる」などと難癖つけているのだった。
セッティングしたのは自分たちだったはずだし、高いキーを出すときに限ってパンチは途中で息を吐きマイクを離すのだった。彼も我等が「トホホな世界」の住人だったのか。
席に戻った妻はヤンヤヤンヤの喝采を浴びていた。シャイマーもそこにいた。
彼女はオババの席の後ろで、ねっとりした視線を妻に投げかけている。
きっと、彼女の前世は古代のアビシヌスの神、つまり猫に違いない――。
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