10月のバラ 【12】





mie mikonos




「またバラか・・・」                           
溢れだすものをこらえながら、目の前の光景を数日前のアスワンの心象風景とダブらせていたのだ。                             
4日前、アスワンのカタラクトホテルでの出来事だった-------。    
フィラエ島見学からの帰り、送迎のガイドたち3人組(よっぽど暇な奴らなのかセ
キュリティーの問題なのかは知らないが、私たち二人の客に3人も付いて来なくて
もよさそうなものを・・)がかけてくれたヌビア音楽のテープは浪速音頭そっくり
で、私の琴線に触れた。♪チャラリライッラリランタタンタン-----    
「おーい、アジが今日は安いよ、安いよ安いよ安いよ」(わけわかんないけど)ふ
ざけ、手拍子を続け、3人組も思わぬ私の反応に大喜びで、箱バンの車中は大騒ぎに。    
「もういいかげんにしたら」妻にたしなめられてもなおはしゃぎ続けた。    
宿へ帰った夕食時、今度はヌビア人の民族音楽とダンス。その夜は興奮絶頂であった。  
食事を済ましダンスショーも終わった頃、 私と妻はささいな事で口論になり、いざ
となれば口数で勝る私は妻を泣かせてしまった。絶頂の夜は急速に冷え込んだ。 
その時初めて妻の涙を見た。道中、さんざんー泣かされてーきたのは私の方なの
に・・・・・。 
彼女に気づいた私たちの給仕をしてくれていた大柄なヌビア人のウェイターが慰めの言葉をあれこれ英語やアラブ語やヌビア語で声かけてくれたがいっこうにやまりそうもない。
私の立場はますます苦境に立たされた。                   
ウェイター氏はそのうち諦めたのか、奥へ引っ込んでいってしまった。     
攻撃の鉾先をとっくに収め、改悛した私もほとほと困り果てていた時だ。    
「ユア、ノープレブレム、スマイルスマイル、ライクアローズ」        
ウエイターが舞い戻って来て、やさしく語りかけるように言った。       
同時に、妻の背後から真鍮の小さな盆に乗せた一輪の花を差し出した。     

 バラの花だった。                                

 その花はついさっきまで息吹があったような新鮮さで、おまけに手でちぎったよ
うな茎の折れかただった。この男が今しがたホテルの庭ででもちぎってきたものに
違いない。 
真鍮のお盆がシャンデリアの明かりで光っている。そこに涙が一雫落ち反射した。
彼の心憎い演出に、さっきまでとはあきらかに違う涙を妻は流しはじめた。   
そしてかわいらしい嗚咽をあげた。                     
眼の前にいるのは小さく儚げで、朧な存在の小さな女の子だった。       
 カイロのホテルにもカイロのレストランのテーブルにもアレキサンドリアの海辺
のレストランにもガラス瓶にさされた可憐な一輪のバラがあった。いつもバラがあ
った。   








「薔薇を巡る旅だね」とある時、私は言ったかと思う。            
そう、バラを巡るような旅だった。                     
アスワンのレストラン「1888」のテーブルに花ざしはなかったが、今晩こんな素敵で粋なバラとの出会いがあった。                    
「まるで映画のシーンみたいだ」                      
すっかり彼女の涙の原因をつくった責任の所在を棚上げして私はのぼせ上がっていいた。 
「やさしいヌビア人のウェイターさん、忘れないでいようね」         
曖昧にうなずいた妻の顔は手にしているバラのように桃色がかっていた。    
そのバラは部屋へ持ち帰り、持参した航空機のガイドマガジンに大事にはさんだ。
持ち帰ったときには押し花になっているはずだ-----。


そして今日もバラだった。                         
私が熱くなったのは、アスワンの邂逅と、シャイマーをはじめとする女の子たちと
の出会いの円舞曲と別れの序曲の融合だったのかもしれない。         
シャイマーは女王様の風吹かし、女の子のいろんな名前を繰り返していた。   
妻は満面の笑みでその名を復唱していた。                  
名を呼ばれた女の子たちの嬉しそうなこと、嬉しそうなこと。         
私の霞んだ眼の先にはバラの数だけ笑顔があった。              
「スマイル・ライク・ア・ローズ」--薔薇のように笑って・・・--     
カタラクトホテルのウェイターの言葉が重なるように蘇った----。                                          
このような汚れを知らぬ美しい光景を私はみたことがない。          
そして、私にはもう一つ心底こみあげてくる喜びと幸福感があった。      
妻その人は、そのきらめくような空気でまわりを包み込み輝く光を当てる人だ。 
彼女は刹那を素直に喜び、また分かちあい感動できる人なのだった。      
こんなに邪心のない無垢な人を私は知らない。モーセスをもその無垢さで包んだのだ。 
この気持ちを旅立つ前、駅まで見送って貰った義父に伝えるつもりだったが、どの
ように伝えたらよいのか、うまい言葉が見当たらずそのままになっていた。   
今はっきりと心の芯に言の葉となって、たち現れているのに・・・。      
 義父に伝える機会は永遠に奪われてしまっていた-----。                                             
 3才くらいの小さな女の子が恥ずかしそうに、蕾から今まさに開かんとしている
バラを幼いながらも精一杯の歓迎の意を表していた。             
女の子たちの手から次々と妻の手にバラは渡り、やがて両手一杯のバラの束となった。 
渡されたバラの香りを運ぶように声をかけ合っている。            
バラの数だけ笑顔があった。                        
私はビデオを撮りながらこの光景を美しく捉えていたものの、邪心だらけの私は俗
っぽい憂鬱がもたげていた。                        
「チェッ、何であいつだけなん・・・」バラの数だけ嫉妬があった(笑)。   
私はビデオに専念する素振りをみせながら内心うらやましがっていたのを隠し、気
後れする性格に自らを咎めてみた(嘘)。--おいしいとこばっかりもっきやがっ
て--  
その時、背後に視線を感じ振り返った。                   
大きな目でロンパリ気味のキザ屋君がいた。                 
彼の口にはバラの花があった。                       
「ヤパンヤパン、アラーム。」と言って口にくわえていたバラを私に差し出してき
た。 
なんとまあ、やっぱりキザなやつだった。                  
うそぶく私は修行が足りない、いや習性か。--「世界中にアイ・ラブ・ユー」だ
-- 
間近で見ると、このバラが先ほどまでどういう状態であったのかがよくわかる。 
茎の先は刃物で寸断されたのではなくいびつで、明らかに先ほどまで息づいていた生命を、手でちぎるかどうにかして、施されたものだった。アスワンと同じだ。 
私は自分のバラと、妻をまた独占しようとしているシャイマーを見比べた。   
シーワや白のドレスや目と鼻の大きな女の子その他の女の子たちの顔をぐるりと見回した。ひと廻りし、キザ屋君を見つめた。もちろん私の「目」はビデオだ。  
彼の眼はみるからにひきこまれそうなくらい大きい。睫毛も以上に長い。    
彼の大きな瞳に映った自分の鈍感さを呪った。                
彼、彼女らが闇にまぎれて広場から姿を隠した一時はバラをどこかで調達するためだったのだ。ナズラットサマーン村中が彼女たちの広場であり庭なのだ。    
 その時、走馬灯のように思い巡らしたことがある。             
私は、あるいは私たちはいかに朧で危うく、儚い「情報」の上を綱渡りのように怯
えて渡っていたことかを。しなやかに暮らす人々をいかに軽蔑の視線で追っていたかを。 



----カイロに暮らす人々が私たちをつけ狙うスリばかりではない------。  
ゲジラ島のシェラトンで部屋に入るなり電話が鳴り響き、受話器を取りたじろく私に、「部屋はどうですか?気にいらなかったら、別の部屋を要求することができま
すから、バスや設備、照明器具はおかしくありませんか?」とまくしたてて尋ねて
きた空港からホテルまでの送迎に付き合った運転手とも入国審査の手伝いをしてくれた男とも違う、私たちには「存在が?」だった男。             
「部屋は変えなくてよい」                         
と私が告げた後、2名のポータが入れ替わり立ち替わりやって来て尋ねる。   
「部屋はどうか?」                            
それは当方の思い違いだったのだろうか。あの時、私は妻に言った。      
「きっと、チップを要求しとるんじゃ。払わないものだから嫌がらせしとるんよ」
私たちは夜も深まった入国だったために両替できずじまいで、エジプトポンドもド
ルの小額紙幣さえ、持ち合わせていなかったのだ。              
大勢の親切にきっと老婆心で答えていたのかもしれない。           
 インテリ・ヤスルは10月4日生まれの28才と言った。ビザ取得の関係で私の
生年月日くらいは知っていてもおかしくはない。               
 -全力でお守りします--と相手を思いやったやんごとなき方達の結婚式と同じ日に婚約を交わし、学生時代アルバイト先であった八重洲地下街にある煎餅屋の隣の洋菓子屋のくだけた店員に「占いに凝って勉強しているから」と練習台にされ、差し出した私の手の平を見て即座に「28才か35才で結婚する」と、言い切った言葉がいつまでも余韻が残り、意地でも28才になる一日前に式を挙げ、翌日の誕生日はディズニーランド10周年のパレードを私のバースデーを祝う式典だと、勝手に勘違いして舞浜で舞い上がり、翌日は颯爽とオリンピック航空にて一路アテネへ向かい、着いたその足で郊外の日本大使館で婚姻届を提出、めくるめく記念日続きに浮かれる最中、初日のカイロ博物 館で結婚指輪をなくした(しつこいけど、ネチネチ責められるんだなー、これが)。  
自分でも気の毒なくらい落ち込んでいる私を勇気づけるため偽って言ってくれた同い年の同じ誕生日とは彼のいたわりであったのかも知れない。  


ルクソールミエ

王家の谷


 ルクソール東岸へファルーカで西岸に渡り、ハトシェプスト葬祭殿などがある中
期エジプトの首都であったテーベの遺跡巡りは、テーイップという男にまんまと嵌
められ、目を覆うばかりのオンボロタクシーに乗せられた。カイロを旅立つ前、ヤ
スルが言った。 
「ルクソールではどんなことがあっても西岸の遺跡巡りのタクシーの上限は50ポ
ンドです。それ以上は絶対払う必要は有りませんよ」助言も虚しく、何と全然風が
吹かずに二人の少年の手漕ぎとなったアンチ優雅な船上にて、私はテーイップにやり込められ60ポンド払ってしまい、一人茅の外だったくせに私を責め立てる妻を横目にしつつ、何故か心地よい「風」が私にだけ吹いていたような気がしたのは、テーイップの明るくどこか憎めない役者のような人柄だったせいかもしれない。 
 この地を訪れることがナイル川巡りの最大の目的でもあったのだが、メムノン神像は顔が欠け歪で、 草原のなかにポツンと佇んでいるのみだったし、ラムセス4世の神殿跡も「ああそうなんですか」とばかりに、隣接した丘の上からロバで農耕する年老いた女と子供たちのやりとりを眺めていたし、有名なあまりにも有名なツタンカーメンの墓の見学は狭い通路を降りて、そこには落書きのような壁画があるのみで早々に抜け出したし、入場料を払った引換えの5枚のチケットは、岩山にへばりつき点在している王家の墓は風化した死者の町と、 ミイラにロマンもなく、「どこもかしこも同じやん」で、結局、2枚を残したまま、王家の谷を後にした。   
 そして、一番楽しみにしていたハトシェプスト葬祭殿。そこへの階段を半分もそこそこにして座り込み、デル・エル・バハリという音の響きにのみ充分余韻に浸っ
たとして、「せっかく来たんだから中を見ようよ」にも、何処吹く「風ととも去り
ぬ」ばかりに、「ここにおる」と妻一人を行かし、トンビが舞うのを口を開いて眺
めたりしていた。結局、「死せる町」巡りの一番の思い出といえば、テーイップに
つきるのだった。   
がめつい商売人であるはずの彼も、パピルス売りの店へ押し込もうとする彼の思惑にそうは乗るまいという私の「妻の調子が悪い。とても疲れているようなんだ」という方便に、「それはいけない。はやくホテルで休養しなくちゃ」と受け取るはず
の店のマージンをあっさり逃してまで船着場までタクシーを飛ばすのだった。さっ
きまで元気だった妻に訝りもせず・・・・・・。60ポンドはナイル川往復も含ま
れていた・・・・。得したのは我々だ。 
翌朝、彼は私たちがアスワンへ向けて出発することは知っていたのだが、私たちが宿泊 していたウインターパレスの外のポプラの木陰に座り私たちを待っていたかのように、「バナナ島へのツアーはどうだい?50ポンドにしとくよ(笑)なに?
今からアスワンだって?うちのタクシー使いな、150ドルだよ!マッサラーマ
(さようなら)!」 手を振り笑顔で去っていった------。省みれば、エジ
プト人に対し勝手な烙印を押し、意識してあるいは無意識のうちに遠ざけようとしていたのだ。        
 私の陰がそのまま相手に陰を落とすことを知らずに。            
彼らは皆「愛すべきお人よしさん」だったと、もう去ろうとしている時に懺悔す
る。

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