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老子に学ぶ

なのはな1
捨てていた種が花を咲かせました

  老子に学ぶ


インド生まれの自称「和尚」バグワン・シュリ・ラジニ-シ(故人)は強烈な生きかたを通して、私たちに真の自由を問いかけた人でした。東西の思想を自由自在に魅力的語って、世界中の多くの若者を魅了し続けた人です。精神世界というジャンルを築いた人でした。彼は膨大な講話を残しています。その中の一つに老子の道徳教を語った「永遠の大河TAO」(めるくま-る社)があります。

 彼は、「老子を理解すれば、この世の中に理解することは何もない」と言っています。その教えは深遠であり、私自身老子理解しているとは言えません。漢文なんかチンプンカンプンですから、道徳教の一字一句を読んだこともありません。ラジニ-シをはじめ何冊かの解説書を少しかじった程度で、自分に都合のいいように解釈しているに過ぎません。

 老子を通すと、昔から真剣に考えていた《人はなぜ生きるのか》などという面倒な疑問が消え去ってしまう思いがしています。老子は宇宙のしくみについて説いているようです。

 老子という人が生きていたのは今から2千数百年前の中国です。老子についての言い伝えはいろいろ残ってはいますが、詳しいことは謎のままらしいのです。
 晩年は何の目的かは分かりませんが、国を出るとき関所の役人が彼の思想を書き残すことを条件に出国の許可を与えたと言います。もしそのことがなかったら、老子は永遠に歴史のなかに埋もれてしまっていたでしょう。

 老子の教えは「無為自然である」と高校の時に学びましたが、当時何のことやらわかりませんでした。

無為とは強烈な生を生きること

と今、ぼくは考えています。老子の考えの中心の一つは《無為》です。単純に訳すと「為さない」となりますが・・・。
 いつかある人が「ぼくは、無為よりは何かをやってみないと前進はしないから有為のほうが大切だと思う」と言ったことを思い出しました。彼は無為を無行為と勘違いしているようでした。話は大きく飛びますが、これは南無阿弥陀仏を念仏として唱える浄土(真)宗の「他力本願」の意味を『自分では努力をせず人任せにする』という意味にとってしまうほどの大きな勘違いなのです。

 トルストイの研究家 北御門二郎さんに「無為」について訊いたことがあります。すると興味深い答えが返ってきました。「それは結局、妊娠しなければ子どもはできないということですよ」。

 「妊娠しなければ子どもはできない」ことがどうして無為につながるのか。その前に、なぜこんな当たり前のことを、と思われることでしょう。実際そうなんです。
 例えば、ご飯を食べることについて考えてみます。本来食事はお腹がすいたという体の信号が出てから食べるものです。腹が減ってもいないのに食事の時間がきたからというだけで、『何か食べとかなくちゃ』とか言って食べることがあるでしょう。

 また、1日30品目食べないといけない、血を造るにはレバ-を食べなければいけない、○○しないといけないと言って食べることの多いこと。

 自分のことを持ち出して恐縮ですが、ぼくが大学を選んだのはそこで何を学びたいかではありませんでした。大学のランクと自分の成績を見比べて選んだのです。結局授業に出ても面白くなく、勉強はしていません。国の税金の無駄遣いをしてしまいました。

 昔はよく絵の展覧会に出かけていました。絵は自分の思いを表現すべきものですが、今はなかなかそんな絵に出会えません。流行りを追ってみたり、変な人になると審査員の好みの画風を研究して作品作りをしています。展覧会が相手を押し退けて賞をとろうとする戦場に成り果ててしまったのしょうか。表現せずにはいられない内なる声はどこに行ったのでしょう。

 小椋 佳というシンガ-ソングライタ-がいます。20年ほど前好きでよく彼のアルバムを聴いていました。その歌で「恋はするものされるもの、いえ、してしまうもの」と言っています。
 異性を前にして、この人は優しくて素直で人から愛されている、だから好きにならなきゃといって好きになるのではありません。結婚にしても家柄や職業や会社や給料や役職や学歴で相手を決める話をよく聞きます。好きになった人と結婚すればいいものをと素直に思います。人生がもったいない。

 人を好きになったり、物に感動することは人為を越えた自然のはからいです。前述の[妊娠する]ということは人為を超えた内なる声を身ごもることであり、無為とはその声に従った生を生きることです。その結果「子ども=真実の生」を生きることができるのではないでしょうか。



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