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3 答え探しの旅

 答え探しの旅


 その間、書物にその答えを見つけようと、数少ない読書でしたが真剣に読みました。すると、やはり同じ悩みを抱えた先達とのめぐり合いがありました。ロマン・ロランの描いたジャン・クリストフは『虚無』との壮絶な戦いでした。中学生の時、国語の教科書にその一部が紹介されていましたが、そんな作品とは思いもしませんでした。「ああ、ここに人生の友がいる。」と、しがみつくように読んでいました。そんな先駆者たちの光を頼りに自分の道を模索していました。

   カミュの「不条理」との出会い

 『お前は何のために生きているのか』という問いに答えなければ死(自殺)である。これは、大変なことでした。ぼくの後ろには虚無という暗黒の淵が常につきまとっていました。
 自分が存在することが何の意味ももたず、地に足の付かないまま宙に浮いたまま漂っているといった精神状態でした。フランスの作家カミュが不条理をテ-マとして書いた『異邦人』の主人公のことが自分のことのように思われ、同意したくないけどそのとおりでした。

 カミュによれば不条理とは、ギリシャ神話のなかの『シーシュポスの神話』に出てくる話で、何かの罪を犯したシーシュポスに刑を科すのですが、その刑とは大きな岩を山に向かって押し上げる、山頂に着くやいなやその岩は下まで転げ落ちる、それをまた下から再び押し上げる。それを永遠に繰り返すというものです。人生を考えるとそのような無意味なことの繰り返しではないかというのです。

   若山牧水

 その頃の心境を代弁してくれていると勝手に解釈している、若山牧水の歌があります。牧水の初期の代表歌といわれる歌ですが

 白鳥は 哀しからずや 空の青海のあをにも 染まずただよふ

周囲と解け合うことのない自分を白鳥に託して詠んだ牧水の心情が心から理解できるような気がします。また、

 幾山河 越えさりゆかば寂しさの 終てなむ國ぞ けふも旅行く

どこまで行っても何をしても孤独感、虚無感がつきまとい、心休まることもなく人生の旅をする孤高の歌人、牧水が近い存在に感じられました。

   伊丹十三

 俳優であり、映画監督であった伊丹十三さんが自らの手によって亡くなりました。その動機について詮索することはしませんが、伊丹さんの考え方には共感を抱いていました。
 20年ほど前、ヤクルトのCMで新聞に[わが子への手紙]シリーズとして文章が載せられたことがありました。中でも畑正憲さん、高石ともやさん、そして伊丹さんのものが非常に気に入り、切り抜いてノートに貼っていました。
 伊丹さんは、「智慧の階段を登って行くがいい。しかし、決してその下が無(虚無)であることを忘れないで欲しい」と書いておられます。たぶん無=死=自殺といった一連の体験に基づく言葉であると直観しました。

   浜までは 尼も蓑着る 時雨かな

 高神覚昇著『般若心経講義』という本にはこんな俳句が紹介されていました。
「寿命が尽きればあの世に帰っていくものを、わざわざ死に急ぐことはないでしょう。それよりも、この世に生まれ出たこの不思議なご縁を有難く受け止めて生きていけばいい。もっと命を大切に使おうよ。」と言ってくれているようでした。
 この句は、自分を励ます応援歌であり、大きな力となりました。忘れないように紙に書いて壁に貼っていました。

   我思う ゆえに我あり

 デカルトの言葉には「あなたは、自分の存在感が感じられないと言うけれども、あなたは命が脅かされるほど悩んでいるのです。その思いこそ確かな生きる証ではありませんか」と言っているようで勇気づけられました。

   孤独と愛

 マルチン・ブーバーの著書『孤独と愛』には、真実の世界は思考が入る以前の沈黙(《われ-なんじ》の関係)であり、人が考えて作り出す世界は虚構にすぎない。従って、「なぜ生きるのか」などは頭が勝手につくり出した問いだと言っているようでした。



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