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<<本来の意味は人類学や分類学での呪物崇拝、経済学での物神崇拝、心理学での性的倒錯の一種であるが、日本においては性的嗜好の分類や属性表現としての認識が一般的で、“○○フェチ” といった使い方がよくみられる。○○に入る言葉が性的嗜好の対象で、それらは総称してフェティッシュと呼ばれる>> とこのように説明されていました。『フェチ』という言葉を調べてみたのです。本日のテーマは、そんな方面のことを取り上げました。では・・・。かなり前に『絶対領域』のことを書いたことがあります。もう一度説明しますと、『絶対領域』とは、<<若い女性がミニスカートやショートパンツなどのボトムスとニーソックスを着用した際にできる、ボトムスとソックスの間の太ももの素肌が露出した部分を指す萌え用語>> という言葉で、これは広義でファッション用語とされています。それに類似した言葉が、マニア(フェチ)の方々の間で使われていることを知りました。それは『絶対空域』という言葉です。なんだか国土の領土領空権のことを言っているようですが、まったく違います。もちろんこの『絶対空域』という言葉、『絶対領域』から派生した言葉であることは明らかです。ところが調べてみると、こちらの言葉はファッション用語ではなく、少々 “H” 系なことのようでした。つまり “フェチ” 系の萌え言葉だったのです。その『絶対空域』とは何ぞや? ということですが、“女性の太腿の隙間に出来る三角形の空間” のことらしいのです。 女の子の太ももと股間からなる三角形の空間。股間と内ももというフェティシズムの極致のような、ある人たちには感極まるようなことであるそうなのです。 こんなことを書いていて、ちょっと恥ずかしくなってきましたので、今回はちょっと早めに切り上げることにいたします。
2016.02.26
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時代劇の映画やテレビドラマを観ていて、ふと間違いに気づくことがある。お屋敷の座敷の床の間などに刀掛けがあり、そこに大・小の刀が掛けてある映像を観てのこと。刀掛けにも掛け方のルールがあるのですが、それが守られていないこともあるのです。そのルールというか約束事は、基本的にいくつかある。一般的に刀掛けは、大・小の刀の2段掛けになっていることがほとんどです。まず、鞘に入った刀の『柄(つか)』の方を、刀掛けに向かって右側に置くのか左側に置くのかで迷うことになるが、これは左側に柄が来るようにするのがルールです。大・小の刀がある時は、小刀(脇差)の方が上の段、大刀の方が下の段ということになっている。これは二本差しを帯に差すときには、小刀(脇差)の方から先に帯に差すことになるから。(注)ただ、この大・小刀の上下セッティングに関しては、諸説あるようです。もう一つのルールは、刀あるいは太刀の表側を前に向けること。刀には表と裏がある、その表とは刀身を柄から取り出してみないとわかりません。この部分を『茎(なかご)』というのですが、この部分には刀匠の銘が入っているのが通例で、その銘がある側が表です。つまり無銘の刀剣だとその正確は判別はできないということです。刀と太刀とでは掛け方が違う。刀の場合は掛けた時に刃が上に来るけれど、太刀の場合はその逆で刃が下に来ることになる。つまり銘の入っている側が違うのです。子の決め事は、刀を差したり太刀を佩いたりするときも同じ(銘が外側に来るように)です。そしてもう一つ、二段掛け刀掛けに大・小の刀を掛けるときに、かならずこの大・小の刀は対になっていることが前提です。対になっていない刀剣は、同じ刀掛けにはセットしてはいけないことが決められているようです。最後に、もともと刀掛けは刀を飾る為が目的だったわけではない(現在、刀は美術品ですから飾る目的になっていますが)。 日本刀が武器として使用されていた時代には、いつなんどき自分の命が狙われるかがわからないという心配があり、その状況に咄嗟に対応するために刀掛けを使用していた。その頃は『柄(つか)』の方を右側にセットしていたということです。反射的に日本刀を刀掛けから取ったときにすぐに右手で抜刀できるように置いてあることが大切だったのです。
2020.12.27
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みなさんは音楽で「長調」と「短調」があることはご存知だと思いますが、その違いをご存知でしょうか?ほとんどの人が思うのは、なんとなく ”明るい曲が長調で、暗い曲が短調” という認識なのではないでしょうか。もちろん私もそのレベルの域を出るわけではありませんので調べます。長調は一般的に明るい曲と言われていますが、そう簡単なことではなさそうです。 <<聴いた感じや弾いた感じが明るく弾んだ感じがすると長調なのですが、感覚だけだと違う場合もあります。一口に長調と言ってもいろいろなニュアンスを持っています。明るく快活な曲調はもちろん長調ですが、テンポが遅くゆったりと穏やかな曲の中にも長調の曲があり、長調か短調か迷うときもあります>> とある。(音階が 全・全・半・全・全・全・半 となるもの)短調は暗くて悲しい感じと言われますが、こちらも同様です。一方、<<短調でもテンポが速くて弾んでような曲もあり、ちょっと聞いた感じでは長調では?と思ってしまう曲もあります>> と。(音階が 全・半・全・全・半・全・全 となるもの) さらにその例として、<<例えば次の動画はベートーヴェン作曲「エリーゼのために」でイ短調ですが同じイ短調でも下の動画はモーツアルト作曲のピアノ曲「トルコ行進曲」です。速いテンポで目まぐるしいメロディーと弾んだような左手の伴奏形から長調かと思いますが、この曲もイ短調なのです>> と。どちらの曲もポピュラーですので、皆様ご存じでしょう。ということで、”明るい曲が長調で、暗い曲が短調” という認識だけでは、理解できたことにはならないのです。
2020.10.05
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わたしたちくらいそこそこ年配者は『世界四大文明』と習ってきたと思うが、これは中国と日本だけが言いはじめてきたことのようです。もちろんその『四大文明』とは、エジプト文明(ナイル川流域)・メソポタミア文明(チグリス・ユーフラテス川流域)・インダス文明(インダス川流域)・中国文明(黄河流域)であることは言うまでもない。『四大河文明』ともいわれていたし、そのように教わってきたのです。しかしそもそもこの『世界四大文明』という概念は、中国と我が国日本だけが言うところの、極めて限定的なものだったということを知った。したがって世界にはこの概念は全く通用しないのだそうである。では世界ではどうなのだろうか? アメリカの政治学者で歴史学者のサミュエル・P・ハンティントンさん(故人)が、国際政治学の著書『文明の衝突』(1996年刊行)の中で提唱してきたことが定着して、世界標準になっているようですが、それが『世界八大文明』という概念です。その彼が言う『世界八大文明』とは、中華文明・ヒンドゥー文明・東方正教会文明・西欧文明・ラテンアメリカ文明・アフリカ文明それに日本文明の八文明です。中華文明とヒンドゥー文明の起源は古いのですが、日本文明はそれらに次いで古く、中華文明から派生して成立した文明圏だとされている。日本の文化や言語は世界のどこのモノとも異なり、独自性が明確なものだと言っている。
2021.11.26
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世界遺産を紹介する番組だったと思いますが、中国の “泰山” が取り上げられていたのを見た。「泰山鳴動して鼠一匹」という言葉のあの泰山だ。1500メートル位の山で、道教の聖地とされている。孔子もたびたび泰山を訪れていたこともあって、泰山には孔子にまつわる名所や孔子廟が作られているということだ。その番組ではもちろんこの山について、いろいろな説明がされていたのですが、残念ながらそのほとんどはぼんやりとしか覚えておりません。この山の頂上にある御廟を詣でるのに、人々は6600段の階段を登って行くのだという。もちろんその映像をしっかり見ていたのですが、この階段を鈴成りの状態で登っている人達は、もうみんな青息吐息でゆーっくりと登っている。最も急角度の階段は頂上近くの数百段で、その角度は45度もあるという。角度が45度の階段なんていうものは、登るのは登れても降りるときがすごく怖いだろうと想像できる。おそらく真っ逆さまに落ちていきそうな恐怖感があるに違いない。これらの映像とコメントに驚愕して、肝心の泰山の説明をほとんど覚えていないという事です。中でも一番驚いたのがこれ、この泰山の頂上には、やはり売店があるらしくて、その売店へ商品を運び上げる “強力さん” が何人もいるのです。この強力さん、自分の体重と同じくらいの荷物を天秤棒で担げて、この6600段を登って行くのですが、さすがに辛そうではありました。おそらく毎日の事なのだろうと思います。その売店のオバちゃんやオジちゃんも、毎朝下から登ってくるノンかなー? なんて思ってしまいました。話は替わって、私は金毘羅さんへは行ったことがありまして、あそこも長ーい階段があって本殿まで行き着くのに大変だという事です。足腰の弱い方は、駕籠に乗せてもらって担ぎ上げてもらう人もいるという事。しかしその金比羅山の階段の数は、それでも785段です。私が登った時は、中腹まで車で行って最後の300段ほどだけを自分の足で登ったという経験があります。ただ、奥之院(こちらへは行っておりません)まではもっともっとたくさんの階段を登らないと行き着きませんけどね。この金毘羅さんの785段の階段についてですが、本当は786段あるのだそうで、そして最後に1段だけ降りる段がありました。つまり786段-1段=785段という事だそうで、当然そこで “なんでやねん?” という事になる。それは、“786” は “なやむ(悩む)” につながるとの事で、それを嫌って避けているのだと…。 この話、団体さんについていた地元の男性ガイドさんが説明しているのを、横から聞いていて「ふーん、そうなんかー!」という事です。
2010.09.16
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私より年配者の知り合い(飲み仲間)の方々が “二胡” を習っていらっしゃる。その “二胡” のお仲間たちの発表会が京都下鴨で、今度の日曜日19日午後3時から開催される。そんな案内を貰っていたのですが、私はその前日の18日は恒例の山登りだし、下山後は飲み会になる。そして翌日は朝からスポーツクラブでスイミング&サウナで、帰宅するのは1時半ごろになる。だから “3時に下鴨へ” というのは行けなくはないのですが、いささか厳しい気もするので、これは欠席させてもらうことにした。ただ、友人が観に行くといっているので、手土産だけは連名でお願いしておいた。ところで “二胡” というのは、中国の伝統的な擦弦楽器の一種。日本ではこの楽器を “胡弓” と呼ぶ向きもあるようですが、それは間違いでまったく別物ということになってます。 “胡弓” は純然たる日本の伝統楽器で、弓で弦を擦る擦弦楽器という意味では “二胡” と同種のものということができる。 “二胡” は2弦楽器ですが、 “胡弓” は3弦ないしは4弦楽器で三味線を小さくしたような構造を持っている。演奏はどちらも膝に楽器を立てて、右手に持った弓で弦を擦って音を出す。でも近年、 “胡弓” は影が薄いのかあまり見かけませんが、 “二胡” の方は映像などで比較的見かけることが多いようです。日本の “胡弓” という呼び名は、明治時代初期の頃からヴァイオリンのことも胡弓と呼んだことがあったらしく、擦弦楽器の総称としても使われていたとありました。
2016.06.15
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我が家に有線放送(USEN)を導入して7~8年にはなるだろう。したがって日々、なにかしら音楽は常に流れている。USENのチャンネル数は、数えた事はないが400チャンネルほどはあるのではないか。もちろんそのどのチャンネルも聴く事はできるのですけれど、実際にいつも聴いているチャンネルは自ずと決まってくるし数もそう多くはない、というよりはむしろ非常に少ないというほうが正しい。よく聞いているというかBGMとして流しているのは、洋楽全般とクラシック全般があればほとんど事足りるといった状況で、パチンコ屋さんなんかに流れているようなものをはじめ、商売関連のBGMは全くいらない。チャンネル数を制限して契約する事もできる(もちろん料金は異なる)ので、視聴可能チャンネル数を50チャンネルに落として契約を変更する事にした。いままで全チャンネルを聴けるようにしてきたのだが、これはかなりの無駄遣いをしてきたということになるのだろう。今変更を申請しても、実際にその変更が為されるのは5月からということになるのだそうです。それにしても、よくもまあこんなに多くのチャンネルがと思うと同時に、それぞれのチャンネルが24時間フルで管理できているのもある種の驚きを感じてしまいます。中にはこんなチャンネル必要あるかー? なんて思うものもある。例えば「羊の数」だとか「森林浴」「イルカ・クジラ」「心音」や「アリバイ」なんていうのもある。導入した当初は面白がって聞いたことはありますが、やっぱり必要ないなーなんて…。
2012.03.26
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見た目『正座』に似ているけれどそうではなくて、別の名称がついている『大和座り』。「なんじゃ~それは?」と思わず言いたくなりました。京都『大原三千院』を紹介する番組だったと思う。その中でその『大和座り』という言葉が出てきたのです。もちろん座り方の形のことを言っているのです。それも仏さまの・・・。『三千院』にある、もっとも重要な建物『往生極楽院(重要文化財)』、そのご本尊が国宝『阿弥陀三尊』です。中央のご本尊となる仏像は『阿弥陀如来』、結跏趺坐で極楽より迎えに来る際の印相 “来迎印” を結ばれている。 その脇侍である向かって右の『観音菩薩』と、左の『勢至菩薩』で、どちらも大変に珍しい『大和座り』の仏像として有名なのです。『大和座り』というのは俗称で正式には『跪坐(きざ)』というのです。 この大和座り、正面から見ると一見正座をされているように見えるのですが、そうではなくて腰を浮かせて前傾姿勢少し前かがみになっておられるのです。『跪坐』というのは、つま先を立てて踵がお尻に触れた形になり、礼法や武道武術の座捕ではすぐに動ける(立位になるなどのほか、座ったままの移動に用いる)姿勢だということです。このように三尊がセットになって、阿弥陀さまが座像で脇侍が跪坐というのが、当時流行した ”来迎形式” というものでした。三千院以外のお寺でも、『阿弥陀三尊』像の脇侍の仏様は『大和座り』をされているのかどうか? 機会があればそのお姿を探すべく、意識しておこうと思っている。
2018.09.12
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ストーンズのキース・リチャーズです。この写真はストーンズ活動50周年を記念して行った時の、ライブ放送のワンシーンです。今日のテーマは、このキースが使っているサンバースト・テレキャスターについてです。というか、私が持っているこのギターのレプリカについてがテーマです。94年頃に制作されたカスタム・テレキャスター。まさにキース・リチャーズを彷彿させるサンバーストでフロント・ピックアップがダブルコイルになっていて、実に魅力的です。おそらくどこかの有名楽器店のオーダー・モデル品だと思われますが、レギュラーとはひと味違うこだわりの仕様になっています。この私のギターは復刻版ですが、仕様はキースのものと全く同じです。フロントピックアップもハンバッキングになっているし、ブリッジもゴールド仕様、製作者の名前もわかっている。今はもうフェンダー社から去って、自身がオリジナルブランドを立ち上げている “ジーン・ベーカー” というマスター・ギター・ビルダーによるカスタムショップ製品です。したがって製作本数もほんのわずかだと思う。マスター・ギター・ビルダー独りで全工作作業を完結させ、その場合にのみビルダーの名前を冠したモデル名として発売されているものなのです。このギターを買ったのは今から13年も前のことになります。その頃よく行きつけていたある楽器店の、それも一番奥にあるショーケースの中に、長い間売れもせずに、いつも同じ場所に展示してあった。私は初めてこれを見たときから、キース・リチャーズ・モデルだということは分かっていたのですが、如何せん結構いい値段がついているので、なかなか手の出るものではなかったし、そんなに買う気もなかった。ところがある時にこの楽器屋さんが閉店することになったという。そうなると当然のごとく全商品を値引きしての閉店セール、売りつくしてしまおうとするはずだ。ところがこのギターは、なぜか値引き対象品には入っておらず、少しがっかりしたが結果的には私が買うことになってしまった。さすがはグレードの高いカスタムショップの製品、出来や仕上げに関しては文句のつけようがない。おまけにこのギターのネック材はバーズアイのメープルなのですけれど、それがメープルシロップのような芳香を放っているのです。それは13年たった今でも変わることはありません。ひょっとしたらとても珍しいレアものかもしれません。このギター、まぎれもなくキース・リチャーズのサンバーストモデルなのですけれど、製品名にはその名のイニシャルのKRが付けられていないのです。単に『1952 Telecaster』となっているだけで、辛うじて日本の輸入楽器店の保証書のみが『Fender/USA YF7041TL KR TS』となっていて、ここにKRが出てくるだけなのです。これは聞くところによると、“キース・リチャーズ・モデル” と銘打たれることを本人が許可しなかったという経緯が伝わっているようです。
2013.05.07
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昨年、初めて経験した内視鏡による精密検査です。前回受けた時に、この検査は「毎年一度は受けておこう」と決めたものでした。その時期がやってまいりました。幸いにして今日までは、お医者さんのお世話になったことはほとんど無い私ですが、年齢的なことも考えてこのように決めたわけです。医者にかかったことが無いがゆえに、検査といえどもいざ行くとなると、なんだかどきどきして、ちょっと構えてしまったりすることにもなります。もう前夜あたりになると、もう観念してしまって、それこそ“まな板の上の鯉”の心境もかくのごとくか、とばかりの一大覚悟をすることになるのです。そして昨日に、その“まな板の鯉”を済ませてまいりました。医師が内視鏡を操作して、 実際に内部を診ながらの診療診断ですから、こんなに確かなことは無い。 ただこの検査、お医者様の熟練度によって、患者がつらい思いをする場合と、とても楽な場合があるようですよ。お医者様に聞いてみると、どうも“S字結腸”に内視鏡を通すときが難しいのだそうで、ここで熟練度の差が出るのだそうです。今回もいくつか細胞組織を採取して検査をするとのことで、1週間後に結果を聞きに行くことになりました。3D映画や3Dテレビのテクノロジーにも感嘆いたしますが、医療機器の進歩についても驚くべき事がありますね。もっと進んだ技術も開発されていて、内視鏡を積んだ小さなカプセルを飲み込んで、1日かけて“咽喉から直腸まで”消化器系統をすべてをを検査するというものがあるそうです。それはまだ一般的にはなっていないようですが、大昔の映画で「ミクロの決死圏」というSFがありましたね。それを髣髴とさせるようなもので、驚かされてしまいます。サイエンスフィクションがノンフィクションになる時代です。
2010.02.11
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この書籍、季刊『ぎをん』については過去に何度か取り上げて書いてきた。『祇園新地甲部組合』が発行元で、編集・制作は『株式会社 青龍社』が携わっている。昭和34年(1959年)創刊して、年に4回(季刊)京都祇園をテーマに花街を取り巻く話題を65年間にもわたって取り上げてきた雑誌です。極めてインナーなと言ってもいいと思うけれど、それゆえに祇園というある種特別な場所のことを垣間見る事が出来る雑誌である。私も13年以上前にある友人から「こんなのがあるんです」と紹介されて、この雑誌を知ることになって、今日までも読み続けてきている。先日その友人に会うことがあって、その時に聞いた話しによると、この雑誌が次々号からつまり来年初頭からリニュアルされるということらしいのです。 ”どうも内容がマンネリになっているのではないか?” とある花街関係者からの指摘もあって、編集・制作の母体を変更して、来年から新しく判型も変更して、リニュアル発行スタートするということらしいのです。新しい季刊『ぎをん』が、どんな姿を見せてくれるのか? 楽しみではあるのですが、”マンネリ打破” ばかりを念頭に置いて雑誌創りをされると、リニュアル当初は面白いものができるかもしれませんが、それは長続きはしなくなるのではないかと、いささか懸念しております。この手のごく限られたエリアのインナーな雑誌、それも歴史ある旧い京都の変わらない花街文化を紹介するものであるなら、仮に ”マンネリ” になったとしても、そう言われようとも、その方が祇園をはじめとする花街の情報誌としては相応しく思えてくるのですが・・・。そう思うのは私だけか?
2024.09.20
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2025年用の年賀状の印刷が出来上がってきた。その枚数も随分少無くなってきていて200枚です。それに貼るべき年賀切手は既に購入済で150枚。ここのところ毎年、年賀状用の切手が余ってしまうので、とりあえずということで少ない目に買ってあるのです。仮に足りなくなると買い足せばいいのですから。来年は ”巳年” ですから年が切手の図柄も ”巳” ということですが、これまで余らせてしまった年賀切手は ”丑年””寅年””卯年””辰年” と4年間毎年少しずつ余らしてきているのです。もちろん切手としては通用しますので、プライベートな私信以外の公共的通信物なんかにはその切手をできるだけ使用するようにしていますが、まだ何枚も残っているのです。でも、郵便料金改定で額面が値上げになっていますので、複数枚数貼らなければならなくなっていて、細かいことですが無駄なことにもなっているのです。ともあれ来年の年賀状が印刷できたので、ぼちぼちとお出しする方のあて名書きをしようと思っています。まだ投函受付まで時間がありますので、ゆっくりでいいので相手様への思いも込めてのあて名書き、でも実際は「早いこと済ませて仕舞いたい」なんてことで、一気に書ききってしまうことになるのは例年の事でもあるのです。
2024.11.29
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先日、早朝にテレビを点けるとある上方落語家と高橋尚子さんがトークをしている。落語さんの方が聞き役ということでしたから、ゲストである高橋尚子さんの話題に終始することになる。そんなはなしの内容を、目が覚めたばかりの眠気眼で聴くともなく聞いていると、こんな話題で会話が進んでいた。当然のごとく現役時代のマラソントレーニングの話題である。「海外の選手とくに長距離の場合は、アフリカの選手にはフィジカル面で敵わないから、わたしはその分を練習で補っていた」したがって「練習面では、世界中のどの選手にも負けないくらいの練習量をこなしていました」という。当然そうなると、「そのころはどれくらい練習されていたのですか?」との問いかけになる。その問いに答えることがこうである「小出監督の下で鍛えられていたのですが、小出門下にはこんな言葉がありました、それは ”朝飯前の50キロ!” というものです」。つまりルーチンで40キロを走って、その後遊びで10キロを走るのだと言っている。一瞬聞き間違いか冗談だろうと思ったが、本人は大まじめでそう言っている。そしてさらに付け加えて「腹筋運動は1日2000回、午前に1000回・午後に1000回やります」これが毎日のルーチンだとのこと。一流アスリート、ましてやオリンピックで金メダルを取るような選手は、こんな途轍もない努力をしているのです。これと同様の努力をしていても結果の出ない選手も、中にはたくさんいるのだろうことも想像できた。わたしもここのところず~っとルーチンとして ”朝飯前の10キロ” を実践している。ただし私の場合は、往路6キロをウォーキング・復路4キロをランニングで計10キロということですから、まったく比ぶべくもありませんが、わたしはわたしなりに頑張ってはいるのです。
2020.12.12
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我が女房殿は、わたしと違ってデジタル系の頭脳回転の持ち主かもしれません。わたしは絵に描いたようなアナログ人間ですから、そちら系のはなしになりますと大助かりなのであります。先日も食卓横に置いているノートパソコン、これもかなり長く使ってきているパソコンで、内臓電池が劣化してきて充電アダプターで補足してあげないと使えなくなってきて居たのです。でも、そのアダプターを使用しても使えなくなってきたものですから万事休す。そこで私なんかは、即「ノートパソコンの買い替えをどうしようか?」なんてすぐに考えてしまうのですが、彼女はパソコンが故障で具合が悪いわけではなく、内臓電池が劣化していることを前提に考えた末、これまで使っていた ”充電アダプターが原因” だという事を突き止めて、原因を特化したのです。そうと決まれば、後はやることは決まったいて、その充電アダプターをネット注文して、1日と掛からず自宅に配送されたのです。その新しい充電アダプターは数千円で入手できた。その新品の充電アダプター購入のお陰で、もう今にもお払い箱にしようとしていたノートパソコンを、問題なく今まで通り使えるようにしてくれました。その時、わたしは次のノートパソコンを購入すべくネットで物色していたのですが、そんな必要はさらさらなかったのです。これは有難いことだし、女房殿を大したものだとある種尊敬の眼差しで見ているのです。
2024.11.27
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着物(和服)用語に『身八つ口』というのがある。着物の身頃の脇のあき部分のことをいい、袖つけの下の脇縫いを縫い合わせずにあけたままにしてある部分のことです。単に “八つ口” とか “みやつ” とも言うようです。『身八つ口』は女性と子供の着物にだけあるもので、男物の着物にはありません。これは女性の帯幅が広くなり且つ胸高に帯をするようになって、上腕部の動きが自由にならないことから、手の動作を楽に自由にするための工夫であったらしい。そして子供物の八つ口は、帯代わりの付紐を通すための穴であったといいます。八つ口は通気ができる面から体温の調節や、着付けの際に襟元を整えるために手を挿し入れるところともされているのです。着物を着ないわたしには知らないことでした。話変わって『脇を塞ぐ』という言葉があるけど、これが何の事だか分らなかった。この『脇を塞ぐ』の “脇” というのは、この着物用語の『身八つ口』の事だと知りました。この『身八つ口』を塞ぐとはどういうことなのか? 子供の和服の八つ口を縫いつけて塞ぎ詰袖にすることで、脇が閉じられているということを成人の印とされていたことから、男の子が成人すること。また元服することを指しているのです。友人の描いた着物姿の少女の絵、その脇部分が開いているのを見て思い出したことでした。
2015.03.23
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”ナジャ・アウアマン” というスーパーファッションモデルがいることを初めて知った。NHK-BS3で『ボディーミュージアム ”美脚絶景”』という番組が目について、なんだか綺麗なものが見られるみたいで面白そうなので録画をしておくことにした。後日それを観たのだが、美脚をテーマにしたタイトル通り美しい脚がたくさん次々と出てきた。そんな中で特別目立って気を魅かれたのが、スーパーモデルのこの人でしたナジャ・アウアマン。ドイツ語読みではナディア・アウアーマンさんは、ベルリン出身のファッションモデル(48歳)である。世界一足の長い女性モデルといわれ、ギネスブックにも掲載されている。このお歳でも現役ファッションモデルとして第一線で活躍されているのは、ちょっとびっくりです。プラダやカール・ラガーフェルドやヴェルサーチやヴァレンチノなど一流デザイナーブランドのトップモデルとして活躍していらっしゃる。因みに、髪の毛はブロンドで碧眼、身長は180センチメートル、どこを計るのかは分からないがヒップ高は111センチメートル、その股下が108センチメートルとこれが股下比率60パーセントになるということです。スリーサイズは、バスと91センチメートル - ウェスト64センチメートル - ヒップ92 センチメートル、さすが維持していらっしゃる、プロですな~。素晴らしいスタイルですが、こんなモデルさんに新作を着てランウェイを歩いてもらったら、どんなデザインの服でも素晴らしいものになるような気がします。それにしても股下比率60パーセント? 不思議でなりません。それの反対の股下比率40パーセントくらいが普通だと思うのだが・・・いかが?
2019.04.26
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最近、クラシック音楽を聴く機会が多いようです。そこでこんな話題を・・・。クラシック音楽のコンサートやその映像を観ていると、コントラバスには四絃のものと五弦のものがあることに気づきます。クラシック音楽の弦楽器には、小さいほうからヴァイオリン、ヴィオラ、チェロそしてコントラバスがあります。これらはコントラバスを除いてすべて四絃のものですが、コントラバスだけは五弦のものもあるのです。四絃と五弦の違いはどんなものだろうか? 調べてみました。コントラバス四絃の場合、一般的には開放弦で高いほうから G(ソ)・D(レ)・A(ラ)・E(ミ)で調弦します。これが四絃のコントラバスで一般的なもの。それで問題の五弦のコントラバスでは、その一番低いE(ミ)線の下にさらに低い、H(シ)の音が開放弦になる弦をつけているという。お気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、通常ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロは ”5度間隔で調弦” しますが、コントラバスの場合は ”4度調弦” なわけです。演奏者はもちろんどちらも演奏することはできるのでしょうけれど、四絃が得意の人と五弦が得意の方がいらっしゃるのだろうと想像します。五弦は四絃を包括していますから、どの楽曲も演奏することができるのですが、クラシックの楽曲によっては、最も低い第五絃を指定する作曲家もいるのです。そんな時に四絃のコントラバスしかなければ、低い音の指定を1オクターブ上の音で演奏することになるのです。調べたネットでの説明では、<<五弦は、いわゆる古典派ぐらいまでの作曲家の作品でよく出てくるという。4弦の楽器しかない場合はその音はオクターブ上げて演奏します。例としては、ベートーヴェンの第5交響曲『運命』は是非5弦で演奏したいです。5弦が大活躍します>> とありました。さらにブラームスは完全に四弦のコントラバスを意識して作曲していたけれど、20世紀前後の近代・現代曲になると、また五弦バスが要求されてくる傾向があるとその説明は括っていた。
2020.01.17
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最近、ネット通販やネット・オークションで額縁を購入することが多くなっている。そんな売りに出ている額縁商品仕様説明に、例としてこのような書き出しがある。<<サイズ:F30号絵寸 約910X727mm用 額縁外寸(麻マット付きの外寸) 約 1100X917X49mm(59mm) 基本仕様: フレーム(額縁 の枠)+泥足 (仮縁仕上げ)吊金具 紐 ケース色など云々・・・>> このようなものです。この仕様説明に出てくる『泥足(どろあし)』というのが何のことやら分からなかったのです。【泥足】文字通りに読めば意味は、泥が付いて汚れた足 のこと、それ以外には思いつきません。額縁の仕様説明にこの言葉が出てくるとは、あまりにも唐突で場違いな感じがしていたのです。額縁における『泥足』とは、額の裏面に1段段差が付けてある部分のことを差しているのです。それが分って自分の絵を入れている額縁の裏側を見てみると、なるほど『泥足』のある額物とそれの無いものが確かに存在する。したがって、『泥足』がすべての額縁にあるわけではないし『泥足』の無い額縁もある。むしろ『泥足』のある方が少数派かもしれません。それにしてもなんでこの部分のことを『泥足』なんて名称にしたのだろうか? 何か語源は有りそうですが、そこまではわかりませんでした。
2020.09.20
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毎号発刊されるごとに送って戴いている季刊『ぎをん』、京都の花街祇園界隈の情報誌です。今回もその夏季号を送ってきて戴いた。もうかれこれ10年近くは送ってきて戴いているのです。その都度この小冊子の隅々まで読んでいるので、有難いことに、多少は祇園のことについての知識は身についてきたかもしれません。その今回の『ぎをん』夏季号は、なんと創刊250号記念号だったのです。季刊で250号ということは、単純計算で創刊号から62年半もの歴史があるということです。わたしが送ってきて戴いているのは、その内の40冊ほどになるということです。その40冊は纏めて一か所に置いているわけではありませんが、我が家の書斎と屋根裏部屋の本棚のあちこちにすべて保管しています。その小冊子『ぎをん』の知識から、この『ねごとブログ』のネタを拾ったことも2度や3度ではありません。これからも創刊300号・400号と号を重ねていってもらいたいと願っています。何事も続けるということは、ましてや60年以上に渉っての出版物の発刊、膨大なエネルギーは必要だし途轍もなく大変なことです。
2022.07.30
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“栴檀(せんだん)は双葉より芳し” という言葉がある。その意味は、栴檀という植物(木)は発芽したころから芳香を放つとされたことから、“大成する人は幼少の頃から優れている” という喩の言葉です。 この栴檀は中国名で、日本でいうところの “白檀(ビャクダン)” のことです。この木はいい香りがするため、小さな仏像や数珠をはじめとする仏具、ほかには扇子に使かわれたり、匂い袋の香料にするなど、身近なところでいろいろと利用されている。 白檀があれば一方で黒檀(コクタン)も紫檀(シタン)もある。黒檀の木材は銘木として古くからよく知られ、製品の素材に用いられる心材の材質の特徴としては漆黒の色合いで緻密かつ重厚かつ堅固である点が挙げられる。細工用の木材として、家具、仏壇、仏具、建材、楽器などに使用される。黒檀はエボニーとも呼ばれ、黒ければ黒いほど貴重とされている。特にピアノの黒鍵、ヴァイオリンなど弦楽器の指板、カスタネット(打楽器)やチェスの駒などに用いられている。そして紫檀は、黒檀と鉄刀木(タガヤサン)と共に、唐木三大銘木とされている。横道に逸れますが、因みにタガヤサンは材が硬く、耐久性に優れている。その木材の重くて硬いさまが、まるで「鉄の刀のようだ」ということから「鉄刀木」の漢字が当てられているらしい。でも、「タガヤサン」という名称の由来はしかとは分かっていないのだとか。紫檀の心材は重硬で緻密なため、乾燥・加工性にやや難があるが、美しい仕上がりが得られる。虫や菌に侵されにくく、耐朽性は極めて優れている。材にかすかなバラの芳香がするものが多く、ローズウッドと呼ばれている。加工過程では、粉塵が出るためその芳香はよりはっきりと感じられる。その木材は銘木として古くからよく知られ、古くから工芸材料として利用されている。また、正倉院宝物の唐木細工でも多く見られる。家具、仏壇、仏具、床柱、床框、装飾、楽器などに使われ、特にギターの指板やボディのサイドやバック材としては最も人気がある。特にブラジル産のブラジリアン・ローズウッドという材はハカランダとも呼ばれ、当初はインド産のインディアン・ローズウッドの代替木材として流通していたのですが、木材の品質としてはより優れていたため人気が出て、しきりに伐採されることになる。しかし際限なく伐採されたことによって絶滅の危機を迎え、1960年代にブラジル政府により国内の木材加工産業の発展と保護のため原木の輸出規制法案が可決されて、価格が暴騰し希少性が高まってブランド化したのです。ブラジル政府が絶滅危惧種として法規制し、1992年にはワシントン条約にも掲載され、大規模な輸出規制が行われ伐採も禁止されている。現在ではそのブラジリアン・ローズウッド材を使ったギター(当然昔に作られたものしかなく、新しいものはありません)なんかは、びっくりするくらいの価格になっています。
2015.09.01
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山登りの会9月例会は中止になり残念だったのですが、10月例会の案内が届いた。目的の行き先は六甲山系の一部で9月例会の行き先であった『再度山(標高470m)』に今回は『鍋蓋山(標高486.1m)』を加えて両方一度に登ってしまおうというものです。感染症が増えてきても、天候悪化でない限りは出来るだけ山登り・山歩きは中止にはしないでほしいもの。感染症に関しては、山登り・山歩きはほとんど安全と言えると思っている。下山後の懇親会こそが危ないと言えるので、そちらは中止にしても、という事です。わたしも皆さんと同じくご多分に漏れず ”飲み席” は大好きですが、ゆえに存分に楽しみたいとの思いが強いのです。しかし感染に気を使いながらの飲み会は、楽しさも喜びも半減という事になります。そんな飲み会だったら無くても一向に構わない。山登りと山歩きが楽しめればそれで十分辛抱できるのです。そんな ”ウィズコロナ” が有っても良いのではないでしょうか?過去ここ3年の経緯を観ていると、コロナ禍が完全消滅することは無いのではないか? ワクチンも打ち続けなければならないのか? とすら思えてくるから処置に負えません。
2022.09.27
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少し先の話ですが、実は12月7日土曜日に予定が2件重なっていた。その2件『なべの会』と『なるせ会』ともに忘年会の会合の予定だったのです。さてさてこれはどうしたものか? 『なべの会』の方は大阪で1時から4時くらいまでで、『なるせ会』の方は6時から京都でという事ですから、物理的には両方に参加することはできるのですが、いい歳をしてそんなバカなことも出来ようはずも有りません。するとどちらかを選ばなければならないという事になって、「困ったことになったな~」と思っていたところへ、『なべの会』事務局の方から予定日変更で1週間後ろへずらして、つまり「14日の1時からにする」との連絡がはいって、期せずしてどちらの会にも不義理をすることなく参加することが出来る。めでたく事なきを得たという事です。過去にもそのようなケースは何度も有って、『なべの会』やその重なった予定の方とのどちらか片方を不参加にしたことが何度かありました。今回の12月例会の方は何とか両方参加できますが、来年の正月の『なべの会新年会』例会と『神戸フィル・ハーモニックのニュー・イヤー・コンサート』がどうもバッティングすることが決定しているようです。『神戸フィル・ハーモニック(次女が楽団員)』の方は、外すわけにはいかないという事です。これは『なべの会新年会』の方を不参加にするしか手はありません。残念ながら泣く泣くそうせざるを得ないのです。
2024.11.20
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もうしつこいくらいこのCMが流れています。確かにテレビをつければこのCMを見ない日はないというくらいです。拡大メガネ『ハズキルーペ』のCMです。ちょっと前までは渡辺謙さんと菊川玲さんコンビでのCMだったけど、いま放映の2代目のメンバーは武井咲さんと小泉孝太郎さんと舘ひろしさん3人が登場している。そのシチュエーションは、以前に武井咲さんが主演されたドラマ(確か原作は松本清張だったと・・)『黒革の手帳』の舞台である銀座クラブの店内、そして武井さんの衣装もその時に着ていたものに近いものを召されている。それもそのはず、ヘアメイクも着物のスタイリストも「黒革の手帖」と同じ担当者に依頼されたのだという。このCMは好感度調査の上位にランクされているようですが、このCMはハズキルーペを製造販売している会社の会長さんのアイデアで考案、制作されたものだというから驚きです。菊川玲さんのバージョンも武井咲さんのバージョンも決めのセリフは「ハズキルーペ、大好き!」と言って締めくくるのですが・・・。ただこのセリフ考えてみると、拡大メガネなんてモノは ”好きだとか嫌いだとか言うものかしら?” なにか別のセリフは無かったのかしら? でもこの決めセリフだったからヒットしたのかもしれないとも思っています。
2018.10.16
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ちょくちょくと出かけることがあって阪急電車に乗ることがよくある。そのロングシートの車両に乗ると、いつ観察することがある。それは向かいのロングシート(8人掛け)の乗客と私が座っている側の乗客8人の内、”何人がスマホをいじっているか?” それを無意識のうちに数えてしまうのです。すると平均的なところで14~5人がスマホで何かやっている。何をそんなにする事があるのだろうと、ちょっと不思議な感覚になってしまう事がある。そんな世間の状況で、”最もスマホを触っていてよさそうな若い女の娘(こ)” が、なんと本を読んでいたりする姿を見つけたりすることがごく稀にある。これは何とも感動的な場面に出くわしたという気持ちになるのです。いまや日本人、いや人類にとって最も手放せない・大切で重要なアイテムということに、スマホはなっているのですなぁ~!
2024.11.24
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『瀬戸内寂聴訳源氏物語全十巻』、読み始めた時は年内には読み切ってしまうのが目標だった。確かに途中では、手こずって読み進むスピードがすごく落ちたこともあって「”年内読了” は難しいかもしれない」と思ったこともありました。ところが最終章とも思われる『宇治十帖』とも言われている七巻目後半から、俄然スピードアップが図れてきた。すなわちそれは慣れてきたということも有りますが、何よりも『宇治十帖』がとても面白いからにほかなりません。物語に引き込まれてゆくのです。『源氏物語』は主人公の光源氏が生涯を閉じる『雲隠』の帖で完結でいいと思うのですが、そこから数年のブランクを経て、新たに書き始められた物語(つまり続編?があって最終章?へ)が『宇治十帖』です。この最終章『宇治十帖』の作者は「紫式部ではなく別人の手になる」との説も一方ではあるくらいです。しかしこれはやはり紫式部の筆だと信じたいところです。この『宇治十帖』展開は、時代をそっくり現代に置き換えても面白いドラマになりうる。こんな物語が千年もむかしの平安時代に創られていたとは、そして紫式部の人物観察眼の鋭さとその適格さ、そして物語構成の完成度を思い知らされている。ただ、『源氏物語』最終章のこの『宇治十帖』の終わり方が、なんとも唐突な感じが否めない。つまり ”完結した感が無い” のです。言い方を変えれば、「まだまだ書き進めてゆくことはできたはず」と思われるのです。しかし紫式部はそうはしないで、ブツッと突然に長編物語をブッタ切って、その後の物語の行き先は読者の想像力に委ねているのです。だからこそ、より強く印象に残るのかもしれません。全巻を通して理解できているのかというと、とてもそんな事は無く未消化と言わざるをえませんが、機会を作って再度この全十巻を読み直してみる必要はあるかもしれません。
2024.11.28
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連日蒸し暑い日が続いておりますが、先日早朝ランニングをしようと準備運動をしているときや出勤するときに、道端にザリガニの爪や頭部分の残骸が散乱している事がある。最初はなんだろうと一瞬思いましたが、すぐにカラスだなーと想像はつきました。我が家の前には幅6~70センチくらいの溝があって(先日の台風の時にこの溝が溢れたのでした)、この溝は近所の田畑の農業用水にも使われている。したがって季節によって、水が流れているときと水を流していないときがあるのです。その水の流れている暖かい夏場の時期には、ザリガニなどが生息しているのだが、カラスがこのザリガニを餌にして食べているのです。一度そのカラスのザリガニ捕獲の瞬間を見てみたいと思って、かねがねチャンスを待っていたのですが、先日その瞬間に出くわしました。かなり遠いところからだったのですが、カラスは私に気付いていたのか、遠くにいたので問題無しとしていたのかどうかは定かではありませんが、溝の上から流れの水の中を凝視している。溝の淵をあっちへ行ったりこっちへ来たりして虎視眈々と狙っているようだ。そして一瞬その両足に緊張を孕んだかなと思ったら、もうカラスは流れの中に飛び降りていて、その嘴には既に中くらいの大きさのザリガニが咥えられていた。それを道端に運び上げて、早速啄ばみはじめたので静かに近寄ってゆくと、カラスにも人間が近寄ってくる場合の、危険察知の距離のようなものがあるらしく、7~8メートルくらいに近づくと、その食べさしのザリガニを咥えて土手の上まで運んで行ってしまった。今までそこに居たあとには、ザリガニの爪が2つ残されておりました。 やはりカラスにもザリガニの爪は硬すぎて喉を通らないのでしょう、きっと。
2010.08.16
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すこーし前の新聞か何かで読んだことで、ちょっと気になることがありました。女性へのアンケート結果のことです。 暑苦しい夏がやってきましたが、満員電車や人の多い雑踏の中で、何に一番不快感を覚えるか? というような質問をしたらしいのですが、一番多かった回答が“人の体臭”だというのです。その体臭には、タバコの臭いとかに代表される口臭や、ヘアーリキッド・ヘアーオイルのような整髪料の臭気も含まれているのでしょう。当の本人は気になることはないのでしょうし、ましてや他人を不快にさせようなどとは決して思っているはずはないのですが、やはり周りのものはそれが気になりだすと、辛抱たまらなくなることは確かにあるのでしょう! 女性に限らず男でも。かといって不快感を感じ取る方にも個人差がありますし、相手に“それを止めろ”とも言えませんから、難しい問題ではあります。解決策はあるのでしょうか?その臭いに関連してですが、こんな言葉をおもいだしました。“鼻持ちならない”という言葉があります。この言葉を人の形容に使うと、“その人の性質や言動が見るのも聞くのも嫌なほど不愉快だ”というときに使いますが、この“鼻持ち”とは何でしょう?この“持ち”とは、“この蝋燭は持ちがいい”とか“この切り花は持ちがいい”というような使い方と同じで、ある状態が長く続く事を指しています。よって“鼻持ちならない”というのは、悪臭がひどくて我慢できないという状況のことをいいます。それが拡大解釈されて“嫌味”で“自己中心的”で“デリカシーの欠如”、というような輩(やから)に対して当てはめていう言葉になったようです。酒臭い息で電車などに乗ってきて、わがもの顔の振る舞いに眉根を寄せたことがある方も居られると思いますが、私もいつかどこかで、眉根を寄せられていた事があったかもしれません(冷汗)。厳しく自戒して、わが身の行動と言動を自重すべく心がけたいと思うしだいです。
2008.07.10
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私のランニングコースの一部、幅3メートルほどの狭い河川敷の自転車歩行者道です。春から夏場は道の両サイドを埋め尽くして生えている雑草の成長が著しい。たった1日でも昨日の風景とは違って見えるほど伸びるのが早い、これは決して大げさに言っているのではない。車は通らない道だからいいとは言うものの、狭い道路に変わりはなく、道の両側から成長した夏草が覆いかぶさるように、道にはみ出てくるので、狭い道がことさら狭くなっている。前方から走ったり歩いたりして来る対抗者とも、すれ違うのに気を遣うくらいである。時には自転車とすれ違ったりもするので、注意しながらのランニングということにはなる。毎年2~3回行われる草刈りのタイミングが確かこの時期だったので、今年はまだですからもうそろそろだとは思うのですが。早く刈り取っていただきたいものです。特に激しい雨の後とか台風の後などには、長く伸びた雑草が倒れて道路を覆ってしまうこともたびたびのことです。車もバイクも通らないランニングには最適の環境を持っている道なので、尚更そう思うのかもしれません。
2014.08.06
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その昔、好きなギタリストの演奏映像を見ていて、そのフレーズをコピーできないものかと、左手の指の抑えやコードや運指を真似してみるのですが、同じ音には全然ならないでがっかりしたことがある。でも「なんでやろー?」との疑問が残ったことが何度もありました。後で分かったことですが、あれはギターが変則チューニングされていたからだったのです。変則チューニングにもいろいろあって、オープン・チューニングについては過去に何度か書いてきましたが、ほかにもまだまだあるようなのです。迂闊にもつい先日に知ったばかりなのですけれど『ナッシュビル・チューニング』なるものがあるのだそうです。このチューニングは、主にアコースティックギターで利用されるということです。通常の6弦のギターの1・2弦はそのままに、3~6弦を1オクターブ高くチューニング設定する方法だという。つまり12弦ギターのオクターブ高い方の弦だけを残した状態にするのです。私が読んだ説明によりますと、ナッシュビル・チューニングではゲージの太さは1弦から順に、1弦は.010、 2弦は.014 , 3弦は.009、 4弦は.012、 5弦は.018、 6弦は.026 と張るのだそうで、6弦だけが巻き弦であとはすべてプレーン弦となります。このチューニングは太い弦がありませんので、当然高音が強調されることになり、独特のキラキラとした音色が奏でられるということです。変則チューニングでもこのナッシュビル・チューニングは、通常の6弦ギターのノーマルチューニングと同じ押さえ方ができるので、ギターコードがそのまま生かせギター操作に違和感がないのが利点です。利点があれば当然欠点もある。欠点はノーマル・チューニングでの低音5・6弦が無いので、低音での音の厚みが無くなることです。したがってナッシュビル・チューニングが施されたギター1本ではソロ演奏にはふさわしくないかもしれません。驚いたことにこのナッシュビル・チューニング専用のギター弦セットが売られていました。弦のメーカーが専用商品を作るくらい、ミュージシャンに浸透しているチューニングなのだということを初めて知りました。またほかには『アイリッシュ・チューニング』というものもある。これは別名『ダドガドチューニング』と呼ばれていて、その構成音(減の張り方は)は、6弦からD・A・D・G・A・D と調弦するのだそうで、それで『DADGAD(ダドガド)チューニング』と言い、『オープンDsas4 チューニング』ということになるのだそうです。このチューニングは、アイリッシュのアレンジやモダン(コンテンポラリー)なギターインストロメンタルでよく使われるということです。ギターもいろいろと奥が深く複雑なものです。
2014.09.22
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この写真のイチローはマリナーズ時代のものですから、少し前のものですがそれは関係なく、本日のブログに取り上げました。と言いますのは、このイチローが打席に入る前とか、守備の合間によく見せる足腰の柔軟ストレッチ・ポーズが、私が早朝にやっているランニングに入る前に必ずやっている運動と同じだからです。まだ薄暗い冬の明け方でも、暑くなり始めるころの夏の朝でも変わりなく、スポーツウェアに着替えてランニングシューズを履いて表に出れば、準備運動の一番最初にやるメニューがこれなのです。私はイチローがやっているから始めたわけではなく、そのイチローの映像を目にするよりずーっと以前から、その習慣は始まっていたのです。なぜそのメニューから入るかというと、早朝のことですから、まだ目覚めてからそう時間はたっていません。そのまだ身体が目覚めていない状態の時に、この運動を10回ばかり念入りにやると、確実に足腰がしっかりとしてくるというか、力が全身に湧いてくるように感じるからなのです。おそらく、お相撲さんの四股や股割りと似たような効果があるのだと思います。したがって怪我の防止にも、必ずや効果を発揮しているものと信じているのです。それにしてもヤンキースのイチローさん、なんとかせめて3割くらいは打ってほしいですね。
2013.04.26
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日本刀には大きく分けて二種類のものがある。一つは “太刀(たち)” でもう一つは “刀(かたな)” です。 ではその違いはなんだろうか? 太刀と刀はどう見分けるのだろうか?見分け方はいくつかあるのです。まず “太刀(たち)” は、太刀拵えに収められていて、刃の向きを下にして “腰に佩く(はく)” つまり吊り下げるようにして装着するのです。これは馬に乗る時に邪魔にならないようにとの配慮がされているのです。一方 “刀(かたな)” の方は、打刀拵えに収めて “腰帯に差す” のです。これだと “拵え” に収まっていないと判別できない、拵え無しの裸のままでは分からないということになります。そしてまた太刀の方が刀より “反りが大きい” ということが一般的にはあります。ところがこの判別は決定的なものではありません。決定的な判別は、日本刀の柄(つか)の部分を『茎(なかご)』といいます。刀鍛冶はその茎に銘を入れますが、その銘がその刀剣のどちら側に入っているのかで判断をするのです。日本刀を差したり佩いたりする時に、その銘は必ず外側に来るように装着するのです。それで太刀か刀かを見分けるのですが、拙いことに日本刀には “無銘” のモノも多く存在します。そうなると無銘の日本刀は厳密には刀か太刀かは判断できないということだ。刀匠刀鍛冶というものは、プライドを持っていて自己主張も強いのであろうか、己の鍛えた自信作には銘を入れるのを誇りとするが、満足のいかない出来だと銘を入れないことが多くある。したがって無銘の刀剣に関しては太刀であるのか刀であるのか判別がつきにくいということになる。ところが無銘の刀でも名品はたくさん存在する。それは頂点にいると自他ともに認める刀匠が、銘を入れないことが意外にもたくさんある。それは「銘なんか入れなくてもモノを見れば私の作だと分かるはずだから」との理由からだと思われる。その証拠に無銘の刀剣で国宝になっているものもたくさんあるのですから。
2014.08.17
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“東路の 佐野の舟橋 かけてのみ 思い渡るを 知る人ぞなき” 『後撰和歌集』にある “源 等(みなもとのひとし)” という人の和歌です。何故唐突にこんなことを書いているかと言うと、先日初めてその歌が意匠になっている国宝の作品を観てきたからです。その国宝作品は『舟橋蒔絵硯箱』という本阿弥光悦作とされている、斬新な形がユニークな硯箱。その硯箱の蓋の意匠に、この和歌の言葉が順序をばらして散りばめられているのです。その文字は本阿弥光悦の書とされていて、その書を写し取って銀の板を切り抜いて加工が施され貼り付けてある。その文字は正確には “東路乃 さ乃ゝ かけて濃三 思 わたる を知人そ なき” と21文字が散らされているのです。ここで気が付くのが、不思議なことに “舟橋” の文字が意匠されていないことです。ただでさえ文字がばらばらに散らされていて、元和歌を分かり難くしている上に、この歌の重要な要素である “舟橋” の文字を意図的に抜いて制作されている。これは当時、知識人や粋人の間で流行っていた “判じ物” だったのだろうと思われます。 “舟橋” の文字をわざと省略させているのは、この硯箱の蓋のデザインを見ればわかるようになっている。その金蒔絵の蓋には大胆にも、黒々とした鉛の板で水辺に架かる橋がデザインされていて、その下の川面には川舟が数艘あしらわれているのです。金蒔絵作品に鉛の板を合わせたのは光悦が初めてだと言われている。この国宝硯箱、本阿弥光悦自身がどの程度関与したのかは定かではないらしいが、プロデューサー光悦として古典からの主題選定、大胆なデザインそして高度な技術などを指導したことは明らかで、光悦作品の蒔絵の中で最も光悦らしさの出た作品で白眉とされているのは周知のところです。いまこの国宝硯箱が京都国立博物館で展示されています。写真でみた時はかなり大きなものに思えましたが、実際には意外にも小さなものでした。因みに、『後撰和歌集(ごせんわかしゅう)』は『古今和歌集』に次いで二番目にできた勅撰和歌集で、村上天皇の下命によって編纂されたものです。
2015.11.07
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過日、歴史的能書家・能筆家の『三筆』『三蹟』のことに触れました。今回はその続編です。日本の歴史のなかでも能書家をたたえる言葉、その最たるものが空海・橘逸勢・嵯峨天皇のお三方を尊称した『三筆』です。いずれも平安初期に活躍されたかたで、まともに王義之の影響を受けているといわれている。空海と橘逸勢は同じ遣唐使船で唐に渡った仲間です。二人は唐より前の東晋時代(317~420)を生きた『書聖』と称された王義之の書法や書跡と、そのほか唐人名手たちの書跡を持ち帰ったとされる。『三筆』『三蹟』とは、平安時代の代表的な能筆家、つまり書道に優れた人々を後世に尊重して呼んだ尊称です。『三筆』に対し『三蹟』の方は、小野道風・ 藤原佐理・ 藤原行成の三人だけを差す言葉です。 この小野道風は、王羲之の書を学び、そこから和様の書の基礎を築いたとされています。 能書家として活躍し、生存中から ”王羲之の生まれかわり” と言われたほどです。 藤原佐理は道風と同時代を生きて、王羲之を学び、道風の書にも影響されたと見られます。そして藤原行成です。 行成は道風の没後に生れていますが、とても道風にあこがれていました。 行成の日記『権記』に、<<此夜夢逢野道風、示云、可授書法、言談雑事>> とあります。これの意味は、”夢で道風に逢った 道風から書法を授けると言われて雑談をした” と言っています。つまり行成にとって道風は、夢に見るほどの存在だったということです。 行成は道風の書を学び、和様の書を確立させました。そして行成の子孫が、世尊寺家という能書の家系として、平安時代の和様の書を担っていくことになります。因みに、王義之(おうぎし=303~361)は中国大陸で唯一の『書聖』と呼ばれ、現在もなお貴ばれているということです。
2018.09.03
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我が家のクローゼットの洋服箪笥。中に入っているのは私の背広・スーツがほとんどで、オーダーメイドのものも含めて20着ほどはあると思う。先日女房殿が「あの洋服箪笥に入っているスーツ類、もう着ることがないのだったら、少しだけ残してあとは処分したらどうかしら」と言う。もちろんどのスーツも傷んでいるわけではなくヤケなどもないし、中にはクリーニングから戻ってきた状態で吊り下げてあるものも半分以上あると思う。さてどうしたものか? おそらく今後そのスーツを着ることはまずほとんどないと思われる。当の本人である私に今更スーツを着るという意識が全くないからなのだが、なんだか勿体ないような名残惜しいような気がするのです。でもこればかりはどうしようもない。在職中に十分役割を果たしてくれたと無理矢理思って、結局は処分することになるのだろうとは想像している。こんなもの人にあげるわけにもいかないし、ましてや貰ってくれる人などいるわけもない。ここは万が一、着ることがあるかもしれない時のために、略礼服はじめ数着だけ残してあとは ”エイヤーッ” と思い切るしかなさそうである。
2019.06.11
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英語の ”GOOD-BYE” に当たる別れの言葉、日本語には代表的なところで ”さようなら” や ”さよなら” がありますが、京言葉かもしれませんが関西には ”さいなら” というのもあります。この3つの同じ内容の言葉、それぞれに受け取るニュアンスが少しずつ違うのですね。人や時にはモノとの別れの折に ”さようなら” と言うと、もうその人とは永遠に会うことはないという、極端に言えば多少悲壮なニュアンスを感じてしまいますが、 ”さよなら” と言うと ”さようなら” よりも深刻さが薄れて「また近いうちに会いましょう」といったような近い将来につながる言葉になる。さらに ”さいなら” だったらもっとくだけていて「ではあしたまたね!」というような軽いニュアンスで親しみすら感じてしまう。したがって日本語の ”さようなら” には、英語の ”SEE YOU NEXT” という意味ではほとんど使われることはないと言える。わたしの独断では、ことほど ”さよう” なイメージを持っているのです。皆さまはいかがでしょうか?そういえば ”さようなら” という言葉の語源は、武家言葉の ”左様なら” からきていると言われ、意味は、”そのようなことならばここらで失礼いたします・・” というニュアンスではないでしょうか。そんなこんなで、 ”さようなら” という言葉を、日常生活で使うことはほとんどなくなっているということです。ただこの言葉、手紙の中では使うことが有りそうですね!
2020.02.24
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かなり涼しくなってきて過ごし易い日がやってきました。この時期になると早朝にやっているルーチンの ”ウォーキング&ランニング” ですが、ウォーキングの方は夏場とあまり変わりはありませんが、ランニングの方は如実に違いが現れます。それは所用タイムです。ルーチンでやっている早朝の運動ですが、タイムは計っているけれどそれを短縮しようとかっていう意識は一切考えていなくって、ただただその日の記録と残しているだけです。その日々のタイムが、夏場と涼しくなった秋場とでは格段に違いが出てくるのです。夏場の早朝のランニングタイムは、1キロ換算すると6分ほどかかっていますが、涼しくなった秋場のこの時期だと5分半ほどに短縮されてきています。これは巧まずしてごく自然にそういう結果になっているのです。これが冬場になってくると、この1キロ5分半というレベルを維持したまま、もう少し短縮される可能性もあります。しかしそれは飽くまででも巧まない走りのごく自然の結果ということです。そんなことを総合して私の走力を判断すると、速い冬場で1キロ5分30秒・遅い夏場で1キロ6分というところでしょう。もう20年ほどむかしには、1キロ4分で走っていたことはあったのですが、いまや遠い過去のはなしです。※こんな記事がありました。<<夏と冬では空気中の酸素濃度が9%違うらしい>> という。つまり、同じように吸っている空気中の酸素は、夏には9%分酸素濃度が少なくなるのだそうです。その言葉をもとにすると、こんな計算式が出来る。『冬の1キロのペース×1.09=夏のペース』これを自分の記録に当てはめると『冬場5分30秒×1.09≒夏場6分』となって、この公式通りになっているのです。この合致にはちょっと感動しました。
2024.10.28
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この日本のグループは、何を演奏しても素晴らしい。とても巧いし極めてバランスが良い。『The Lady Shelters』日本の女性2人・男性2人のロックバンドです。4人とも素晴らしいのですが、私が最も注目しているのがドラマーの ”吉田あかり” さんです。YouTubeにかなり以前からアップされているザ・フーの『A Quick One,While He‘s Away』をカバーした演奏している映像があるのですが、その楽曲における彼女のドラムプレーが秀逸で、観ていて惚れ惚れしているのです。もちろん同等の演奏ができる人はたくさんいるとは思うのですが、彼女の演奏は何とも心地良い。本家の『THE WHO』よりもというか、THE ROLLING STONESの『ROCK`N ROLL SIRCUS』映像の時と同じくらいの出来映えではなかったかとまで思っているのです。
2024.11.10
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冬場のこの時期の早朝は、まだまだ夜が明けるわけではなくウォーキングやランニングのゆく道は、暗闇とまでは言いませんが暗いことに変わりありません。わたしが決めている暗いコースでも、ランナーやウォーキングをしている人は何人もいる。そんな彼ら彼女たちは、みなさんそれぞれミニライトを持ったり、頭に付けたり、足首にセットしたり、腕に巻き付けたりしている。もう最近は無灯の人はほとんどいなくなりました。私の場合は首に架けてぶら下げてブラブラさせて、歩いたり走ったりしているのです。みなさんそんな状態ですから、行く道が暗い中でも前方からくる人のライトの明かりだけは認識できるのです。したがって、稀に無灯の人が前方から来ると、間近になるまでわからずに、ちょっとギョッとすることも有ったりします。そんな行く道で長く同じコースを使っていると、前方からくる人が誰なの(もちろん名前なんか知らない)か? が分かるようになってきている。それはミニライトの揺れ方や、そのライトの位置などで個性判別が出来てきているので、わかるのです。時には前方から来た人に、「あなたのライトの揺れ方で、かなり遠くからでもわかります」と言われたことも有るのです。ライトの個性で、来る人の判別を行っているのは私だけではなかったということです。
2024.11.21
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友人たちの中には、『終活』と称して『断捨離』を本気で始めている人が居ます。気持ちはわたしにもよくわかりますが、わたしは全くそれをやろうという気が起こらないのです。愛着を感じている手持ちのものを手放してしまう寂しさの方が、手放した後のさっぱりと気軽になるということよりも勝っているのです。かくいうわたしも、『断捨離』を ”まったくしたことが無いのか” と言うとそんなことは無い。やたらたくさんあった書籍類で、もう二度と読むことは無いと断言できる本を、段ボール箱7箱分ほど貰ってもいいという友人宅に送ったことがある。それでもまだまだ我が家に本はたくさん残っている。また、このブログにも書いたことがあるけれど、在職中に着用していた、今やもう二度と着ることが無いと思われるスーツ(クリーニング済だった)類とネクタイを、40着分ほどゴミ袋に入れて燃えるゴミの日に出したことがある。これはやはりちょっと名残惜しい気持ちは強く有ったけれど、スーツの場合はもう着ることは無いので、吹っ切れたのかもしれません。我が家の内部を知ってくれている友人たちは、我が家がモノの多い家であることはご存じのところです。例えば、絵がたくさんある。もちろん自分が描いた絵もたくさんあるのですが、学生時代からのある友人の絵もたくさん持っていて、それらの絵を玄関から家中の壁面に70枚ほど架けている。またむかしから、ギターが好きでアコギやエレキをこれまでに集めてきて、現在27~8本ほどある。 それらを今手放すつもりは全くありませんが、しかしその日はいずれ確実にやってくるのは道理というものです。考えておく必要はありそうです。
2024.11.25
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ごく最近に京都市内や高槻市内のギャラリーで、友人たちが立て続けにグループ展などの開催に、自作品(油彩画や彫刻など)を出品・発表している。それらを観に行って、少しばかり焦りのようなものを感じている。わたしも来年には小さなギャラリーで良いから、個展をしなければいけないとのプレッシャーというか義務感のようなものを感じているのです。先日の元職場のOB会の場でも、先輩方々から「絵は描いているのか? 次の個展はいつするのか?」「早くやってくれないと、こっちの身体が持たないかもしれんよ!」などの催促ともとれる言葉を戴いている。それはよく分かっているのですが、なかなか踏ん切りがつきません。今わたしが描いている絵の大きさは、前回と違って小さな絵がほとんどですので、大きなギャラリーではとても個展は開催できません。もちろん『二人展』や『グループ展』だと話しは違いますが、なかなかそんな相手も探せそうにないので、やはり個展を目指すことになるわけです。小さなギャラリーだったら、壁面を持たせるだけの作品数は有ると言えばあるのですが・・・。友人がよく使っている高槻市のギャラリーは小さくて手ごろなのです。そのギャラリーのオーナーには「その節にはよろしくお願いします」とは言ってあるのですが、どうするかは考え中ということです。
2024.11.26
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