いなかの猫の天邪鬼部屋

第1話

第1話 現在の悲劇

言論の死角地帯に置かれた社会、私たちはどれほど安全なのか?

メディア法改定論難真っ盛りで国が騒がしい中、私たちはどれほど真実の言論と向き合っているのだろうか?
ナムジャイヤギを通して見る現在の私たちの自画像を心に刻む話だ。


混乱した道路の画像、堂々と、ふらふらと、道路端の道を歩いている男が一人。クラクションの音がパンとして、トラック一台が威嚇するように通り過ぎて行く。だが、男の顔には恐ろしいよりも気が抜けた微笑が宿る。何かを思い出したように電話を、しかし相手は通話中だった。男は魂が出て行ったような顔で虚空を見て言う。
"ごめん。ごめんさい…ごめん。"何のためか男はごめんという言葉だけ出す。再び堂々と歩みを動かしたその時、彼の顔を照らすトラックのヘッドライト、辛い世界の終止符はこんなにまでも明るい光なのか?気が抜けてしまった彼の顔は 若干の安堵、悲しみ、諦念がこもった顔 だ。
果たして男をこんなふうにしたものは何なのか?
ある兄弟が両親から受け継いだギョーザ店を切り盛りして暮らしていた。兄キム・ウク(アン・ネサン扮)は両親から受け継いだギョーザ店を工場に育て、事業に精進していたが、そんな兄に対して弟シン(パク・ヨンハ扮)はまともな職がなく、兄の工場で配達を手伝いながら無駄に歳月を送っていた。そして彼らと一緒にキム・ウクの妻ミョンソン(パン・ウネ扮)、キム・シンの彼女ギョンア(パク・シヨン扮)、そして子供たちが一緒に幸せで平凡な日常を送っていた。
ある日、放送局から取材が来た。工場を見渡していた記者は巨大な箱に大根の切れ端が詰められているのを見て会心の笑みを浮かべ、兄にインタビューを頼む。兄ウクは純粋な気持ちでインタビューに応じるが、記者の質問は自分の考えていた質問と要旨が若干逸れていて嫌な予感がしていたその後、ニュースでは 自身のインタビューが誤解が生じるように編集されたゴミギョーザというタイトルで放映 された。
記者は広報の目的でなく、何か社会に波及力を持てる特ダネになる事を探していたようだ。記者には真実が何かは関係なかった。単にイシューになり得るそんな主題だけ必要だったようだ。
彼らは 言論の犠牲者 になった。
言論の波及力とはこんなにまでも強かっただろうか?兄弟のギョーザ工場は一朝一夕で取引先等全てから補給が中断された。納得しがたい気持ちで食薬庁を訪ねて行き、大根の切れ端は人が食べられないゴミでなく、消毒と厳重な手順を経て人が食べられるようになる事を明らかにするよう要請する。結局彼らの材料はゴミでないと明らかにされたが、既に社会には'ギョーザ企業=ゴミギョーザ’という公式が成立し、訂正記事は出たが、ギョーザ工場はもう手を付ける事が出来ない状態だった。
兄弟のギョーザ工場は再起出来るか疑わしいほど破綻し、ゴミギョーザ所でないにもかかわらず、彼らを救済出来る方法はなかった。
そんな状態で、金銭問題を解決するために中小企業社長キム・ウクは、会社を生かそうと私債を使い、にもかかわらず、彼が守りたかったギョーザ工場は結局金銭問題を解決出来ず不渡りを出す。
幸せだった家族の破綻。そして愛する兄の自殺。
シンは少しずつ自身の周囲を整理し始める。ギョンアにも心にない花柳界の勧誘してわざと別れ、兄の借金を返して自身の名前で私債を借りる。そして悔しく自殺した兄の悔しさを晴らすために生放送中の放送局に入って行き、殺すと脅迫して世の不条理を放送を通して知らせようとする。しかし平凡な暮らしをして来たキム・シンは結局兄の悔しい死も言論の誤った情報も正す事が出来ず、警察に逮捕され収監される。
私たちは情報とメディアの洪水の中で生きている。
以前は最小の新聞やテレビによる制限的な情報を得ていたのに対し、今はインターネットが出て、多様なコンテンツを提供する言論によって良質の情報を得る事が出来る。
特に、そんな情報の洪水の中でも刺激的なものに集中するのを見る事が出来るが、それを 黄色言論(Yellow Jounalism) と言う。
言論やインターネット世論の力は本当に恐ろしい。言葉は'あ'や'お'とは違う。言論でどんなふうに方向を取って行くかによって大差が生じる。ここで述べたように、言論やインターネット情報は人々のイシューを引き出すために刺激的で原色的な情報を提供し、人々の思考を停止させ、そこにだけ関心を持って行く。
今、私たちが知っているイシューも、ともすれば黄色言論が振り回している事ではないだろうか。そして、そうだとすれば、私たちはその情報の洪水の中でどれほど真実と虚偽を上手く判断出来るだろうか?私たちも、言論も、インターネットが提供する情報にとても依存しているのではないだろうか?
キム・シンが悔しさを訴えるために放送局に突入して言った "国民たち。お前たちはアメーバではないだろう?脳ミソは生きているだろう?だったら見ろ" という台詞は、私たちも言論の報道もインターネット世論だけを盲信する受動的な存在で、もう少し能動的に情報を判断しなければならないという 私たちに向けた叫び でもある。

ナムジャイヤギ1話では、キム・シンとキム・ウクの話が中心になっているが、その裏で、ゴミギョーザ波動を操作するために動く勢力者チェ・ドウ(キム・ガンウ扮)が登場する。
彼は金で人々を買収して原色的な非難を駆使し、情報の流れをを一方的に作り、その間で利得を得る存在というものを暗示している。
特に、人々を買収して悪性コメントを残す場面を見ると、チェ・ドウの非情さ、そしてインターネットの二つの顔を感じさせられる。
インターネットという仮想空間は人々に簡便なコミュニケーションを提供するが、その反面、他人との共感能力に影響を及ぼす。
顔が見えない、存在すらぼんやりとした誰かが何も考えずに書いた文で傷付き、それによって自殺があった事には表面的な因果関係が感じられるが、それが現実に起こればどこの誰が罪責感を感じるのか気掛かりだ。
分別ない石投げの巻き添えを食った蛙が打ち殺されるように、人々は言語の恐ろしさを知らない。最近起こった有名な芸能人の自殺も、無知な人々の悪性コメントに傷付いて死んだ事を、私たちは知らなければならない。今も、何も考えずに残した文で傷付いている人々がいるだろう。
ナムジャイヤギ1話のキム・シン一家の悲劇を通して、メディアの死角地帯に置かれた私たちは皆、情報を受け入れる時、受動的ではなく能動的に受け入れて判断し、無知から抜け出し、真実と虚偽を明らかにし、私たちの周囲に顔が見えない被害者(また別のキム・シン一家の悲劇のような)が出る事を予防する市民意識を持たなければならない時ではないだろうか。


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