つきあたりの陳列室

つきあたりの陳列室

校庭の走者たち



ぼくが小学一年のときの同じクラスに,とてもとても足の速い子がいた.寡黙で,黒くて,細っこくて,凛々しい顔立ちのハナオカ君(仮名)は,マラソン大会(学年別)で6年間,ただの一度も他人に1位を譲らなかった.

ハナオカ君の家は校庭のフェンス裏にあり,毎日まいにち朝飯前に,必ず校庭を走っていた.かれは毎朝の練習だろうが,大会のゴール直前だろうが,無駄な力はすっかり抜けてあくまで軽く,背骨はきれいに鉛直を保ち,腰の高さが同じだった.ゴールした後も涼しい笑顔で,息も上がってない.

夏休みなんかには,ハナオカ君と一緒に走った.といっても,たまたま時間が重なるだけで,お互い手を挙げてあいさつし,あとは自分の決めた周回を分相応のペースでくるくる回るだけだ.お互い自分の走りに没頭しながら,なんとなく互いを意識して走ってた.もちろんぼくらの他にも,かならず何人かが走ってる.そこはそういう校庭だった.

マラソン大会の日は,運動会でもないのに近所のお母さんたちが何人か見物に来ていた.そしておそらく全校生徒の父母も,みんなみんな知っている「ハナオカくん」がどの子か教えてもらい,思ったよりやせっぽちでハンサムなハナオカくんが,凛々しくも控えめな笑顔でゴールテープを切るのを見て,満足そうに帰ってった.生徒は家に帰ると,速かった子ならあきれたように,遅かった子なら自分の話題をそそくさと終わらせたくて,「今年も○年生は,ハナオカくんが一位」と父母に報告し,「すごいね」と言いあった,と思う.「ほんとうに,必ず,勝つんだね」って.

彼はスポーツなら何でも人並み以上にできたし,いつも楽しそうだった.勝ちを誇示したりせず,負けた奴にちょっかいかけたりもしなかった.ただ純粋にスポーツが好きみたいだった.人付き合いも良くて,ジャイアンみたいな奴ともスネオみたいなやつとも仲良くできたし,おれみたいな暗くてふにゃふにゃの子とも普通に話した.でももしかしたら,怠け者や手抜きする奴はきらいだったかもしれない.

一度本屋で会ったとき,おれは愛想笑いの卑屈な態度か,良く聞き取れない声で話しかけたか,とにかく少し緊張してた.ハナオカ君は生返事と苦笑いをして,またすぐに立ち読みをつづけた.ぼくは何となく恥ずかしかったけれど,彼を逆恨みしたりはしなかった.

あまり思い出せないけれど,ハナオカ君にも傲慢なところや嫌なところが少しあったと思う.でも彼は他の誰ともちょっと違っていた.特定のグループに入るでもなく,飄々としていたけど俺様じゃなくて,小学生男子としては珍しく,他人の心の痛みってもんを分かってる類の子だったと思う.とにかくぼくにとって,彼は他の全てのガキと別扱いせざるをえない,ぼくのアイコン,アイドル,ヒーローだった.




ぼくは一年生のマラソン大会で4位をとって,それがとてもとても誇らしかった.「オレは速い!」と思いこむのに充分な昂揚感だった.ほんとは,こつこつ練習したことへの単純なご褒美だったのだけれど.ぼくはその後,毎年順位を落とし,6年の時は36位まで落ちた.5,6年生のときは,気が遠くなりそうな程苦しくて,ずっといつ走るのをやめようか考えていた.自分が死ぬほど恥ずかしくて悔しくて,でも,何とか蜘蛛の糸みたいな気力にすがった.しけた紙屑みたいなプライドを手離すだけの覚悟がなかったんだ.単純に練習不足だった.

一度も歩かずに走り終えたとき,心の底から,ああ歩かなくてよかった,とは思った.最後の方で続けざまに15人くらいにぬかれたときには,もうゲレッパ(ビリ)に近いだろうと絶望したのに,36位は思っていたより良くて,きょとんとしたくらいだ.でも,前年からの順位の下げ幅は最大だったし,間違いなく今までで最低の結果だった.でも不幸なことに,ぼくはその時ちょっと,満足してしまったのだと思う.

今思えば,絶望的な酷い成績の方が良かったと思う.スポーツという限定された世界で,情け容赦のない敗北と落胆を味わうのは悪い事じゃない.長距離走は,運動音痴のぼくがひそかに自信を持ってた数少ない競技だった.負けたとき,悔しくて悔しくて,心を入れ替える可能性のあった,数少ないチャンスだったんだ.

もしも下から数えた方が早いような順位だったり,「こいつよりはましだろう」と思うような子たちの中に埋もれて,惨めな気分でゴールをしてたらどうだったろう.目の色変えて自分を変えようと,ぼくは果たして思っただろうか.それでもやっぱり,変わらなかっただったろうか.

ハナオカ君はぼくと違う中学に行った.中体連の陸上1500m走の結果を新聞で見て,記録は載っていたけど1位じゃなかった.そして彼はいちばん近くて特色のない,学力的には中くらいの公立高校に行った.野球部に入ったという話を聞いたけど,その高校が野球で活躍したという話は聞いていない.




小学校マラソン大会のランキングは,ハナオカ君以外にもドラマティックな要素があった.2位の奴も,なんと6年間ずっと2位だったんだ.そして3位の奴も,3年か4年まで同じ奴だった.(ま,学年別だから,さほど驚くことではないかもしれないけど)そして2位のMという奴が,ぼくのとことん嫌いなタイプの奴だったのだ.ぼくがハナオカ君の常勝に溜飲を下げた,もうひとつの薄汚い理由がここから見えてくるってわけだ.


Mとは高校が同じで,クラスまで一緒になった.彼はバスケ部のアイドルで,1年の時からスタメンに近い扱いだった.お調子もんで,頭の回転がはやく,機嫌さえ良ければ,反りの合わない奴ともそれなりにコミュニケートできる,意外とつきあいやすい奴だった.でも一旦,「こいつ,つまんねえ」「ムカつく」と思った相手は,あからさまに馬鹿にした態度をとるので,嫌な奴であることには違いなかった.

彼は,高校のマラソン大会でも,2年生のときこそ体調を崩して休んだけど,出場した年はいずれも優勝した.小学校のときと違い,全学年混合だったから,1年の時は上級生を抑えて勝ったことになる.

でもおれは今になって,Mはやっぱり凄くかっこよかったと思うんだ.おれは小学校のとき,せっかく走る楽しさをおぼえたのに,そのあとしんどい思いをして,めんどくさくなって,ついには,どうでもよくなった.

一方Mは,一人でぺたぺた走ってるときのちょっと孤独なあの感じを,日常的にこなしていたんだ.俺が小学校で頑張ってた時の何十倍,何百倍というような距離と時間をかけて.しかも,むかつく先輩や,気に入らない同級や,生意気な後輩とちゃんとコミュニケートしながら.そして本番では緊張もデッドヒートもかわして,誰より早くゴールに飛び込んでみせた.

それってやっぱり,おれなんかがどうこうケチをつけようが,文句なしにカッコイイこと,なのだ.理屈じゃなく,おれ自身が,そういう奴を,生理的に尊敬してしまうんだ.

自分を文句なしに肯定できて誇らしいと思うのは,予め設定されたながいながい距離を,勇気を失することなく走りきった時だ.ぐたぐたで無様にゴールしようが,キレイなペース配分で終わろうが,走り終えたときの状況はそれほど重要じゃないと,今は思う.ようは,走る前にビビっちまっていないか,そして,勇気を持って最初から最後まで,おれはやれる,って気分を捨てずに走れたかってことなんだ.

こうやって書くと俺が毎日走ってるみたく思われるかもしれないけれど,とんでもなくて,もう何ヶ月も走ってない.でも,ひさびさに走ったときの,笑えるくらい無様な走り方とか,笑えるくらい体が重たい情けなさも,なんだか面白いって思えることがあるんだ.しかも,どんなに体がなまっていても,ペースを落として,リズムを守れば,いずれゆっくり調子は戻るもんだ.そうしててくてく楽天的に走っていれば,わりと手軽に忘我に達することができる.だからこの行為は,いつになっても面白い.

いわゆるランニングはしていないけれど,大学と自宅の行き帰りに,ほんの数十メートルずつ,「あそこまで走るぞ」とかいうお遊びをやってはいるんだ.「あの信号に間に合うだろ」「行くのか,行かねえのか」「ナヤムナ.今スグ決めろ」とか,自分にプレッシャーをかけるゲームを楽しんでる.大げさかもしれないけど,これって財産かもな.子供の時にマラソン大会で「おれってカッケー!!」って一瞬でも思わなかったら,こんな気晴らしも思いつかなかったかもしれない.単純に,走るの好きって,思わなかっただろうな.

話はずれるけど,おれは大学に入ってから,人生で初めて,運動部(水泳部)に入ってしまった.そりゃもう,うんざりするほどキツイ練習だったけど,人間の体って意外と丈夫だな,って思った.あんがい壊れないもんだなって.おれ,自分の限界,ぜんぜん分かって無かったな,って(「基本のキホン!」の加具山君みたく※).これも財産だよな.田舎のどってことない小学校1年生で4等賞とって,いい気になったおれって可愛かったよな.そのまま本気でいい気になって,もっともっと天狗の鼻を伸ばしやがれば,さぞ折れ甲斐もあったろうに.

でも,ま,いいんだ.おれはおれのやってきたことを考えすぎたり,断罪したりしないことにしてるんだ.ただ,良かったことを感謝しておきたいって思ってるんだ.

おれの記憶の中では,ハナオカ君の風貌や佇まいはイチローにかなり似ている.イチローがメジャーに行って活躍しはじめてから,ハナオカ君のイメージを無意識にかぶらせていたかもしれない.この文章書きながら,おれ本当にハナオカ君を崇拝していたんだなって思った.ちょっと彼の記憶は美化されてるかもしれないけど,本当に彼のいやなところを知らなかったんだ.これからちょっとつらいときに,彼の走るときの表情を思い出したりするのかもしれない.もしそうなれば,それこそ間違いなく財産だ.彼と会って,ぺたぺた走ってたチビのときの記憶が,ちょっとでもおれを助けてくれるのなら.

ハナオカ君,いまも走ってる?




※「基本のキホン!」:「おおきく振りかぶって」3巻,ひぐちアサ,アフタヌーンコミックス,に収められてる読み切りのこと.




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