猪木魂

猪木魂

90年2月10日



 確か前日はタイソン対トニー・タッブス(違うな、ジェームス・ダグラス?)
タイソンの敗戦の番狂わせの日だった。
プロレスは絶対にこの観客動員に負けてはいけなかった。
確か主催者発表5万ちょっと。(53000だったかな?)
実際の写真では2~3万人くらいだったと思う。

 この日は禁断の新日本と全日本の対抗戦が2試合組まれた日。
(ベイダー対スタンはこの場合該当しない。)
いまのファンには分からないだろうが、当時の新日と全日は決して交わることのない水と油の関係。
私にとっては、ものすごく刺激的な興行。
昭和新日本は宗教なので。

 当時はまだプロレスでのドーム2回目の興行。
ドームで興行を行うというのは、プロレス界にとってすごいステイタス。
その時代はまだ東京で一番大きな箱が日本武道館しかなかった。
それをプロ野球の会場でやるのだから。

 当時レンタルビデオ屋でバイト。
深夜2時に終わるのですが、次の日(ドーム観戦の日)のために、終わってから寝なければならないと思っていたが、気になって全く眠れず。
フトンをかぶりながら、新日が全日に決して屈してはならんと願っていました。

 ろくに寝ることもなく、決戦当日。
わざわざ、前日バイトしていた先へ出向き、バイト仲間にアピール。
私がアントニオ猪木狂だと皆は知っていても、誰もプロレスなど興味はないのに。
一緒に観戦の友人とダンボールに字を書いて記念撮影。
決して会場ではありません。
そのくらい燃えていた。

 最初は別の友人と行く予定だったのが、そいつが行けず別の友人にチケットが回った。
全日勢の参加は、リック・フレアーがドタキャンした後だったので、開催が迫ってからの発表であった。
私は全日参戦関係なく、発売当日にチケットはおさえていた。
プラチナチケットを逃した最初の友人は後で涙を流していた。
逆に手に入れた友人は、そこからプロレスに再びドップリ漬かっていくのであった。
アレは本当に伝説であった。
後にも先にも、新日対全日の対抗戦は、あの時一度だけであったのだから。
(その後のは意味合いが全く異なる。)

 ドームは正真正銘の札止め。
チケットを買えないファンは、外の隙間からビジョンを見ようと試みていたほど。
観客動員数63,900人と記憶。
その時のレコードであった。
場内もひな壇で妨げになる、1階の前面少しは意図的にあけていましたが、外野席まで本当にびっしり。
思えば当時、アリーナはひな壇のセットを組む心遣いがあった。
実に壮観であった。
こんな時感じるのは、世間に蔑まされているジャンルが、屋内最大の箱を埋め尽くす程力があるんだぞと。

 そして、我々は猪木さんの弟子なので、全日ファンには決して負けてはならない。
ファンも中に入れば臨戦体制であった。
何しろ、ジェット鶴田や龍源・一郎に声援が集まるのが気に食わなくてふてくされるくらいであった。
だから私は全日に汚い野次を飛ばしまくる。
歓声の少ない時に、わざと全日ファンの心を逆なでするかのような。

 シューター木戸がジェットにピンをあげた。
ジェットはアマレスもろくに強くないのに、なぜ幻想があるのだろうか?
シュートならなおさら、ジェットが木戸にかなう訳などないのに。
その時の悔しさと来たら・・・。
当時は気配り上手なグッチがトップ。
参戦してくれたが故に、相手の方をよりオーバーさせねばならない弱み。
猪木さんが現場見てる時代ならば、「生で行け!」と炊きつけかねない。
実際猪木さんは、後日龍源・一郎とやったときは、指を折りましたからね。
やはり新日本の格闘家としてのプライドと強さがあるから出来る行為ですよ。
下の者も、そんな気概を見せて欲しかった。

 そういえば、北ちゃんのデビューもこの時。
今では貴重な(?)北ちゃんのサインを持ってます。
ビガロの仕事っぷりには笑ったな。

 猪木さんの、1・2・3ダー!はこの大会以降に恒例になりました。
これを機に、新日本は90年代の黄金時代に突入。
私とは関係のない新日本になっていくのであった。

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