Innerview-インナービュー 内側から見た世界

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受容と変容

鍵


(質問)臆病さや偽善でさえも美しいなんてことがあるのですか?
臆病さ、偽善、けちくささ、そしてあなた自身が「愚かだ」と言った、自分を隠そうとする傾向。そんなところさえも受け容れてしまってよいのでしょうか。もし、そんなところまで受け容れたなら、そうしたもので私はいっぱいになってしまうでしょう。それなのに、どうしてそこから自由になれるというのでしょうか?

(OSHO)デヴァ・アショカ。自由になりたいという、まさにその欲望が人を不自由にする。あらゆる欲望が、鎖であり、束縛であり、とらわれだ。どんな欲望も満たされることはない。欲望を落とすことによって、満足は起こるのだ。
さて、この世で最大の欲望は内的変容への欲望だ。お金への欲望など、とるにたらない。権力への、名声への欲望など、とるにたらない。最大の欲望というのは、いわゆるスピリチュアルな欲望だ。いったんそうした欲望にとらわれたなら、あなたは永遠に不幸になる。
変容は可能だ。だが、それを欲することによってではない。変容は、何であれあるがままにくつろぐことによってだけ可能となる。無条件に自分自身を受け容れることが、変容をもたらす。

この現象をさらに深く見ていくことにしよう。なぜならこれはアショカだけでなく、みんなの問題だからだ。
人間は不幸の中にいる。人間は苦悩の中にいる。ゆえに、誰もが至福の境地を、存在との合一の境地を探し求めている。人は疎外され、根こそぎにされているように感じる。だからそうした欲望は当然だ。どのようにして再び存在に根づき、再び開花するか。

これから引用するいくつかのくだりに瞑想してごらん。ひとつめは「その完全なる合一を確立するためには、意識はまずあらゆる私的側面をそれ自身と統合するために、体験上の真実を否認してはならない。」これが最初に理解すべきことだ。

あなたは恐怖を感じる。さて、恐怖は実存的な真実。体験的な真実だ。それはそこにある。あなたはそれを否認することもできる。否認することで、あなたはそれを抑圧するだろう。抑圧することで、あなたは自分の内的存在(being)に傷をつくる。
あなたは臆病さを感じる。それを見ないようにすることもできる。だが、それは事実だ。ただ見ないでいることで、それはなくならない。
無視することで、あなたは自分の内的存在(being)に目の届かないところを作りだしたことになる。あなたは自分を断片へと分割したことになる。さて、別の日に別の何かが起こったとする。たとえば怒りを覚えたとする。あなたは自分の内側に怒りがあるのを受け容れたくない。それを見るのをやめる。そしてまた別の日には、貪欲さを覚える。そしてまた同じことをする。そして何であれ、あなたが見るのをやめてしまったものは、そこにそのまま残ることになる。その一方、あなたの存在は小さく縮んでいく。数多くの部分が、あなたの内的存在から切り離された。―それはあなたが自分で切り離したのだ。断片的になればなるほど、あなたはもっと不幸になる。

至福への最初のステップは、ひとつになることだ。ハキム・サナーイが何度も繰り返し強調しているのもこのことだ。―ひとつであることは至福であり、複数に分かれていることは地獄だ。だから何であれ体験的に真実ならば、受け容れなさい。否定してもどうにもならない。否定することで問題が生まれる。そして問題はさらに複雑になっていく。―もともとは単純だったのに。
自分を臆病に感じる。―だからどうした?「私は臆病だ。」それだけだ。要点を見なさい。もし臆病さを受け容れられたら、あなたはすでに勇敢になっている。自分が臆病だと認められるのは勇敢な人だけだ。臆病者にそれはできない。すでにあなたは変容の途上にある。だから一番目は現実に体験されたものの実在を否定してはならないということだ。

ふたつ目の引用は―「それを成就するには、意識はまず、それがこれまで自分として認めてきた固定観念上の複数の自己が、自分ではないと認めなければならない。なぜなら、もしも意識が、固定的で永続的な観念上の自己でありつづけることに固執するなら、この固定的で、観念的で、体面的な自己と矛盾するような、これらの体験上の真実を受け容れる余地はないからである。」

自分はかくのごとくあるべきだという、何らかの考えがあるならば、あなたは、あなた自身の内的存在における体験上の真実を受け容れることはできない。私は勇敢であるべきだ、勇気は徳だ、などという考えをもっていたら、自分の臆病さを認めるのはむずかしい。私はブッダのような人であるべきだ、慈悲深く、それも完璧に慈悲深くなければならない、などという考えがあったら、自分の怒りを認めることはできない。問題を生み出すのは理想だ。
あなたに何の理想もなければ、問題はひとつもない。あなたが臆病なら、臆病というだけのことだ。というのも、勇敢になるという理想がなければ、その事実を批判することもない。―それを拒絶することもない。抑圧することもない。それを永久に見なくてすむように、自分の内的存在の地下室に放り込んだりもしない。
だが、あなたが自分の無意識に放り込んだものは、そこから力をふるいつづける。依然として問題を起こしつづける。まるで病気を内側に押し込めるようなものだ。それは表面化しつつあったのに、そして表面からなら消えてなくなる可能性はあったのに。傷が表面化するのはよいことだ。それは癒されようとしている。というのも、表面にあって初めて新鮮な空気や太陽に触れて、癒されるかもしれない。傷を内側に押し込めて、表面にあらわれるのを許さなければ、それは癌になる。たとえ軽い病気でも、それを抑圧したなら、危険な病気になりかねない。どんな病気も抑圧してはならない。

だがあなたに何らかの理想があれば、当然あなたは抑圧する。どんな理想でもだ。禁欲者になるという理想あれば、セックスが問題になる。それは自分でも観察できるだろう。禁欲者になるという理想がなければ、セックスが拒絶されることはない。そうすれば、あなたとあなたの性欲とのあいだに分裂はない。かわりにそこには交わり(コミュニオン)がある。その交わりが喜びをもたらす。
自己との交わりが、あらゆる喜びの基盤だ。

だから、覚えておくべき二番目のことは、理想をもたないということだ。ちょっと考えてごらん。自分には目が三つあるべきだという理想をもったなら、たちまち問題が生じることになる。あなたには二つの目しかないのに、理想によれば、目は三つなければならない。さもなければ何かが足りないことになる。あなたは第三の目を渇望することになる。そもそも不可能な難題を自分に押し付けているのだから、解決のしようがない。せいぜいできるのは、額に第三の眼の絵を描くことぐらいだ。けれど、絵に描いた第三の眼は、絵に描いた第三の眼にすぎない。それは偽善だ。
理想によって、人々のなかに偽善が生まれる。そしてその馬鹿らしさを見るがいい。理想によって偽善が生まれるというのに、人々には偽善者にならないという理想まであるのだ。あらゆる理想がなくなったら、偽善もまたなくなる。偽善はどうやって存続するのか?それは理想の影だ。理想が大きければ大きいほど、偽善も大きい。

先日、ある人が私に質問した。「OSHO、あなたは偽善者ではありませんか。あなたは快適な生活を送り、美しい家に暮らし、すてきな車に乗って、まるで王様のような暮らしぶりではないですか?」
さぁ、この質問者は「偽善者」という言葉の意味がわかっていない。可能なかぎり美しくいきること―それが私の教えのすべてだ。私は偽善者ではない。それどころか、自分の教えるとおりに生きている。私が貧しく生きることを教えながら、宮殿に住んでいたなら、それは偽善だろう。けれど私は貧しく生きることを教えない。貧しさは私のゴールではない。

生に対する私のアプローチ全体は、全面的に受け容れること、祝うことであり、生を放棄することではない。どうして私のことを偽善者と呼べるのかね?私はこの世で偽善者ではない唯一の人間かもしれない。私にはひとつの理想もないからだ。
私は偽善者になりようがない。私には実現すべきどんな理想もなく、いかなる「あるべき」も、いかなる「あらねばならない」もないからだ。そこにあるのは「ただあること」だけであって、私はそれを生きている。

OSHO:Unio Mystica
<ギリシャで


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