ion tea room

缶入りミルクティー

缶入りミルクティー


「降りて!」
「え」
 左手をつかまれた。そして肩を後ろから押され、ぽんと一歩前に踏み出したら、もう駅のホームに降りていて、わたしを押した誰かの後ろで電車のドアが閉まった。
 いつもなら通り過ぎる駅。わたしが降りる駅まで、あとたっぷり30分はある。何が起きたのか、分かるような分からないような。頭が働かない。
 仕事も終わって、明日は休み。帰りにコンビニでも寄ろうかと、通り過ぎる暗い夜の窓の外を見ながらぼんやりと電車に乗っていた。
 と、思ったら、今降りてしまった。降ろされた。
「ごめんなさい」
 後ろから声がした。
「とっさのことで、何かもう」
 そう。とっさのことだ。
「あんまりだと思って、つい」
 そう。あんまりだ。わたしは後ろを振り返った。
「何なんですか! いきなり降りろって」
 振り返ると、後ろには黒っぽいスーツを着た男の人。ななめ掛けの黒のバッグ。少し長めの髪。わたしよりも頭ひとつ分背が高い。多分、5歳くらい年上だろう。
「離してください」
「ごめんなさい」
 相手がそう言う前にわたしは左手を振り払った。
「電車が行っちゃったじゃないですか」
「ほんとにごめんなさい」
 わたしが乗りたい電車はなかなか来ない。家の最寄りの駅にたどり着かなかったり、たどり着いても倍以上の時間がかかったりで、多分20分は待つことになる。
 そのままわたしはホームの中央よりのベンチに歩いた。電車は待つしかないし、もっと人のいるところに行きたい。
「君の後ろにいたヤツが君に手を出そうとして、ダメだと思って」
「信じられない」
「本当なんだよ」
 溜め息混じりに歩く。時刻表を見ると、次の快速はやっぱり20分待たなければ来ない。
「ごめんなさい」
 後ろから声をかけられた。この人は何度も謝っている。悪いけど、本当は有り難いはずだけど、そうも思えず、無視してたどり着いたベンチに座った。
 しばらくぼおっと、強まった風に吹かれながら反対側のホームを眺めていると、目の前にミルクティーの缶が差し出された。
「なんですか」
 我ながら、仮にも恩人に対して冷たく響いてしまった声。まだ恩人と思うのも半信半疑、というのが正直なところ。
「お詫びというか」
「…」
 わたしは無言で受け取ってしまった。
 ベンチの端に座ったわたしの隣を一つ空けて、その人も腰をおろした。
 ためらいもなく缶を開けて一口飲んで、背中を丸めて頭をかっくり落とした。
「それで、わたしの後ろにいた人が痴漢しそうに見えたんですか」
「…、そうです。僕は君の少し離れた吊革のところに立っていて」
「その人、わたしにすごく近くに寄ってきてたんですか」
「そうです…」
 わたしは頭をあげてミルクティーを一口飲んで、前を向いたまま「ありがとうございました」と、つぶやいた。
 わたしからは痴漢しそうになった人は見えなかったし、電車の中では誰か後ろに立っているな、ぐらいにしか思ってなかった。まだ半信半疑なのは心の中に引っ込めて、おとななんだからお礼は言っておかないと、というなんとも希薄な社交辞令でしかないけど。
「いえ」
 隣の隣に座った彼もつぶやくように応えた。
 ふと思ってホームの時計を見た。まだ5分も経っていない。
 電車が止まった。これは各駅停車で、しかもわたしの降りる駅までたどり着かない。あと何本か通り過ぎるはずだけど、どれもたどり着かない電車。おとなしくあと15分は時間をつぶさないといけない。
「どこで降りるんですか」
「え。僕?」
 そう。あなた。
 なぜかわたしは話し掛けていた。
「あのね…。まあ、ね…」
 なぜか言葉を濁している。
「べつに応えなくてもいいですよ」
 ひっかかりのある言い方。隣の隣に座った彼は少しうつむいて恐縮したふう。
 しょうがないじゃない。どうやっても愛想よく話せるわけもなく。
 しばらく黙っていたままでいると、また電車が止まった。これは急行。この電車もたどり着かない。
 ベルが鳴り、ドアが閉まって電車が動き出した。
「今のに乗らなくてよかったの?」
「行き先違いますから」
「そう。…僕はね」
 彼がつぶやいた駅は今さっき行ったばかりの急行の終点だった。
「は? あなたこそなんで乗らなかったの?」
「いやそれは」
 わたしは初めて彼の顔を真正面から見た。
 なぜか見覚えがある。なんでだろう。
 隣の隣の彼はその後、しどろもどろに耳を赤くして視線を外して向かいのホームを見ながら、また君を一人にしたら変なヤツが現れるといけないし、夜だし、心配で、と言った。
「ふうん」
 わたしはなんでこんな人に見覚えがあるんだろうかと思った。
「コーヒーもまだ残ってるし、それから…」
 わたしはミルクティー。まだ半分以上もある。彼は、ブラックコーヒー。彼の握っている缶を見ながら、わたしもコーヒーがよかったな、と思っていると、強い風にまぎれて、君が好きだから、と聞こえた気がした。
「なに?」
 また電車が止まった。今度も各駅停車。わたしたちの前をぞろぞろと人が通る。
 わたしの言った、なに、という言葉はわたしの口から出たんだろうか。それよりも、好きだからという声は、本当に聞こえたんだろうか。
「…好きだから」
 もう一度聞こえた。
 わたしはあなたを知らないんですが。そう思い、どきどきしながら彼を見た。彼もわたしを見ていた。
「何度も朝とか電車で見かけていて、さ。休みの日とかも見かけたりして」
 なぜかわたしは顔が赤くなるのを感じた。面と向かって好きと言われたことがないことを思い出してしまった。いつもはわたしから好きと言う人だ、わたしは。
「妊婦さんに席を譲ったりしてたでしょ?」
「なんでそんなの見てるんですか」
 何を言い出すんだ、この人は。
「いや、はは…、ごめん」
「べつに…」
 あやまることでもないんじゃないですか、とつぶやきながら、ミルクティーを飲んだ。
 また沈黙。でも、なんだろう。いやではない沈黙。
 また電車が止まった。急行。隣の隣の彼が降りる駅が終点の電車。そしてまた、電車は行ってしまった。
「いいですよ」
 わたしの口から、いいですよ、という言葉が出てしまった。だって、いいと思ってしまった。なんでだかは分かっている。この数分で、この人がどんな人かも分かったと思う。勘はいい方。これは母に似た。
「つきあっても」
 隣の隣の彼が緊張しているのが分かった。
「な、なんでですか」
 なんでって。
「僕のこと知らないでしょ?」
「知らないですよ」
「知らないのに、いきなりって、大丈夫?」
「知らないのはお互い様ですよ。わたしがこんな答え方するとは思わなかったでしょ」
「それはそうだけど」
 あなたが言い出したんじゃない。そういうふうになりたいってことじゃないの?
 とは、とても言えず。また沈黙。
 ミルクティーももう終わってしまうし、電車もあと少しで来てしまう。
「じゃあ、名前を教えてください。あと、携帯とか、メールとか」
 こっそり隣の隣の彼を盗み見ると、耳も顔も赤い。
「それは僕がお願いしたいです」
 そう言って彼は自分の名前をわたしに告げ、携帯電話を取り出した。

 その後、ようやく来た快速に乗り、彼の降りる駅までずっとぽつぽつお互いの事を話していた。わたしの勘はやっぱり良い方で、八割がた思っていた通りの人だった。あくまでも今の時点でだけど。
 彼が電車を降りて、まだ赤い顔をしてメールするね、と言って手を振っていると扉がしまった。電車が動いてもまだ手を振っていた。
 電車が駅から遠ざかったところで、わたしは唐突に思い出した。そして、今までになく赤面し、電車の窓に頭を垂れた。ひんやりと冷たい窓ガラス。
 赤のiPodシャッフル。なんで見覚えがあったのかを思い出した。
 それはやっぱり快速電車で、朝で、電車は混んでいて、彼は赤のiPodシャッフルをスーツの襟に着けて乗ってきた。なんで赤なの? と、頭の中で大声で思ったのを思い出した。会社の昼休みのネタにし、その後も何度か見掛け、その度にお昼休みのネタにしていた。
 あんまり何度も言ったのか、同期に「それはiPodが気になるんじゃなくて、その人が気になるんじゃないの?」と言われた。
 その、つい先週の出来事を思い出してしまった。
 わたしは「そんなたかが電車に乗り合わせただけの人だよ」と、誰もが応えそうなことを言って、ごまかした。
 ごまかしてしまった。
 その事を、いつか言うこともあるのかな。
 赤のiPodシャッフル、次に会ったときに見せてもらおうかな。

[おわり]

2009年5月16日UP





もくじに戻る



© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: