伊勢屋おじさん

伊勢屋おじさん

夏のおもいで

夏のおもいで

脳梗塞で倒れて以来、退院して家に帰ってからも、味覚の点で
何かもう一つ納得しない。
特に匂いの感覚が極めて“鈍”になった事だ。後遺症のなせる
業と諦めてはいるが、年をとって楽しみと言えば旨い物を食う
ぐらいなのに、その楽しみをほぼ完全に奪われた落胆はとても
他人には言えない。

口に入れたり鼻にくっつければ匂いも味も感じるが、飲み込ん
だ途端ゼロに戻る。後味が残らない、食の醍醐味は、そこにこ
そあるのに。
七十年も生きてる間にいろんな物を食べてきた、食卓の料理を
見た時その記憶が甦って噛んでる間だけ味がする、気がするだ
けだとしたら、考えても恐ろしく悲しい現実がある。主治医は
基本的には禁酒禁煙だが、違約の毎日を過ごす自分が情けなく
もある。禁断の酒も煙草も以前ほど旨いと感じない。
後遺症の復讐は、見事に生活習慣病を屠ったのだ。

子供の頃夏になると、必ず蚊帳を吊って寝た。潜って中に入
った時、本麻独特の匂いが鼻を突く。暫く中にいて再び外の
空気に触れた時、あの瞬間の匂い、と言うより香り。これこそ
夏しか味わえない経験である。特に朝まだ蚊帳の中に居る時、
いきなり蚊帳を外されたあの清々しさ、あの空気の味、
他人様は知らず今日も一日、と子供ながらに思った物。
化繊はダメ。本麻の重い蚊帳があの夏を創り出すのだ。

もう一つ蚊取り線香の煙の中で食べた西瓜の味。
仏壇の線香とは違うあの匂いは夏になると必ず思い出す定番で
ある。
母や祖母の顔をおまけに引き連れて。

平成の今、家の中に蚊など居ないがしきりに懐かしくて時々
線香を灯す。女房は妙な顔をするが暗い部屋の中、蚊帳こそ
無いが独りで過ごすひとときは、母や祖母と居た子供の頃を
追想する唯一の自慰だ、それ程蚊取り線香とは伊勢屋にとって
意味がある。
もっとも鼻の方は子供の頃に比べれば障害者並みに衰えては
了ったが……

                  (平成18年 酷残暑)


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