おおくのひとはカネで自由が買えると信じる。嗚呼カネさえあれば!…と。もちろんそのようなことは妄想だ。カネがもたらすものは「不自由の反作用としての自由の幻影」にすぎない。しかしひとはつづけておもう。ああカネがあれば無理も利く、好きな人とも自由に会える、家族をしあわせにも出来る、ふんだんに好きな時間を生きることも出来る、そうじゃないのか? もちろんそうじゃあない。カネは自由を保障しない、カネのちからはそう見せかけるが、それらは欺瞞でしかない。しかし人びとは信じない。資本主義経済こそが自由をもたらす、共産主義は死んだ。イデオロギーがこの惑星のうえを真っ二つに割って冷戦を演じさせた。演じた人間たちはそれぞれに何を信じたのだろう?演じさせた側はいったいなにを期待したのだろう。20世紀の最後の10年間にはじまったふしぎな戦争。湾岸戦争と中東危機とアフリカとユーゴとボスニアにおける凄惨と無惨。隠された悲惨。陰謀だらけの世界秩序。骨抜きになった国連、え?!さいしょからだって??そうかも知れない。死者の数で悲惨の度合いを測ろうとする歴史家たち。『地獄の黙示録』がはじめてカンヌ映画祭に登場したのは1979年5月19日。ロスとニューヨークの劇場でロードショー公開されたのは1979年8月15日。日本で公開されたのは翌1980年2月16日だった。そのときM・ブランド56歳。そのすこし前、1972年には『ゴッドファーザー』でマフィアの大ボス、ドン・コルレオーネを演じ二度目のアカデミー主演男優賞を受けるが、ブランドは受賞を辞退、ネイティヴアメリカンの虐待を非難する声明を出している。we are the hollow men we are the stuffed menか。なるほど、と映画の中のカーツの読み上げる詩を勝手にわたしは読んでしまう。hollow men stuffed menすなわちHolly-wood menかアと。そんなことは断じてある、フランシス・フォード・コッポラとブランドなら。そう思う。