沖縄自治研究会

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第3回定例研究会 上


1.沖縄における自治の基本原則(ファシリテータ:前城 充)
2.国との関係(ファシリテータ:藤中寛之)
日時  2004年11月27日(土)
場所  文系総合研究棟703


○ 前城充氏   皆さんおはようございます。自治の今日は研究者がいません。G2グループの方を中心にやっているんですが、その中で「沖縄における自治の基本原則」をやりたいと思います。

 レジュメは、私が作った自治の基本原則のものと、先週今井照先生の講義で使ったこの資料を使います。

 今日はレジュメの1ページの方にある基本原則の(1)~(6)の中で波線を引いてあるところを中心に議論を深めていきたいと思います。

(1)のほうでは憲法で謳われる地方自治の本旨というものがあります。これに基づいてこの1貢は作られていますが、この本旨とは何なのかという学習も含めて再度皆さんで検討して、これを頭に入れた上で(2)の独自性のある地域社会を樹立しという、この独自性があるというところが沖縄にどのように関わるのかという意見を出してもらい、(3)は住民は地域の将来について決定する権利を有し、かつ責任を負うと書かれています。このあたりも確認して行きたいと思います。あと、(4)~(6)は自治体の責任について書かれていますが、これらはモデル条例の方である程度議論していますので、ここは時間があれば進めていきたいと思います。他に何か議論の論点があるかどうか提案があれば今聞きたいのですが。どうでしょうか。


○ 藤中寛之氏   憲法95条の関係は・・・


○ 前城充氏   あれは、決定をする際に、住民投票をするときにどれほど住民が感心を持ってこの取り組みに挑むのかと。95条は過半数でしたよね。有権者の過半数ですからかなりハードルが高いんです。そのあたりは県民が認識しないといけない、市民参加というのがでていない限りいろいろ議論していても過半数を取れないだろうという話なんです。このあたりも踏まえて議論していきたいということですね。

 他に何かありますか。なければ進めていきたいと思います。

 では基本原則を森田さんに読み上げてもらいます。お願いします。


○ 森田幸谷氏(読み上げ)
(1) 憲法で謳われる地方自治の本旨は、国から独立した法人格を有する地方自 治体の団体自治と地方自体の主権者である住民による自治をあらわしており、この趣旨に反しない限り憲法は地方に特別な権限を付与することを禁止していない。

(2) 住民は、その地域の福祉、環境、安全および文化を保持するとともに、独自性のある地域社会を樹立し、その発展を目的として、住民を真の主権者とする自治体を設立する。

(3) 住民は、地域の主権者として自治体運営の企画、立案、実施及び評価のそれぞれの過程に直接または間接に、積極的に参加し、その地域の将来について決定する権利を有し、かつ責任を負う。

(4) 自治体は、地域住民への行政サービスの向上のため、地域における事務を自主的かつ総合的に行う権能を有する。

(5) 自治体は、その運営に当たっては住民の声を最大限尊重し、民主的かつ公正・透明で効率的な運営を心がけなければならない。

(6) 自治体は、その行う事務事業に関する企画、立案、実施及び評価のそれぞれの過程において、住民と情報を共有し、かつ、住民に対して分かりやすく説明する責任を負う。


○前城充氏  ありがとうございました。
第1貢のほうに書かれている地方自治の本旨というところの説明を私の方で読み上げます。2ページのほうです。住民自治と団体自治を意味していますが、読み上げながら、そのあと皆さんと意見交換していきたいと思います。

〈地方自治の本旨〉 
憲法92条〈地方自治の基本原則〉
「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基づいて、法律でこれを定める。」
 日本国憲法第92条は「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基づいて、法律でこれを定める。」と規定しています。この「地方自治の本旨」が何を意味するかについて、政府の公式見解はこうなっています。「地方自治には二つの要素がある。住民自治と団体自治である。住民自治は、その地方の地方住民の意思と責任にもとづいて処理するという考え方であり、団体自治は、国から独立の法人格をもつ地方公共団体ができるだけ国の干渉を受けないで独立的に地方行政を行なう方法を意味する。」(1964年6月5日衆議院建設委員会での佐久間彊自治省行政局長答弁要旨)公法学界の通説でも大体同じです。

 住民自治と団体自治に加えて、第3の要素として「補完性の原則」を「地方自治の本旨」を構成する原理として強調する有力な学説があります。「補完性の原則」とは、住民に一番身近な市町村に最優先して事務配分をすべきであるとする考え方です。旧くは1949(昭和24)年のシャウプ勧告にも見られますが、近年では1985年にヨーロッパ評議会閣僚委員会で採択された「ヨーロッパ地方自治憲章(European Charter of Local Self-Government)」の第4条第3項(「公的な責務は、一般に、市民に最も身近な地方自治体が優先的に履行する。Public responsibilities shall generally be exercised, in preference, by those authorities which are closest to the citizen.」)にも明記された考え方です。

(1)団体自治:国家の干渉を受けず、地方公共団体独自の立場で方針を決定し、運営する。→憲法第94条「地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる。」
(2)住民自治:地方公共団体はその住民の意思によって運営されている。→憲法第93条「地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する。

ということになっています。とりあえずこの1ページだけを読み上げて、今この92条の解釈の中で「住民自治」と「団体自治」というのがあって、そのあたりはある程度読み取れるんですが、第3の要素として出てきている「補完性の原則」、これが現場の地方自治体の中で大変曖昧な解釈で取り扱われています。これは先週の今井先生でのお話でもでてきましたけれども、第1に「補完性の原則」とは主権に関わる政治参加の論理ですが、ここでは単に行政サービスの提供主体の次元としてしか理解されていません。というこのあたりなんです。南風原町の計画にも出てくるんですけれども、サービスの提供主体としての理解しかされていません。

これは具体的に言うとよく言われるのが、個人でできるものは個人でやって下さい。できないものは家族、できないものは地域で、地域でできないものは行政に上げましょう。行政から県-国とかいうものはできます。この中で今井先生がおっしゃっているのは第2に補完性の原則とは民主主義の論理ですから、民主的な意志決定機構の存するところに成立する概念ですといっています。ですから、行政機構の中でしか発生しないという話をしているんですが、今現場では個々の業務の分担まで解釈されていて、このあたりが曖昧なんです。私もこの辺はどうすれば良いのかわからない所なんです。このあたりはどうなんでしょう。鉄美先生、補完性の原理というのがこの第3の要素として解釈の中に入ってきているというのは、我々もしっかり押さえておかないといけないところなんですけれども、これは元々ヨーロッパから来ている考え方なので今井先生が言っていることが筋論であたっていると思いますが、このあたりはどうでしょうか。


○高良鉄美氏   私も「補完性の原理」の捉え方というのはそこが重要だと思います。事務処理のレベルでというような行政サービスのレベルと書かれていますが、やはりそういったレベルで捉えられているのが本当に現場の所だろうと思います。ですから普通の行政サービスという視点で見ると、事務の吸い上げみたいなものが起こってくるんだと思います。そうではなくてもっと住民自治と団体自治というものをそのままきちんと活かすという意味で「補完性」というものがあると思うんです。
憲法の中でいうと「補完性」そのものが地方自治の本旨の最も基本的な部分だろうと思うんです。要するに元々住民がいて、主体として動ける場所はどこなのかといったら一番近い自治体ということだと思うんです。ですからその点で「補完性」というのはより住民が主体で動く範囲というものを協調しているということだと思うんです。やはり統一というレベルから見てみるとどうしても明治時代の地方制度のような感じで、最初から上からできないという自治というものを見ていかないという部分がありましたけども、今の場合は地方自治の本旨というのをより根本的に理解するための原理として「補完性」というのはあるんです。住民自治、団体自治というのは当然の原理としてあるわけですけれども、それを更に補完性の原理の上に立って住民自治、団体自治はあると。

 簡単に言うと、憲法の原理の中で「民主主義」という言葉はそのまま出てこないんですが、「民主主義」というのは当然原理としてあるわけでしょ。ですから「補完性の原理」はそういうものだと思うんです。その捉え方でやるべきだろうと思います。


○佐藤学氏   松下先生が「補完性の原理」と最初に言われていたのは、そもそも決定への参加で、基本的に近いところから決定権があって、そこでできないところは住民から遠いところへ、移してやっていくという原理だったのが、今はとにかく政府の仕事を減らさなくてはいけない、だから政府がやらなくて済む事はどんどん減らせという方向の話になっているわけです。もっぱらなるべく民間で、個人でやれと。どれだけ減らして行くかという根拠として「補完性の原理」が強調されている感じがします。意味合いが変ってしまった。自分の目の及ぶ範囲で、自分で決定できるところ、一番近いところで多くの責任を負うということよりは、各層の政府の仕事を切っていく上での正当化の理屈としてのみ、今使われている感じがします。今井先生がおっしゃったことは多分、その辺の違和感を指しておられるのではないでしょうか。そうした側面があるのは確かで、アメリカで「補完性の原理」とはいわないと思うんだけど、金勘定でやっていくというのがアメリカ的な考え方で、それを完全には否定はできないですし、大事なことでもあると思いますが、そればかりになているのが今の議論だと思います。


○前城充氏   佐藤先生がおっしゃっているのは、現場で実際に起こっていることです。
行財政改革というものをどの自治体もやっていて、そこで頻繁に行われるのがそれです。自分たちがやっている仕事の中で財源がないからどうしようとかという事で、これは切り捨てよう、削減しよう、廃止しよう、そして住民に任せようという一方的な行政の考えなんです。住民の声は聞いていない。主権者は誰なのかといったら住民なんですよね。住民が必要としているのか、住民が必要としていないなら決定権は住民にあって行政職員ではないというあたりを、はき違えて理論の根拠とされているところが危うい所なんですね。このあたりは今井先生もおっしゃっていて、自治の本旨が生かせるところであれば、住民がこれは増税してでもやるべきだということが理論的にはあり得るんだということですよね。決めるのは住民なんだと。住民に決めるだけの情報を提供しているかというのが問われてくるのであって、それを頭の中でそういう知識もないままパサパサと切っていっている状況がおかしいんだという理論的な話をしていたと思うんですね。

 もう一つは、学先生の講義を聴いて、自治体を作っていく上でアメリカという国は、最初ヨーロッパから人が移ってきてそこである程度の規模の団体になったときに、統治機構が必要だからそのために代表する機構を作りましょうというのが最初で、そこで税金の徴収などを決めて、そこで住民に拘束力が発するのが第1の行政主体、それでまた人口が増えていってこれでできないものは、ちょっと大きな県レベルでやってもらいましょう。そこに税金を払いますから、そこで統治して下さいという話になっていくのかなという、これが「補完の原理」かなと理解したんですが、このあたりはどうですか。


○佐藤学氏   アメリカでの学校の作り方は、それこそコミュニティで学校を作らなければならない。親が教えていくのが無理になってきたときに、小さな建物を一軒作って、誰か雇って子供を教えてもらいましょうということで始まった学校なんです。一般的な地方制度、自治体というのは、アメリカは州が最初にあったところですから、考え方としては今でも市町村レベルの自治体がない地域がいっぱいあるわけです。そういうところが宅地開発されて、原野だったところに家ができると、incorporateといって、初めて自治体を作ることが普通に行われているんです。必要に迫られて作られた形というのは、自治体にしろ学校にしろ残っているんです。日本の場合ではそうではなくて、端っから全国的に国の政策として作られて、小学校にしても、国の政府が制度を作ったわけだから、初めから話の向きは逆ですよね。そういうところで「補完性の原理」が、実に便利な行政の都合によって削減する、しないの便利な正当化の理屈として使われている面があるのではないかと。少なくとも、住民にとって何が必要か、必要ではないか、ということは住民側からの発議がなければ「補完性の原理」にはならないはずですが、それは無しで便利な言い訳で使われている点が、前城さんが言っている危うさということなんだろうと思います。個々から始まってという志向性がないところに「補完性の原理」を接木しているわけです。権限をとってしまって単に予算の削減のための正当化として使われている気がします。


○前城充氏   「補完性の原理」次のもう一つのテーマである「市民参加」にも直結し
てくるのでここにもつなげたいのですが、今の議論の中で何かありますか。


○ 玉城和宏氏   お話を聞いておりまして思うのは、民主主義ですよね。主権はどこに
あるかというと住民ですよね。住民が構想するというのが基本ですよね。自分たちの生活とかいろんな行政サービス等は本来どこにあるべきかというと住民のサイドにあるべきであって、それが日本全国の共通の部分は国が管理していて、地域ローカルな部分で管理しているのは地方公共団体であって、さらに市町村レベルまで落ちてくると。それで僕はこの「補完性」の話を聞いたときは、彼らに与えておいた権限以外のものが住民の中から必要として発生したときに、住民が率先してそれを補っていくと。つまりより局所的な部分になると全体的な市町村レベルまでいかなくなるわけです。そうすると地域の住民たちが自分たちで補完することになると僕は捉えています。だから各役所の方たちが自分のサイドから補完というのを見ていたら、自分の仕事を楽にするという発想で補完という言葉を使っている。政府がかなり予算を浪費してしまったから、地方行く予算をあげるのをお前ら勝手にやって補完してくれよという言葉の使われ方というのは、私自身の感覚では非常に違和感を感じます。民主主義という原点に議論が乗っているのならば住民が中心であって、憲法でもカバーできない、地方公共団体の行政の政令でもカバーできない。地域に独特な問題が発生したときには住民が主体的に考えて、これに対する規則あるいは慣習などいろんなものを適用しながらやっていきましょうというのが本来の補完、つまり主体は住民に対する補完なんです。


○ 前城充氏    ここが次の住民参加につながる一つの分かれ道なんです。曖昧なレベルがあって、
今おっしゃったものが別に行政に拘束されないで住民で解決できることが地域にはいっぱいあるんです。そこは税金も必要とせず地域の横の連携があればできるものがあるわけです。ここは「補完性の原理」という言葉は使わずに、今理論的に使われている「補完」という普通の言葉ですね、補い合いましょうというこの言葉を履き違えたらだめなんですね。「補完性の原理」というのは統治機構にあたる概念なのでそれはおいといて、補完という言葉を言い換えれば「補う」、「協力し合う」という言葉でいいんです。その辺のあたりまで「補完性の原理」という言葉を使ってきているからあやふやになってきている。通常の普通の解釈で言えば、地域のコミュニティというのは地域の話し合いで解決できるというものがいっぱいあって、もっともっといい地域にしていくこともあるし、税金ではなく、町内会の中での負担金、年会費などの運営で回っているのもあるし、そのあたりには行政の権力の及ばない本来の地域力で賄っているところがあるんじゃないかというところがあるんです。


○ 玉城和宏氏   主体を住民に考えたら、住民が足りないものを自分で補完したい、自分のほうに補完してほしいという、主体を住民を基本にして補完というものを考えれば、住民が補完してほしいと思うわけですよ。国や行政が補完してほしいと思うことは本末転倒であって、住民が補完してほしいと思う。さっき言われたように、主権、積極的参加、住民の中の地域認識より、例えば、これが不足しているから補完してほしいとい、それで行政もお手伝いできませんか、というのが本当の補完だと思います。主権ということから考えれば。


○ 佐藤学氏   確認したいのですが、例えば自治体職員の中で「補完性の原理」とい
う時に、それはどういうふうに理解されているのでしょうか。補完という言葉は役所の仕事を住民が補完しなさいと考えているのか、建て前としての「補完性の原理」という理屈だけは少なくとも理解しているのでしょうか?


○ 前城充氏  補完性の原理の概念ですか?概念が理解されていません。


○ 佐藤学氏  されていないんだ。だから今指摘されているような考え方の補完という
言葉が出てきたときには、役所の仕事で足りないところは住民が補完しなさいという発想にとられているという可能性は本当にあるわけですか。


○ 前城充氏  上から下ですね。下から上というのはないというか、今の行財政改革の中
で使われている限りでは上から下ですね。


佐藤学氏 そもそものヨーロッパにおいての補完性の原理とは何かという建前上の理解も徹底はされていないわけですか。


○ 前城充氏  はい。知っている職員も少ないと思います。


○ 佐藤学氏  そうなんですか。わかりました。


○ 玉城和宏氏  やはり基本は民主主義というその言葉の原点に戻ってほしいと思います。私は素人ですけれども、素人の目からはどう見ているかというと、住民が基本だと思っているからズケズケ言っているわけです。住民の生活の豊かさを求めてそれを全部サポートしていくのが行政であって、国であって、搾取する側としての国であってはいけないはずです。


○ 高良鉄美氏  ここで玉城さんがいわれたような「補完性の原理」の部分をきちんととっておくこと
が結局自治構想の全体の根本にあるのもだと思うんです。現場で理解されているものとは違って原理的なものからこうなんですというということをきちんと確認して、そういうものに沿って一つ一つ項目というものを考えていけないということなんです。

 さっき前城さんが言ったように上からきている補完性ではなく、下からきている補完性というものが本来のものなんだということをちゃんと言って書いておくと。現場ではこうなっているという理解も捉え方をはっきり分けるために書いておいたほうがいいと思います。現実上、事務上で言われている理解はこうなっているけれども本来はそうじゃないんだということをきちんと解説内にでも書いて確認した上での原理に基づいた、第一条からある項目はすべてそういう形に根本にのっとって行うという。

 それから自己決定というのがありましたが、個人の部分から全部発していると思うんですよ。個人の自己決定権というのは強いて補完性という形から見なくても、少なくとも市町村レベルの住民であるあるいは都道府県レベルの住民であるけれどもしかし国民でもあるといったときに、国民のことは知りませんではなくて、どこのレベルにあるとしても自分は主体なんですよというのを確認しないといけないと思います。国のレベルであっても下からということを確認しないといけないと思います。


○ 野原氏  ちょっとよく分からないのでお答え願いたいのですが、今の話の内容はわかるんですけれ
ども、住民のほうに主体がない補完性の原理は行政の中でそういう認識、行政の中では住民側が主体じゃなくて行政側が足りないものは住民にしてもらうんだという認識の逆があるみたいな話をしてくれていたんですが、どうして行政はそういうふうな発想をしてしまったんだろうという素朴な質問なんですが。単に勉強不足なのか、行政側の別の何か企てか都合があるのか。さっきの話だと、予算の問題がある都合で原理的に使っているっていうんですけども、それは非常に幼稚な理屈の使い方であって、もしそういう理屈で使っているのであれば悪意として使っているとしか考えられないわけですよね。私の考えですけれども、悪意として使っているよりも、行政的なシステムで何かねじれて大きな問題がかくれているのではないかなと思っています。


○ 前城充氏  今日は行政職員がいっぱいいるので。では浦添市からどうぞ。


○ 比嘉敏雄氏  やっぱりそれはお上意識ではないかと思います。それは明治以来のこと
なのかどうか分かりませんが、とにかく役所がやってあげているんだよという気持ちが無きにしも非ず。ですから日常の業務の中で感じることなんですが、やはり教えてあげているんだよ、何であなたたちはそのぐらいわからないのかという意識が蔓延している。悪い意味での持続というものがあって、補完というのはやってあげているんだという気持ちが強い感じがします。必ずしも予算云々だけではなく、自治体の体質的なものが継続されているような感じがしました。日常的にはあまり感じないのですが当たり前のことと思ってやっているんですけれども、お恥ずかしいですが、やはりまだその体質が抜けていないという重いです。


○ 新崎盛幸氏  沖縄市の職員の新崎です。私の目から見た限りなんですが、今は行財政
改革が三位一体の影響でもろに自治体にきている状況なんですけれども、今補完性の原理というのは、この中で話があったとおりのことだと思われるんですね。やはり役所の体質もあるんでしょうけれども、三位一体の影響で予算結構厳しくなっているというのが大きな引き金になっているといえると思います。

行革が前兆的に旗振りされて、そこで議論されるのもコストパフォーマンスの話ばかりなんです。そこでは何が削れるかの一点で、住民がどういうようなサービスが必要なのかという議論は一切ない。今の行革に対抗するのはかろうじて労働組合ですが、しかしそれは職員の労働組合なので職員の職場環境からしか対抗していかないというような状況で、肝心な住民のニーズなどは行革の中に一切反映されていないんです。これがある程度まとまってからしか議会には投げられないので、唯一議会で住民の視点からの声が上がれば救いはあるんですが、そこも素通りしてしまうとはっきり言って行政再生が将来どうなるかは見えない。そういう状況からすると、この財政に合わせたサービスをどのようにスリム化するか、その一方でしか物事が進んでいない、誰もブレーキをかける人がいない。ですから、行革というのは自分たちの事業とか組織をスリムにしていくというような発想で進むものですから、実際これは住民に投げて、要するに行政組織内だけの話ではないですよね。住民にこういう財政です、こういう状況ですというのを全部投げて、本当はここ何ヶ月かで片をつけるような話ではないと思うんですよ。しかしそれを1年何ヶ月かできりなさいとかいう話になってきているものですから、もしかしたらこれは住民に必要なサービスなので市町村税を上げてでもやってくれという議論も出てくるかもしれませんが、実際そういう投げ方行政のほうからはしていないし、また行革に携わる職員もわずかな人数で行政全般の事業を切る作業をしていて、これだけでも結構な労働力なので、住民の方に目を向ける余裕すらないと思います。これは私が見た限りの今の役所の現状です。


○ 野原氏  役所の体質だとか、歴史的な体質がひきつがれているとか、予算の削減の中
でそこから何を削っていくかという議論しかできない状況があるということなんですが、お二人のお話を聞いていると結局のところ、補完性の原理というのは自治、民主主義の原点に関わることだということを聞いて痛切に感じるんですが、自治体にそれを認識してもらってそれを変えるというのは無理だなと正直感じました。体質が変わって彼らがそういう考え方を原点から見直しできるかというと無理ではないかなと。では、何ができるんだろうと考えていたんですが、可能性としてはもっと地域住民に自治そのものの会話をする必要があるんだろう、これ以外に方法がないんじゃないかという気がするんですね。会話をするって何ってなると、これからまた議論が含まれてくるんだろうと思うんですけど、一つは情報の開示ということがあるんでしょうけど、直接に開示するだけではなくて住民が自治に対してどのように関わっていくかをここで議論する大きな意味があるのかなと私は改めて確認したんですね。道州制の中で沖縄の自治をどう獲得するかっていうのは日本からという形ではなく、沖縄の自治ということでどう盛り込むかということはすごく重要な意味があるんだなと、改めてお二人のお話を聞いて、やっぱり無理だなという感想ですね。


○ 前城充氏  野原さん、今聞いて頂いて無理だという結論をだして頂きましたが、少し
希望を持って頂きたいと思います。やはり、何度もニセコ町の話を持ち出して申し訳ないんですけども、ニセコも10年かかっていますけれどもやっとあるべき姿の第一歩、第二歩を進んでいるんじゃないかと思っていて、ここがやはりキーワードで情報の質と量の共有をずーとやって、やっと役場職員の意識が変わりつつあるという話と同時に住民の意識が変わりつつあると。その中で彼らが次のステップに移っているのが、町の予算の1%を住民に決定して頂くと、住民がやりたいということを決めて頂いてそこで政策に持って行くという話に移りつつあるんですよ。ここもやはり住民自治という観点がないとそういう政策も取れないだろうし、そういうものを沖縄県内の自治体がまねるとしてもそんなのはまず無理なので、進む過程があるのではないか、無理ではなくて何か可能性があるところは全国でも先進自治体がやっていて、道はあるのではないか、そこがあるから我々も希望をもって今取り組んでいるので、その辺は少しご理解頂きたいと思います。


○ 高良鉄美氏  お話を聞いていて、確かにいわゆる行政側の都合とかいろいろなものが入っているけ
れども、でもやっぱりいわれるというか、そういうのにつけ込まれるといったら変だけど、そういう状況が住民にあるから、住民そのものが自治をやってこなかったから、そういう補完性を逆をしていってもあまり問題にならないと言ったら変だけども、住民に本来のものを戻すということが一番大事な事だろうと思います。もともと自分たちでやるべき自治の問題というのを自分たちでほっといたわけだから、そこに問題点があって、それを本来自分たちがやるものをやっていたのであれば、予算の問題などであまりつけ込まなかったんだろうと思います。余りにも行政任せとか、どうしても強かったから、ずーっとそれまで来たからそういうような部分というのがあったのかなと。だから主体の業務としていろいろやっているだけの問題ではなくて、今上からの線の問題があるけども、下からの問題もすごくあったから、それが一緒になって今の問題が起こっているんだろうと思います。本来、自治も独立も同じ意味ですよね。どっちもdependentしていないということですから。そういう意味で、自治を戻すというのは言い言葉だなと思いました。


○ 佐藤学氏  そもそも上下という言葉遣いにもの凄く批判を浴びる可能性がありますね。
一年前に行われた松下先生の講演でも、松下先生が黒板に、国と自治体の関係の図を、上下に書いたことを批判している方がおられたじゃないですか。上と下という言葉を使う自体が問題だとは思わないんだけどやっぱり頭の中に染みついたもので、国が上で県があって市町村があって住民が一番下見たいのなのはやっぱりあるんです。最初のご質問に戻れば、歴史的に権力機構の末端を担っているという意識がまだあると思い、それで無理じゃないかというお話で、私も無理じゃないかと思うことが多々あるわけです。県の事務事業評価委員会で、県の仕事の話を伺っていて、やっぱり無理じゃないかと思うわけです。コストパフォーマンスという言葉が出てきていましたが、パフォーマンスって何かと言ったならば、本当はかかったコストに対しての住民の満足度がパフォーマンスのはずなのだけれども、パフォーマンスというのはあくまでも予算をどれだけ執行できているかという話に終始してしまっている。だから、とにかく予算を守るという話で終わってしまう。本当は、自由な発想で、真の意味のパフォーマンスを高める議論をしたいのですが、予算死守の話になるのを見ると、無理じゃないかと思ってしまう。

 反面、前城さんがおっしゃったように、長い時間かかってできた文化なんだからそれを替えようと思えば長い時間かかるに決まっているわけで、それを今諦めてしまうのは早すぎるような気もします。希望はあるはずです。

 自治を戻すという話で、14年前のアメリカでの下院議員選挙で共和党が勝ったんですが、彼らはどうやって多数議席をとったかというと、連邦政府はいらない、政府は悪であるというイデオロギーで選挙に勝ったはずだったのです。とにかく徹底的に連邦政府を削るということで、翌1995年にクリントンと予算で対立したわけです。両者とも妥協をせず、連邦政府を実際に閉じてしまったんです。連邦政府の仕事ができなくなってしまったわけです。お金が使えなくなる、予算が切れて次の予算が立てられなくて、それで、下院共和党は、自治を取り戻すみたいな展開を期待したわけです。もう連邦政府はいらないんだと。無くても国民生活は困らない、だから政府は無駄だという証明ができると期待して、実際に閉じてしまったわけです。それで3,4日機能が麻痺してしまったんです。ところが、これを境にして共和党は勢いを失い、クリントンが盛り返して、クリントンは94年の選挙結果で、もうダメだ、再選の見込みが全くないと言われていたのが、共和党が行き過ぎた事をやったせいでクリントンが復活して翌年の96年の大統領選挙に勝ったわけです。

 その連想で思ったのは、実際に県、市町村を閉じてみたらどうかと。仕事をしないんです。仕事をしない時に、本当に何が必要なのかが見えてくるのではないか。県は県で、絶対自分の仕事は県民に必要だからやっているつもりじゃないですか、市町村だってそうじゃないですか。本当に閉じてしまったら、困る事というのは絶対に出てくるはずです。それを基礎にする。逆療法をやるのは良いのかも知れない。それでもう一つ思ったのは、難波田さんが前に発言したことで、福岡の赤池町でしたっけ。財政再建団体になったところで、どうにもならなくなっていろんな無駄を切りつめていったという話があって、それで再建が成功がしたと。それで、難波田さんは、何がいけないんだという発言をされたじゃないですか。自治体がどうにもならなくなって再建団体になる。要らないことを切り詰めてやっていくきっかけになっている。その発言が非常に強く印象に残っていて。本当に何が必要なのかということを見るために、市町村と県を一度みんな閉じてしまいたい。そういうことはできないのはわかった上で、ちょっと思ったんです。


○ 野原氏  まず結論で先にいうと、今の地方自治を任せても無理じゃないかという感想は相変わらず
変わっていません。では、どうするかという話になってしまうんですが、今のお話を聞いていて、一つには、住民の方も住民が参加するという枠組みを自分たちは持っていないんじゃないかなと。地方自治の方が上から下みたいな形になっちゃっているというのは、我々自身、住民の方もそこに参画していないという意識が一緒にあるんだろうと思います。ですからそこも替えない限りに置いては、その補完性の原理みたいなこと、住民自治の本質に戻りきらないだろうということも含めてやっぱり改めて無理かなと思ったんです。つまり住民の意識も変えない限りは、役所の意識だけが変わっても無理だろうと思うんです。住民の意識を変えるということは大きなシステムの変化になっちゃうのでこれは大変なことかな。やはり無理かなと思っちゃうわけです。それで結局どうなるかといったら、今話したように、いろんな役所の業務そのもの、あるいはシステムを住民の方にどう戻してしまうのかということ以外に方法はないのかなと考えてみたんですが、もしかしたら行政のシステムそのものに問題がないかなと非常に勝手な考えをしたんですが、つまり国の行政レベルのシステムと、県行政、地方市町村のレベルというのが、今殆ど同じようなシステムを持っているわけですよね。行政があって、議会があってという形を。国から県、市町村も全部持っているわけですね。ですから、議会があって行政レベルがあってという形のいわゆる三権分立かどうかわかんないんですが、そういうあり方そのもののシステムが、せいぜい県行政レベルぐらいでストップして、市町村レベルではシステムを変えざるを得ないという気がします。議会があって、行政がそこで何かやり合っていくというやり方ではなくて、市町村レベルは新しい自治としてのシステムを考え出さない限りに置いては戻せないんじゃないかなという気がしているんです。改めてそういう意味で含めて、今のシステムをそのまま1%を住民の人に考えてもらうということをやっても、結局はそんなに進まないだろうし、結局は大きく変化しないんじゃないかなと、元々はそこに原因もあるような気もしますし、国・県の行政システムをそのまんま降ろしていることに大きな問題があるのではないかなという気がしています。


○ 比嘉俊雄氏  弁解ではないんですが、今まで行政こうだったから無理だというような発言がありま
したけど、その無理をどう改善するかということで私はこの研究会に参加させてもらっています。ただその中で、前までは役所の方で直ぐやるかというのがあったんです。住民が何か支障をきたした場合、直ぐ電話をして早く役所の職員は来なさいと、それで職員はのこのこと出かけていったんです。溝が詰まっている、猫が捨てられている等、本当にたわいもないことを役所に全部させていたと。しかもそれが、役所自体からも一つの住民サービスということの発想でやってきたわけです。だからこれが今、見直されてきていて、住民ができることは住民でやって頂きたい、そして役所ができることは当然役所がやりますという形になりつつあるんじゃないかなと思います。ですから先程お話があったように、一旦は、全部打ち切って住民に投げかけてしまうという手もあると思うんですが、やはり自治体としてはまさかそんなことができるわけはないわけでして、それが自治体の民主主義の学校といいますか、自治体から民主主義が到達していく過程にあるわけですから、そこは行政に働くものと住民とがそういう意識を持てるような方向への行政のあり方というのが求められていくのではないかなという感じをしています。


○ 玉城和宏氏  お話を聞いていて、現実と理想の乖離という話が出てくるのですが、基本的にこういう議論をするときに、未来がないという話で全部終わってしまったら大いに結構なんだけれども、そうはいかない。やはり比嘉さんもおっしゃったように、上意下達の命令がただ単に上から下にスムーズに流れるという行政機構を、我々は戦前に作ってきており、住民に対しては志向させない、考えさせない。単に手となり足となりという方法でしかやってこなかった。そういう流れで、もし、道州制、県のレベルまでやって、それから市町村レベルをなくしたら、住民がもう一度民主主義を復活させるようなチャンスがなくなると思っています。やはりここが一番重要なポイントで、特に沖縄や北海道など、住民の意識がある程度高く自立しているところが少し残っている。そういう民主主義の原点を潰すような方向性が少し見え隠れしているように思います。行政サイド、住民サイドにおいて何が基本かというと、認識が改まっていないんです。マインドコントロールを全部受けているとしか思えない。民主主義の原点というのは自分達で自分達の未来を切り開いて、自分達でいろいろ考えましょうというのが一番初めの認識です。だから補完という言葉も自動的にそこから出てくる。だけど行政の上意下達の流れの認識で、お金も自動的に流れていく。足りないときは国の補完で、それもできないときはカットしなさいという発想になってしまいます。それでは自治ではないでしょう。やはり何が重要かというと、人間の自由意識、行政サイドも住民サイドもそう。そうすると何が重要かというと教育です。長野県の田中知事が地方の市町村のあちこちまわって話し合うという啓発の努力。これをやらないと何も起こってこない。ここ日本に関しては、全然主体的意識が見られず、住民がみんな死んでいる。ただ単に飼い殺されている。変革の機会はチャンスなんです。そのチャンスを自分たちがどのくらい自由意志で発想しているかそこをまずずっと見ていて欲しいと思います。それが意識の上での基本だと思います。


○ 前城充氏  先程、野原さんの再質問の中でのこれまでの議論の中で大変重要なポイン
トになってくるのが、今我々が議論しているのは道州制あるいは県レベルの自治基本条例に向けての議論です。道州制をする場合、憲法95条を使うという前提で今話していますね。その中でやはり住民の半分以上がそれに賛同しないといけないということは、関心を持たないといけないということなんです。ここが大きなハードルなんです。いくら議論していってもこれが全然県民の関心も呼ばないという話になってくると、全然前が見えないわけなんです。

そこで、自治に関して大変重要な所なのでみんなで共有していこうということで今日になっているんですけれども、その中で先程野原さんが提案していたのが、国、県、市町村も同じ行政機構で運営しているという中で、一つ示唆になるのが去年志木市が提案された、国に改正を要求したシティーマネージャー制度なんです。最初はこのようなことができるの?という感じを受けたんですが、よくよくみていると、志木市はしっかりした議論もした上で提案してきているというのがわかって来たんです。議会を最大の住民参加であるとし、住民参加を制度化したのが議会であるという認識をもって捉えると、彼らが言っているのは全うなんです。議会の中から選ばれた方々の中からシティーマネージャーを一人選んで、5つの部があればそこの一つに議員に入ってもらって、行政運営を一元的に管理してもらうという発想です。これはやはり住民参加が成熟してくればくるほど、可能な事なんだろうと思ったりするので、今の首長と議会がガチンコで議論していない現状を見ているとこれはやはりおかしいわけです。委員会に持って行って、委員会で議論して本会議に持っていって決めるという。住民の代表である議会が本来議論する場で議論していない。議論している場が住民にも見えないから密室で全部決められている。議事録は残していますよといいますが、議事録を見る人もいないですし、そもそも平日に議会をやっている事自体、住民参加という視点がない。土曜日にやりなさいあるいは、夜やりなさいとかって試験的にやっているところもありますけれども、そこをやってみたところは、全然住民が見に来てくれない。やはり議論がガチンコじゃないからだろうと思ったりするわけです。

宮城県知事はそういうものはなくて、事前の調整はナシでその場で議論を戦わせているので傍聴も増えているという話を聞いたりするわけです。そういうのを考えてみるとやはり、行政機構というのも国、県、市町村も同じものでやっていくというのは無理があるんじゃないかなという所も、野原さんが指摘したのは考えていくべきものではないかなと思ったりします。それをこれまでは、行政職員は法律・自治法で決められているからということであきらめているところがあるんですけれども、これは変えられるんだということがやっと最近、わかってきた、気付いてきたんです。

志木市が何度も訴えているように、国に対して法律・自治法を変えろと訴え、実際に制度調査会も検討に入っているわけです。言えばやはり変えられるんだと、理論をしっかり持っていればできるんだと。これは住民にもいえることだと思うんです。住民の方から変えてくれと言うものが出てくると、行政もわからないところがあったら、気付かされる部分があるわけですから、そういうので徐々に変えていくことも可能なんだなということが、最近やっとわかってきたというところです。

本当にすみませんが、行政職員というのは私も含めてこれまで自治論の勉強をしてきていないと思います。

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