沖縄自治研究会

沖縄自治研究会

第2回インタビュー 上


日時:2003年11月4日午後1時30分から午後3時30分(2時間)
ところ:第12森ビル 下河辺研究室
インタビュー対象者:下河辺淳
インタビュアー:江上能義、眞板恵夫
記録者:眞板恵夫
※、発言者の敬称略


●大城守氏について

江上:先生、前回、おっしゃっていた大城守部長さんという方について、沖縄県庁で調べてもらったんですけども、先生が1970年に会われた頃は、琉球政府総務局の企画部長なさっていたんですね。

下河辺:そうです。

江上:復帰後、沖縄県になってから、企画部の次長。

下河辺:次長でした

江上:前は総務局の企画部長ですから、そういう流れになるんですね。

下河辺:そうですね。

江上:企画部の次長をやられて、その後、農林水産部の次長になられまして、それで、一応、県庁の方は退職されて、それから畜産公社の専務理事、その後、農業試験場の農業試験場長をやられて、それは1978年から79年。そこまでは県の人事課のほうで記録に残っています。

下河辺:ああ、そうですか。

江上:沖縄県になってからも、大城守さんとはちょくちょく、お会いになっているんですよね。

下河辺:ええ、会っています。

江上:そうですよね。その後の記録はもう沖縄県にはなくなっていて、今どうしていらっしゃるか、ちょっとわかりません。

下河辺:今は悠々自適して、自分で農業やってんじゃないすか。

江上:ああ、一番いいかもしれませんね(笑) ああそうですか。最近はもう大城さんにお会いなさらないですか。

下河辺:最近、ちょっと会ってないですね。

江上:そうですか。年齢からすると、先生よりちょっと若いくらいですか。

下河辺:同じくらいじゃないすかねえ。ちょうど、戦争、私が大学のとき、
戦争行ってたわけですから

江上:ああ、そうですか。ほとんど同じですね。ああ、なるほど。そういう、もっといろんな方々といろいろあったでしょうけど。先生、早速ですけど、最初にこないだインタビューさしてもらって、ちょっと確認のところをちょっと。

下河辺:ああ、そうですか。はい。はい。

江上:それでは、眞板さんの方から質問をお願いします。


●前回のインタビューの補足質問ーー沖縄にかかわることになるきっかけ

眞板:ちょっと、事実関係の部分でですね。いま、前回のテープおこしの作業をやっているんですけど、えーと、あのちょっと、大事かなと思われる部分でですね。先生と沖縄の関わりあいの部分でですね。一番最初は、山中貞則長官から直接依頼されたという話があったと。後段になってくるとですね、楠田さんからの依頼でというお言葉出てくるんですよ。

下河辺:楠田さんからの依頼、それは楠田さんが佐藤さんの秘書官になってから。

眞板:もちろんそうです。

下河辺:はい、はい。

眞板:で、じゃあどちらの方からご依頼されて、沖縄に関わることになったのか。

下河辺:それは、山中貞則からですな。それで、行ってたら、しばらくして、佐藤内閣からも頼まれたっていう。

眞板:はっはあ。そうすると、時期的にはどういう感じになるんですか。あの山中長官、あの前回のお話の中で沖縄に一番最初に行かれたのは、70年11月の屋良朝苗さんにお会いになりに行くのがはじめてで、そのときに、一番最初の沖縄での仕事というか、関わりあいは、吉元さん等が参加なさっていた労働組合の会議だったよというおっしゃられかたをなさってたんですが。

下河辺:いや、労働組合との会議は、屋良さんとの関係とはまったく別ですからね。

眞板:別? はあ?

江上:屋良さんと会われる前に会われたとおっしゃってましたよね。最初に労働組合関連の会合で、吉元さんに会ったと。
下河辺:忘れちゃったけど、労働組合の方が後じゃないですかね。

江上、眞板:後ですか。

下河辺:山中貞則に言われて

江上:そっちのほうが先なんですね。

下河辺:屋良さんに会ったほうが、先でしたよ。

江上:あっそうですか。なるほど。

下河辺:そして、沖縄に私がいろいろ親しいっていうことで、私が労働組合に呼ばれたわけですから。

眞板:ほう。

下河辺:それは、自治労中心のフォーラムでしたから、

眞板:はあ、はあ。

下河辺:地方自治っていうことがテーマだったわけです。それは、私が沖縄に詳しいって前提で呼ばれたわけですから。


●屋良氏との関係、仕事の内容

江上:それでは、前回のインタビューでお話していただいたその内容にちょっと追加で質問させていただくんですけども、先日、屋良さんとの関係で仕事なさったとお聞きしました。それで具体的な仕事をいま、思い出していただくのは大変かもしれませんけども、屋良さんと会われて、復帰の枠組みについていろいろとお話をなさっていろいろな仕事をされた、そういう仕事についてご記憶がおありでしょうか。

下河辺:それはいろんなことをやりましたからね。

江上:そうでしょうね。特にその中で、印象に残っておられるというようなことは何か。

下河辺:なんか、屋良さんというのは、学校の先生ですから、そして、選挙は革新系をバックにやっていましたから、自民党と繋がんないんですね。だから自民党と繋ぐことが必要だったわけです。そこは、沖縄自民党と永田町自民党とはぜんぜん、水と油くらい違うんですね。

江上:そうですか。

下河辺:だから、難しかったです。

江上:はああ。70年というと国政選挙が沖縄で実施された年ですね。

下河辺:そうですね。

江上:それで、自民党からは国場幸昌さんと西銘順治さんが当選してますね。

下河辺:そうですね。

江上:そうですね。当選したばっかりですね。

下河辺:そうですね。

江上:国政に乗り込まれたばっかりだから。

下河辺:だから、沖縄のひとつの自民党的な動きを国場さんが代表していたわけですね。


●国場幸太郎氏の印象

江上:国場さんが、国場幸太郎さんですか。

下河辺:ええ。

江上:はああ。

下河辺:ところが、国場さんっていうのは県民に決して評判は良くないんですね。

江上:国場幸太郎さんですか

下河辺:ええ。

眞板:幸昌さんじゃ?

江上:幸昌さんね。幸太郎さんはお兄さんのほうは、経済界のまとめ役でとても人望のある方でしたよね。

下河辺:人望って言ってもねえ、米軍基地経済の中心なんですね。

江上:ああ。そうですね。

下河辺:だから、革新系から言えば、

江上:ああ、そりゃそうですね。

下河辺:基地を認める人っていう印象があるでしょ。

江上:ええ、そうですね。

下河辺:だから、少しトラブルだったんですよ。

江上:あ、そうか。

下河辺:ところが、社会党の方も、何さんって言いましたっけ? えーと、忘れちゃったな。

江上:上原

眞板:上原康助ですね。

下河辺:上原さん。上原さんを永田町自民党と沖縄自民党との違いの谷間に落ちちゃうんですね。だから、なかなか占領の時間が長かった沖縄っていうのは、本土並みに復帰するっていうのが、政治になるほどトラブルっていうのが多い、なかなか理解できない関係にありましたね。
江上:そうですね。やっぱりそういった深い断絶があったんですね。それを一所懸命、繋がりをつけようと。

下河辺:吉元と古川と私と三人で繋ごうっていうことを一所懸命やった時期ですよね。

江上:ああ、なるほど。国場幸昌さんは、あんまり人気がなかったんですか。福田派でしたよね。

下河辺:福田さんとは近かった。

江上:ですよね。先生が以前、おっしゃったように、屋良さんは福田さんを非常に頼りにしていた。そういう関係で、国場幸昌さんは福田派に所属されたのですか。それでも国場幸昌さんは日本政府との太いパイプになれなかったんですか。

下河辺:いや、その、なんて言いますかね。補助金なんかでは、国場さんがやんなきゃできないこと多かったわけですね。政府に対して。だけど、国場さんの政治的立場は、米軍の占領を認めるっていう状態で非難されていましたよね。

江上:それは、国場幸太郎さんも幸昌さんも一緒ですよね。

下河辺:そう。

江上:ですよね。だから、なかなか客観的なまとめ役にはなれなかった。

下河辺:脱基地化っていう政治からすれば、敵ですから私はね。

江上:そりゃそうですね。

下河辺:だけども、現実問題としては国場さんが米軍の基地を利用して、沖縄の経済をなんとかもたせていたっていうのは、事実でしょうね。

江上:そうでしょうね。


●一次振計で達成できたのは200万観光

下河辺:そのころ、政府は日本の企業が立地するっていうことで、沖縄経済立て直しっていう話をしていたけども、ひとつも成功しなかったわけですね。結局は、経済的には基地経済でもっていた。その中で観光っていうテーマが一番アピールしていて、200万観光って言ったときは、誰も信用しなかったのが、計画が達成したのは200万観光だけ達成したんですね。

江上:そうですね。

下河辺:そしたら、みんな喜んじゃって、500万観光って、数字だけ高くしたんですね。だけど、200万と500万じゃあ観光の質を変えなきゃ、達成できないっていうときに、質を変えるっていうことが、なかなかうまくできないで、こんにちまで来ちゃったわけですね。

江上:現在もそうですね。

下河辺:で、飛行機の運賃だけ安くすれば、いいような話になっちゃったでしょ。

江上:そう、その通りですね。

下河辺:それで、豪華な変なホテルがいっぱいできちゃって、沖縄観光これからもう一度議論のしなおしですね。

江上:先生がおっしゃっているように、やっぱり質の転換が必要だと。

下河辺:そうそう。

江上:その質の転換がなされないままにホテルの数だけ増えちゃって、結局、現地の沖縄の観光業者にとっては、そんなにいい状態ではないですね。要するに宿泊費を安くして、安いパック旅行で、という状況になってしまって、それはやっぱり先生おっしゃった沖縄観光の質が変わらなかったということでしょうね。

下河辺:変わんなかったというか、豪華なホテルがいっぱいできたわけですよね。レジャー用の。だから、飛行機運賃安くすれば、宿代もとれるって思ったんでしょうね。

江上:そうしたら、そうはならなかった。

下河辺:でも、相当な収入じゃあ、ないですか。

江上:そりゃそうですね。いまじゃあ、沖縄観光が沖縄からなくなるようなことがあると、沖縄経済は大変ですね。だから、やはり前回もおっしゃいましたけど、沖縄観光のあり方をもうちょっと工夫して、もっと現地の人からも観光客にとっても喜ばれるような、そういうような工夫といいますか、いろんな種類を組み合わせたようなものが必要

下河辺:沖縄っていうのは、観光客でも県民までそうだけども、海で泳ぐ人が、いないですね。ホテルのプールでしか泳がない。それもどっかちょっとおかしくないですかね。海っていうのは、夜、恋人同士が散歩するところになっちゃっている。

江上:私は北九州の海で育ちましたから、リゾートホテルで海のそばにあるのにプールで泳いでいる光景というのは、なんかよくわからないですけども。

下河辺:でもねえ、日本人はそうなってますね。だいたい湘南だって、湘南で泳ぐ人いなくて、特殊なアクアラングの人だけで、あとはみんな臨海部のプールで泳いで遊んでいる。

江上:そういう意味ではその本土化の一環ですか。

下河辺:ええ。

江上:そうなんですか。昔とはずいぶん日本全体が変わったんですね。

下河辺:人間が違っちゃったんですね。


●西銘順治氏との交流

江上:(笑) 話は変わりますが、もう一人の西銘順治さんについ伺います。西銘さんとは旧制水戸高校の一年先輩だということで、よく桜坂で一緒に飲んだと前回、おっしゃっていましたけど、1970年当時から西銘さんともお付き合いがあったのですか。

下河辺:まあ、先輩ですから。

江上:そうですよね。

下河辺:西銘さんが手伝え、なんて言うから、よく行ったですよ。

江上:ああそうですか、どういう手伝いをなさったんですか。

下河辺:いやーそれは、知事が抱えた問題、いっぱいありましたから、どうしたらいいかとか、これでいいかとか、いろんな相談持ちかけられて、いい加減なこと答えていましたけど。

江上:あの、じゃあ、西銘さんが知事になられた78年ですね。

下河辺:そうですね。

江上:78年から3期勤められた。

下河辺:そうですよね。

江上:12年の間ですね。

下河辺:そうでうね。

江上:その間、で、おそらく、下河辺先生にいろいろご相談なさりながら、西銘県政はいろいろなプロジェクトをやったり、公共工事もやりました。で、いろんな大型プロジェクトをやって、建物もいろいろ作りますけども、まあ、そういう多方面の公共工事もこのとき、西銘さんも積極的にずいぶんやりました。その一環として、国際交流拠点形成という構想を西銘県政は打ち出します。この構想について西銘さんから下河辺先生に相談があったんでしょうか。

下河辺:いやあ、もちろん相談はあったし、なんか15、16世紀の琉球っていう立場をもう一度再現しようっていうことでしたからね。で、なんか、アジアの情報拠点っていうことでグローバリゼーションに対応しようっていうことをあの当時盛んに知事とやったもんですよね。


●平良幸市知事と万国津梁の鐘

江上:はあ、そうですか。あの、そういうそのアジアのなんて言いますか、交流拠点にするっていうのは、沖縄の人々っていうのは、やっぱりその昔の大交易の時代がありますから、特に行政のトップにたつ方々は、保守にしても革新にしても、必ずその話をなさっていましたよね。西銘さんの前の革新の平良幸市さんも万国津梁の鐘とか、そういうのをあれしていましたね。だからずっと、沖縄の人々というのは、やっぱり、あの時代、独立していて、まあ、あのアジアに全面的に展開していて、あの経済的に繁栄した時代というものをもう一回沖縄は取り戻したいという気持ちはとても強いですね。

下河辺:そうですね。面白かったのは、沖縄へ行くと橋を架けるっていう言葉が、土木工事で橋を架けるという話と違うんですね。世界と繋ぐことを橋梁、津梁ってね。

江上:万国津梁のね。はあ、はあ。だから、橋を架けるという話は土木工事のことかと思ったら、実は国際交流の話だった(笑)

下河辺:国際交流の話。

江上:そうですよね。その万国津梁の鐘についてですが、旧沖縄県庁舎の知事応接室に万国津梁の鐘という扁額を一番、最初に掛けられたのは、屋良さんの後継者で革新知事だった平良幸市さんだそうですね。

下河辺:ああ、そうでしたかねえ。

江上:ええ。

下河辺:ああ、そうですか。

江上:ええ、しかし平良県政は短命で、平良さんが知事になられてから2年ちょっとで病に倒れられました。その後、西銘さんが知事になります。

下河辺:平良さんがねえ、沖縄県の県庁の庁舎の建物にこれは米軍が建設したって記念碑があるんですね。

江上:ありましたね。

下河辺:それを撤回したがってね。

江上:ああ、そうですか。

下河辺:そいで、津梁の懸け橋っていうことを特に主張したんですね。

江上:ああ、そうですか。平良さんはあの記念プレートを嫌がられたわけなんですね。あれは要するに、にアメリカ政府が琉球人民にプレゼントしたというプレートでしたからね。

下河辺:あれほど嫌なものはない。

江上:そうおっしゃってましたか。

下河辺:はい。

江上:そうですか、なるほど。

下河辺:だから、引越ししちゃいたいっていうことを盛んに言ってたもんですよね。

江上:行政のトップとして、やっぱり嫌だったんでしょうね。

下河辺:行政のトップとしてというより、沖縄県人として不愉快なんじゃないすか。

江上:不愉快(笑) やっぱり占領下にあるみたいな感じで。

下河辺:何もそんな、恩に着せることないだろう、という感じはありますよ。

江上:ああ、そうですよね。平良幸市さんもまっすぐな人でしたから。平良幸市さんは、軍転法という法案を出されて、基地が撤去された場合、その軍用地を転用する法律を一所懸命、作ろうとなさって、それは挫折した形になりました。

下河辺:それは大田知事に引き継がれて、

江上:そうですね。

下河辺:裁判の結論を待つことにしたんですね。

江上:はい、ええ。

下河辺:だから、安保条約っていうのを否定できない沖縄県にとって、裁判所が土地問題に結論を出しちゃったら、ちょっと抵抗できないっていうのが大田さんの意見で、大田さんはもうああいう学者だから、裁判所が否定的に出すのを分かっていながら、裁判所に依存して基地をオーソライズしていった人ですよね。

江上::そうですよね。

下河辺:だから、外交上の問題と土地を巡る司法上の問題とを別に考えた人ですよね。


●平良幸市知事と7・30

江上::平良さんの頃の話に戻るんですけども、ナナサンマル(7・30)と呼ばれた交通法規の変更もありましたね。
下河辺:そうですね。

江上:ええ、あれで相当、平良幸市さんは体力を消耗なさったそうです。

下河辺:ああ、そうかもしれないなあ。

江上:ええ、それが病気の引き金になったのではないかと、沖縄では言われているんですけどね。

下河辺:そうね。

江上:幸いに大きな事故は発生しなかったですね。

下河辺:そう。

江上:あれはやっぱり、行政関係者の人とかが非常に気配りなさったからでしょうね。もっと大変な事故とかいっぱい起こるんじゃないかと言われて、沖縄県民は怖れていたんですけども、そんなことはなかったですね。

下河辺:そうですね。

江上:私はその当時、すでに沖縄にいて印象深いです。

下河辺:そういうところは、米軍はよく訓練されているんじゃないすかね。

江上:ああ

下河辺:だから、軍用の車の事故っていうことがあんまり大きくなかったですよね。

江上:そうですよね。

下河辺:婦女暴行はあっても、車の暴走っていうのはあんまりなかった。面白いですねえ。

江上:そうですね。その時はなかったですね。

下河辺:もっともっと、酔っ払い運転で、ひどいんじゃないかって予想して
たんだけど、意外とそうではなかった。


●平良幸市知事が気にかけていた沖縄農業のあり方

江上:なかったですよね。沖縄県民は7・30が無事、終わって安堵しました。ところで平良幸市さんが、先生に対して相談されたことはないですか。

下河辺:そうでしたね。あのころ、沖縄の農業のことについては非常に悩んでおられたですね。

江上:ああ、そうですか。

下河辺:で、沖縄の農業って、どうしたらいいんでしょうかって。輸入物にだけ頼るようなことでいいんでしょうかねっていうことをだいぶ言っておられたですね。だから、コメなんかでも自分で作る方向をちょっとやってみたりしたわけですね。それまでは、輸入のコメの方が安くていいって言われてたもんですけどね。魚っていうのは別でしょうけども、ブタとか野菜とかっていうのはどうしたらいいかは、相当悩んだんじゃないすかね。

江上:平良さんは沖縄県の西原町のご出身で、今はもうかなりベッドタウン化してますけど、以前はあそこはほとんど農地だったところでですね。
下河辺:ああ、そうですか。

江上:現在の琉球大学も西原町にありますが、多分、平良幸市さんが知事になられた頃も、農地が多かったと思います。

下河辺:ああ、そうですか。

江上:そんなこともあって、気になさっていたんでしょうね。コメの輸入とおっしゃいましたが、それは日本本土からの輸入ってことですか。

下河辺:いやあ、むしろタイからとか、なんか。

江上:東南アジアからですか。

下河辺:東南アジアですね。

江上:いまでも、泡盛の原料となる米はタイから輸入していますからね。でも、私は1977年に沖縄に渡ったんですけども、当時、沖縄で食べる米はおいしくなかったですね。

下河辺:そりゃそうでしょう。

江上:たぶん、新米などはその当時、沖縄に入っていなかったでしょうね。

下河辺:いやあ、コメっというものをなんか電気釜で炊いて食べるっていうことをしないところだったはずなんですよね。

江上:え、そうですか。

下河辺:油で煎ったり、チャーハンにしたり、食べ方が違うんですよね。琉球っていったら、コメの食い方ちょっと特色のある。

江上:ああ、なるほど、ジュウシィとか。

下河辺:ええ。

江上:最近はおいしい米が食べられるようになりましたけど(笑)

下河辺:最近はもうぜんぜん、どこだって同じ。

江上:なるほど。下河辺先生もそうですが、沖縄の農業については、いろいろ指摘があります。もうちょっと特色があって沖縄の亜熱帯の農業を生かすようにすべきだとか。

下河辺:そうですね。

江上:いま、沖縄のマンゴー栽培とかはすごく良くなりましたですね。

下河辺:マンゴーはいいですよ。

江上:いいですね。一時期、ラン栽培もかなりやってたんですけども、

下河辺:ええ、そうですね。

江上:いまは、ちょっと東南アジア国々に負けて(笑)

下河辺:中国かなんかにやられちゃうんじゃ

江上:そうなんですね。ラン栽培が盛んになった頃に、東南アジアとか中国のランが入ってきて沖縄のラン栽培が打撃を受ける。マンゴーもそうならないかなあと心配していたんですけども、マンゴーはまだ大丈夫ですね。いまのところ元気がいいみたいですね。

下河辺:いやあ、世界的な花の展覧会、博覧会に日本が出すのは、珍しくて滅多にできないっていうのを自慢すんですね。他の国は、一般の人に売れるように大量にっていうような発想なんですね。だから商売としたら、ぜんぜんもう、勝てないですね。名人芸を競っているわけです。日本は。

江上:日本は。なるほど(笑)花卉産業ではないわけですね。

下河辺:そうなんですよ。

江上:海洋博公園には熱帯ドリームセンターがあって、美しいランを世界中から集めたセンターができましたよね。沖縄はやはり、さとうきび栽培がどんどんだめになっていて、衰退の一途をたどっています。でもやはり、農業を何とかしなければという人たちは、結構いるんですが。

下河辺:砂糖なんかでもねえ、その世界の砂糖市場に勝とうなんて思ったら、沖縄の条件じゃあ、とても勝てませんよ。

江上:そうですよね。

下河辺:だから、沖縄の砂糖っていう特殊な砂糖を狙えばいいんですね。このごろ、なんかいろんなスパイスでも、みんな特色で争っていて、マーケットの大きさで争っていないわけですね。だから、沖縄砂糖っていうのが、なんかちょっと特殊なおいしさをもっていたり、するといいと思って、ちょっと、沖縄の砂糖の特性をどこへ求めたらいいかなんていうのは、議論すると面白いと思うんですけどね。

江上:はあ、そうですね。沖縄の塩は、たとえば、粟国島の塩とかいろんな塩が、ちょっと高いですけども売れている。

下河辺:有名になってきた

江上:ええ、有名になりましたよね。

下河辺:ですから、砂糖と塩とドッキングさせたりしたら、面白いかもしれないんですね。

江上:そうですね。農家の人が工夫して、沖縄の黒砂糖というものに何か付加価値を。

下河辺:スパイスを加えて、独特なもので、いまは黒酢だけが動いていますけども、黒酢を越えた何かが欲しいですね。


●西銘県政の国際交流事業について~南北センター構想秘話

江上:そうですね。いまは量より質の時代で、個性の時代ですからね。個性をもっといろいろと沖縄側が打ち出していって、沖縄のさとうきび、砂糖そのものにいろんな付加価値をつけられるといいですね。先生がおっしゃったように、何かスパイスをつけたりしてですね。
 あと、ちょっと前後してしまいましたけども、西銘さんの国際交流拠点形成構想で、あのときに、ちょうど、日本政府が東南アジアとの交流を盛んにしようというと言って、あれは鈴木善幸さんのときだったんじゃないかと思うんですけども。中山太郎長官が南北センターを沖縄に作ったらいいじゃないかというような話で、で、それを受けるような形で、国際センターというのを西銘さんは、沖縄に国際センターを作って欲しいということを言われて、それから、コンベンションセンターを沖縄に作りたいと、もうひとつは、日本と東南アジアの交流センターを、いわゆる情報センターみたいなものを作りたいと、3つをあの当時、西銘さんはこの3つを掲げられたんですね。

下河辺:その、時がたつにしたがって、いま言ったように多様な意見に変化していったわけですけども、一番最初っていうのは、ハワイのセンターと同じものを沖縄にも作ろうとしたんですね。

江上:東西センターですか。

下河辺:ええ、東西センターっていうのを沖縄にあるから、日本は南北センターっていうことでやろうと。ということで、やったわけなんですね。そして、東西センターとも交流してハワイとの関係を持ってはじめたんだけども、どうも東西センターがはやらなくなっちゃってですね。アメリカの方も東西センターにあんまり興味を持たなくなったために、日本側で野村総研がやっていた南北センターも、ちょっと力を失っちゃったということで終わったんですね。そのときに、吉元がどうもそれじゃあ情けないから、自分たち独自に南北センターやろうっていうことを言い出したときがあんですね。

江上:あ、そうですか。

下河辺:ところが、南北センターっていうのはそううまくいかなくて、うまくいかなかった理由が、日本側にあって、日本の大学の学者が嫌がったんですね。その強力な学者が沖縄の大学を支配するんじゃないかっていう、恐怖感なんですね。だから、だめな教授を保護するためには、こんな素晴らしい話はやめたほうがいいかねっていうような話になったりしましてね。そいでむしろ、東南アジアと繋ぐっていうことをやれば、教授たちも元気が出るんじゃないかって言って、医学と知識交流とふたつの面で、アジアとの関係のセンターに沖縄をしようという話にまとまっていったわけですね。そしたら、米軍が喜んで、米軍の持っている情報機能の施設を全部使ったらいいってことと、沖縄の海軍病院を利用したらいいっていうことを言ったとたんに、基地反対側の連中が、その案を取り消したいって言い出したんですね。それで、結局、うやむやのままなんです。それからあとは、沖縄海兵隊に対する理解が、沖縄の大学や知識人の間でうまくいっていないんですね。政府も沖縄の海兵隊は有事のためにいるっていう見方をしたんで、海兵隊の人たちと意見がまったく食い違っちゃったんですね。沖縄海兵隊の人は、有事なんていまは考えられないと、北朝鮮は煽っているけども、北朝鮮もそんな軍事力を発揮してアジアを戦争に巻き添え食わせるようなことは、絶対ないって言ってですね。有事でないときの海兵隊の役割こそテーマだということで、留学生を処理するとか、難病を処理するとか、いうようなことを一所懸命海兵隊はやりだしているわけですね。だけど、国も沖縄県も有事のために海兵隊がいるっていう認識のもとにいるもんですからね。だからこそ、有事のためだから、駐留を認めているっていう間違った理解なんですよ。困ったもんですね。


●スカラピーノ教授の思い出

江上:それは結局、沖縄県民にも、海兵隊は怖い殴りこみ部隊であるという印象が強いですね。先週、先生もよく御存知だと思いますが、東アジア問題の大家で、カリフォルニア大学バークレイ校のスカラピーノ名誉教授が早稲田大学で講演されました。私は1981年から82年まで1年間、スカラピーノ教授のところで研究をさせていただきました。
下河辺:あ、そうですか。

江上:はい。ずいぶん昔のことですけども。それで私は懐かしくて、講演終
了後、ご挨拶に行きました。

下河辺:彼は日本が好きですからね。

江上:ええ。

下河辺:いろんなところへ顔を出して来ますね。

江上:そうですね。スカラピーノ先生は、若いころ、日本語をお話になったそうですね。で、もう81年に私がアメリカ行ったときは、日本語はぜんぜん話せませんでした。

下河辺:彼が面白かったのは、日本人と接するときに、英語がしゃべれる人と付き合うと危ないと。頭がアメリカ化している人ばっかりだと。

江上:そうですか。

下河辺:だから、日本人と話をするときは、英語ができないっていう人と付き合ってみなきゃだめってなことを言っていたのが楽しかったですね。

江上:そうですか(笑)。

下河辺:確かにそう言われてみりゃあそうかもしれない。

江上:はあ、そうですか。そのときはスカラピーノ先生は、日本語をお話になった。

下河辺:日本語はちょっとだけ、話しましたね。ほとんどだめでしたけど。

江上:はあ、そうですか。それは先生、何年ごろの話ですか。

下河辺:あれ、あれは何年かなあ。何年ごろになるかなあ。あれは私があれで、だから昭和42、43年から45年ぐらいじゃないすかね。

江上:あ、そうですねえ。そうすると、1970年前後ですね。

下河辺:そうですね。

江上:そのころはまだ、スカラピーノ先生は日本語をお話になってたんですね。私がお世話になった81年の時点では、まったく日本語は話されなかったですね。スカラピーノ先生は、先生もご存知のように、沖縄の問題にずいぶん、関わってこられましたよね。

下河辺:そうです。

江上:沖縄返還にも関わって、また沖縄についてのいろんな報告書も、

下河辺:作ってんじゃ、、、、、、

江上:作ってますね。かつて琉球大学教授で副知事だった比嘉幹郎先生が、復帰20周年で恩師だったスカラピーノ教授を沖縄に呼びました。

下河辺:そうでしたね。

江上:それで、久し振りにスカラピーノ教授は沖縄にやって来ました。

下河辺:ああ、そうでしたかねえ。

江上:そのスカラピーノ先生が、先日、早稲田大学で講演なさったときに、いま先生おっしゃったように北朝鮮はそんなに心配するはことないって言ってましたね。北朝鮮は生き残ろうと思ってんだから、生き残ろうと思って核を振り回したりしているわけで、自暴自棄になっているわけではないから、そんなに怖れることはないという風におっしゃっていましたね。

下河辺:そりゃあそうですよ。

江上:そうですよね。だから、北朝鮮が怖いから、海兵隊がいざとなったら行くからというのはねえ。そういう恐怖心を沖縄の人が持つ場合多いんですけども。まあ、よくよく冷静になって考えてみると、現在の北朝鮮というのは、まあ一番いいタイミングで、できるだけ早いタイミングで対話の路線に乗ろうとしているわけですよね。

下河辺:あれは乗らなきゃ、危ないって思っているわけですよね。

江上:そうですよね。

下河辺:それで、アメリカっていうのは、時々きちがいになるから、アメリカをきちがいにさしちゃったらだめって思ってんすね。

江上:そこはわかってんですね。

下河辺:わかってんです。イラクとかアフガニスタン見てて、そう思うんでしょう。

江上:そうですねえ。気が違ったときに怖いという(笑)

下河辺:何するかわかんないと思ってんですよ。


●橋本首相が提案した亜熱帯研究所

江上:そうですよね。で、西銘県政のときの話に戻りますけども、西銘知事は国際交流の拠点形成を打ち出します。そしてその一環として提唱したコンベンションセンターも、できたら日本政府の方で作ってもらえないかなということでしたけど、しかし日本政府もそれにお金をだせないということで結局、沖縄県と防衛施設局がお金を出してできました。

下河辺:いやあ、私が総理に沖縄に政府が何をやったらいいかっていうペーパーを見ていただいたでしょうけど、出したときにA項、B項、C項というのを、ずっと、総理が見ていやーこれやろうって、言ったのが亜熱帯研究所だったのです。コンベンションセンターの方が、良くないかって言ったら、やっぱり国際級のレベルでないと嫌だから、沖縄に交流センターって言っても、人もいないじゃないか、で、さんご礁なんかだったら、専門家もいるんじゃないか、ということで、世界の海洋とかさんご礁の専門家を呼んだ国際級の研究所を作ろうっていうのが、橋本さんの提案だったんです。

江上:はあ。

下河辺:そしたら、知事が喜んだついでに、何か県立で作っちゃったんですね。

江上:ああ、芸術大学ですか。

下河辺:いや、そうじゃなくて、さんご礁の何とか研究所というの。

江上:ああ。亜熱帯研究所ですか。

下河辺:亜熱帯研究所っていうんすかねえ。

江上:亜熱帯研究所ですかね、琉球大学と提携した。

下河辺:そのために橋本さんが政府で作るのやめちゃったんですよね。

江上:ああ、そうですか。

下河辺:あれはちょっと、私にとっては残念だったですね。そんなに慌てて、県立で作んないで、世界的なレベルで作っといたら、良かったのにって思うひとつですね。

江上:はあ、そうですか。そういう経緯もあったんですね。確かに、亜熱帯研究センターは日本政府の提案で出てきたことがありましたよね。

下河辺:そうです。

江上:着手しなかったんですね。いまもそれほどねえ。

下河辺:活発じゃないでしょ。

江上:ええ、目立った存在にはなっていないですねえ。

下河辺:何とか先生っていう一人が、年取っちゃったか、

江上:甲府田先生ですか。

下河辺:なんて言ったか忘れちゃったなあ。

江上:あのう熊本出身の先生で、甲府田先生ではないのですか。

下河辺:なんかさんご礁の専門家で

江上:あ、山里先生。

下河辺:そう、山里さん。

江上:山里先生ですね。

下河辺:そいでだめになっちゃった。

江上:もう名誉教授になられてね。

下河辺:そうですね。


●大田県政の国際情報センター構想

江上:そうですか。それから、コンベンション・センターとともに、国際研修センターと日本・東南アジア交流センターも西銘知事は提唱しました。国際研修センターはJICAの管理下で沖縄国際センターとして設立されましたが、国際センターの前の敷地に東南アジア交流センターを設立する計画はまだ実現していません。大田県政下で国際情報センターの計画があったようですが、その経緯は?

下河辺:宿題なんですよね。

江上:そうですね。

下河辺:郵政省がてこ入れをして、センター作ったんですよね。そのころ、私に米軍たちは、あんなちゃちなものやったってだめなんで、なんでわれわれの施設を利用しないんですかと、われわれの施設はもう軍用でなくなったんで、要らないんですって言うんですね。だけど、米軍のを認めると、基地を認めたことになるの嫌って言って、政府も県民も乗ってこなかったんです。

江上:乗ってこなかったすか。

下河辺:だけど、おおいに利用すれば良かったと思うんですよね。

江上:今後、共同利用の可能性はあるのでしょうか。

下河辺:ただねえ、設備が陳腐化してきてんですよね。


●普天間基地移設の本当の理由とその跡地利用

江上:米軍の設備がですか。

下河辺:ええ。米軍の。だから、言わしたようにはできないかもしれない。
現実に海兵隊が基地移転ということで、追い出されたから移転するっていうことにしているけれども、絶対そうじゃないんですね。いまの普天間が、軍事的に設備が陳腐化したために、新しい軍事能力を持った新しい基地を作りたいっていうのが、海兵隊の本音なんですね。だから、普天間のまま工事しちゃったんじゃ、その期間、保障がなくなっちゃうから、移転先を先に作って、そこへ新鋭部隊を持ってったあとで、普天間を廃止したいと。そしたら、名護の市長が、軍民共用の飛行場でなきゃ認めないって言ったんだよ。ちょっとおかしくなっちゃったんですね。軍民共用っていうことで、少なくとも、1000メーターから2000メーターの滑走路が必要とするっていうのに、米軍は移転したら45メーターでいいって言うんすからね。だから、45メーターで移転する以外は、米軍考えなかったから、日本が延長したいなら、してもいいとは言ってんですけどね。だけど、45メーターのヘリコプターのセンターを作ればいいいんじゃないすかね。そして、何て言いますかね。名護と那覇との繋がりは、ヘリコプターでやりゃあいいじゃないすかねえ。

江上:最初、橋本首相が提示したのは、海上ヘリポートでしたよね。

下河辺:そう。

江上:あのときは、できるだけ沖縄の自然に損害を与えないようなにということで、海上ヘリポートの提示をしたわけですけども。その後、地元の公共工事の要望などがあって、結局、大型の埋立地というような状況になってしまっています。ずいぶん、変わりましたね。

下河辺:変わった。

江上:変わってしまいまして、それで結局、自然環境保護派の人たちがジュゴンにしても、海にしても生態系が破壊されるというので反対運動をやっています。だから、いまのままだとうまくいくでしょうかね、大型の軍民共用空港で。

下河辺:いやあ、ほかの飛行場と同じで経営難に陥るんじゃないすかね。

江上:いま、民間航空はどこでも大変ですよね。

下河辺:そうですね。

江上:いまの大きな軍民共用空港は、自然環境に与えるダメージが大きくて、いろいろ反対意見も強く出てくる可能性がありますね。

下河辺:あ、私は県庁に言ったのは、普天間が帰ってきたら、普天間を沖縄県全土の島に向かうヘリコプターの基地にしたらどうかって、言ったんですね。

江上:普天間をですか。

下河辺:滑走路を作ったりするのは大変だけども、ヘリコプターが下りるくらいなら、小学校の校庭だってできんだから、県内の100いくつかある島を全部ヘリコプターのネットワークで、結んだらどうかっていう。そしたら、病人の患者を運ぶのさえ、手伝えるだろうし、宅送便もいくだろうし、生活にとってとてもプラスが大きいから、ネットワークとしてヘリコプターを利用すること、考えたらどうか、名護のように、なんか滑走路を中途半端に作って、赤字経営になるよりは、ずっとやりいいよって、話をしたんですけどね。

江上:ヘリポートの基地を普天間ですか、名護のほうですか。

下河辺:いやいや全県土に

江上:全県土に、ですか。

下河辺:すべての離島にみんな作る。

江上:先生は離島の問題、沖縄の離島苦の対策について、いろいろ検討なさっていますね。

下河辺:やっぱり、170いくつかくらいあるんじゃないすか。

江上:有人島だけで40くらいあります。無人島を含めると、100以上あ
りますね。

下河辺:少なくとも有人島には、ヘリコプターの基地をちゃんと整備して、生活の向上にあてがったら、どうかっていうことを言ってたんですけどねえ。

江上:そうですか。それはあんまり大きくは取り上げられなかったですね。

下河辺:いや、大きく取り上げるほど反対運動が出て、米軍の基地をオーソライズするためだって言われて、だめだったんです。

江上:そうですか。

下河辺:だけど、これからも少しやったら、どうかと思いますよ。

江上:軍民共用をいうんだったら、そちらの方を進めたらどうか、ということですね。

下河辺:そうですね。


●離島の水問題


江上:確かに、先生もおっしゃるように、離島は生活のいろいろな面で大きな不便をかこっているところがありますね。水問題もそうですね。

下河辺:そうです。

江上:先生は淡水化事業についていろいろ言及されています。私は4、5年前に南大東島に行ったことがあります。

下河辺:ああ、そうですか。

江上:南大東島には川らしい川がなくて、淡水化設備で水の供給をしています。南大東さとうきび農業は大規模化していて、収益を上げているんですね。でも水問題を抱えていて、それで淡水化プラントで水をまかなっている。それで南大東村の村長さんに、水道代が一軒当たりいくらぐらいですかって聞いたら、だいたい1ヶ月で平均3万円くらいって言っていましたね。びっくりしたんですけども。やっぱり、淡水化プラントってコストが高いのですね。それでも、南大東村では半額、村が補助しているって村長は言っていました。

下河辺:いや、そうだけども、私から言うと、水供給の設計が悪いと思うんですね。

江上:そうですか。

下河辺:ああいう島だったら、バケツで水道へ汲みに行きゃあいいんですよ。一軒一軒に蛇口で水なんていうと、無駄な水は多いし、お金はかかるし、だめなんですよね。だからまず最初は、中心の蛇口を作って、井戸にストックして、そいで、バケツでみんな自分の家に水を運んでったらいいって思うんですね。それが第一段階じゃないのって言って。

江上:昔は天水を利用していましたね。

下河辺:そうですね。

江上:水についてもいろいろ沖縄は工夫していました。いまはなくなってますよね。南大東島の真ん中にはいくつか沼があって、でもこの沼は海に繋がっていて、塩水なんですね。

下河辺:そうです。

江上:ええ、でも塩水でも表面の水のほうは真水になっているみたいで、その上のほうだけをさとうきび農家は放水するのに使っているということでしたね。

下河辺:そうですね。

江上:そういう水の有効な利用については、もっといろいろと工夫があってしかるべきとお考えですか。

下河辺:そうだと思いますよ。

江上:そうですね。


●沖縄本島の水問題と人口問題

下河辺:そりゃもう、沖縄全島について言えることですからね。本島だって水、ないすものねえ。

江上:そうですね。少し日照りが続くと断水の恐れがいまでもいわれますしね。ただ昔に比べたら水事情は良くなりましたね。

下河辺:いや、そりゃそうですよ。

江上:ダムがいっぱいできましたから(笑) 私が1977年に初めて沖縄に行ったとき、すぐ断水にぶつかりました。隔日断水で丸一日、水道の水が出なくなった。

下河辺:でも、水が良くなると人口を増やす許容量を大きくしちゃうんでだめですね。

江上:ああ、かえって。

下河辺:沖縄は人口多すぎますよ。

江上:(笑) 私が沖縄を出てきましたからちょっと人口減に貢献しましたかね。先生、沖縄の人口はちょっと多すぎますか。いま135万ぐらいですけど。

下河辺:だって、計画立てたとき、第一回目は70万というのを理想にして、100万が限度っていう計画を作ったわけですよね。水のことでも、野菜のことでも、そうしたわけです。そしたら、120万になったっていうんで、これは沖縄だめになっちゃうっていう理解ですよね。で、その120万の大部分は観光でめし食っているんですよね。そんな観光やめたらいいですよねえ。だから、人口120万人にめし食わせて自然破壊をする観光でめしを食うっていうのは、あんまりいい気分じゃないすね。

江上:あんまりいい姿ではないと。

下河辺:ないですよねえ。

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