沖縄自治研究会

沖縄自治研究会

大田県政の自治拡充の戦略上


2004年6月12日(土)
元沖縄県副知事 吉元 政矩 

○吉元政矩  全部思い出していたんですが、ほとんどその流れ、正確に把握されていると思います。

 大田さんが当選したのが90年の11月、就任が12月の初旬です。1989年の6月でしたか、天安門事件ですね。11月にベルリンの壁の崩壊、そして大田さんが当選したそのとき、東西ドイツが統一国家をつくる。その翌年、ソ連という国がなくなる。それが、大田さんが当選した前後の大きな特徴だと思います。そのときに、「冷戦の終焉」という言葉があった、冷戦が終わったという言葉を使った。政治的には多分、大きく意味を持ったでしょうね。

 それが、実際に生活の場、あるいは社会の構造の中で、もっとわかりやすく言うならば、日米関係で日本と東アジア、隣の地域・国々との関係、どういうふうに展開していこうとしていたのか。いや、いこうじゃなくて、つくろうとしていたのか、切り開いていこうとしていたのか、そこが本来ならば問われてしかるべきだったと思います。

 日本は、最大の「不幸な事態」に直面していました。例の80年代のバブルです。経済的に全部やられてしまった。もうあのころというのはどうなるのかな、つまり90年代の、92~93年ごろからですね。行政も大変苦しくなっていく。景気が悪いという状況が重なっていくわけですからね。

 一方で、日本の政治の中に大きな変化が出た。「55年体制」と言われている自民党と社会党の対決、これが終わった。93年に細川政権ができた。小沢一郎が田中派を中心に自民党の一部を担いで自民党を割ったんですよ。そしてさきがけとか、幾つかの政党と一緒になって、もちろんこの中には共産党以外の政党、保革で言うならば革新の政党が一緒ですが、いわゆる細川政権をつくったんです、93年。

 そして、そこに一つの変化が出そうな気がしたんです。総理に就任した細川さんがやったことが、2つあります。1つは総理の私的諮問機関をつくって、日本の21世紀の安全保障について議論したということです。これは、アメリカにとっては相当ショックだった。細川さんの頭の中には、もうこれからは日米の同盟、二国間の軍事同盟という形だけではなくて、東アジアの中で、どのような形で集団的な多国間の安全保障システムをつくっていくのか、これが議論の中心だったようです。それがテーマだった。

 しかしその時期、沖縄問題は、政治の大きな流れの中では問題になりそうでならなかった。もう東京霞ヶ関の、あるいは永田町の毎日の大きな新聞に出る程度で、何がどう動かそうとしているのかということが見えなかった。90年に当選した大田さんは、91年早速、90年の末からですが、予算折衝からですが、内閣総理大臣に会おうという努力をしたんですが、なかなか会えない。結果的には、細川さんが初めて大田さんと会うという状況がでてきた。それは94年1月と記憶しています。

 そのとき、大田さんは沖縄の基地問題を訴えたのです。「海兵隊の撤去」を要求したんです。日程化されていた日米首脳会談、これは94年の1月末です。クリントン大統領と会った細川総理が、それを要求したんです。検討してくれと、沖縄の海兵隊撤退を、撤去を。クリントンさんがどう答えたかは、その後マスコミに出ていません。日米首脳会談のこの話については、日米ともマスコミに出していないんです。

 私たちはそのことを、大田さんを通じて官邸から聞いていましたので、何らかの動きがあるかなということです。つまり、細川さんがやろうとしていた東アジアの多国間安全保障のシステムをどうつくるかということと、日米の軍事同盟、冷戦終焉後の沖縄の過重な負担である米軍基地、これをどうするかというものは重なっていくというふうなとらえ方をしたんです。

 ここまでは、日本がある程度大きな動きを細川内閣でつくっていけそうだという実感をした時期です。ところがその後、例のクリントン政権の中で、ジョセフ・ナイのレポートが出る。その後、それがアメリカ政府の「東アジア戦略報告」(95年2月)の中で位置づけられて出てくるのです。そして、細川総理の私的諮問機関であります安全保障に関する懇話会の中身が、アメリカ側から相当問題にされていくんです。そして中間報告が出た、あるいは最終的な報告が出る段階では、細川さんは退場し、総理大臣は村山さんにかわっていたんです。それは文字どおり、ナイ・イニシアチブ、アメリカの東アジア戦略報告、これが色濃く反映されたものに、もう中身は日本政府側とも流れの中では防衛庁や外務省の路線の中で塗りかえられていくんですね。

 そういうふうな形で沖縄の基地問題というのが、また元の木阿弥に、というふうな状況が出てくるんです。そのときに、大田さんは、このままではどうしようもない。だったら、自分は選挙のときに米軍用地強制収用に伴う代理署名をしないという約束で当選したけど、当選直後は3次振計の、振興開発計画の国との調整との関係で、なかなか国はOKしてくれない、当時の海部総理が露骨に県の振興開発計画を認めないとまで言わんばかりの、露骨な発言までする。

 そして、沖縄の新しい知事に対して基地問題については触れるなという強力な圧力をかけている時期でしたから、そういう中で、何とか3次振計は出発させたいということで、大田さんは就任直後の代理署名についてはいろいろ経緯はあったけど、結果としては署名したんです。県民から相当怒られました。だけど、95年、もう1つの代理署名が回ってきた。そのときに先ほど言った経過がありますので、大田さんが、「私は代理署名しません」と。これは4月段階から、知事は明確に言っていました。そして、その後8月の末、そのことで、国との調整をしてくれということでした。少し荷が重い、重荷を感じながら、官邸に飛び込んでこの話を私は、村山総理と直談判するんです。

 その前に官房長官との話もあったんですが、社会党政権ですから、ストレートに会えるという強みもあって、官邸に飛び込んで細かい話までやりました。(91年現在)地方自治法に基づくと、機関委任事務をNOと言った場合、拒否した場合に、総理大臣が自治体の首長を罷免することができたんです。その後、自治法の改正(93年)でそれはなくなりました。最終的に国に通知をしたのが8月の下旬。その直後95年9月4日、あの「少女暴行事件」があった。そして、10月21日県民大会でしょう。それから、日米政府が本気になって動き出した。これがSACOにつながっていくわけですよね。

 しかし大きな流れとしては、依然として97年の例の日米共同声明、橋本・クリントン会談で安保の再定義をし、条約には極東の範囲と書いてあるけど、事実上はアジア・太平洋にこの安保の日米軍事同盟の役割を拡大していくということが確認されるわけですから、そういう意味ではアメリカが言っている冷戦後の軍事同盟の中身を同盟国に持たせていく、肩代わりしていくという路線をずっと展開する大きなきっかけになっていたということです。

 さて、そういう流れからくると、沖縄県は、ある意味では正念場であったのは間違いないです。大田知事が当選しても、決して明るい展望はなかった。知事の選挙公約である「21世紀、基地のない平和な沖縄をつくる」ということの具体化を構想しなければならない、そしてどういう形で絵を描くか、この作業が先ほど島袋先生からも出ていたように、まさに国際都市形成構想、基地返還アクションプログラム、経済振興策を含めた3点セットで、21世紀の沖縄のグランドデザイン、この挑戦が91年から事実上着手し、本格的に92年から始まったんです。

 ですから、95年の1月ですか、正月早々、琉球新報がシリーズで1カ月間かけて、この国際都市形成構想の中身を紹介していくという形がとられていました。そのころまでは、開発庁は何か県は変なことやっているなと。今3次振計が始まったばかりだのに、何考えているんだ。2015年何するつもりか。こういう言い方をしていた。もう一つ大事なのは、大田県政が重要視したのは、95年11月のAPECの首脳会議・大阪首脳会議なんです。APECはご存じのとおり、アジア太平洋の国々が集まって経済に関する「閣僚会議」で始まった。その後、「首脳会議」をするようになった。この首脳会議には、クリントン大統領が急遽参加できなくなった。米議会との関連で予算が吹っ飛んだ、次年度予算がつくれないという状態の中で、結局、クリントンは大阪会議には来なかったんです。しかし、あの大阪会議を私たちが重視したのは、沖縄の基地問題がそこで日米間で話し合われる、だから私たちは村山総理に対して、これだけは絶対実現してくれという強い要求を出していた時期なんです。

 具体的には「3事案」です。那覇軍港の返還と読谷飛行場の返還、3つ目は104号線越えの実弾砲撃演習中止。日米首脳会談で結論を出してもらう問題だというふうに期待していたんです。日米首脳会談がそこで開かれているとすれば、96年4月の橋本・クリントンによる、「日米安保の再定義」が、そのときにやられていたというスケジュールになっていたようです。いずれにせよ、沖縄問題の「1つの節目」をそこで逃がしたなという感じがしていました。

 もう1つ大事にしたのは、APECの本来の会議なんです。これはアジア・太平洋の国々は先進国が2010年には、貿易の自由化と投資の自由化を実現する。これからの国々は2015年をメドとして実現する。つまり、アジア・太平洋規模でもっとシビアに私たちがかかわる、この東アジアの規模で見るならば、やはりこの東アジア全体の中で、2010~2015年の間、経済圏が一つになっていくということを認識した。これはあれこれマスコミにも流れていたけれども、官邸とつながる中で、より現実に把握できたということです。

 沖縄の国際都市形成構想をどういう形でそれと重ねていくのか。そして同時に、米軍基地の返還を、どういう長さで、どういう方法で求めていくのか。自立するための沖縄の経済、県民の経済的な基盤をどうつくっていくのかが問われたんです。それが全部まとまったのが、「21世紀の沖縄のグランドデザイン」という表現で、1つは国際都市形成構想、2つは米軍基地返還アクションプログラム、これは2015年には、米軍基地ゼロです。第一段階は2001年、第二段階が2010年です。そして最後に、経済振興策、つまり経済特別区としての全県フリーゾーンです。95年のAPEC大阪会議というのは、沖縄にとってみれば、かなり大きな変化を実感した会議だったというふうに記憶しています。

 少し余談になりますけど、沖縄の労働組合は、いくつかの節目で「沖縄の自立」について議論してきました。1つは復帰段階です。これは後ほどもう一度説明します。2つ目は、2次振計策定の1980年のころです。3回目は大田県政が誕生したそのチャンスでということになります。そのいずれについても、かなり復帰とはどういうものだったということを問い直したいきさつがあります。

 以上が、少し全体を振り返ってこれから説明する流れになります。お手元にお配りしました、「この40年、4つの節目にかかわった」ということの、一番最後の7ページを開けてください。これは本来、きょう細かく説明する課題じゃないんです。ただ、市町村の合併の問題など、これからどうするか、あるいは護憲をめぐる集会、本土、県内を含めて政党や地域の方々から講演依頼があったときに使っているレジュメですけど、きょうここに持ってきたのは、「島の将来を考える意見交換会」ということで与那国町の町長と議会議長に呼ばれて、与那国の指導者と言われている40名の方々に話をし、一緒に議論したときのものです。ほぼ、これがこの間使ってきたものです。

 先ほど言った2015年の話です。少し具体的に整理し直しますと、21世紀の20年、西暦2020年までをどう見たらいいのかということを1つ大きくとらえています。2つ目に、そういう中で日本は何がどうなろうとしているのか、何が準備されているのか、何を準備しようとしているのか、あるいはどうしようとしているのかという流れを書いてあります。こういう流れの中で、じゃあ沖縄はどうするのということを「考えたい沖縄の形」、「実現したい3つの課題」という表現をしています。ここで全部は説明できませんが、とりわけアジア経済圏を中心に話します。

 EUが25カ国に、6月1日からなりました。この6月いっぱいでEU憲章の署名と言うんですか、条約の署名が準備されています。大変難しいだろうと言われたが、総選挙の結果スペインの政権が変わり、イラクから撤退ということもあって、新しいスペイン政権がEUを中心にという形で、EU憲章に反対していたが逆になり、協力しようということになりました。オランダのほうがどうなるかというのは若干残っていますが、しかしいずれにせよ、EU憲章はまとまっていくという見通しを個人的には持っています。

 さて、EUのでき方の問題です。あまり難しいことは言いませんが、ヨーロッパは100年の間に、3つの大きい戦争があったという。主な戦争の原因はエネルギーと鉄です。石炭と鉄鉱石です。第二次世界大戦も、ドイツが敗北し、終わりました。その結果、この石炭と鉄鉱石について、奪い合いはやめようじゃないのかということで、最初は5カ国ですが、管理するための機構と言うんでしょうか、連盟をつくるんです。これがEUの出発です。それから加盟国が増えていくという形で、だんだん中身も大きくなっていくのです。

 そして、この50年、今日的には、EU憲章を共有する段階まできたんです。その結果、これからどうなるんだということが盛んに問われますけど、少なくとも第二次世界大戦、第一次世界大戦のような、EU加盟国が武力でもって戦争するというような事態はもうない、そのためにつくったんだと言われていますから、そういう形に展開するでしょう。まさにグローバルという言葉が当てはまるような展開になっていくと思います。

 だけど、日本を取り巻く東アジア全体を見てみますと、何かしら「きな臭く」なりつつあるような状況が、日本にあります。明治憲法が57年、そして昭和憲法、今の憲法が58年ですよ。今、憲法を変えないといけない理由は何なんですか。戦争があったんですか、戦争のない平和な58年間を、本当は戦争のできるという状況をつくっていこうとしている日本の東アジアにおける安全保障体制というのは、一体何を考えているのか、ここが実は大きな問題です。大田県政の一番大きな問題意識は、その中で日本のこれからの流れの中で、沖縄は依然として変わらない形で進んでいくのではというとらえ方だったんです。

 私はあのころと今と変わらない形で強調しています。だから、あのときから平和・共生・自立という3つの理念を、沖縄の21世紀の理念としてかついでいこうじゃないかと、これを軸に沖縄のあり方を追求していこうという立て方をしたんです。

 特に日本には、アメリカから要求される集団的自衛権、ましてや憲法の改正までアメリカの言いなりで準備していこうという流れが出てきました。その間に最大限使われたのは、北朝鮮の核問題、ミサイル問題ですよね。そして、この何年間かは拉致問題がクローズアップされてきた。そういう意味ではアメリカが言っている「悪の枢軸」、イラン、イラク、北朝鮮、それ以上に、日本は北朝鮮に対する憎しみと言うんですか、それを政治的にあおり、そして国民的に一つの方向をつくり始めている、それが、今憲法改正に向けての、戦争できる状況に向けての、だから私はこういう表現をしています。危機をあおり、軍拡、軍事力の拡大、「軍拡を進める日本」という表現をしています。

 それが境目のない政党の再編の中で出てきた2大政党の中で重なっている部分が大きいものですから、大変危機感を感じています。沖縄問題、そういう中で変化があると思うの、あると思わないのか、ここがまた問われているんです。ラムズフェルド国防長官が、沖縄本島をヘリコプターで上空から見て、普天間を見て「へっ?」と頭をかしげたというんです。「へっ? こんなところに?」もう新しい基地をつくらないでおこうと、こういう話ですが、それを聞いた日本側はびっくり待ったをかけたという。今回の、在日米軍の再配置について待ったをかけているのは、実は日本側だということがほぼ明らかになっているんです。

 沖縄県知事の「15年問題」など、あるいは県内移設は、これから30年後に海兵隊が出ていってもいいよというあの中身の基地を新しくつくらそうというものと重なって展開しているところに、もう一つの危機を感じます。

 そういう見方をしていますと、やはり問われるのは、アジア全体をどうとらえているのかということです。1998年ですか、国防総省、ペンタゴンの中で若い戦略家、作戦担当者を中心にしたレポートが出されています。「アジア2025年」というレポートです。これはかなりおもしろいもので、アジアのそれぞれの国、南アジアも含めていますが、これらの国のこれからを詳細に分析しています。そして2025年を目標に、どのようにこの地域が展開していくかというのを書いています。

 もう1つあります。95年の「ナイ・イニシアチブ」、「第三次東アジア戦略報告」です。この2つはかなりおもしろいレポートだと思っています。そしてそれを中間的にチェックして、そして日本に対して、アメリカの政権がどうなろうとも、戦略的に東アジア・太平洋支配のためには、覇権のためには、どうしてもこれを守ってもらう、日本に押しつけようといって出てきたレポートが、2000年10月の「アーミテージ・レポート」です。正式名は『米国と日本:成熟したパートナーシップに向けて』です。

 これをもとに、日本政府と日米政府の約束事をチェックしながら、まだやっていないことについて尻をたたいてきたのです。ですから、今日、「有事法制」まで行き着いたわけでしょう。あと残っているのは集団的自衛権をどうするかの問題、そしてアーミテージ・レポートの中に明確に書いているように、日本の憲法問題、改憲問題です。日本の政治スケジュールの中で、憲法9条改定問題は「日程化」されています。

 参議院選挙が終わり、来年の通常国会が開かれますと、明確に出てくるのは「国民投票法」でしょう。そして、その延長線上の、衆議院・参議院の憲法調査会の最終報告がある。それを受けた形で国会に常設機関として委員会設置のため、国会法改正がなされると思います。

 2005年の秋には、自民党が憲法改正案を出します。2006年は民主党が出します。このように見てみますと、次の参議院選挙、次の衆議院選挙、これは解散がなければ重なりますから、2007年です。7月になるのか、おそらく参議院選挙に合わせるかもしれませんね。合わさなければ、2006年の解散総選挙。3年たつと解散が「常識」のようです。そういう意味では「2007年は、早ければ憲法改正の国民投票、できる可能性がある」と、これは自民党の憲法を担当しています参議院憲法調査会の会長中山太郎さんの発言です。遅くとも2010年までにはやろうと、こう言っているわけです。今回、当選した参議員の皆さんが次の改選期、そこでやろうと言っているわけですから、これから考えてみると、たかだか6年先の話です。その間に、東アジアはどうなる。1つは、2008年に北京オリンピックがあります。2010年に上海万国博覧会があります。この世界的な2つの「平和祭典」を前にして、こともあろうに、まさか北京政府が台湾政府に対して軍事的な行動を開始する、これはないだろうというのが常識的な見方です。

 理由は、簡単なことです。1979年、ソ連がアフガニスタンに軍事行動を展開したんです。1980年、モスクワオリンピックです。多くの国々がボイコットしました。北京はそれを知っていますから、そういう意味で言うならば、この2008年というのは、2010年というのは、ある意味で中国の経済発展の、まだピークに来ない重要な節目です。日本で考える場合は、1964年の東京オリンピックに新幹線が東京・大阪を走りました。1970年の大阪万博、高速道路が、新幹線が全国に行き渡りました。つまり、日本経済の高度成長のピークがそこにあったと思うんです。

 そういう意味では、中国の発展の中で、2008年、2010年というのは、極めて大きな節目になります。その節目に、例えば北朝鮮核問題、例えば台湾の独立問題というのが、政治的にぶつかってくるのかどうか、私は結論としてないと思いますが、紆余曲折はあるかもしれません。

 この2010年、もう少し遅れるかもしれませんが、「東アジア経済圏」ができあがる。これはASEAN10カ国と中国との間では、2010年に自由貿易協定を結ぼうとしている。そのために相互の信頼を強化するために、中国は東南アジア友好協力条約にも加盟しました。

 日本は、2011年を目標にASEAN10カ国、それぞれの国々との自由貿易協定の協議に入って、シンガポールとの間ではもう完成しています。ASEANはそんなにばらばらにしないで、東南アジア10カ国としては、3カ国は一緒に協議しようじゃないかと言っているんです。3カ国とは中国、韓国、日本です。つまり、ASEAN10カ国にプラス3、「ASEANプラス3」です。そこが1つの協議の場として、認識合わせをしながら、2010年をメドに東アジアの経済圏を完成させようということです。これは間違いなく進展すると思います。

 実は、先ほど言いましたAPECの2010年、2015年、沖縄はどうするかという話、全く重なっているわけです。大田県政のときにつくったときの、あの国際都市形成構想とか、フリーゾーンとか、基地返還アクションプログラムとか、そういうたぐいのものは、ほとんど時間的に修正なく今日的にも重なると思います。ここがまず1つの押さえどころです。

 じゃあ、東アジアの中でどういう安全保障を考えているか。実は、核ミサイルを飛ばしきれる状況になった2つの国、パキスタンとインド、ここにアメリカがものすごく接近しています。細かい話は抜きにしますけど、アメリカの東アジア、アジア太平洋の軍事戦略は、確実にインド洋、南アジアにシフトし始めています。これが実はアメリカの在日米軍、在韓米軍の再配置の大きな目標になっています。

 そのときの前進基地、アメリカ領土しての前進基地をどこに置くかというのは、今はハワイですけど、グアムにもできます。グアムの5,000mの2つの滑走路と、それから米軍海軍基地の増築、増改築と言うんですか、もう既に最新型のミサイル搭載の原潜が1隻は配置されています。
 そういう意味で言うと、実は沖縄の米海兵隊、沖縄の米軍基地、在日米軍基地、これは時間の問題で、アメリカ側と日本側、どういう形で整理していくのか、軽くしていくのかというのが急速に議論は進むと思います。

 先行例は、韓国です。在韓米軍の動きを見てみるとわかります。いろんな言い方はありますけど、確実にあれが1つのモデルになると思いますが、韓国より居心地のいい在日米軍、とりわけ在沖米軍は、最後までアメリカ側部隊としては、特に海兵隊はみずから出ていくということは言いませんから、ここは正念場として、この1年間、宜野湾の市長を先頭に、5年以内に返還させようとする、運動は、普天間基地の包囲行動にも示されるように、これからまだ継続・強化しなければならないと思っております。

 伊波市長は、2003年の4月に誕生しました。彼は普天間基地の返還を5年以内にと言っています。2008年です。2008年は何度も言うようですけど、北京オリンピックです。それまでに北朝鮮の核問題、台湾の中国との関係、これを安定に持っていくとするならば、海兵隊が沖縄にいる必然性はない。それが実践できるのかどうか、実行できるのかどうか、県民の動きにかかっていると思います。

 ところで、普天間基地は「基地返還アクションプログラム」では2001年が撤退の時期でした。もうそれを過ぎています。そういう意味で言うと容易ではないと思いますけど、この流れは変わらないと思います。

 さて、そうすると、東アジア経済圏、東アジア共同体、そしてそういう議
論の流れの中で、多国間安全保障のシステムをつくろうという形で、今ASEAN10カ国を中心に議論が進んでいます。その大前提は何度も言うようですけど、東南アジア友好協力条約に中国は入り、韓国は政治混乱がありましたからこれからですが、日本も入る意思表明をしましたので、インドはもう入りました。ロシアが入る意思表明を、今回ASEAN地域フォーラムで出しております。そういう意味では東アジア全体の集団的な安全保障のシステムについて議論ができる体制になってきた。

 問題は、アメリカの基本はアジア太平洋では2国間安全保障体制を原則にしています。だから、集団的な多国間の安全保障のシステムはつくったとしても、これは補助的なものだと、こういう位置づけです。これを変えるには、やっぱり日本自体がその気にならないと変わっていかないと思います。こういう流れで、このアジアの状況を見てください。

 こういうふうな流れは、大田県政の段階で、国際都市形成構想、基地返還アクションプログラム、全県自貿を議論した、そしてこれを組み立てて県民に示し、県民に議論してもらった。そしてそれを県議会で論議して、一通りオーソライズしてもらった。この情勢の把握とほとんど変わっていないです。

 変わっているのは何かと言うと、その気にならない、そのことを実践しない、今の県の政治だということですよ。ですから、県の政治をどこでどう変えるのかというのが、今問われている。

 しかし本当に、環境アセスで3年、埋め立てで10年、滑走路や施設をつくる、シェルターをつくるのに約2年、その上で普天間を移して、15年使わせる、合計で30年。海兵隊「普天間基地」の撤退は2034年です。先ほどから言っている「2015年」のときの話と全然違うんです。それは常識的に言ってもおかしいと思わない今の県政の国際的な情勢認識と、日米の動きと、とりわけ沖縄の過重の負担を軽くしていくという行政責任者としての使命と言うんでしょうか、役割と言うんでしょうか、それを放棄しているんじゃないかという思いがします。

 本題に戻りますけど、ましてや自治権構想とか、分権をどうするかという議論にはとてもじゃないけど、頭が回らないのか、最初から考えていないのかどっちかだという気がします。わかりやすいように話しますと、一昨年ですか、沖縄で全国知事会があった。マスコミが全国の知事にアンケートをとりました。その分析がマスコミに載りましたし、それの、分析を指導されたのが仲地博教授だったようですから、仲地先生の話を使うことになります。
全体的にはやはり都道府県の合併、つまり道州制的な方向に流れはほぼそこに向かっているということを認識した上で、それにしても「九州は1つ」と言っている大分の知事、それに何ら異議を唱えない、迎合しているような形で沖縄の知事が発言している。これは問題です。にもかかわらず、どういう県のあり方をつくるかということをイメージも持たないで、市町村に対し、市町村合併のために尻をたたいているというのはちょっとわからない。ここはやっぱり市民や県民がそういう視点でものを言っていない。そういう視点でものを考えないから、結果的にそれが通用することになると思うんですが、沖縄でこの自治権を考える場合、自治を考える場合に、やっぱりこれがずっとつきまとってくると思います。

 私はこの40年間、「4つの節目」に関わってきました。
1つは、主席公選を求めた1964年の県民運動、これは例のキャラウェイ米高等弁務官の発言で「自治は神話なり」という有名な自治神話説があって、それを頂点に、前後に、大きな沖縄の政界と言うんですか、政党、あるいは経済界を含めて大混乱をした時期があった。わかりやすく言えば、キャラウェイ弁務官に言わせれば、沖縄の行政はだらしない。だから、金融界で汚職まがいのことが起こるんだ、経済界でもおかしいことが起こっているんだと。サンマ裁判などもありました。こういう形で「直接介入」した。これは琉球政府がだらしないから、こういうことになるという。

 それに対する県民の不満が高まっていく。そしてキャラウェイによる「弁務官書簡」政治、あるいは事前調整、事後調整で「法律」や「予算案」が否定される。これに対する反発が県民運動として頂点に達し、いわゆる「立法院事件」(主席指名阻止・自治権護得闘争)というのが起こるんです。

 詳しいことは65年5月20日に「沖縄の政党」という形で、比嘉幹郎先生が書いたものがありますが、それからちょっとこの文章を引き出したんです。当時、沖縄を指導していた、経済界も行政にもかかわっていた米国留学帰りの沖縄の指導者層が「金門クラブ」というものをつくって、今のハーバービューホテルですが、昔は米軍の将校クラブがあった、そこで月1回ですか、わかりませんが、集まってこの金門クラブに高等弁務官が来てしゃべる、演説する。

 これが63年3月5日の「キャラウェイ演説」です。このときにそういう批判を承知の上で、それに対する反論としてキャラウェイが言ったのは、現時点において「自治は神話」であると。つまり沖縄ではアメリカ施政権者から琉球政府への権限移譲があるだけで、現時点において自治を求めるというのは神話だと。かつ、それは、(ここからが問題ですが、)「琉球住民の自由意思で再び独立国となる決定を下さない限り、将来においても存在するものではない」と断言した。

 これは、すごく問題になりました。自由民主党が分裂しました。そしてその分裂を利用し逆手にとって、県民運動が高まりました。沖縄県祖国復帰協議会(自民党を除く全政党、民間53団体が入っている)が、主席公選実現自治権獲得県民大会を持つんです。宮古、八重山、北部、中部(中部はやらなかったかな)、そして那覇、最後にもう一度、那覇で総決起大会をやるんですが、このときに主席公選要求決議と、直接支配抗議決議の2本立て決議を採択した。これは6月段階のことです。10月の立法院の臨時議会で大問題に、県民が議会を取り巻いて、議会に議員を登庁させない、入れないという阻止行動をやった。機動隊によって議員が入ってしまうと、そこに今度は中に入っていた陳情団が、本会議場に議員を入れないという阻止行動をやった。結果的には議員が本会議場に入るんですが、そこで外のほうに抗議に集まった県民が立法院の玄関を割って開いて、本会議場に入って阻止するという行動まで展開するんです。

 これは弁務官による「強権政治」に反対するということだけではなく、琉球政府主席を、高等弁務官が任命するのではなく、「公選を要求」するという大きな課題だったんです。それに対して高等弁務官による一方的に任命する方式から、琉球立法院で指名をすれば、その人がふさわしければ弁務官が任命するという形をとろうと、指名方式に変わったのです。

 そのとき、大田政作さんが琉球政府主席でしたが、その人が優柔不断だ、仕事をやってないということで、与党からも相当問題になって、結果的にはやめろというコールが起こるんです。大田政作さんはヤンバル(国頭)の出身で、若いころは日本が台湾を植民地として支配していたころ、「澎湖島」、台湾海峡に澎湖島という島々があります、そこの司政官、いわゆる
「高等弁務官」みたいなことをやっていたんです。その方が、戦後は引き揚げて熊本の八代市の市長をやられていたんです。

 沖縄側から要請されて、弁護士をしていたものですから、いい指導者だということで沖縄に来て、この方が琉球政府主席に任命された。結局、キャラウェイ高等弁務官との間で、琉球政府との間でうまく処理しきれなかったという結果だったんでしょう。

 1962年、63年の、自治に関する県民要求、これは読んでみたらわかるんですが、これは今日的に言っても通用する内容なんです。実は今の沖縄県という「あり方」はだめなんだと、「琉球政府がいい」と言っているのはそういう意味なんです。このことからわかってもらえると思います。

 これをきっかけに、沖縄では県民運動が新たな出発をしていくのです。64年10月の「主席指名阻止闘争」で14名が刑事裁判にかかるんですが、67年には「教公二法阻止闘争」で24名が刑事裁判です。そして、68年に琉球政府の主席公選が実現し、県民が投票し、屋良朝苗さんが誕生した。ゼネストを構築し、嘉手納基地からB52がベトナムに飛んでいく、これを阻止するために「命を守る県民共闘」をつくったり、69年11月に沖縄返還協定があり、72年に日本復帰(施政権の返還)する。

 私は、この沖縄県祖国復帰協議会の事務局長でした。20代の後半でしたけど、63年~65年まで。そして65年、復帰協議会の事務局長を終え、みずから提案した沖縄県民に、もう一度、アメリカの沖縄の支配の実態と、日本復帰運動、憲法のもとに帰ろうという運動を構築するために、「全県網の目行進」という、今で言う平和行進を提案し、歩いたものです。このときの経験が1つですね。

 2つ目は、71年の屋良さんの「建議書」です。実は69年・11月の沖縄返還協定の締結後、直ちに琉球政府の中に復帰準備か始まるのです。日本政府の事務所が、今の与儀の那覇警察署、あそこにあった。南方何とか連絡事務所と言った、「南連」と私たちは略称で言っていました。ここに日本政府側の、事実上、大使館の役割をするメンバーがいた。ここと琉球政府側との間で、復帰に向けての準備が始まる。

 ところが、県民には知らされないままで、ほとんど表に出ない形でどんどん進んでいく。しかも、68年に就任した屋良琉球政府主席の下で行われていたんです、ですから、それはちょっとおかしいんじゃないのかと声が上がる。その内容を県民に公表しなさいと。だめならば、私たちがそれは点検して、こうあるべきだというのを出そうじゃないかということで、琉球政府の職員で係長クラスが中心になって、数名が行政研究会というのをつくって、「復帰措置の総点検」を始めるんです。

 年休をとって八汐荘に泊まり込んでという形で繰り返すんですが、そのときの仕事も私がかかわっていたので、2つ目の「屋良建議書」にかかわった。復帰後、自治はどうなるの、それでいいのかと。例えば、沖縄にある今の形です。そして日本政府との間で特別法として、「沖縄三法」ができる。沖縄開発庁ができ、沖縄の現地事務所として沖縄総合事務局ができる。

 これって、ひょっとすると、琉球政府時代の「高等弁務官」がおって、「アメリカ民政政府」があって、「琉球政府」がある。この構図と同じじゃないのか。これはちょっとよろしくないなという議論をした。政治団体の中には強かったけど、いや、問題は問題として提起しようということで、復帰したら自治が今まで以上になくなっていくことに対する警鐘を鳴らしたつもりなんです。

 そのとき琉球政府に、宮里松正さんという弁護士が副主席として入るんです。そして行政研究会がやっていた点検運動を琉球政府の正式の仕事として位置づけた。今までは年休をとって別でやっていたものが、いきなり琉球政府の予算で仕事ができるようになっていくのです。これが正式の文書として「屋良建議書」として日の目を見、日本政府にぶち込まれるんです。これについては後ほど、その問題点等について少し詳しく説明します。

 3番目の問題があります。これは81年、仲吉良新という自治労の委員長、当時県労協の議長をしていました。琉球政府の労働組合の沖縄官公労の彼は委員長、私は書記長で復帰段階を迎えるんですが、彼が自治労中央と話をしながら、復帰10年目、「2次振計」(第2次沖縄振興開発計画)に向けて少し自治を確立しようじゃないか、取り戻そうじゃないかという議論を始めるんです。

 1972年5月15日が復帰の日ですから、1975年あたりから3年ぐらいかけて沖縄でやったり、箱根、熱海、那須でやったり、つまりこの議論を、このまとめをするために、数名がいろんな場で議論をしたのです。そのとき、どうもこれは日本政府のかかわりが非常に大きくなってくるから、日本政府側で沖縄に一番理解をもっていて、しかもかなりハイクラスな者、それをつかめということになり、実は下河辺さんを引き込んだ理由はそこにあるんです。

 下河辺さんと私はちょっとつきあいがありましたので、自治労中央本部に下河辺さんを紹介して、この会議には下河辺さんがずっと参加する。つまり下河辺さんが当時は経企庁、その後国土庁ですが、沖縄の計画など、特別措置法なんかについての実質的なかかわりを持っていた。
復帰してもう7~8年、これでよかったのか、おれたちは不満だと。その結果、この1981年の特別県政構想をまとめたのです。最初は「沖縄の自治に関する1つの視点」という表現でレポートを出したんです。これは自治労が、自治労の加盟組合、県庁の労働組合、市町村の労働組合、全部集まって行政研究会というのを、地方自治研究集会というのをやっていた。その集会の場に出して、議論を全県的にしてもらおうということにしたんです。これが「特別県政構想」の過程です。

 このときにもいろんな議論をしました。もう面倒くさいから独立しようと、やってみようというのと、なんで独立かという議論です。つまり取るものを取っていないというのは、27年間のアメリカ支配の中で、本土とは違う遅れがある。福祉の面で、産業基盤、生活基盤の面で、インフラの面でと。いろんな部分で遅れているわけですから、極端に言うと1つ、「年金制度」がなかったのですから、琉球政府の公務員、市町村の公務員、学校の先生も、琉球大学もそうですが、それぞれが今、共済組合に入っているのは復帰後でしょう。復帰以前の掛金はどうするかという問題も、あの段階でいろんな工夫をしながら、国との財政的な、けんかをしながら位置づけていったいきさつがあります。民間労働組合、つまり厚生年金適用の民間労働者については琉球政府時代には「年金法」がなかった。これは大田県政で、もう一度私が苦労することになって、「特別措置」をつくらせて、県議会でも使用者負担分の徴収のため「特別条例」をつくってという形でつながったのです。

 そういう意味では、取るものも取れない、あるべきものがない。だから、これは「償いの気持ち」を日本政府に(1次振計に全部にそう書いてあるわけですから)、それを要求しようじゃないかと。そのかわり、出す金、財源、財政、これは基金として積み立てて、全部沖縄県によこせと。特別県政が自主裁量、自分で使うからという形に財政の問題を片づけるとか、一つ一つの仕組みについて、今の日本政府と県、都道府県の関係を断ち切っていくような、そして、本来的にどうあるべきかなど、復帰段階に特別法をつくったけど、それは本当にどういう意味を持ったのか。将来、これを続けていったらどうなるのかという心配をしたのです。

 1つは沖縄開発庁の問題です。これは法律ですね。沖縄開発庁設置法、2つは沖縄振興開発特別措置法、これは今「沖縄新法」と言っていますよね。沖縄振興特別措置法、3つ目には沖縄振興開発金融公庫法、「沖縄公庫」のこと。これを私たちは沖縄の日銀だと位置づけて見ようとこのとき論議したのです。全部、県民に取ろうと。沖縄が自由にこの公庫を使えるようにしよう。この発想はどこから出てきたかというと、琉球政府から出てきているんです。琉球政府時代にも開発銀行というのがあったんです。それが後に復帰段階で琉銀に中身が移されていくんです。一方で公庫のほうに引き継がれていくんです。いずれにせよ、幾つかの部分を復帰前とチェック、並べながら、そして本当に今のやり方でいいのかという改善を求めようというのが、この「沖縄の自治に関する一つの視点」という形で出した内容でした。これが3つ目のかかわりでした。これが特別県政という形に、87年ですか、それにつながっていく、そこはもう割愛します。
4つ目のかかわりが、大田県政でのものです。これは自治拡充の戦略ということで、きょうの本当のテーマにやっと到達したんです。

 大田県政をつくって、冷戦の終焉という「大きな変化」の中で、それを行政が実感できないままで、「3次振計」を大田さんが最後の調整をやって、国計画に乗せていくんですけど、それから10年間はほとんど予算執行の仕事しか残らないのです。

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