沖縄自治研究会

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大田県政の自治拡充の戦略 質疑応答 


○吉元政矩  山中さんの役割ですが、県民葬をやったり、いろんな市町村から栄誉賞と言うんですか、名誉市民賞的な動きで、その功績をたたえていますけど、私は率直に言って、それほどにあたる人ではないと思いますね。実際にやってきたことを行政の場でと言っても労働組合をやりながらも、私は県庁の労働組合でしたし、復帰段階でも琉球政府の公務員でしたからよく知っています。
 山中さんが一番輝いたのは復帰段階で、沖縄開発庁をつくったときです。その直前、まだ復帰していない5月の初旬、私は琉球政府の8,000名の職員の「身分引き継ぎ」と「賃金の保障」などをめぐって、最後の日本政府との交渉に行くのです。山中さんは沖縄担当の総務庁官、私が突きつけたのは復帰の日の直前にストライキに入れますと、琉球政府の公務員、つまり官公労が。準備指令は出しました、あとは最終的に決行するかどうかですということを力として示した上で、その解決を迫りました。
 これは異例なことで、本来ならば「出ていけ」と言われる話らしいんですね。そういう意味では睨みつけられました。総評出身の社会党の国会議員が立ち会っていました。目の前で大蔵省の主計局長に山中さんが直接電話をして、必要な何十億という金を取りました。前からそういう話があったんだけど、それを「おれが取った」という形にしたかったんでしょう。そういうセレモニーが必要だったかもしれません。このことは、実は橋本政権に入って沖縄政策協議会をつくる時、50億の国際都市形成構想の調査などに特別予算をつくるため、総理大臣が回答を出したときに、私はすかさず、本人に橋本さんに本当ですかという聞き方をしたんです。
 交渉はいつも値切られますので、幸いに連立政権で社会党も政権におり、大蔵大臣が社会党議員でしたから、鹿児島出身で日教組出身でしたから、帰りの足ですぐ大蔵に飛び込んで大臣とサシで話し合ってみました。「吉元さん、それはもう既に決まっていることだから、心配するな」と、一言ですよ。
 つまり、本当に山中さんが沖縄のために、沖縄の地域のために道路予算を、公民館予算を、橋の予算をという話はたくさんありますが、あの人でなければならなかったかというのはないんです。
ただ、「仕組み」として非常に怖い組織だなと思ったのは、山中事務所に関係省庁の沖縄事業について、沖縄関係の法律から、予算から、そこを通さなければ、説明してOK取らなければだめだという形になっていた、ということです。
 そこが問題で、つまりそれは自民党政治の汚い体質の問題で、官僚がそれを使って、逆に沖縄を抑えてみたり、逆に言えば山中さんは官僚の立場を考えて、おれが、じゃあおれの回答として沖縄の陳情団に言えばいいのかというふうな、そこはあうんの呼吸というか、それは政治家が出てくる政治の場ではいつもあること。そういう意味で言うならば、山中さんが本当に何のためにと、例えば、池間大橋を山中さんの一声で予算がついたというけど、違うんですよ。
 税制の特別措置で「優遇」されている沖縄のある老舗の企業が、山中さんが沖縄に来るためにリンカーンを運転手付きで年から年中磨いていたという話はあまりにも有名です。こういう意味で、特別に沖縄側がそういうふうにまつりあげ、利用していたというグループがあったのは事実でしょうね。それは今言った部分が本質だけど、つまり沖縄の経済界が復帰特別措置の中で、税制関係について優遇措置、つまり有利ですから、これを継続するために相当大きなパイプを選挙運動のときから、人を送り、金も送りというのがずっと続いていたということです。そこのところはひとつこれ以上言わせないでください。
 下河辺さんについてですが、特別県政とか、道州制の問題についての熱心ではない。仕事するのは一生懸命やるけど、組織がどうのこうのというのは関心はない人です。「新全総」の段階で、実力を発揮したと評価されている。 
沖縄の海兵隊を撤退させる、それは私が引き受けましょうと、国会議員が言った。私の選挙区に持っていきますと。北海道の苫東の開発、これは新全総のときに、いわゆる大開発拠点として、下河辺さんが音頭入りでつくった志布志湾と、むつ小川原と北海道の苫小牧です。「苫東」です。むつ小川原については原発の廃棄物処理場でしょう。志布志についてはもうダメです。北海道はどうなったかといったら、今ではペンペン草が生えて、マイナス13mの港湾がほったらかし。ある政党の党首が引き受けますとのことです。在沖縄海兵隊に必要な全施設をつくり、家族を含め学校・郵便局等、一つの町をつくります。しかし将来的にはアメリカは全部出ていってもらう。「有事駐留」という議論をこの党主が位置づけ、それを引き受けたのです。
 そのときに、下河辺さんに相談したら、彼が言うんだったら責任持つはずだ。じゃあ自分がバックアップするということで、NIRA(総合開発機構)へ国から予算を流し、沖縄の基地問題をどうするかということを考えるために、将来の東アジアにおける安全保障の議論をする、そういうレポートの延長線上に位置づけ、実質的には沖縄の米軍基地を向こうに持っていく、この作業を仕上げた。仕上げたけど、これが不幸にして野中広務官房長官の知るところとなり「お蔵入り」した。 
戦災復興も終わった、それから地域拠点開発も終わった、ビッグプロジェクトも全部終わった、しかし残っているのは沖縄なんです。普天間の跡をどうするのか、この上之屋の跡利用を見ているわけですから。下河辺さんにとって見るならば、最後にやりたい仕事が沖縄なんでしょう。
 そこは、私はズバッと本人にも言っていますよ。ちょっと怒られますけど、例えば、普天間については地主の土地を99カ年で借りましょうと、その土地は公的に全部使いましょうと、自由にデザインしましょうと、じゃあ、そのモデルはと言って、私がオーストラリアですかと言ったら、そうだと言う。あの首都、キャンベラですね。あそこはそういう方式なんですよ。それであそこに政府庁舎をつくったんです。それは僕たちも前から勉強しているんです。
 ですから、そのことを、それを都市整備公団につくらせるのかというと、それはまずい。新しく特別法をつくって、沖縄の基地の跡を担当する機構をつくるのでなければ、沖縄県庁でも手に負えない、宜野湾市ではましてや手に負えない。この10から15年の間の返還跡地について、嘉手納基地以外の部分についてイメージすると、これは大変な仕事です。これを単なる基地の跡利用と考えないで「戦災復興」のための特別措置をつくろうと、「戦災」というイメージを打ち込むんです。政府と国民の中に沖縄の戦後は終わっていないということを。しかし、その戦災という言葉を沖縄の米軍基地跡地利用という言葉にかえていくのですから、イメージとして、思想としてはそういうのを確立する。ここは下河辺さんも一致しています。ですから、下河辺さんの力はまだまだ使えるし、沖縄に入れてほしいと思っています。沖縄サイドに立っているかどうか、あとはそういう私の説明からどう判断するか、自分でやってください。
 岡本さん、ほとんど面識ないんです。正式に対話するというのは1回もないです。彼の仕事が基地所在市町村の「島田懇話会」の面倒を見るということですので、私との接点はほとんどないです。当時、沖縄県との接点も余りない。県との話と言うより、むしろ当該市町村との話を詰め、特別に事業費を取ったから、まあいいだろうという形でおさめていた節がありますね。岡本さんは自衛隊のイラク派兵で「私利・私欲」を批判されてしまったが、そういうブローカー的なことをやったらいけない。
 それから、かなり重要な部分が出ました。「5つ目の節目」の問題ということです。タイミングはそのとおりだと思います。このタイミングは逃がしたらいけないと思います。少なくとも北海道が小泉「行政特区」という形で走るということですからこの流れは変わらない。地方制度調査会は、都道府県合併の協議に入りましたから、いずれにせよ2年後の3月には最終報告が出るわけですから、それを踏まえ国会に法案が出される。例えば、東北3県、青森、秋田、岩手です。そこは当然統合されることを前提に、20幾つかの県事業について、3つの県で調整して役割分担をしてもう走っているんです。
 つまり都道府県の合併というのは、道州制というのは形ではなくて、中身なんです。少なくとも沖縄は「九州とは違う」というだけでも、県民意思として先に決めるべきだと思います。
 先ほど、タイミングの話がありましたね。私は率直に言って、この時期は、沖縄は沖縄だと、これを県民が意識することです。それで県民がそれでいこうという認識を合わせることだと思う。そのことを県政としてはっきりさせていないから、県議会でさえ、政治家の皆さん一人一人がどう考えるかということを持っていない。大変不幸なことです。
財源の問題が出ました。3,000億円です。もったいないですね。あの段階では時期尚早だったと思います。今考えると、もっと価値は高まっています。ただ、言えるのは、あのときに財政を年間の必要額を沖縄に最初によこせというべき、予算要求するのは沖縄です。政策の形成能力と、対政府交渉力の話がありましたが、そのようなパイプはもういらないと思います。基本は2000年4月1日から効力を発した地方自治法の改正、つまり機関委任事務の廃止で、自治体が自分でみずからの意思で事業を決めていくということです。
沖縄的に言うならば、もう「次の振興計画」があると思わないで、沖縄が自分で決めるのです。事業計画、財政計画までも。必要な財源を国に要求する場合、そういう意味では「国境」と言っているんです。東西1,000km、南北400km、つまり海を含めた沖縄です。尖閣問題をある県会議員が選挙政策に入れましたけど、これも20年近い私たちの検討の結果です。96年11月に台湾に行って、李登輝総統と話し合い、「尖閣の開発」についての議論をした。沖縄に、「全県フリーゾーン」が実施された場合に、台湾を含めて華僑資本がどういう役割を持つのか、沖縄の上に人工衛星が必要、そのとき台湾が一つ打ち上げるという話もでた。立会人に経済団体代表を連れてこいと言うから、同行してもらった。今の知事です。
 そういう意味では、どういう沖縄をつくるかという沖縄の形と、沖縄の中身をはっきりさせることだと思います。そして持っている資源、エネルギーを有効に組み立てるということです。米軍基地がなくなっていくことを頭に置きながら、それを人質にして金を取れるという時代にない。そんな金はないということをどう理解できるかということから、この問題は出発させるべきだと思います。
 あと、一つありましたね。一番苦しんだのはそれでしょうね。大田県政がぶつかった問題です。それは95年の4月頃から、大田知事は「代理署名しない」と明言していた。8月の末になってもう最終的に腹を決めたから、総理大臣に言ってこいと言うので、フローチャートをつくりました。必ず知事が告訴され最高裁までいく。そして過去の最高裁の安保にかかわる問題の判決の傾向から、「負ける」。負けてもいいが、県民に対して何を残すのかをしっかりしようということで、シナリオをつくり、2つの選択肢を提案した。A4判の1枚にワープロを打ったペーパーを渡した。
 そして、県民投票をやっている9月8日、それで最高裁がその前に判決を出すだろうという予測をした。これもずばり当たりました。少し露骨すぎましたね、最高裁は。官邸からあんな形で判決の時期を指定される(?)というのは悲しいけど、しかし現実の政治はそうなんです。そういう意味では、多分、8月中には、夏休み中には出るだろうと。その後、県民投票が成功するかしないか、実は私の関心は全部そこにありました。最高裁で負けたらもう投票に行かんということになるんじゃないか、そうすると沖縄県知事、じゃあ、最高裁の判決を無視し、代理署名をしませんと言って、ずっと突っぱねていけるか、そこがシナリオに書いた最後の部分です。それでもいいとするなら、結果的には追い詰められて辞めざるを得ない。だったら積極的にやめて、みずから県民に信を問こうとも選択肢の一つだった。
 その結果、当選してどうなるの、また同じ繰り返しか、ここが一番行政のつらいところです。ここまで議論しました。そこは大田さんも頭の中にあったと思います。しかし、結果的にはそのことだけが行政じゃないと、ここが一番難しい決断で、県民とぶつかった部分です。
基地問題をどういう形で全体の中で展開していくか。つまり「基地返還アクションプログラム」の展開と、併せてその後の地権者や労働者や、あるいは基地の跡利用を含めた振興策と、それから沖縄が目指す基地全廃に向けての「21世紀のグランドデザイン」、ここにつなげていくプロセス、これをやったんです。
 本来ですと、夜中までハーバービューホテルで各界の代表と県が話し合ったんですが、大田知事がみずから出て話し合えば、それだけの不満はあったとしても、知事との話し合い、直接話し合い、知事の本音を聞きながら、そこが行政の限界か、これは県民運動で克服できるのか、あるいはどうかと一緒に悩む、悩み方があったと思います。
 結果的には、自分はちょっと調子が悪いとのことで、私が全部役割を負った。私はあのときに、1969年2月4日のゼネストのときに、1月の末に国から相当巻き返しがありました。今だからこそ言えるけど、政党がなくなったから。日本社会党の中央本部や総評からもゼネストは「回避すべき」という圧力が、労働組合にありました。それだけじゃないです。県人会が動き出すなど、ましてや労働組合の産別組織の中央が、例えば、全逓なら全逓の本部が、政治部長が、共闘部長が乗り込んでくるなど。私がかかわっている沖縄官公労は琉球政府の職員の労働組合です。琉球政府のつながりは何もないんです。日本政府とはつながっていない。総評加盟ではあるけど、別に総評の指導を受けているわけではないし、自治労とは友好関係だけど、それは復帰したら県庁労働組合ができるという意味でつながっているわけで、そういう意味では直接指導関係にもない。だから、完全にフリーなのは、大きな組織では沖縄官公労だけです。最後まで県労協の中でゼネスト突入を働きかけた。無責任なと言ったらまた教組から怒られるかな、沖縄教職員会が琉球政府の主席である屋良さん出していながら、表では強いことを言って……。
労働組合は、携帯マイクかついで毎日ガーブ川の商店街を歩いていました。「一日休んでください」と。琉球商工会議所の国場幸太郎会長さんにも、銀行頭取なんかにも、直談判して、なんで台風がきたら2日も休むくせにさ、何で1日ぐらい休めんかと言ったんです。そのときに国場幸太郎さんが、そうだなと、「台風が来たと思えばいいな」と言ったんです。これは成功すると思った。米軍が全軍労の基地労働者を全部基地内に封鎖して、基地内で泊まらせて出さないということも言われた。ついに、「総合労働布令」を出したでんです。そして基地労働者と、それをあおりそそのかした者まで処罰するというのが、総合労働布令ですからね。
 結果的に全体の流れの中でゼネストは回避されました。大所高所からの判断というのが、それは屋良主席だけではなく、屋良さんの周辺にもあったんでしょう。
そのときの渦中にいたものですから、この「代理署名」、「最高裁の判決」と、それから9月8日の投票日、その後どうなるか。最悪の選択である、シナリオである、辞表を出すということについては、私は進めなかった。それはやるべきじゃない。同じ繰り返しをすることになる。辞めるならば辞めても知事選に立候補するなということです。実行するなと。それでも新しい知事は署名をやらざるを得なくなる。これが機関委任事務、つまり地方自治体のあの段階での限界です。もう1回裁判やればいいんじゃないかという話もあったが、そんなものも成り立つかなと思って、弁護団に聞いたら、みんな笑っていました。
 大田県政があのときに最高裁判決、そして県民投票、その結果、いち早く国と手を握った形で、それは事前にもうシナリオができていたような形で、ぱぱぱっと間髪なく、間断なく作業が進んでいく。これを見ていると、「なんだ大田は」という怒りが出たのは、これはもうやむを得ないことだと思います。
 でも、政治は解散総選挙をちらつかせて、政治はもう走っているんです。もう東京は全く機能麻痺なんです。政党も使えないんです。そういう事態でした。そういう意味では、非常に苦しかった。苦しかったけど、あれを統括し乗り越えたにもかかわらず、97年の例の名護の条例制定の署名運動から始まって、市民投票を生かしきれなかったところに、問題があると思っています。
名護市民投票がなぜ、私はそれの処理を誤ったという表現をしているかということです。
 市民投票97年12月の19日か20日の、日曜日。名護住民投票になれば、「海上基地」はだめになるというのは、沖縄では常識なんです。名護市民の投票といえども。名護市長が比嘉さん、自民党であっても、それから市議会が圧倒的に3分の2も与党多数であっても、投票に入れば、基地反対が多くなる。日本政府はそう思わなかった。特に嘉数知賢・国会議員は、もうがたがたしてしようがないから「決着つけよう」と。だから署名提出を受けて、すぐ条例をつくって議会に送った。議会も説得してあると。この裏には全部、国が書いたシナリオがあった。私はその裏を知っているから、これは総力戦だなととらえた。沖縄と東京の、自民党政治との真っ向からの対決になるだろうと思った。これを指導したのが野中広務さんです。
当時は自民党の副幹事長だったと思います。陣頭指揮に入ったんです。だから総合事務局だけではなくて、政治家もたくさん名護に入ったけど、公務として防衛施設局の職員が朝から晩まで入っていたでしょう。そういう意味では公職選挙法が適用されないんだから、何でもありなんです。結局、絶対に勝つと言っていた。10月の上旬だったと思いますけど、あれが最後の副知事としての東京出張だったんですが、沖縄開発庁で嘉数知賢政務次官が自分の部屋に私を呼んだ。「吉元副知事、勝つからね」という。「いや、おれは勝つよ」と私が言ったら、彼は「いや、自分が勝つんです」、これで決着つけますと確信に満ちていた。
 県議会におけるこの問題についての知事答弁は一貫している。総合的に県は県として判断します。しかし、第一義的には当該地方公共団体、つまり自治体の住民の判断ですと。これは自治にかかわることですから、これは抜きにして、県がなんでもかんでも先に結論を出せというのは、それを求められていましたけど、それは乱暴です。
投票の結果は、名護市民はノーという結論でした。その晩、翌日、東京に行って報告せざるを得ない、日程化されている比嘉市長が、大田知事を探すんです。会ってくれないということで、当時の助役が夜中から、副知事でもない私に電話をよこすんです。私も手伝って、探しました。どうしても「電話はつながらない」。私と大田知事の間でも、つながらない。そういう状況だということで名護に電話した。そのとき比嘉市長は、那覇に向かう車の中なんです。悲しい思いをしたんじゃないかな。
 結果として名護市長の比嘉さんは、上京し下河辺さんに、まず強引に説得されたという。そのときに一番大きな役割を果たしたのは岡本さんなんです。そういう意味では岡本さんの役割というのは、まさにそういうところにあった。その後、比嘉市長が橋本総理に会って、海上基地建設を認めますという。その上で「市長を辞職」することを、ぶら下がりの記者に、官邸の玄関で言うんです。
 大田知事も上京していたんですが、大田さんにも今言った2人は相当アタックしたという。この流れについて大田さん自らが本音で書いてもらいたいです。多分、書かないでしょう。そういう意味では大田さんも相当迷ったかもしれないが、行く前に、こういうアドバイスだけはそのとき担当職員に言った。
知事はまず橋本首相に「投票結果を尊重する」、これが私の立場でありこれは自治の原則ですと。まだ支持団体や政党や、あらゆる県内団体の意見を聞いていませんので、じっくり聞いた上で「最終結論は出します」と。こういう表現をしてくれと言ったんです。
 年明け、98年2月3日あたりに、大田さんがNOという記者会見をする。その間に官邸サイドと、あるいは防衛庁、外務省担当者が沖縄まで乗り込んできて、知事や、当時の三役と議論しているんです。
 私の考えはこうです。打つべき手、大事な節目できちっと考え方を述べる、あるいは態度を示しておく。これは、政治の場では最低限必要なことだと思います。同時に、あやふやな態度でことを見ない。必ず一つの方向についてこうあるべきだと、このほうがいいと思ったら事前に自分の考え方はこうだということを言うべきだと思います。そして、県民が判断したものについて、イエスかノーか最終判断し、それが結論が別だったら自分は辞めればいいんです。ただそれだけなんです。大して難しい仕事ではないですよ、首長というのは。
 つまり、出した結論が悪かったんじゃなくて、節々で筋を通して言うべきことを言わなかったことのツケが、全部最後に回ってきて、それを理由に拡大生産されていった。沖縄政策協議会を持たないと言われて、ばたばたと追い込まれていった。
この問題のもう一つの裏は、東京では、自民党、社会党、さきがけの政権を壊して、98年の春から、公明党との連立政権をというのがつくられていたんです。そのときにいろんな動きがありました。沖縄知事選挙と上原康助さん。なぜか本人はその気になって動き出して、沖縄で問題を起こしたんだけど、本気で出そうとしていたのは間違いないです。
 そういう意味では、もう大田県政つぶしではなくて、この沖縄問題というよりは、日本の政治の枠組みの中で、「次のステップ」に向けてどうつくっていくか、連立政権をつくっていくかということで、もう動いていたということです。
8月の末、大田知事に県議会与党の公明党会派が何項目かの要請を出したのです。その中の一つに、海上基地について柔軟にとらえていいんじゃないかと、検討を求める表現があるんです。これをそのときはっきりと知事は考を述べればいいのに先送りし、9月県議会で言うんです。代表質問を受けて。
 あの海上基地の前に、那覇軍港の移設の問題で2つの提案があるんです。日本の鉄鋼関係のゼネコンです。1つは那覇港の沖のほうに巨大な鉄でつくった浮き桟橋、橋本案で言う普天間の移設の海上基地と同じです。そこに那覇軍港を移す、普天間を移す、牧港兵站基地を移すという構想です。これは沖縄県民にとっては、軍港はなくなるし。普天間はなくなるし、牧港兵站基地もなくなる。私は見て、これはやっぱり臭いなと思いましたね。案の定、これはだめになりました。
 もう1つは、アメリカ側が積極的にある業者を動かしてつくろうとした。嘉手納の沖のほうですよ。そこの埋め立てがあった。これは埋め立てですから、全く最初から話にならない。もう一つ本物になりかけたのがあるんです。金武の沖合に少し近いところに浮体構造で巨大な推進力のない航空母艦のようなものをつくる。そこに陸とつながる橋を架けるんですが、そこに普天間基地を移し、那覇軍港も移そうという話です。
 これを出してきたのが、マサチューセッツ工科大学のグループです。これは設計図が出ていたんです。金武町長が乗りまして、吉田さんの前の町長です。それにかかわった中間業者との関係で問題が起きた。これで逮捕された。これはそれを機になくなっていくんですが、これには県内大手業者が乗っていました。日本の鉄鋼業者も乗りました。つまり、横須賀の沖に海上基地の実験を始めた時期だったんです。それを日本政府がつくる、しかもアメリカの仕様でということになります。外務省で問題になったのは、エンジンがついているんじゃないかということです。推進力があると、軍艦です。航空母艦です。これは武器輸出三原則などにひっかかっていくということで、そのほかの法律もあるみたいだけど、これはそこまでできないと。エンジンをつけないと発電できないです。
 そういう意味では、当然エンジンをつける。推進力はあるかと言ったら、その設計図では書いていなかったけど、多分取りつけられるでしょう。これはなぜアメリカがそういうことを考えたかと言ったら、実はこれの発案はラムズフェルドという。今の国防長官です。彼があるシンクタンクのトップをやっていたときに、彼のところでまとめた報告書がある。ペンタゴンの発注です。
 金武のこの海上基地案というのは、そのかわり地域には、漁協には海面と海底は全部使わせると。だから養殖をやればいいんじゃないのという話ですね。
 大田県政にゼネコンがどういう影響力を効したかという点で言うならば、私の記憶ではほとんどないですね。それは最初から入札制度を変えましたから。オープンな公開入札を前提に、それに行く過渡的に2段階をつくろうということで始めていたんです。
そういう意味では、2期目に入る段階で、中小の土木建築業の皆さんに評価された。
 まだ言い足りない面があるかもしれませんが、、、、、。
総務省の存在ですよね。前の自治省に比べるとかなり柔軟になったという声は聞こえます。でも、潜り込んでしまって、何かちょっとわからなくなったというような議論があります。
 橋本行革と、それを今実行している小泉行革との共通点は、大蔵・財務省主導です。だから本質は変わらない。橋本行革は結果として大蔵を喜ばせたということです。小泉は大蔵族ですから、その上に全く乗ってしまって、すべて小泉の仕事は大蔵が支配して、そういう中で「三位一体」の財政問題など、今の総務省が前に出きれない、かつての自治省だったら、まだ自治という言葉がついているので、表向きは頑張っていたけど、今はだめだと言われています。これは本当かどうか、私は今行政の場にいないから、ちょっとわかりません。
 でも、結局は2000年の地方自治法の抜本改正を、つまり自治を本気で都道府県がやるかどうかですよね。つまり、行政としての都道府県の頭ではなくて、「自治体」としての質を本当は持ちきれるかどうかにかかっていると思います。もう一つは、「構想力」ですね。
○質問者(江上能義)  すみませんが、以前から吉元さんにお聞きしたいことがありました。それはここにご出席の皆さんにも共有できる質問だと思いますので質問させてください。
 代理署名応諾の局面に戻りますが、あの緊迫した局面では大田県政にとっては本当に難しい選択だったんだろうと私も思います。相当、苦労されたことでしょう。私がその当事者になったとしてもどういう決定をしたかはわからないぐらい、やっぱり難しい選択だったと思います。ただ、さきほども高良さんから指摘があったように、あの闘いというのは本来、やはり民主主義の闘いだったと思います。私もそういう趣旨の論文や論説を当時、書き、発言しました。民主主義の闘い、それは沖縄が一丸となって大田知事を先頭として、このように米軍基地を半世紀にわたって沖縄に押しつけ続ける日本の民主主義とは一体、何なのか、ということを正面から問いかけた復帰後、最大の沖縄の闘いだったわけです。そして大田知事が代理署名を拒否して政府と全面的に対決したとき、日本国民はそうした沖縄の闘いに共感して、大田知事を圧倒的に支持したんですね。
 あのとき大田さんの人気はもう抜群でした。ある世論調査では、次に首相にしたい人のトップになったくらいです。大田さんを次の首相にしたいくらい、当時の沖縄の闘いに共感した国民は実に多かったのです。ところが、“50億円の調整費と政策協議会の設置”で 大田知事が代理署名に応諾した途端に、「何だ、結局、沖縄は金が欲しいのか」と受け止められ、国民の支持が急落した。これは、吉元さんにとっては非常に耳が痛い言葉かもしれませんが。
 前述したように、当時の複雑で緊迫した状況を考慮すると、確かに難しい政策決定ではあったんです。沖縄の経済は悪化する一方だったし、“大田離れ”もささやかれていた。やむを得なかった部分もあったかもしれない。ただ、そうだとしても、私はやっぱり応諾の仕方が、まずかったんじゃないかと思います。確かに当時、沖縄県は「国際都市形成構想」を強力に推進したいから、それに対しては国の財政支援がどうしても必要だった。そのことは十分に理解できます。そうだと思いますけれども、代理署名応諾の条件として、国際都市形成構想のサポート、つまり50億円の調整費をトップに掲げたことがまずかったんではないでしょうか。例えば、応諾の条件が「沖縄の自治拡大と政策協議会の設置」だったら、県民の納得も、それから国民の納得も十分、得られたんではないかという気がします。それは民主主義の闘いの範囲内だからです。沖縄の自治と政策協議会の設置を最優先の条件として、そして50億円の調整費、すなわち国際都市形成構想への国の財政支援は順位としては3番目以下に掲げればよかったのです。あの時点では衆議院の解散が間近に迫っていて、政府も追い詰められていましたので、国際都市形成構想への財政支援は受け入れられたはずです。そうすれば、沖縄の民主主義の闘いは一貫し、その後の大田県政の推進力が衰退することはなかったのではないかと思うんです。
 とはいえ沖縄の自治改革には時間を要するので、当時、そう簡単にはできなかったでしょう。ただ、それを“見込み”の要求事項として、政府に提示することができなかったのだろうか、ということを実は以前からずっとお聞きしたかったのですが、きょうは吉元さんに来ていただいていますので、ぜひご意見を聞かせていただけるとありがたいです。
○吉元政矩  一言だけ。沖縄政策協議会はその前に決まっている。50億は確かにそうですよね。それは、国際都市形成構想を推進するためのもので、県民投票の後に出てきている。
○司会(仲地博)  終了時間は7時10分にいたします。あと9分、残りの9分の使い方は私がコーディネーターの職権乱用で、私が質問を1分やります。吉元さんに3分答えていただきます。その後、島袋さんと佐藤さんに2分ずつ一言の感想を述べていただいて、7時10分の終了にしたいと思います。
 私からの質問ですけれども、今日、吉元さんは何でも話してくれそうなので、この際と、それにもうなくなった政党ですから、いいかなということで、2・4のゼネストのときに、社会党の中央がゼネスト回避に動いたということですが、代理署名のときも社会党が代理署名の応諾、あるいは訴訟の取り下げに動いた感触を持っておりますが、このへんはどうだったんでしょうか。私も人を介して働きかけてきたことがありましたけれども、側聞、他の例も側聞いたしましたが、それについて裏の話をお聞きしたいです。
○吉元政矩  代理署名のときは村山政権、官房長官も社会党、官房副長官も社会党、でもそことの話はほとんどやっていないです。社会党の沖縄総合対策委員会というのが党の中にあり、山口鶴男さんが代表でした。その代表に上原康助さんが、つけなかったということで、書記局によると機能停止していたという。事実上はそこが窓口になって。
 最終的には、故人となった前島さん、岩垂さんとか、まだ元気な伊藤茂さん、この3名が最後のまとめをして、官邸との詰めに入るんです。ですから、村山さんもあの段階では実は割り切っていた。もうこれは行き着くところまで行かないといけないと。しかし、「おれは怒られるだろうな」ともらしていた。
 ですから、それ以外がどういう動きをしたかというのはちょっとわからないですね。労働組合関係も、これについては連合沖縄が渡久地会長を中心に、署名運動から一切合財動いたものですから、連合の中央、沖縄の労働組合関係の中央、そこを関連して出ている国会議員、社会党、ほとんど圧力はなかったと思うんですが、それ以上は具体的にはわかりません。ただ、私のところには100%なかった。
○司会(仲地博)  ありがとうございました。
 最後に島袋さんとサトウさんに2分ぐらいずつ感想、あるいはご意見、ここだけを言いたいというところを一言ずつ。
○島袋純  大田県政の評価はいろいろやっているんですけれども、基本的な方向性は、僕は自分が書いている論文でも、大田県政の位置づけというのを書いているのですが、グローバリゼーションの中で、どうやって新しい自治体をつくっていくかといった問題だったと思うんですよ。
 それで90年代のあの状況の中で、そのときの一番の潜在的な力は何なのかと言ったときに、僕はやはり住民自治の能力というか、市民自治の能力というか、その起爆剤、これを爆発的に発展させていく中で、基本的に自治を達成していくという仕組み、これをいかにつくれるかということで取り組むべきだったと思います。実を言うと、先ほど、96年の代行応諾のときと、それから97年のときの問題、ちょっと種類が違うんですけれども、両方とも結局住民の自治に対する力とか信頼とか、住民が自分たちで世の中を変える力を削ぎ落としていったという点では共通している部分があって、それがずっと今に尾を引いているという部分だと思います。ガバナンスという論文を書いたときは、やっぱり一番問題だったのは、そういった市民自治の機会、それが発展する機会、あるいはそれがより力づいていくときを沖縄の政治が逃したということです。市民自治の発展という視座からのタイミングの問題ですね、僕の発想としては。
だから、県政にとっては政府等のいろんな交渉の中でのタイミングという問題、確かにそういうのは非常に重要なことがあるんでしょうけれども、と同時に、市民の自治の力を向上させていくタイミングと言いますか、そこに非常に力点を置いておかなければならなかったと思うのです。そこがやはり気にかかるところで、今後の沖縄県政に残された大きな課題であるし、先ほどからも言っていますように、それをどうにか再び掘り起こすために自治研究会というのは非常に幅広い市民の参加の形式で、しかも政策能力を持つ、あるいは単なる反対するのではなくて、案を出していける市民的な動きというのを支える研究がどうしても必要だろうということですね。
 ですから、後期、これからどういう議論展開になるかわかりませんが、なるべくメディア対策もまだまだ十分じゃないということを強いご指摘がありましたので、県民との、できるだけ広く巻き込む形で、この新しい自治のあり方について議論を進めていかなければならないなというふうに、きょうは特に痛感しました。
○佐藤学  沖縄への新参者の自分としては、ギリシャ悲劇を見ているような、大変なお話で、非常に圧倒されてしまいました。圧倒された一つの理由は、沖縄の抱えている問題が、本当に困難であるということを、改めて確認したということがあります。
 話しやすいことをまず話しますと、下河辺さんの位置づけということが、吉元先生のお話で自分の中ですぱっとおさまりました。この前、江上先生のお話を伺ったときに、私はそれまで下河辺さんの沖縄問題での活躍ということは存じていませんでした。下河辺さんといえば、開発の主導者としてのみ、認識しておりました。それと沖縄のイメージをどうつなげるべきかわからなかったのですけれども、今日、開発屋としての最後の関心が沖縄であったということで、なるほどと思いました。非常にすっきり自分の中で理解できました。
 吉元先生のお話の中で最も重要だと考えるのは、これは自分がいつも考えていることなんですけれども、これから何を、先生のお言葉を使うと、「人質」にして日本政府から金を出させるかという点です。基地ではないだろうということをおっしゃっていましたが、当にこれからどうやって食っていくのか。基地があるがゆえにお金が来るという構造がなくなっていく。これは多分、確かなことであろうと。
 だとすると、先ほどの島仲さんの話、あるいは阿部さんの話にあったように、どういう論理で、日本に金を出せと言い切れるのか。もしかすると、県民の側で、基地を残して下さいという声が大きくなってしまわないかということを、私は大変心配しています。本当に、どうやって食っていくのかということを考えないと、これはどうにもならなくなってしまうのではないか。そういう、いつも考えている問題を、また再確認、再認識させて頂きました。
 今日は、これほどまでに圧倒的なお話を伺って、うまくまとめられませんが、心からお礼申し上げます。
○司会(仲地博)  佐藤さんの話、最後の締めくくりにふさわしい話になりました。
 きょうは、吉元さんの話の魅力を十分堪能したという感じがします。世界の流れの中で、沖縄を見る、それから行動力、交渉力、それを吉元さんがどういうふうに実践をしたかということも、我々は学ぶことができましたし、また政治家の話として話されましたけれども、言うべきことを、きちんとしたことをその時期に言うことの大切さは、多分、人生においてもそうなのだろうと、きょうの吉元さんの話は、我々はそれを過去の話として客観化してはまだいけないだろうと、今が第5の節目であるという発言もありました。我々はこの節目を間違いなく乗り切るために、まだ吉元さんの分析力や構想力をお借りしたいと、ぜひとも知恵をお貸しいただきたいと思います。
 本当に長時間、私は勉強や会議が嫌いで、私が司会をしたら早く終わりますけれども、きょうは予定時間を1時間何分もオーバーいたしました。吉元さんの話の魅力だったと思います。本当にきょうはありがとうございました。
(拍 手)



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