JR3QNH'S BLOGSITE

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父とのこと。。。



 考えたらあの怪我は6月の夕暮れに近い時間だった。もう、事故の現場は圃場整備ですっかり様相を変えてしまったけど、私には忘れられない。玉葱の収穫に忙しくしていた両親と祖父。何を手伝うというわけでもないのに、田圃に出ていた兄と私。夕方が近づいてそろそろ眠くて仕方が無い。仕方が無いので、玉葱を満載した荷車の上に乗っての帰宅。そして、ゆる~い左カーブに差し掛かり私は見事に転げ落ちてしまう。そして、両親は慌てて近くの診療所へ私を運ぶことに。

 怪我をしたのは頭の左側。耳の上には今でも大きな傷跡がある。今考えたら、こんな怪我でよくもまぁ。と思うし、あの当時病院なんて洲本市にしか無かったから、両親は単車に乗せて診療所へ運ぶのがやっとだったと思う。頭だからかなりの出血。それは酷いものだったと思う。

 私が今でも記憶に残っているのは、心配そうな顔をした兄のパジャマ姿。家へ戻った頃には祖父が簡単な食事を用意して、兄はお風呂を済ませていたのだと思う。当時の男性というのは戦争体験があるので、大抵の家事は出来たものだった。それも考えたら母には有り難かったと思う。

 兎に角、落ちた場所がまだ舗装もされていない道だったから、小石がかなり傷口に付着していたらしい。それを全部取り除かなくてはいけないのだから、かなり時間がかかったと思う。そして縫合。。。あまりこのときのことは覚えていないけど、家へ戻ってから何日も寝たままで過ごしていた気がする。そのせいなのかどうか、私は小学校へ入っても運動場で全く遊べない子になった。休み時間は大抵教室でじっとしている方が好きな、まるで子どもらしくない子だったと思う。だから勿論体育なんて苦手。頭が痛いと言っては学校を休んで母に診療所へ連れて行って貰っていた気がする。ただ、骨には異常が無かったし、(実際、骨にひびが入っていたとしてもどうにもならない)縫合した部分の抜糸のことなども今となっては記憶にも無いのが不思議。

 あの泥というのか土埃の匂いで頭痛が起きるというのは、掃除の時間にも大きな悩みだった。気分が悪くてたまらないものだから、ある朝、わざと学校へ行くのを遅らせて掃除が終わってから学校に着けば掃除をしなくても済むと考えた私は、一緒に歩いていた友達たちと示し合わせて遅刻したことがある。小学校二年生のときだった。保育所や小学校一年生のときには掃除は先生や、先輩たちがやってくれたのでしなくても良かった。そして、遅れた理由というのはたちまち先生の知るところとなり、「そんなに掃除をするのが嫌ならもう一度一年生になりなさい!」と連れて行かれそうになった。確かに、掃除そのものが嫌なのではなく、舞い上がる土埃で気分が悪くなるのがたまらなく嫌だったので、という部分は先生にはわからない。勿論このことは父にも報告された。

 家へ着くなり父に思いっきり殴られた。父は私が、単に掃除が嫌だから一緒に居たみんなを扇動して。。。と思ったに違いない。頬を思いっきりひっぱたかれて私は鼻血が止まらなかった。耳鼻科医によると、どうやら骨が曲がってしまって、出血が止まり難くなってしまっているとのこと。勿論、こんなことはずっと後になってわかったこと。ただ、鼻血では随分悩まされた。

 我が子ながら、掃除が嫌で。。。なんて聞いたらやはり父親としては放ってはおけなかったと思う。理由も聞いて欲しかったけど、理由なんて聞いてくれる心のゆとりなど父には無かったと思う。

 今でいうトラウマ。。。丁度頭を思いっきり土にこすり付けられたという印象があるのか、土埃。。。確かに好きな人なんて誰もいないとは思うけど、私には何か特別の思いがあって、頭痛が起きるということなど誰にもわかってはもらえなかった。

 双子に生まれた兄は外で遊ぶことも何も苦にはならなかったから、夏休みになって、蝉採りなどに行こうと私を誘う。私は何故か太陽の光というのも眩しくて仕方がなかった。この理由が一体どこにあるのか私にはわからないけど、やはり横になって過ごすことが多かったからなのかな?で、兄に誘われて一旦は外に出ても、「帰ろう」と帰りを急ぐのは決まって私。私には戸外で過ごすことが本当に苦痛だった。

 小学校も高学年になると、男子はソフトボール、女子はバレーボールの試合などがあって、放課後は大抵の生徒が練習に参加していた。でも、私は友達と帰りたいなら、ボール拾い。しかもいつもスカートを履いたまま。そしてまた別の機会にはリレーカーニバルの様な陸上競技大会などもあって、私は勿論いつも応援組。

 関西でいうところの「どんくさい」を絵に描いたような。だから、体育の成績はいつも最低。得意なのは音楽。。。

 父が私にオルガンを買い与えてくれたのはあれは小学校に入学する前だったと思う。自転車に乗れなかった私を母はそれも自転車で教室があるお寺まで連れて行ってくれた。そして、小学校とほぼ同じぐらいの距離なんだからと、歩いて通うことに。でも、どういう理由だったか足が痛くて歩けなくなったことがあって、それならと、結局はオルガン教室には通えなくなってしまう。

 兎に角、歌を歌うことが好きだった私の為にと父は、運動がまるで駄目な私を見かねてそれなら音楽を。というつもりだったのだろうか。今となっては確かめようもない。

 オルガン教室をやめた私は、クラスの友達などが、私より後に習い始めてずっと上手に演奏するのをとても羨ましく思った。で、もう一度習いたいという思いをずっと心にしまいこんだまま数年。

 中学に入って一年生の間は体育クラブに所属するのが必須となり、唯一室内(当時は体育館も無く、バレー、ソフトボールなどはグランドで)競技だった卓球クラブへ所属。練習は中学三年生の夏休み前まで続き、そしてそろそろ将来を見据えて、教職に就きたいなら必須と言われていたピアノ教室へ再び通うことに。

 元々がバイエルの上巻の途中で終わってしまっているので、またもやバイエルからやり直し。家にはオルガンしかないし、次第に鍵盤が足りなくなって行くのはこれは仕方が無い。本当はピアノが欲しかった時期もあったけど、私などには手が出なかった。

 図書館司書になるにしても、教職に就くにしても大学だけは。と思って進学した高校で、私はまるで「井の中の蛙」状態だったことを思い知らされる。中学に入学したとき、女子ではトップだったことを半ば得意に思っていたけど、それはあくまでも70人での話。高校は全学年450名。双子の私たちが大学へ進むとなれば、国公立じゃなきゃ絶対に無理。でも、国公立へ進むなんてとても無理。と次第に分かったのも高校に入ってから。高校二年までは続けたピアノも次第にとても無駄なことに思えて来て、辞めることに。

 父は私たちが小学校4年生頃からだったか、近くに出来たダムの管理事務所の職員の運転手という仕事に就いていた。で、公務員という職業がどんなに有り難いかを思い知っていたので、「なるなら公務員」意識が強かった。
経済的な理由もあり、二人とも大学進学を諦めて(兄は兄で、自分一人だけがという気は無かったみたい)国家公務員初級試験の兄は行政職、私は郵政職Aに挑戦して突破。続く県職員の試験には兄だけが合格。兄は長男でもあったことだから無条件に県職員を選んだ。県職員の試験に落ちてしまった私は、仕方なく(なんて言うと失礼かな?)大阪市内の郵便局へ。

 私の視力が衰え始めたのはあれは小学校4年生の頃からだと思う。カラーテレビが家にやって来てたちまち視力が衰え始めた。教室では一番前の席にしてもらって、高校時代には授業中にはメガネを。郵便局でも窓口に座るときだけメガネをかけていた。そして、やがてコンタクトを入れることに。

 私が選んだのはソフトコンタクト。これがまた私の人生を大きく変えてしまうきっかけにもなることをこのときは全く気が付かなかった。ソフトコンタクトをご利用の方はご存知だと思うけど、毎日の煮沸消毒、一日置きのタンパク除去。。。指先の感覚がかなり神経質になってしまう。

 大阪の生活にも慣れて、コーラスから移転したブラスバンド、「第九」を歌うコーラスグループ、そしてそのグループで知り合った〇市役所のコーラス。多忙を極めていたのも確かだけど、やっと郵便局の仕事にも面白みが出て来た矢先のことだった。

 緩い度のメガネを予備においておけばこんなことにはならなかったけど、コンタクトを外したら後は全て裸眼状態で手紙を書いたりしていて、ついに角膜に傷を付けてしまう。あの痛さは経験した人じゃないとわからないと思うけど、兎に角痛くてレンズが装着できない。となれば仕事にならない。兎に角職場へ電話で事情を話し、眼科医院へ行くことに。ところが、「この状態では視力が出ないのでメガネは無理です」なんということ。ならば仕事も出来ない。情けないけどそのまま事情を説明して仕事を休ませていただくことに。

 あれは建国記念日前のことだった。「休みを利用して、淡路の山々を眺めてのんびりしておいで」という局員さんたちの優しい言葉に甘えて休むことに。

 このときは本当に何が何だか分からない状態だった。親知らずを抜いて死に物狂いをしたこと、風邪気味だったこと。眠れない夜が続いたこと。。。疲労困憊とはいうけれど、将にそんな状態だったと思う。実家へ戻って目のことを心配した母が、自分が通っていた眼科へ連れて行ってくれたけど、その医師が、角膜の傷よりもっと心配なことは「左目の斜視」だと仰る。私は兎に角メガネさえ作ることが出来れば良いのだからと、「傷はどうですか?」と先生の言葉には耳を貸さなかったら、「本当に親子ですか?目を治したいなら先に精神科へ行きなさい」とのたまう。翌日兄に連れられて洲本市にある病院の「精神神経科」へ。ここで下された診断が「神経衰弱」と「二週間の自宅療養」慌てて勤務先へ連絡を。

 たがが緩むというのはこのことかな?張り詰めていたものがプチンと切れる状態。。。多忙を極めていたことからいきなり解放されて、まるで抜け殻状態になった私は、結局その後3ヵ月の病気休暇を3回続けることになり、3回目の途中で辞表を出すことに。あのときの局長の嬉しそうな顔。今でも忘れることは出来ません。。。

 と、病気休暇の間を自宅で過ごしていた私。「朝はせめて7時には起きる様に」とだけ父は言って何も言わなかった。

 大阪にいた間、最初はお世話になった叔母の家そのものの引っ越し、そして、寮へ、更にまた寮が潰れるというので引っ越し。随分引っ越しをしたものだと思う。ずっと付き添ってくれた父。最後に淡路へ帰る引っ越しは12月25日。こればかりは私の我がままで所属していたブラスバンドのクリスマスコンサートにだけは出たいということでこんな歳末押し迫った日の引っ越しとなった。

 思えば父には随分心配を掛けてしまった。兄は何の問題も無く順調に行っているというのに、私といえば孫さえ抱くことが出来なかったのだから。でも、「淡路へ戻るなら車の免許だけは取る様に!」と。こればかりは随分悩んだけど、教習所へ行っておいて本当に良かったと思う。

 父が私が運転する車に乗るなんてのは、教習所へ通っていた以来のことだった。余りにも延長授業が長い私にあきれて、父に乗ってもらっていわば路上教習を。

 点滴に通う父は何も言わなかったけど、ずっと車に携わって来た父だけに、人の運転は頼りなくて危なっかしくて仕方がなかったと思う。最期の言葉は私には余りにもショックだったけど、時間を待てないほど父は苦しかったんだと思う。呼吸が出来なくては生きてなんて居られないのだから。その父の死を知ったのは、兄からの携帯。私はいつもの様にお弁当を配達している最中だった。兄は父が息を引き取った直後に私にメールを入れたらしい。厨房に居た私はメールに気が付く筈もなく。。。最後に届けるお宅は父の同級生だったから、思いっきり泣いてしまった。でも、職場へ戻って栄養士さんに報告したときにウワッとなったきり、父の亡骸を見ても何故か涙が出なかった。親戚の人たちは私のことを随分心配してくれたらしいけど、泣き崩れるということが全く無かった私。一体何なんだろう?

 元々兄は母思い、私は父思いというのか、父とは妙にウマが合っていた気がする。もしかしたら、私は男気が勝っているせいなのかなぁ?でも、父は居なくなってしまったけど、母が思いのほか元気で居ること。私たちには救いとなっている。これからも父には心配をかけないで行けたらと思う。

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