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やはり年度末、何かと忙しく仕事は終わらない。結局、「生物と環境〜語り合おう、私たちの環境」の授業記録も最後まで報告できなかった。続きも含めて、4月からはこちらのblogで。なお、残りの授業の概要は次の通り。3月5日。「植物の利益」について学級全体では話し合う。3月11日。情報館(図書館)の図鑑にあった図についてグループで話し合う。3月12日。「バランスドアクアリウムは、環境問題を解決するヒントになる?」かどうか話し合う。夏までには、何らかの形でまとめたいと思っているのだが・・・。
2014.03.29
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以前、このblogに「ずっとアウェイだった」と書いたが、やはりこれからもアウェイのようである。(もしかしたら、自分からアウェイにしているのかもしれないが・・・。)もちろん、単にやりづらいということではなく、このことを意識することで、自分の「ビジョンと哲学」を確認し、戦略をもつことができるということである。戦略をもつことにより、研究のアプローチも複線化する。また、異質な他者に説明し、説明をつくり直す中で、その「ビジョンと哲学」も見直すことができるだろう。無藤隆先生(白梅学園大学)はフェイスブックに「研究者たるもの、常に少数派である」と書かれていた。逆にアウェイ感の中で仕事をするとスムーズには進むだろうが、そこに飛躍はあるのだろうか。もちろん、真面目な人はできるのだろうが、私には甘えが出てしまう。また、アウェイ感を自分から求めるのもエネルギーの無駄遣いである。したたかにしなやかに。これも、無藤先生が書かれていたことだが、新たなアウェイも、実践と研究のさらなるジャンプのきっかけにしたい。
2014.03.27
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いろいろな本や書類を整理していると、その中に私が書いたレポートや報告書を目にするのだが、多くの場合、引用を中心にして論を展開していたようだ。そのほとんどは、ある程度問題を提起し、同じような問題について述べられている文章を探して引用、最後に自分なりの解釈や感想を書き加えるといったもの。論文ではないので盗用にはならないと思うのだが、「論の進め方」から「言葉」まで真似し、次に何か書くときにはあたかも自分の文章、言葉のように振る舞っているのだ。そのようにして、私の文章は出来上がってきたのだろう。もちろん、「出来上がった」というほどの文章は書いていないのだが。しかし、だとすると私が今使っている言葉は誰の言葉なのか。このblogも、文章を書く力をつけるためにはじめたものだが、私は私の言葉を獲得することができたのか。ほんのわずかでいいのだが、文章を書く力は身についたのだろうか。私の言葉は、一部でもいいから誰かに届いているのか。ただ、それでも書き続けることが大切だということだろう。
2014.03.26
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学年末ということもあり、本棚を整理する。以前は、もう一つ本棚が使えたので、倍の本が入っていたのだが。私の場合、ほとんどの本をAmazonで購入するため、買った本は自宅に届く。急ぎで取り寄せたものはすぐに目を通すのだが、そうでないものはリビングに平積みにして、時間があるときにパラパラとめくり「乱読」したものから学校の本棚へ。数日間置きっぱなしだと妻から叱られ、慌てて目を通す。同僚の先生から「いつ読んでいるのか」と尋ねられることがあるのだが、寝室や移動中の電車や飛行機の中で小説を読むのとは違って「ほとんど読んでいない」と答え、驚かれる。おそらくレポートや研究会での発言の中でよく本から引用するので「ものすごい読書量」だと思われるのだろう。しかし、ほとんどの本は先ほど紹介した程度の「乱読」。必要なとき本棚から出し、引用する。その回数が増えると「熟読」に近い状況になるのだろう。ただ、その「乱読」の仕方は、以前(8年前)blogで「本の読み方」と書いたが、あらためて紹介する。・・・・・しかしながら、授業の準備や雑用も多く、ゆっくりと本を読んでいる暇はない。こんなときはいつも、鏑木先生(当時、草加市立八幡小学校校長)に教えていただいた次のような方法で本を読む。(1)前書きを読む (2)後書きを読む (3)目次を読む (4)気になるページを読むこの方法は、「乱読」するときに効果的であるが、「何かをはっきりさせる」ときにも結構使える。・・・・・研究のためには、「熟読」と「乱読」が必要だと教えてもらったのは、本校に赴任したとき当時の教頭先生から。そして、「熟読」よりも「乱読」と考えるようになって、どんどん本は増えていった。毎年、この時期に本棚を整理するのだが、数年開かなかった本はそのときまとめて家の倉庫に。(その倉庫も私が使えるスペースはわずかなので、どうにかしなければならないのだが。)本棚のあるリビングにあこがれていたのだが、実現するまでには時間がかかりそうである。もちろん、できてもオシャレなものにはほど遠いのだろう・・・。
2014.03.25
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前回のblogに「仕事術」について書いたが、以前、無藤隆先生(白梅学園大学)がフェイスブックで日垣隆「ラクをしないと成果はでないー仕事の鉄則100」を紹介されていた。その目次に100項目の「鉄則」「教訓」の一覧が書かれているのだが、これを見るだけでも、この11年間の私の仕事術と重ね共感できるものが多い。・・・・・ 3 自分にできないことをしている人を、素朴に尊敬する16 書棚一本の本がたまったら、新しい分野を開拓できる21 いざという集まりには万難を排して参加する25 お願いした場合は「いつでも」と言う32 依頼には即日で答える39 「苦手なこと」は人の手を借りて解決する45 商売道具への投資はけちらない59 継続させる小さな工夫を63 自分の「忘れグセ」を前提に、「忘れても、できる」仕組みをつくる64 共有する言葉の定義を明確にしないと、誤解が量産される68 「約束の優先順位」を見直すクセを持つ76 よほどゆとりがない限り、正義に多大なエネルギーを注がない・・・・・目次だけでも、ものすごい説得力である。耳が痛い残りの項目「27 人から薦められたものは、無理をしてでも即日取り入れる」「88 毎晩アルコールが欠かせない人は伸びない」も、「無理をしてすぐに取り入れる」ことができればいいのだが・・・。
2014.03.22
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以前、個人のblogを「カテゴリー」を使って整理したときに、そのカテゴリーに「仕事術」を追加したのだが、改めて見てみると案外おもしろい。最近では、「4色ボールペンの使い方」を書いたのだが、保護者の方から「私も使ってます」との声も。その「仕事術」はこちら。もちろん、以前から「学級事務の効率化」は必要だと考えていたものの、ビジネス書などを読むようになったのは本校に赴任してから。当時の「私」以上に激務の先輩方が、スマートに仕事をされている(ように見えただけかもしれないが)のにあこがれ、強く意識するようになった。しかし、このように並べてみると、単なる時間短縮ではなく、多くの仕事の中、そして、複雑な仕事の中で「何が本当に大切なのか」が見えてくることが、私に仕事術をこだわらせたのだろう。ビジネス書にはよく「捨てることで見えるようになる」と書かれているが、その通りである。また、これは大事だと思ったことを続けるための工夫ともいえよう。もちろん、体力の衰えに伴い、全てに全力とはいかなくなったこともあるのだが。とはいっても、年度末の整理・後片付けはいっこうに進まないのだが・・・。
2014.03.21
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先日のblogに、授業の中で子ども同士の学び合いを求めるとき「声が小さいことを聞く側の問題としてとらえていくことが必要である」と書いた。直接関係はないのだが、先週末に参加した東京で開催されたシンポジウムの中で、松木正子先生(十文字学園女子大学教授)のワークショップがあったので、ここで紹介したい。「どうして、話す人の目を見て話を聞くことが大切なのでしょう。」と、松木先生からの質問。答えは、耳はパラボラアンテナの役割をしていて、目を向けるとそのアンテナが話をしている人の方を向くから。その後、手のひらを耳の後ろに当てたときと当てないときを聞き比べると、聞こえ方が全く違い、驚きの声が上がる。聞き方を変えると、聞こえ方が大きく変わるのである。また、母音をしっかりと話すと、小さな声でもよく聞こえるようになるという話も。これまでの「大きな声で」「はきはきと」という指導そのものが間違っていたのである。これまで当たり前だと思っていたことの中にも、見直すべきことも多いのだろう。
2014.03.20
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年度末であるというのに、やりたいことがたくさんある。授業を担当していた6年生は卒業したというのに、まだ観ていない授業ビデオがいくつかある。blogも書きたいことが山ほどある。どうして「ある程度でよし」としないのか。おそらく、私が中途半端であることを私自身が自覚しているからであろう。途中で投げ出すことはしないまでも、何かの目標を達成したとか、何かを極めたという経験はない。趣味の音楽もピアノが弾けないため今ひとつ。大学で物理を専攻するが、微分積分ができなかったため卒論をごまかすので精一杯。だからだろうか、教師になっても「中途半端さ」をずっと抱えているのだろう。中途半端だという自覚があるから、最後までもがく。もっと優秀な教師ならさっさと反省し、スマートに振る舞うのだろうが。7年前にはじめた授業リフレクションも、子どもの声を聴けない自分を自覚するところからスタートした。少しでも聴けるようになりたいと、授業リフレクションを続けてきた。しかし、今振り返ると、大切なのは「聴けない」ということを教師自身が自覚し、どうにかして聴くためにあの手この手を使って工夫すること、もがくことなのであろう。教師が聴けると思った瞬間に、聴けなくなる。自分の中途半端さを自覚し、あの手この手を使って最後までもがく。このことが教師としての成長なのだろう。まだまだもがき続けなければならない・・・。
2014.03.19
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先日、小さな研究会の中で、授業で発言する子どもの声が小さく、授業者が周りの子どもたちに「聞こえた?」と尋ねたことが話題になった。おそらく授業者は「もっと大きな声で」と直接注意するのではなく、「周りの友達に聞こえていない」ことを知らせることで、発言する子どもの声を大きくしようと考えたのだろう。もちろん、発表会などで原稿のある一方通行の発表ならこのような指導でもよいのだろうが、子ども同士での「話し合い」、さらには、「学び合い」ではどうだろうか。問題なのは、声が小さいことを「話す側の問題」にしていることである。まだよく整理されず思考途中の発言ならたどたどしいのは当然であるし、自信がないのなら声も小さくなるだろう。そんな子どもたちに、教師は「もっと声を大きく」と声をかけるのか。それとも、たどたどしく小さな声での発言を大切にするのか。子ども同士の「学び合い」を大切にするのならば、もちろん後者であり、声の小ささを「聞く側の問題」にする必要がある。これまでの経験から多くの教師が感じていることだが、子どもたちがよく聴き合っているときには、声が小さくてもよく聞こえることがある。これは、その場にいる者全員がしっかりと耳を傾けているからであり、その安心感から、話す方も多少声が大きくなるのであろう。それでは、発言する子どもの声が小さいときどうするのか。そのことを「聞く側の問題」にするとき、どのように指導するのか。いろいろな方法があるのだろうが、重要なのは、教師自身がその発言に関心をもつということ。「おもしろいことを話しているようだ」「何か意味があるのではないか」と教師の聴き方が、子どもたちの聴き方のモデルになるのである。評価しやすい声の大きさではなく、意図や背景、そして、可能性までを含む発言全体を受け止め、おもしろがることが大切なのだろう。
2014.03.18
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先日のblogに「都合の悪い発言を思いがけないものととらえることは教師の成長の芽生えである」と書いたのだが、そのためには、子どものつまずきや失敗をおもしろいと、そして、意味あるものと思えることが大切である。つまり、つまずきや失敗をマイナスととらえるのではなく、その子どものなりの思考も結果とし、わずかにでもプラスに進んだものととらえるのである。7年前に3年生を担任したとき、太陽の動きの学習(影の移動から太陽の動きを調べる)で、「影は、太陽の反対側ではなく、太陽側にできる」とノートに書いている子どもがいた。もちろん間違いであり、影は太陽の光を遮ることでできるため、太陽の反対側にできる。それまでの私であったら、「もっとよく観察しなさい」と、次の日にでもその子どもをグランドに引っ張っていっていただろう。しかし、ちょうどビデオを使って授業リフレクションに取り組みはじめていた私は、同僚の先生といっしょにその日の授業をみることにした。すると、そこには「太陽側にできる理由」をグループの友達に説明するその子どもの姿が映っていた。「影は太陽の光がなければできない。だから、太陽の光がものにぶつかって、はね返って影ができる。」この子どもは、光線を意識し、そこから筋道立てて考えていたことからつまずいたのである。「太陽の光がものにぶつかる」までは妥当な考えであり、この光線のイメージは次の学習「日なたと日陰のちがい」や「光の性質」に発展する。このように子どものつまずきや失敗は、その子どもの理解や成長の過程を垣間見せるものである。そして、それらの多くは、教師がもともと予定した授業の進め方とは異なっており、子どもたちの学びにふくらみをもたせてくれる。もちろん、授業がスムーズに進むことは悪いことではない。しかし、それは「思いがけない発言」もなくつまずきや失敗が表面化していないだけではないか。子どもといっしょに立ち止まり、「そんなふうに考えていたのか」と驚きと発見を楽しみながら授業したいものである。
2014.03.16
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授業中に思いがけない発言が生まれることにより、それまでの発言の流れの節を折り、話し合いを深めることは、子どもの同士の学び合いを大切にする教師であれば、これまでの経験から同感できるところだろう。それでは、この「思いがけない発言」は、どうすれば生まれるのか。以前、このblogで「しみじみとする授業に」と書いたが、まず、その中で紹介した溜池善裕先生(宇都宮大学)の「考える子ども」(社会科の初志をつらぬく会 2013.11月)の原稿をあらためてみる。・・・・・ それではあらためて「よい授業」の条件に戻ってみよう。 1)は自由な雰囲気のある学級でしばしば起こる事態である。(※ なお、1)は「教師その他の予想しないような疑問や意見が出される」である。)高圧的で権威的な教師の下では起こりにくいが、子どもたちが起こす反乱もあり、全く1)が起こらないかと言えばそうではない。だが、「しみじみとする授業」であるには、意外な疑問や意見が教師や仲間たちに受け止められなければならない。意外な疑問や意見であっても、そうであるからこそなお、その子が何を言っているのか、それがどれほどその子にとって意味のあることなのか、それがどれほど仲間全体の前進において意義のあることなのか、それらをその時に子ども達や教師が分からなければならないのである。・・・・・ここで指摘されていることは、自由な雰囲気のクラスであること。さらには、思いがけない発言の意図や背景、意味、話し合いにおける意義まで教師も子どもも本気で聴こうとしていることが前提として必要だということだろう。次に、課題の質も挙げられるだろう。これまで何度か「理由づけの質を高める」と書いたが、そこで指摘したのは「根拠と主張の距離を遠くする」ような課題が必要であることである。このことにより、子どもたちは「これまでの知識や経験を総動員して想像する」ことになり、それらの想起の仕方やつなぎ方の違いにより、思いがけない発言が生まれやすくなると考える。しかし、ここで考えなければならないのは、この「思いがけない発言」は、教師にとっても思いがけないもの(予想外のもの)であるということである。以前、無藤隆先生(白梅学園大学)がフェイスブックに次のように書かれていたので紹介する。・・・・・ 授業について、予想されないような質問や発言が子どもから出ることが大事だということ。 その通りだと思います。そうでない授業が悪いという意味ではなく、その水準を超えるという意味においてです。 ただ、その予想されないとは、例えば、50個の予想をしていたら、51個目が出てきたというのとは違う気がします。それだったら、経験を積み上げれば、50個の予想は100個となり、大抵は予想の範囲に収まるようになります。 むしろ、ありきたりの発言に予想外を見いだせることが大事なのではないか。予想・予想外とはその発言の字面にあるのではなく、発言を兆候とする思考の模索状態に理解が及び始めることで、予想通りが予想外へと異なって見えてくるのではないだろうか。 それは教師の力量としてのいわば次元的飛躍が起こるときなのかも知れません。・・・・・つまり、授業中に生まれる思いがけない発言は、それに気づく「教師の成長」とセットであるということである。この教師の成長とは若手教師のことだけでなく、全ての教師であることが必要である。なぜなら、どれだけベテランであっても、子どものことを100%理解することは不可能だからである。さらには、気になる子どもの発言を中心にすることも大切であろう。教師がどうすればいいか分からないからこそ、そして、そのことを意識しているからこそ、その子どものことが気になるのであり、その子どもの発言を「都合の悪いもの」ではなく「教師の力量を超えるもの」として聴こうとするとき、「教師の成長」に向けて一歩踏み出すことができる。そして、「思いがけない発言」としてとらえることができることが、「教師の成長」の芽生えなのだろう。本当は、全ての子どもたちのことが気にならなければならないのだが。まだ十分ではないものの、ここで「思いがけない発言が生まれる条件」を整理する。1)自由な雰囲気と強い助け合いを前提とした「聴く」−「語る」関係がつくられていること2)「想像」を伴う質の高い課題が設定されていること3)授業に「教師の成長」があり、その教師の聴き方が子どもたちの聴き方のモデルになっていること8年前から「思いがけない発言を中心にした授業づくり」を提案し、何度も指摘、批判されていたのだが、少しすっきりしたような気がする。
2014.03.15
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前回のblogのつづき。授業のスタートは、「水草に利益はあるか」というuhさんの疑問であったが、ksさんのグループでは「アカヒレがいなかったら」という話題が移り、次のように発言がつづいた。・・・・・ksさん「でもさ、一応アカヒレのために酸素はあげてるわけだからさ、提供してるわけじゃん。その代わりじゃない?もらうよって。」kmさん「そのアカヒレが生きてるおかげで微生物が生きてるんでしょ?」ksさん「そう、そう。アカヒレがいないと水草弱るんじゃない?糞ださないから。有機物って書いてあって、食べ残しもないでしょ?糞だけで生きてるんだよ。・・・水草にメリットはあるよ。汚くならない。」kmさん「自分の環境をよくする。」ksさん「で、最終的に、結果的になってるじゃん。もし水草がなくてさ、バクテリアとかが糞とかを分解するじゃん。そのままだったら汚くなるよね。」kmさん「なるんじゃない。」ksさん「だよね。分解されたものだけだったら。それが分かれば・・・。例えば微生物とかが少なくなっても、こいつが、水草ががんばってれば・・・。」kmさん「っていうか、水草がないと全部だめじゃない?」ksさん「微生物もいてほしい。この人弱るから。太陽しかエネルギーがない。日陰とかになると最悪。」kmさん「だったらさ、アカヒレが死んだ人とかさ、もう水草全部弱ってくの?」ksさん「最近、アカヒレが弱ってて、水草も弱ってるもん。色がね。色が茶色っぽくなった。水草が糞がなくて。水草が役割でかくない?アカヒレの糞もだけど。アカヒレの糞も重要。」kmさん「アカヒレが重要。」・・・・・生物同士のつながりを意識しているものの「糞が微生物によって分解されたものを水草が吸収すること」と「瓶の中の水がきれいであること」との関係が上手く説明できていない。やはり、「微生物によって分解されできたもの」がどんなものか、そして、それが瓶の中に増えるとどうなるのかというイメージが十分ではないのだろう・・・。(つづく)※ 今回の記録は、平成26年3月5日のものである。
2014.03.13
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今回は、ノートに書かれていたuhさんの疑問から学習をスタートする。・・・・・uhさん「水草が、アカヒレのを吸収しても、水をきれいにしているわけでもないから、利益がないと思う。」・・・・・このuhさんの疑問についてどう考えるか、一人一人自分の考えをノートに書いた後、ksさんのグループでは、次のように話し合っていた。・・・・・ksさん「どう思う?なんていえばいいのかな?最終的に、結果的に水草がきれいにしていることになる。だって、水草がなかったら分解されたものはそのまま浮遊する。」kmさん「分解されてでてきたアンモニアを・・・。」ksさん「それを、出てきた気体みたいなものを、自分で養分にする。」OSくん「だから成長してるんだよ。」ksさん「だからメリットありありだよ。」kmさん「だからuhさんみたいに水草が・・・。」ksさん「水草自体が分解してるわけじゃないんだよ。」kmさん「だから、水草がそのまま糞に、糞を吸収してるんじゃなくて、糞を・・・。」ksさん「分解されたやつを・・・。」kmさん「吸収する。」ksさん「本に書いてあった。私たち、そればっかりいってるような気がする。」kmさん「うん、そんなところだと思う。」・・・・・一応、「バクテリアが糞を分解し、その分解されたものを成長のために水草が吸収するのでメリットはある」と結論づけているようである。uhさんの疑問である「分解されたものを吸収すること」と「水をきれいにすること」の関係に気づいていればいいのだが・・・。(つづく)※ 今回の記録は、平成26年3月5日のものである。
2014.03.13
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いよいよ明日は卒業式である。昨日、担当する6年生の最後の授業だった。授業後にノートをコピーしようとしたら、39人分のノートが「山」になっていた。5年生のときのノートも集めていたので、合わせるとものすごい量になる。一人分(1年分)は4冊だが、研究授業した単元をコピーするだけで、4時間かかってしまった。コピーをしながら一人一人のノートを見ると、見逃していた記述もある。コピー機の前で反省と後悔。授業が終わった満足感を味わうことができなかった。
2014.03.13
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このblogも1年前は週5回の更新を目標にしていたのだが、つい欲がでて10月頃から週7回の更新になってしまった。読んでいただいている方にとっては、どちらでもいいことなのだろうが、たまにこの更新数について「すごいですね」と声をかけられるときがある。しかし、私はこのことをすごいとは思ったことはない。なぜなら、blogはだれにでも書けるからである。書式も字数も自由。論文や雑誌原稿、学級通信などとちがって、思いついたことを書ける分だけ書き留めるだけでいい。写真にちょっとしたコメントをつけるだけで記事になる。実際、多くの芸能人が毎日何度も更新している。振り返ってみると、私のこれまで実践は「だれにでもできること」なのだろう。以前、このblogで書いたこの10年間の年2回の学会発表も、申し込みさえすればだれでも発表できるものである。7年前からはじめた授業リフレクションも、ビデオカメラやボイスレコーダーさえあればだれにでもできる。blogで紹介している授業記録も、プロトコルをおこし、分節に分け、その分節ごとに感想や反省を書いているだけである。毎年、同じ研究会に参加するのも同じである。早めにスケジュールの調整すれば、たいてい参加できる。ただ、大切なことは「できる」と思ったら、続けると「決心する」こと。そして、質にこだわりながらも、その量を優先すること。だれにでもできることを、だれにもできないくらいに。もちろん、本校に赴任してからの11年という長い時間が、このことを目標にすることを可能にしたのだろう。来年も、少し形は変わるかもしれないが、「だれにでもできること」を「続けること」を大切にしていきたい。
2014.03.11
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卒業式を今週末に控えているのだが、まだ、明日、明後日の授業をどうするか悩んでいる。先週行った授業の記録を起こすことすら終わっていない。子どもたちのノートのコピーもぎりぎりになりそうである。blogも週7回更新するという目標に追われてしまってる。そこまでやる必要があるのかという指摘もあるだろう。もちろん、研究発表会も終わり、学年末の事務整理など、できない理由はいくらでも挙げることができる。また、そこまでやっても、研究発表会後の授業記録など真剣に読んでくれる人がどれだけいるのかと指摘される方もいるだろう。このような「できない理由」を上手に挙げることができる人は、ある意味で賢い人のかもしれない。そんな賢い人が出した妥協案に納得することも多い。しかし、実践者として、この「賢さ」はメリットなのだろうか。物事を正しくみることは大切であるが、人のやることを評論ばかりし、それを「できない理由」にして自分は行動しないのもどうか。私は、どうも「賢く」ないらしい。あきらめが悪い。なにごとも、やってみなければ、そして、続けてみなければ分からない。反省よりも「最後までもがくこと」。やりながら少しずつ改善していく。本当にダメだったときも、その失敗から新しい展開をスタートする。多少の無理を承知で体当たりできるタフさをもつことが、実践者としての本当の「賢さ」なのではないか。もっとも、今の私は時間との勝負なのだが・・・。
2014.03.10
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先日のblogに「根拠となる事実の『層』を厚くし、理由づけの質を高める」と書いた。その中で、複数の事実をつなげることが重要であり、そのつなげ方を「比較、関係づけ→確かな理由づけ」「比較、類推→豊かな理由づけ」と整理したのだが、以前、このblogで紹介した内田伸子先生(筑波大学監事、お茶の水女子大学名誉教授)のプレゼンの中に、次にようなものがあったので紹介する。(そのときのblogはこちら。)注目すべきは、「想像」が知識の創造につながるということとともに、その「想像」と「反省的思考」をつなぐものに「因果推論」と「類推」が挙げられていることである。今後、「理由づけの質を高める」ため、あらためて「理由づけ」と「比較」「類推」「関係づけ」、さらには、「結論先行型の説明」との関係を明らかにしていく必要があるのだろう。
2014.03.10
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前回のblogの続き。前回、ksさんの「ちょっと話がそれるんですけど」という発言をきっかけに「微生物の存在を調べる方法」について発言が続いていたのだが、今度はesさんの「あんまりたいしたことではないけど」という発言で次のように節を折られていった。・・・・・esさん「えっと、あんまりたいしたことではないんですけど、ksさんのさっきなんか、今育てているバランスドアクアリウムの瓶の中にアカヒレのエサをまいて、それできれいになっていたら微生物が水をきれいにしているみたいなことをいってたと思うんですけど、そのこの前私が、バランスドアクアリウムの、たまたま底?一番底を見たときに、エサとか食べ残しと糞みたいなのがいっぱい積もってて、それだったら絶対、プランクトンとかがきれいにしていたとしても、絶対に底に積もるわけだから、そこはきれいになったかなってないかは分からないんじゃないのかなと思ったから、そこが疑問かなって。」smさん「えっと、esさんが、バランスドアクアリウムの石のところにエサが積もってたといってたんですけど、前、先生が、1回のエサは爪楊枝についたぐらいでいいといってたから、それは、アカヒレが食べれる分量を入れてなくて、たぶんアカヒレがエサを食べれなかったから多くて、だから、それが積もってるんじゃないかと思いました。」esさん「まあ確かにちょっと多いこともあったんですけど、でも、もしかしたらアカヒレもエサを全部一粒残らず食べれるってことじゃないから、何日も、何ヶ月も育てているわけだから、その、いっぱい飼育していったから、少ない分量?食べ残しとか糞が合わさって、ちりも積もれば山となるみたいな感じで、何日も経ったからそういう汚くなってるんじゃないのかなって思います。」T 「でも、水はきれいなの?汚いの?」esさん「えっと、水は、最近ちょっと濁ってるんですけど、まあ、だいたいきれいで底だけ汚い。」wmさん「えっと、smさんのエサが多すぎたっていうのはちょっとおかしいと思って、なぜなら、本当は水槽に朝、昼、晩の3回入れるはずなのに、そのバランスドアクアリウムの場合、えっと、3週間か2週間に1回ぐらいで、桜花さんの石の上にエサの残りなどが積もってたいうのも、エサかどうか分からないから、おかしいかなと思いました。」smさん「えっと、確かにエサが多すぎたっていうだけではないと思うんですよ。私も。エサが多すぎただけだったら、なんか、その、なんか、wmさんがいったように普通の水槽と比べたときに、なんか少しおかしいから、だから、エサが多すぎただけっていうわけではないと思って、で、たぶん他にも、その、ずっと水の手入れとかバランスドアクアリウムはしなくていいわけだから、やっぱり少しはバランスドアクアリウムでも汚れてくるんじゃないのかなって思うので、エサが多すぎただけではないんじゃないのかなって思いました。」T 「じゃあ、これはもうバランスドアクアリウムが汚れてきてるんだいうこと?」smさん「・・・うん。」T 「でも、水はきれいで、アカヒレは生き続けてるんですよね。」NGくん「普通の川とかも、そこまですごいきれいなわけじゃないし、普通の水槽っていうのも、アクアリウムみたいに密閉してあるわけじゃないし、いつも水替えが必要だし、なんか場合が違うんじゃないのかなって思いました。」・・・・・バランスドアクアリウムの中の水は本当にきれいなのか。本質的な問いであろう。子どもたちは、どういう意味で「きれい」という「ことば」を使っているのか。それは、アカヒレにとって住みやすい環境なのか。そして、水草にとってはどうなのか。さらには、それらのことが「微生物が分解する」ということと、どう関係しているのか。私にとっての「問い」ばかり増える授業であった・・・。※ 今回の記録は、平成26年2月26日のものである。
2014.03.07
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前回のblogの続き。学級全体の話し合いの中で話題になった「目に見えないバクテリア」、そして、「バクテリアに分解されたもの」であったが、ksさんの「ちょっと話がそれるんですけど」という発言をきっかけに節が折れ、次のように発言が続いていった。・・・・・ksさん「えっと私は、ちょっと話がそれるですけど、ktさんがどうやって微生物がいるかっていうのを証明するかについて、さっきの時間グループで話してたんですけど、顕微鏡で見れないんだったら、今家にあるバランスドアクアリウムの水をとって水草を入れて、エサ?もらったメダカのエサをちょっとぱらぱらってまいて、で、それで1ヶ月ぐらいおいて、1週間?まあ、それぐらいおいて、きれいだったら微生物がいて、きれいじゃなかったら微生物がいないんじゃないかなって思って、で、水草も入れて、水草もきれいにしたんじゃないかってこともあるんですけど、前情報館で調べたときに、水草は糞とかを分解したものを、分解して、分解したものから出てきた気体とかを自分の養分にするって書いてあったんで、水草自体は糞とかを分解しているわけではないってことだから、あとバランスドアクアリウムの中で糞が分解できるとすれば、微生物か、アカヒレ?か、あと砂?まあ、アカヒレか微生物だから、で、そのとき瓶にはアカヒレは入れないから、残り微生物しかないから微生物かいるかいなかい分かると思います。」uhさん「えっと、私もえっと、プランクトンとかは、顕微鏡とかで観察することができるから、なんだっけ、もしもプランクトンが水をきれいにしてるとかいうは分かるかもしれないけど、その、水をきれいにしているかどうかというのは分かるかもしれないけど、微生物はバクテリとかできないから、どうすれば調べられるのかは分かりません。でも、水は汚れてないから、まあ、微生物はいるんじゃないかなと思います。」MRくん「えっと、ksさんがいったバランスドアクアリウムの中の水を1回捨ててから、もう1回新しい水にするってことですか」ksさん「いや、その、今飼ってるバランスドアクアリウムの水をそのまま使ってするってことです。」MRくん「あー、だったらいいんですけど、1回研究発表会のときに持ってきた本では、えっとその、1回水槽の中に、えー、微生物が発生する条件みたいのが書いてあったんですけど、それには、えー、14日にも言ったような気がするんですけど、様々な場所からって書いてあったんですけど、ちゃんとその中に魚を入れてないと微生物が発生しないってことだったんで、あのまあ、それは、ちょっと・・・、それか、アカヒレを入れずにいきなり水草と水だけにしてたら、微生物が発生しないと思うので、それだったらちゃんとした、水をきれいにできるっていうことが実証されないので、それは難しいんじゃないのかなっと、そういう条件だったら難しいと思います。」T 「バクテリア、微生物、どっち?」MRくん「バクテリア?えっと、微生物の中にも僕はバクテリとプランクトンに分かれてると思って、で、プランクトンはメダカと同じようにアカヒレが食べる可能性があって、バクテリアはたぶん食べられないと・・・かもしれないですけど、たぶん食べられないと思って、別なものじゃないのかと思います。」MKくん「えっと、僕もMRくんに付け加えで、僕も微生物とバクテリアは違うものだと思って、微生物は、アカヒレとかメダカ、まあアカヒレとかの魚が主に食べる、食すために、まあ、食べる物で微生物は。だけど、バクテリアはアカヒレとか、アカヒレの糞とか食べ残しとかを分解してくれる、そのいわゆる分解者、バクテリアは分解者のようなもので、微生物は、まあ微生物は、なんだけ、バランスドアクアリウムの中をきれいにしてるっていってるでど、僕は、まあそこは、バクテリアがきれいにしてるのか、微生物がきれいにしてるのかってことはちょっと分かりません。」anさん「えっと、MKくんのいったことに対して、私も分かんなかったんで辞書で調べてみたんですけど、微生物は顕微鏡で見える範囲のもので、バクテリアが細菌で、プランクトン・・・、微生物の仲間に入るのが細菌とか、なんか微生物とかだったから、たぶん、バクテリアもプランクトンも微生物の中に入ってて、バクテリアは細菌で、プランクトンとかは、生きてる生き物っていうか、小さい生物というので、なんか、そういうものだっていうのが調べて分かりました。」・・・・・「どうすれば微生物の存在を調べることができるのか」という思考の中で、微生物のはたらきが少しずつ明らかになっていればいいのだが・・・。(つづく)※ 今回の記録は、平成26年2月26日のものである。
2014.03.07
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前回のblogのつづき。ayさんの発言を聞き、考えたことを学級全体で話し合う。・・・・・ktさん「えっと、あのayさんが、あの、顕微鏡で見るっていったんですけど、疑問で、水の中に微生物がいるとして、どうやって調べればいいのかなって思いました。」kmさん「えっと、微生物、私は微生物がいると思って、アカヒレが糞を出したとしても、アカヒレが自分の糞を食べるとは思えないし、水草は分解するっていっても水草はどうやって分解するのか分からないから、やっぱり微生物がいなければ水はきれいにならないと思うから、微生物はいると思います。」tmさん「私は、kmさんに付け加えなんですけど、確かにアカヒレは自分の糞を食べるわけにはいかないと思うんですけど、で、その後も、水草は分解しないってkmさんはいったんですけど、私は、それは逆に、その、吸収しているっていうふうに考えたんですけど、その、理由は、この前情報館で調べたときに、その、オオカナダモは、窒素など、そういうのを吸収しているってふうに書いてあったからことから、そこからあくまでも予想なんですけど、ゴミなども、そういうふうに吸収してるんじゃないかなってふうに思って、だから、私は、アカヒレはないと思うんですけど、微生物かオオカナダモが、で、水をきれいにしてるんじゃないのかなと思いました。」MRくん「えっと、tmさんが今、水草が窒素を吸収して、えっと、成長するっていうか、その、吸収するっていってたんですけど、それはあくまで、窒素が出るときは、ゴミ自体が吸収するってことは、窒素っていうのは・・・、なんか、見えないものじゃないですか、どんなに顕微鏡で拡大しても、でもゴミとかは、まあ、本当にちっちゃいものもあるんですけど、まあ、すごい倍率が高いもので見れば見えるように、だからその、物体としてないものだから、ちょっと違うんじゃないかなっていうのが、あっ、違う、少し難しい考えなんじゃないかっていうのを思いました。」esさん「えっと、私もayさんと同じで、水をきれいにしているのは、なんか、アカヒレとオオカナダモ、えー、微生物、が関係してると思って、だから、アカヒレを抜いて行う実験については、微生物が増え続けるんで、水が汚くなるんじゃないかなと思いました。で、また、顕微鏡については、バクテリアのような見えない生物以外の、その、もう少し大きいプランクトン?みたいなものは見えるんじゃないかなって思って、それか、ろ過みたいな細かいことをして、それが濾し出されたもの?を取り出して調べたら少しは水中の生物、生態系みたいなものが分かるんじゃないかなと思いました。で、えっと、前も書いたと思うんですけど、アカヒレの出した不要物をバクテリアが有害なものから無害にして、それをプランクトンが食べて増殖みたいなのをして、アカヒレがプランクトンを食べるっていうように、なんか、サイクルっていうか、ayさんもいったと思うんですけど、なんか、食物連鎖みたいになってつながってるんじゃないかなと思いました。」T 「何が有害なものを無害なものにする?」esさん「えっと、バクテリア?なんか書いてあったんですけど、バクテリアが、糞などのアンモニア?みたいな有害なものを無害にするって・・・。」MKくん「えっと、まあ、esさんに付け加えで、アカヒレを抜いたらってのに付け加えで、あの、ayさんが、なんか、アカヒレを、バランスドアクアリウムからアカヒレをなくしたらっていったんですけど、それについて、その、仮にアカヒレがバランスドアクアリウムの中をきれいにしていたと、きれいにしているとするならば、そのまあ、実験で、まずバランスドアクアリウムを2つ用意して、1個はアカヒレが入ってるので、もう1個がアカヒレが入ってないので、まあ、2,3週間、まあ1ヶ月ぐらいかな?まあ、1ヶ月ぐらい観察してみて、それであのアカヒレが入ってる方はみんなが今持っているように普通だけど、あっ、きれいだけど、もしアカヒレが入ってない方が汚かったらアカヒレがバランスドアクアリウムをきれいにしてるって証拠になって、もし汚くならなかったら、やっぱアカヒレは、バランスドアクアリウムをきれいにするっていう選択肢から消えると思って、消えると思いました。」・・・・・多くの子どもたちが「顕微鏡でも見ることができないけど水中に微生物はいる」と考えているようである。また、MRくんの「水草は、顕微鏡で見ることができないくらい小さなものしか吸収できない」という発言は、鋭い指摘である。これらのことが「バクテリアが有害なものを無害なものに変える」ことの具体的なイメージにつながればよいのだが・・・。(つづく)※ 今回の記録は、平成26年2月26日のものである。
2014.03.07
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前回のblogのつづき。ksさんのグループの話し合い。「アカヒレの糞が分解され水草の養分になってる」「水草は光合成で養分をつくり出すことができる」などの発言が続いていたのだが、話題は「微生物の数」に移っていった。・・・・・ksさん「だって、アカヒレがいなければ藻とかが生えても減らない。しかも、微生物が食べられないから死なないじゃん、減らないじゃん。で、だから、数も減らないし増えるのか分かんないけど・・・。」AKくん「微生物って繁殖するの?」kmさん「するんじゃないの?」AKくん「だって、食べられて死ぬんだったら・・・。」kmさん「全滅するじゃん。」ksさん「全滅する。」AKくん「だから、どうやって繁殖するかって。」ksさん「なんかときどき口パクパクしてるよ。うちのアカヒレ。」OSくん「こないだアカヒレ水草に噛みついてたよ。これ、本当。」kmさん「石になんか、つついていたよ。」ksさん「酸素足りないのかなって思ったら・・・、分かんない。」AKくん「酸素足りないなら、普通上の方だよ。」ksさん「だよね。すごい真ん中らへんでパクパクしてて、食べてるのかなって。」kmさん「微生物を・・・。」ksさん「泰崇くん、どう思う?」OSくん「微生物がいるんでしょ?」ksさん「たぶん。顕微鏡で観察してないから分かんないけど、・・・。」kmさん「でも、いるんじゃないかな。」AKくん「うん、そうそう。」ksさん「だって、普通いるでしょ。」kmさん「だって、水草にくっついてくるって書いてあったじゃん。インターネットで調べたとき。」ksさん「うん。それに水草3本ぐらい入れてるからね。」kmさん「いるんじゃないかな。」ksさん「いないとね。だれがきれいにしてるか分かんない。で、上からフタ開けて覗くんだよね。そのときに、またアカヒレがパクパクして、上の方じゃないんだよ、すごい下の方でパクパクしてんの。で、死ぬのかなって思ったら、次の日もまたパクパクしてて。」kmさん「水草噛みついてるの見たことない。」ksさん「うん、ない。」AKくん「水草にエサがついてたんじゃないの?」ksさん「微生物が少なすぎたんじゃない?」OSくん「噛みついて、あばてれた。」AKくん「ストレスじゃないの?」ksさん「微生物はどこから繁殖するの?」kmさん「水草じゃない?」ksさん「でも水草に・・・、1回ついてくるのは本に書いてあったけど、入れてほっとくじゃん、で、微生物がバーってとれるでしょ。」kmさん「繁殖するんじゃない?」ksさん「繁殖するのかな?それが分かんないんだよ。水草しか外から入ってくるものないじゃん。砂とかについてるとか思わないじゃん。」AKくん「砂はあんまり関係してないと思う。」 ・・・・・おそらくksさんは、アカヒレが口をパクパクしているのは目に見えない微生物を食べていると考えているのだろう。はじめは、アカヒレがいることで微生物が増えすぎないと発言しているものの、話し合いの後半では、微生物が瓶の中で増えることができなければ、アカヒレに食べられてしまいいなくなってしまうと心配していることが分かる。これは、アクアリウム内の生物のバランスを考えるときに重要な気づきである。しかし、前回のblogで紹介したようにグループでの話し合いのはじめ、OSくんが「微生物とプランクトンはいるの?」と質問しているように、まだ微生物とプランクトン、バクテリアが混同し、話し合いが混乱していることも分かる。やはり、目に見えないものをイメージすることは難しいのだろう・・・。(つづく)※ 今回の記録は、平成26年2月26日のものである。
2014.03.04
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前回のblogのつづき。ayさんの発言を聞き、しばらく自分の考えをノートに書いた後、ksさんのグループでは次のように話し合っていた。・・・・・ OSくん「ねえ、微生物っているでしょ?」kmさん「微生物いると思うよ。」AKくん「いるよ。」OSくん「じゃあ、バクテリアっているの?」kmさん「微生物とバクテリアって同じじゃないの。」ksさん「分かんない。同じ微生物じゃないの?」OSくん「じゃあ、プランクトンっているの?」kmさん「プランクトンと微生物の違いが分かんないの?」ksさん「プランクトンは微生物だからだよ。」OSくん「プランクトンも微生物なの?」kmさん「バクテリアも微生物じゃないの?」AKくん「赤潮の原因になる微生物、プランクトンに決まってるらしいよ。」ksさん「へー、種類が?」AKくん「そう。」kmさん「ビンの中に微生物がいなければさあ、・・・。」ksさん「逆にアカヒレ入れなければさあ、元気に・・・なんていうんだろ、きれいになると思うよ。」AKくん「アカヒレが、自分の糞食べるわけないでしょ。」kmさん「だからさ、ずっと・・・。」ksさん「微生物が回収しているわけじゃん。だからさ・・・。」kmさん「自分で自分の糞を食べると思わないでしょ。でも、水草はどうやって糞を吸収するの?」ksさん「うん?水草が?」kmさん「水草が、どうやって糞をきれいにするわけ?」ksさん「バクテリアみたいのが、微生物が分をきれいにして、分解して、分解したものを・・・。」kmさん「分解したものじゃなきゃ、微生物が分解したものじゃなければできないから、微生物がいなきゃ無理じゃない?」ksさん「微生物がいないと成り立たないんだよ。でももし、アカヒレがいないと糞がないじゃん。アカヒレがいないとね、だから、分解されたものがないから水草はだんだん元気がなくなっていってしまう。」kmさん「かな?」ksさん「だって養分が少ししかない。」kmさん「でも、日光に当たるでしょ?」AKくん「水草は成長するんでしょ?何かを養分にしているってことじゃないの。」ksさん「うん・・・。」AKくん「そしたら、その意見、筋道通るよね。」・・・・・「アカヒレを入れれば、きれいになる」というksさんの発言。他の子どもたちにとって予想外のものであっただろう。その後のやりとりの中で「アカヒレが糞をする→糞を微生物が分解→分解したものを水草が吸収→吸収したものを水草が養分にする」と整理され、最終的にksさんは「アカヒレがいないと、水草はだんだん元気がなくなっていく」と発言している。さらには、アカヒレの糞が供給されないと、水草に必要な何かが不足するのではないかと考えていることも分かる。できれば、kmさんの「日光が当たれば水草は光合成をして養分をつくりだすことができる」という発言とかかわり合えばよかったのだが・・・。(つづく)※ 今回の記録は、平成26年2月26日のものである。
2014.03.04
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2月14日の公開授業の「次の授業」である。今回は、まず、先日このblogで紹介したayさんが授業後に書いたノートを紹介した。・・・・・ayさん「はい。バランスドアクアリウムの中に本当に微生物がいるかどうかは分からないが、微生物は水の中のよごれ(魚のフンなど)を分解するということは分かっているので、ビンの中で水をきれいにしているのは微生物だと思った。アカヒレのフンなどをオオカナダモや敷石がきれいにしているとは思えない。もし微生物が死んでしまったら死がいをアカヒレが食べると思う。けれど微生物を食べるのであれば普段からアカヒレは微生物を食べていたのかそこが疑問。そういうふうにバランスドアクアリウムには、生態系←食物連鎖ができていると思う。だからバランスドアクアリウムは色々な生物で支えられている。ビンの中にはむだがない。でも本当にアカヒレや微生物が水をきれいにしているのであれば、アカヒレをビンの中からぬいてオオカナダモとかだけを育てていき水がきたなくなってきたら、水の中をきれいにするのにアカヒレは必要ということになるし、水がきたなくならなくてきれいなままであるのならアカヒレのほかにも水をきれいにするものがいる。という実験をすればどの生物が水をきれいにしているかが分かると思う。微生物がいるかどうかはビンの中の水を少し出して顕微鏡で見ればビンの中には微生物がいることが分かる。というように水の中に住んでいる生物をまず調べてからの方がよいと思う。調べたら予想外の生物も出てきてその生物が水をきれいにしているのかもしれないから、まず人間の目に見えないものまで調べると本当に水の中をきれいにしているというのが分かると思う。私は、アカヒレ、オオカナダモ、微生物が住んでいると予想している。また私は、アカヒレ、オオカナダモ、微生物のどれかが水の中をきれいにしていると予想している。」T 「今、ayさんがいってくれたことをこのように黒板にまとめましたが、みなさんはどう思いましたか?今日は、このayさんノートからはじめたいと思います。今、ayさんの話を聞いて、どう思ったか、ノートに整理し話し合いましょう。ただ、最後に顕微鏡で調べたらってあったんだけど、みんなが話題にしているバクテリアは、学校にある顕微鏡では見ることができないそうです。残念ながら、顕微鏡で見ることができないので、だったらどうするか。そのことも含めて考えましょう。」・・・・・今回は、特に課題も設定せず次のような板書を提示し学習をスタートさせた。(つづく)※ 今回の記録は、平成26年2月26日のものである。
2014.03.04
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先週末、大学で開催された研究会で今年1年の取り組みを紹介する機会があった。昨年の2学期に取り組んだ6年「土地のつくりと変化」の実践を例に、理科学習において論理的な思考・表現を促すために、「理由づけの質を高めること」や「根拠となる事実の『層』を厚くすること」が必要であると提案した。その協議の中で、参加いただいた熊本市の指導主事の先生(初任の頃、サークルでお世話になった先生)に、「根拠となる事実が増えることで、子どもたちが混乱するのではのか」という質問をいただいた。その場では「事実同士をつなげること」「それぞれの事実の真偽性を問うこと」「中心になる観察・実験の結果にもどすこと」が大切であると答えたものの、私自身しっくりこない。特に、「根拠となる事実の『層』を厚くすること」と「理由づけの質を高めること」との関係は上手く説明することができないのである。「根拠となる事実の『層』を厚くすること」により、授業中の子どもの発言は多様化する。もちろんその整理は大変になり、メリットがなければ「混乱するぐらいなら中心になる観察・実験を」という当然の指摘であろう。それでは、なぜ「根拠となる事実の『層』を厚くする」ことが必要なのか。これまでの取り組みを整理すると、「事実同士をつなげること」により理由づけの質が高まり、深い概念的な理解を促すことができるということが挙げられる。例えば、今回の実践では「モデル実験の結果と実際の地層の様子をつなげる」ことと「モデル実験の結果と5年『流れる水のはたらき』の学習や洪水などの生活経験をつなげる」ことの2つのが考えられるだろう。まず、「モデル実験の結果と実際の地層の様子をつなげる」こと。ペットボトル実験でも雨樋実験でも、水の中にれき・砂・泥の混ざった土砂を1度だけ流し込んでできる層を見て、子どもたちは「地層ができた」と声を上げる。しかし、実際に見学したとき地層と比較すると、層の重なり方に違いがあることに気づき疑問をもつであろう。この疑問が、モデル実験と実際の地層を関係づけるきっかけになると考える。観察・実験そのものや結果の整理の仕方を見直し、違いの原因を探ることが、2つの事実を関係づけることにつながるのである。今回の実践では、モデル実験と実際の海や川との条件の違いや、その中で共通する「粒の大きいものが先に沈む」という原理、さらには、その原理と実際に地層の層の重なり方の関係について説明することにつながる。つまり、複数の事実のズレを埋めるために、どのように比較、関係づけしたのかを説明することが「確かな理由づけ」になるのである。次に、「モデル実験の結果と5年『流れる水のはたらき』の学習や洪水などの生活経験をつなげる」こと。今回行った雨樋実験でも、はじめに雨樋に置いた土砂の量や流す水の量や勢いの違いによって、水槽までの土砂の流され方に違いが出る。このばらつきに着目し実際の地層のでき方に関係があることに気づくことが、5年「流れる水のはたらき」で学習したことや洪水などの生活経験を挙げて具体的に説明することにつながっていく。つまり、1つの事実を検討するために、どのように他の事実と比較、類推したのかを説明することが「豊かな理由づけ」になるのである。さらに、この「確かな理由づけ」や「豊かな理由づけ」が一人一人の子どもに生じやすくするためには、つなげる事実そのものの「層」を厚くする必要があるということである。しかし、これでは「混乱するのではないか」という質問の答えにはなっていない。どの事実同士をつなげばよいのか。そして、どのように事実同士をつなげるか。その子どもの姿とともに具体的な説明が求められているのだろう。今後、今回「比較、関係づけ→確かな理由づけ」「比較、類推→豊かな理由づけ」と整理したことをもとに明らかにしていくことが必要である。
2014.03.03
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