2007年02月08日
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田中清玄と 全学連へのかかわりについて いろんなページから 集めてみました。人によっていろんな見方があるんですが、清玄が論争ジャーナルという右翼系の同人誌に援助していたことは 自伝ではふれていないし、この全学連への援助との整合性を見る方が意外にいないというのは いったいおかしなものだという気がします。

田中清玄(インタビュアー大須賀瑞夫)『田中清玄自伝』文藝春秋、1993年、pp.171-175

  --田中さんといえば、六○年安保で全学連幹部に資金提供をしていた印象が強烈です。その理由を話してください。

 当時の左翼勢力をぶち割ってやれと思った。あの学生のエネルギーが、共産党の下へまとまったら、えらいことになりますからね。一番手っとり早いのは、内部対立ですよ。マルクス主義の矛盾はみんな感じていましたから。ロシアの威光をかさにきてやる者、それから共産主義の欠陥をくみ取れない連中、進歩的文化心ではやりの馬に乗った人間、彼等にはそういういろんな雑多な要素があるんです。しかも反代々木(反日共)で反モスクワである点が重要だ。彼等を一人前にしてやれと考えた。反モスクワ、反代々木の勢力として結集できる者は結集し、何名か指導者を教育してやろうというので、全学連主流派への接触を始めた。もう一つは、岸内閣をぶっ潰さなければならないと思った。




  『間違えるな日本人 ! 』(徳間書店、平成11年) (小浜逸郎氏との対談)

第1章 六〇年安保から得た思想的課題



  私は運動そのものの根源を問い直さなければだめだという立場でしたが、そのままの形で運動をもっと先鋭化してやろうという人たちが出てきた。その人たちが何をやったかというと、いままで守ってきたものを崩そうとしたんです。それで一つは右翼と結んだわけです。唐牛健太郎が田中清玄と手を組もうとした。

小浜 有名な話ですね。

林 そういう連中が出てきたのと同時に、金のつくり方がものすごく汚くなったんです。金はそんなに要らないはずですが、彼らは生活の基盤を全部投げ捨てて運動に参加していたので、自分たちが食っていくのに金が要るわけです。私は、真面目でしたから、依然として家庭教師などのアルバイトをしながら、自分のものは全部自分で稼いでいた。下っ端の運動家はみんなそうでした。私は幹部でしたけれども、そういうふうにやっていた。当時、私は家から仕送りを受けていないんです。大学に入ってからは自分で生活費を稼いでいた。ところが、連中は、うまいこと金をせしめようとしたんです。いろいろなところから騙し取った。


 一番ひどくて、後々まで影響を持ったのは、鶴見俊輔をだましたことです。当時、鶴見俊輔は大学を退職して、具体的な金額は知りませんが、退職金が入ったので、彼らはそれに目をつけたんです。鶴見俊輔は当時、心情的に全学連に加担していました。そこにうまいこと取り入って、借りるということで五〇万円くらいらしいんですが、だまし取ったんです。


 当時の五〇万円というと、いまの感覚だと五〇〇万円ぐらいの感じですよ。名目は借金ですが、返すつもりは毛頭ないわけです。私はそうした動きからは完全にはずされていた。林に言ったら反対するし、ぶち壊すだろうからということで、彼らが勝手にやったわけなんです。それでずっと後までこのことを知りませんでした。


 それで鶴見俊輔が怒って、「全学連の連中はけしからん」というようなことをどこかで言って、別に私のほうから「私は加担していません」と一々弁解することもないので黙っていましたから、私のことも同じ穴のむじなだと、いまでも思っているだろうと思いますが、実は全然違うんです。


 じつは私も小さな被害者で、私が逮捕されたときに、高校のある後輩が、わざわざ書記局を訪ねてきて、私にとかなりの金額をカンパとして預けたんですが、それは誰かが着服して私の手には戻らなかったんです。その事実はずっと後になって知りました。


 これはちょっと余談でしたが、運動の最終段階に至って、我々は完全に分裂していたということです。分裂と言っても、私のようなものは数から言ったら圧倒的に少数派なんです。しかし、指導部の中では少なかったのですが、一般の活動家は私のような真面目派のほうが多かったんです。そういうことを手段を選ばずやっていいなんていう人は、むしろ運動の中に入ってきません。

小浜 ブントが中核派と革マル派に分裂したのはそのころですか。

林 そうです。手段を選ばずというか、暴力化した連中が中核と革マルとして残ったんです。



林 暴力的なことをやっても構わないということになって、そこで一つのたががはずれたというか、チェックポイントがなくなったんですね。


 我々が大衆運動をやっていたときには、暴力は振るわないということが絶対的な基準だったんです。そういう歯止めをかけていたのですが、それが崩れてしまった。我々はそこでもうこの運動はだめだということで見切りをつけました。そして、見切りをつけなかった人たちが中核と革マルになったということだと思います。







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最終更新日  2007年02月08日 14時14分55秒
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