2010年02月06日
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http://www.nogami.gr.jp/rekisi/sandanorekisi/25_kodera/kodera.html
 彼は三田藩における財政改革等に参画するうち、経済に強い自分を発見した ようだ。1872年(明治五年)、九鬼隆義・白州退蔵とともに志摩三商会の 設立に加わり、一時大いに繁盛した。 泰次郎は、その後独立し、不動産・金融業を始める。当時の神戸はというと、 1867年(慶応三年)、兵庫開港とともに外国人居留区が設置され、翌明治 元年には神戸町と名づけられたが、まだまだ鄙(ひな)びた漁村に過ぎなかった。 1872年(明治五年)、地所永代売買解禁の布告が出され、翌明治六年の 地租改正により、従来のように収穫高に対して税をかけるのではなく、土地の 価格を決め、その土地の所有者に地価の十分の三の地租を課すこととなり、 土地売買の取引市場が形成されてきた。旧藩主九鬼隆義の命も受けながら、 藩有林や武器・調度類を売却した資金で山手の一部、栄町、元町といった神戸 三宮周辺の土地を買い漁ったのはこの頃のことである。新開地を境に、東を 九鬼隆義、西を小寺泰次郎が買っていったと言う。  

http://www.gakugei-pub.jp/kobe/g_kin/25hon.htm#N0004
 まずは、 開通から今年で132年になった栄町通のあゆみを辿ってみよう。
 栄町通のルーツを語るとき、 語り落とせないのはもちろん「居留地」と、 もうひとつは「鉄道開通」という二大プロジェクトである。
 明治元(1868)年、 生田川(現フラワーロード)西側に出現した神戸外国人居留地は、 格子状に区画された街区割や幅27mの京町筋など、 当時の日本人の感覚とはかけ離れた空間であったと考えられるが、 この居留地の強烈な印象が、 その後の、 神戸駅北側の仲町部(現神戸市中央区橘通、 多聞通)の開発や、 明治中期から展開する新道開鑿、 耕地整理など民間による神戸の市街地基盤整備に大きな影響を与えたことは想像に難しくない。
 栄町通の建設も、 そうした「居留地」の与えたインパクトのひとつと考えられるが、 その実現には、 明治初期の兵庫県庁を根城に活躍した一人のメリケン帰りの「プランナー」の存在が大きかった。
 明治の初め、 西国街道(現元町通商店街)と、 海岸通に挟まれた区域は、 兵庫津から引き続いて形成されてきた神戸・二つ茶屋・走水の三ヵ村の中心部で、 場所柄、 水産物を商う人々などが住まう密集市街地であった。 できたばかりの居留地と大阪神戸間を結ぶ鉄道の終着駅が建設される東川崎町とを連絡するのは、 江戸時代そのままの西国街道と明治4年に整備された海岸通(現国道2号線)以外に目抜き通りはなく、 漁村特有の毛細血管のように家々の軒先を縫って歩いていく有様であった。
 鉄道の開通を約2年後に控えた明治5年、 このまちを揺るがす計画が、 県庁から出された。 神戸・二つ茶屋・走水の三ヵ村の真ん中、 西国街道の南側に、 幅員18mの大通りを建設するというのだ。

 まもなく兵庫県庁が、 関戸に目をつけた。 何しろまだ地方自治の基盤も確立しておらず人材不足の状況で、 短期間とはいえアメリカ滞在という関戸の経歴が光ったのだろう。
 栄町通の建設にあたっては、 道路建設だけでなく沿道の市街地整備も合わせて計画されていて、 鯉川筋から宇治川の間まで道路幅員の3倍強・69mの幅で、 用地買収が進められた。 兵庫県は、 外国人居留地に対して「日本人のためのビジネス街づくり」を目論んでいた。 鉄道の終着・神戸駅から居留地への玄関口となる大通りに相応しいまちづくりを企図して、 そのプランにはある秘策が込められていた。

http://www.gakugei-pub.jp/kobe/g_kin/26hon.htm#N0003
 明治5年の暮れ、 新道建設予定地とその沿道の用地買収と建物の除去がほぼ終わった。
 兵庫県は新道沿道に、 間口7間以下の建物の建設を禁じる「建築条件」を付した。 このことで、 零細な従前居住者は、 他地域への移転を余儀なくされたが、 その目的は、 鉄道駅と居留地を連絡する新しい目抜き通りに相応しい景観を創出することにあった。
 新道の工事は翌6年の年明け早々から開始され、 8月には全通。 従前居住者が再建をした区画以外の沿道の宅地は、 三井、 小野善助(小野組)などの政商、 そして九鬼隆義、 小寺泰次郎ら旧三田藩関係者を構成員とする志摩三商会などに売却され、 景観は一変した。 栄町通や山手通の建設、 城ヶ口墓地辣腕を振るった関戸は、 ほどなく県庁を退職。 小野組の顧問に迎えられる。 同組が明治7年に破綻後は、 諏訪山界隈の開発にも手も染めたが、 「関戸の足跡は、 今のところ明治20年頃から消えている」(赤松啓介「神戸財界開拓者伝」)

http://singetu.ddo.jp/uminaritamazu/ziba.htm
余談になるが、太平洋戦争前まで神戸の一流の料亭だった常盤花壇(ときわかだん)があった。常盤花壇の創始者・前田又吉は大阪の資産家だったが、遊興で身を持ち崩し、すってんてんで神戸へやって来た。全財産をはたいて作った一両余りを資本に、佐比江(さびえ)の米市場のそばで煮売り屋を開店。といっても露店だが、身代を傾けてみがいた味の感覚がものをいう。やがて小料理屋を開き、信用とひいきをつかむと明治元、花隈に常盤花壇を開いた。
そのひいき客の一人が九鬼隆義。又吉のスポンサーというべき立場にあった。3、4年ごろ、小野組の 関戸由義が又吉に話を持ち込んだ。 「諏訪山のふもと塩の池という一区に鉱泉のわくところがある。中宮、花隈、宇治野、北野など六ヵ村の共有地だが、交渉してそこを買い受けた。ついては、その地をだれかに貸したい。あんた、温泉でも開いてみる気はないか」 又吉は乗り気で、九鬼に相談した。九鬼は即座に、よかろう、と又吉に資金を貸した。5、6年ころ、諏訪山温泉が開かれた。又吉は九鬼のすすめで東、西、中の三店を出し、宇治川にも「宇治川常盤」を開いて、手びろく営業した。
関戸が六ヵ村から買い受けたのは坪(3.3平方メートル)当り一分二朱。それをいかほどで貸したか不明だが、うまい商売だった。ところが、7年に小野組が破産、同地は大蔵省国債局の所有になってしまった。

編注

これが三田藩グループの神戸での土地買収の一幕です 地上げを 三田藩グループでどうやったが 不明でしたが これならば納得できます 
当時の兵庫県令は 神田孝平という方で 福沢センセイの友人ですし 関戸も 福沢センセイの門人です うまく抱き込んで  小野組や三井組の中に入り込んだということなんでしょう 
これなら お礼ということで福沢センセイのところに 金を貸したということになっているのも 納得できます さすが 学商 福沢センセイ






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最終更新日  2010年02月06日 23時30分39秒
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k_guncontrol さん
なるほど福沢先生へは“貸したことになっている”わけですか。納得。 (2010年02月07日 09時37分13秒)

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