2010年05月15日
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http://seizejapan5.seesaa.net/article/19740656.html
 四元が社長をつとめた「三幸建設工業」は、小菅刑務所で知り合った元日本共産書記長田中清玄から昭和30年ごろ、経営を任されたのだった。社長になったばかりの四元はそのころ始まった八郎潟の干拓に参加したいと考え、農業関係に強い発言力をもつといわれていた河野一郎へ頼みにいった。四元を連れていったのは、稲葉修代議士だった。ところが河野は、おれは利権なんかにかかわったことは一度もない」とソッポを向いたまま。 おのれ白々しいと怒った四元は、
「稲葉さん、帰りましょう」と席を立つと、
河野が、「まあ待て」と慌てだし、結局、八郎潟に一番乗りできた、という。

 それで河野に対する四元の嫌悪が解消したかというと、まったくそうはならず、
「三上卓の弟子の野村秋介が、鎌倉の自宅へやってきたとき、ぼくは河野のことをクソミソにいった。その1週間後、野村は河野邸を焼き討ちした。警察がうちにも来るかと思ったが、来なかった。さすがに口が堅い」

 野村は、当時の行動右翼の第一人者で、1983年8月19日、経団連襲撃事件で受けた6年の刑を終え出所した。その野村の四元評は、
「代表的な右翼を10人挙げろといわれれば、必ずその中に入ってくる人。ただ、歴代首相の内懐に入って政治に影響を与えるという、あの人独特の考え方から、右翼思想の啓蒙や大衆の組織化といった運動はしない。その点を一部の者は右翼と認めないかも知れないが、人格的には立派な人」
 と好意的だった。


 以上は、既出の週刊誌1984年2月10日号からの引用だ。

http://www.kamou.co.jp/keiten/yotu/nakayotu5.htm
 四元は、中曽根と歩んできた過去をふり返りながら、訥々と語った。
「中曽根を注目しだしたのは、河野一郎が死んでからだ。ぼくは、河野のところへなんか行くんじゃない、やめろ、といったんだけどね。中曽根はいうことをきかなかった。ぼくは、河野一郎が嫌いでね。若いころだったら、叩き殺してやるよ。河野派の連中は、児玉を大先生と呼んでいる。みんな、金をくれるから偉いと思ってるんだ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E9%87%8E%E4%B8%80%E9%83%8E
岸退陣後の自由民主党総裁公選では、党人派の結集を画策し、大野伴睦、石井光次郎を擁立するが、官僚派(旧吉田派)の池田勇人に敗れる。一時、河野新党[3]の結成を目論むが、大野らに翻意を促され、断念。大野の仲介により池田首相に接近をはかり、1961年(昭和36年)7月の内閣改造で農林大臣として入閣。1962年(昭和37年)7月の改造では建設大臣として、東京オリンピックの担当相として辣腕を振るった。
1963年(昭和38年)7月には、右翼の野村秋介らに、自宅を焼き討ちされている(河野一郎邸焼き討ち事件)。
1964年10月に東京オリンピック終了と共に、池田が病のため退陣表明するに当たっては後継総裁候補の一人に擬せられたが、後継総裁は池田の指名で佐藤栄作に落ち着いた。

http://report.jbaudit.go.jp/cgi-bin/infobee/marking.cgi?target=http%3a%2f%2freport%2ejbaudit%2ego%2ejp%2forg%2fs39%2f1964%2ds39%2d0044%2d0%2ehtm&key=%8e%4f%8d%4b%8c%9a%90%dd%8d%48%8b%c6&cat=
東北農政局で、昭和39年7月、指名競争契約により三幸建設工業株式会社に87,050,000円で請け負わせ施行した雄物川筋農業水利事業皆瀬1号幹線水路(その3)工事は、40年2月、設計どおりしゅん功したものとして検収を了しているが、平板コンクリートブロック舗装水路の舗装ブロック連結鉄筋孔モルタル注入、盛土等の出来高において工事費1,038,000円相当額が不足しており、また、天ばコンクリートを設計と相違して施行したため、その効果が設計に比べて低下していると認められる。
 本件工事は、ブロック舗装水路延長2,748メートル等を施行するもので、設計書および図面によると、うちブロック舗装水路(工事費32,644,000円)は、舗装ブロック11,255平米の各ブロックの中孔に縦連結鉄筋をそう入した後、その空げきに平米当り0.0015立米総量16立米のモルタルを注入することとなっているのに、実際は3,955平米総量5立米を施行したにすぎず、また、盛土12,186立米は、水路の掘さく土を流用して整形することとなっているのに、実際は掘さく土の一部を仮置きしたままとしていて10,245立米を施行したにすぎないなどのため、工事費1,038,000円相当額が出来高不足となっている。さらに、天ばコンクリート164立米は、舗装の一体化をはかるため舗装ブロックの中孔にそう入した縦連結鉄筋の上端に横鉄筋を結束し、これを包んで幅30センチメートル、厚さ10センチメートルのコンクリートを打設することとなっているのに、実際は左右岸延長3,044メートルの91立米(工事費945,032円)は結束鉄筋が下方に曲げられたままこれを包むことなくその上にコンクリートを打設したため、舗装の一体化をはかる効果が低下しているものと認められる。


http://mimizun.com/log/2ch/sisou/1067886230
135 :右や左の名無し様:03/11/27 21:48 ID:Y7CYIrjX
野村が全愛会議理事から河野邸事件後に籍を抜かれなかったのは、
やっぱり児玉も「なかなかの男だ」と一目置いたからだろうね。

136 :右や左の名無し様:03/11/28 18:22 ID:ElpBPjXN

除名されてない?はい?なに?なんですかぁ?

何で葬儀委員長が志賀なのって思ったのは私だけ?


137 :野村ファン:03/11/28 20:11 ID:sVJNc9iT
>>136
??何が言いたいの?
当時河野マンセーだった右翼勢には野村に対する非難がかなりあって、
でも結局除名されなかったのは、上の方に野村支持がいたからだろう。
その辺のことは著書に書いてあるが。

野村秋介の 河野一郎邸焼き討ち前後の話を いろいろあげてみました このあと 田中清玄が 銃撃されるわけですが 清玄自伝では 野村秋介との絡みは 経団連の襲撃はとりあげていますが 焼き討ちの話はスルーです
また 当時の右翼関係の連合体の全愛会議から 野村が籍を抜かれていないというのは面白いですね これは児玉センセイが野村が漢であるということを認めていたなどという見方もありますが これは単に 野村に背後があったということで 全愛会議の最高顧問クラスに 河野シンパである 児玉の 反対勢力があったということでしょう それがあるから 野村が河野邸を焼き討ちし 刑務所で無事にお勤めをすることができたんでしょうね そうでなければ
果たして
ですから
軍国主義うんぬんというよりも この騒動は官僚派と 党人派の代理戦争というのが本質でしょう
清玄と児玉






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最終更新日  2010年05月15日 21時53分10秒
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sammy さん
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