2011年02月27日
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
http://plaza.rakuten.co.jp/junksai/diary/201010210000/
八月二十日 上海に飛ぶ新聞社機の便があったので 高源がこれに便乗して上海に向かった 同二十五日 金やダイヤモンドなど 貴重物資三十二億円分を海軍機に満載して上海飛行場を飛び立とうとしたが 機は重さのため浮揚することができず 滑走路の端までいってトンボ返りを打ち破損してしまった  高源は積み荷を別の爆撃機に積み替えて上海を発つが 大阪の飛行場に着陸の際 またもひっくり返って機体は使用不能になった さらに別の軍用機に積み替えて東京まで 運んできたという 当時 軍用機は飛行場に幾台も遊んでおり 使い放題であった

児玉資金の上海からの輸送については このような見方もありますが 朝日新聞の社機を借用してというのが定説なんですが 

朝日の上海支局が 他社にない特徴を持っていたとすれば それは飛行機を使用することであった 白川威海によると
朝日は海軍と仲が良かったので 海軍機と同機種の飛行機を海軍に頼んで購入してもらい その胴体に朝日のマークをつけた 戦局が逼迫してくると微妙なニュアンスをふくんだニュース記事は電報では送りにくい やがては航空機万能の時代に入っていくのだから 定期航空路を確保しておこうという先見の明があった 日本へとぶ航路は上海 福岡間 その実現には河内という航空部長がずいぶん努力したものです
朝日新聞社の飛行機利用は他の新聞社の記者たちを口惜しがらせた しかしこの飛び道具がのちに児玉機関のダイヤモンドやプラチナを運ぶ役をつとめ 結果的には 朝日新聞社史に不名誉な汚点をつくったのだから皮肉である
河内航空部長は豪傑肌で国士ふうなところがあり 笹川良一 児玉誉士夫といったような右翼人たちとも親交があった
お国の為に頼む ひと肌脱いでくれ
といわれて引き受けたらしい 結果としてはほんとうに国のために役だったといえるかどうか 朝日側の利用されたという表現が正しいだろう 河内航空部長は戦後に病気でなくなっている


岩川さんが 調べきっていない面もあるんですが 証言を聞いた 朝日関係者のいいわけを 岩川さんが 破れていない面もあります
ちなみに 河内航空部長は 河内一彦といいまして 記者というよりも まだ冒険家みたいな時代からの飛行機の操縦士あがりです

http://www.geocities.co.jp/Playtown-Toys/4086/2goukan/3-jouin.html
昭和20年1月、陸軍省内で 阿南惟幾 陸軍航空総監就任祝賀会が開かれた。  時局が逼迫するなか、ささやかに行われたこの宴席で、一つの事件が起こった。  ケンカである。
当事者は、航空本部総務部長・田尻少佐と朝日新聞航空本部長・河内一彦。
河内は福岡に生まれ、航空局第1回航空機操縦術練習生から叩き上げた9700 飛行時間のベテランである。 昭和18年に陸軍と共同で実施された A-26機 ( Aは朝日新聞の頭文字 )の日独連絡飛行で5名の部下を失って以来の鬱憤が 爆発してしまったのだ。 「 悔しかったら戦争に勝ってみろ!」と。
田尻少佐も売り言葉に買い言葉
「 何をっ、よし、貴様のような奴は一兵卒で召集してやる!」と息巻く。
河内一彦についてはネット上に資料が少ないので捕捉を少々
・大正12年、第9回全国中等学校野球大会 開会式で始球式用のボールを投下
・大正14年、訪欧大飛行にて「 東風(ブレゲー19A)」号の操縦士

・昭和19年、新京にて周回航続距離16435km達成(A-26 1号機)時 朝日側責任者
昭和18年の日独連絡飛行では、陸軍側に「民間人が操縦する民間機」との要望が あり、長距離飛行には定評のある朝日が選ばれた。 飛行コースの選定において 陸軍は南方ルートを取ることを指示したが、河内は北方ルートを取るべきと主張 し続けたものの入れられず、その結果A-26は消息不明となってしまった。
実施に当って「ソ連領空を侵犯しない事」という条件があったから北方ルートは ダメだったのかもしれないが、河内にしてみれば5名の航空部員を喪ったことで 陸軍に対する不信感はつのったことだろう。
「 まぁ、あん時は 」
と、当時 報道局長であり、河内の飲み友達でもあった 細川隆元は語っている。

翌日、事情を知らされた朝日新聞社長・村山長挙は早急に手を打つ必要があると 思った。 まさか陸軍が本気で河内を召集するとは思えないが、万一という事も ある。 そこで密かに海軍省の然る高官と打ち合わせ、一時的に海軍嘱託として 預けちまえ、という話になった。 しかも、陸にいると何やかやで揉めるだろう からフネに乗せちまおう、と・・・。

朝日新聞の中国侵略 山本武利 文芸春秋によると 当時の朝日新聞航空部から 海軍の嘱託扱いに何人かなっていたようで ここに出ている 村山社長が航空機を使い インドネシアからぜいたく品の密輸をしていたと指摘していますが 単純に頼まれただけだったのか ちなみに河内部長も福岡 吉田彦太郎も福岡 同郷です

http://space.geocities.jp/umi9994/page009.html
食い終わって朝日本社へ戻ると、四階の主筆室に緒方竹虎を訪ねた。
さくらは今日一日にあったいろいろなことを緒方にしゃべった。
ただし中橋から貰った手帳のことはいわなかった。
「そうか。ご苦労だったね」
そう緒方がねぎらうと、
「いろいろなことがありました、本当に……………」
とさくらが感極まっていった。
それを見て緒方が、
「さくらくん、食事に行こう」
銀座の店はもう再開してるよ、と誘った。
「でも」
さっきカレーを食べた事をいうと、
「私は食事をしなくちゃいけない」
ソーダー水かミルクシェーキ、レモネードならいけるだろう、と緒方がいってくれたので、さくらは
応じた。
ふたりが連れ立って階段のところへくると、ちょうど上がりてのところにある航空部のドアが開
いて、ふたりの男が出ていた。
航空部長の河内一彦と同部員の中野勝義である。
ふたりは主筆の緒方に出くわして、
「主筆、これからお出かけですか」
「さくらちゃんといいですね」
「例の主筆特権ですか」
などと軽口をたたいた。
朝日社内での緒方のさくらフリークはつとに知られていたのである。
「つまらんことをいっとらんと……諸君らは陸軍省へ行くのか?」
緒方が尋ねると、
「戒厳令は続くようですが、飛行禁止措置の方は明日(3月1日)にでも解除される見込みなの
で」
情報通のように河内がこたえた。
「さすが空のことは早いな」
緒方が感心すると、
「空のことであれば、陸軍よりも逓信省(当時の航空部門の主管官庁)よりも我々朝日航空部
がいちばんです」
と中野が自信満々といった面持ちでいった。
「私はそういう驕りが嫌いだ」
緒方が笑った。
「驕りはおごりでも奢りがいいよな、さくらちゃん」
さくらが思わず笑った。
「しかしご苦労だな。あれだけの事件の直後だというのに陸軍へご機嫌伺いに行くとは」
やはり、あの件か?と緒方は問うた。
「それもあります」
河内はそのためにも陸軍の心証をよくしておきたいといった。
航空部の二人が去った後、緒方とさくらも社外へ出た。
振り仰ぐと電光掲示板の「マッタク チンテイシタ」の文字が夜空にくっきりと浮かんでいた

児玉センセイを 内閣参与に推薦したのが 内閣書記官長だった 緒方竹虎だったわけですが どうも児玉センセイといえば 読売新聞との関連がいわれるわけですが ある時期までは朝日なんですね そして この人脈が ある会社につながり ある事件につながります

http://www.aero.or.jp/web-koku-to-bunka/2007.5.15youseijo5.htm
 この行事は朝日新聞社が企画立案したもので、そもそもはイギリス皇帝の戴冠式の原稿写真を輸送するのが目的だったが、次第に日本の国威発揚と、日英親善飛行のための連絡飛行へと拡大していった。その中心になったのが編集局長だった美土路昌一(戦後、全日空社長)、河内一彦航空部長、新野百三郎航空部次長、中野勝義航空部員(戦後、全日空副社長)の面々だった。

















お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2011年02月27日 09時51分02秒
コメント(1) | コメントを書く


■コメント

お名前
タイトル
メッセージ
画像認証
上の画像で表示されている数字を入力して下さい。


利用規約 に同意してコメントを
※コメントに関するよくある質問は、 こちら をご確認ください。


k_guncontrol さん
常々疑問に思ってるのですが、児玉センセイを裏方に据えるならまだしも、
「内閣参与」というオモテの要職につける事にはどういう意図/メリットがあったんでしょうか。 (2011年02月28日 12時35分34秒)

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

くれど

くれど

コメント新着

aki@ Re:ザコン館跡地利用のことなど(11/26) 日本有事と急がれる改憲、大変恐縮とは存…

© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: