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『竜馬は往った』連載その4



身につけたモノは必ず無くなる。今ある物も未来にあるとは言えない。
過去にあった事実は、過去の事実でしかなく、現在の事実では無い。
筋肉の事である。
では本題へ

大学を卒業し、仕事で、アジア、ヨーロッパ、アメリカの方々と仕事をする機会を得るようになり、ビジネス以外での会話となると、彼らはそれぞれに、自国観、世界史観を語るが、一番驚いたのは、どの国の方も、食べ物の歴史観を持っているということであった。
つまり自国の食べ物の言われや、何故この食べ物が、今のこの時期に食卓にあり、それを食すると、人のどの部分に効果があるのかをこともなげに答えてくれる。旅行ガイドブックには絶対に載っていない、自国、自地域の情報が身体の中に入っている。

我が身を振り返って、テレビやラジオからのにわか知識や、仕事に必要なため覚えていることや、受験勉強等で身についた知識はあるものの、自分の身体語としての歴史なり自然科学というものが皆無である現実に、外国人と仕事をする上で気付かされた経験がある。
あまりに視野が狭かった。それは自分自身薄々認識していた。余白を埋めること、つまり
与えられた教材以外への執着というか、興味が無かったからである。
簡単に言ってしまえば、試験のための勉強が全てであった。

私の父親は戦前の生まれである、私が高校の頃、「お父さんの高校の頃と、今とでは時代が違うから、お前が受験勉強で何を学んでいるかは分からないが」と、一度も私の歴史教科書を見なかったが、見れば、数行にまとめられた、自分の生きた時代の頁に愕然としたであろう。
「俺の生きてきた時間は、こんな数行には収まらない」と
 どんな時代も未来への通過点である。どの時代が正解で、どの時代が不正解で、と、答案用紙に記入するべきものではない。

 逆に、歴史を知らずして、未来はない。しかし、その歴史を知るとは、教科書が全てだと断定できないことは確かである。そして、歴史を知るきっかけは、生きている間、誰にでも平等にあることも確かである。

 松浦氏と私は、まず歴史を知るきっかけとなる、そんなカードゲームを作ろうと話し合った。それも「司馬史観」でなければ意味がないということになった。
時代メンコのように、歴史のヒーローが表にあって、裏に点数とじゃんけんの絵柄では、歴史を知りたいきっかけにはならない。
どうしてその点数がついたのか、そもそも何故その人が歴史上の人物となりえたのか、どこの誰がヒーローとしたのか、それがないとカードゲームとしての価値は出ない。
「ムシキングカード」にはそれがある、「ポケモンカード」にもそれがある。だからヒットするのである。ヒットするゲームには攻略本がある。大雑把な表現だが、司馬史観とはゲームの攻略本のようなものである。

 これも使い古された形容詞であるが
「研ぎ澄まされた歴史観と豊かな創造力は、激動する流れと、その中に浮沈する多彩な人間像を見事に捕らえ、それを我々現代人自身の問題として明快に解き明かす」この司馬史観を、どのように表現するかが課題となった。
昨今のカードゲームのように、カードに印字されたバーコードをバーコードリーダーに通すだけで、機械が自動的にその「虫」なり「登場怪獣」のデータを読み取り、瞬時に画面に表示してくれるデジタルな物では、何のコミュニケーションも発生しない。
 まず我々が重視したことは、世代を超えることができるコミュニケーションである。その一枚のカードで「ああだ、こうだ」、「分かる、分からない」、「知っている、知らない」を父と子、お婆さんと孫、五十代の部長と二十代の社員が、カードを通じてコミュニケーションができること、つまり、誰もが楽しめることが重要である。当然文字が読めない幼稚園の子どもでも楽しむことができるもの。そんな万人において、興味のきっかけとなるものは何か、散々話し合った。


話し合った結果どうなるのでしょうか
今日はここまで

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