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「命を尽くすとも悔ゆることなし」
なぜ法華経が、ここまで「信」を強調しているのか。池田先生は語っている。
「生命の次元で言えば、法華経の目的は生命の根本的な無知、すなわち『元品の無明』を断ち、『元品の法性』すなわち“本来の自己自身を知る智慧”に目覚めることにある」「ところが、これは生命の最も深層にあるゆえに、より表層にある理性等では開示できない。それらを含めた生命の全体を妙法に向かって開き、ゆだねることによって、初めて“仏性”“仏界”は、自身の生命に顕現していくのです」(『池田大作全集』第 29 巻)
この指導に、「信」が持つ底力が表れていると、強く心を打たれた。すなわち、“妙法を信じよ”との呼びかけは、「人間よ、自身の無限の可能性に目覚めよ。不可能の壁を超越せよ」ともいうべき仏の慈悲の叫びなのだ。
人は、苦悩に直面したり、苦境に立たされたりすると、自分の可能性を疑ってしまう生き物だ。“もう無理だ”“私には不可能かもしれない”との臆病、弱気が心を覆い、本来の力を発揮できない時もあるだろう。そんな時に、「私には御本尊がある!」と奮い立ち、祈りを根本に立ち向かうことができる学会員は、難と幸せか。それは、「御本尊を信じる」即「自分自身を信じる」という、気高き信仰の実像である。そしてその結果、苦難を乗り越えていった体験は、数知れないのだ。
さらに、「信じる」の究極ともいえる姿勢が、「南無」という覚悟の生き方であると、強く訴えたい。
「南無」とは、古代インドの言葉「ナマス」「ナモー」の音に、漢字を当てはめたもので、「帰命」とも訳される。帰命とは、端的にいえば「根本にする」ことであり、身も心も帰依することである。この意義を、天台は「命を以て自ら帰すべし」と述べ、妙楽は「命を尽くすとも悔ゆることなし」と記している。
いわば、私たちの唱題行とは全生命、全存在をかけた戦いであり、可能性への不信を打ち破る大音声なのである。
そこには、失敗への恐れも、無駄な後悔もない。これほど覚悟の決まった潔い生き方はないと、誇りをもって叫びたい。
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