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作家 山名 美和子
男たちが槍を手に戦場を駆けた時代、領地と家を守り抜いた女城主がいた。浜名湖の北、遠江(静岡県西部)井伊谷の城主次郎法師直虎である。直虎は井伊直盛のひとり娘として、天文年間の 1530 年代に生まれた。幼名はわかっていない。
伊井家は古くから伊井谷の領主だったが、駿河(静岡県中央部)を本拠に遠江、三河(愛知県東部)へと支配を伸ばす今川家に従うようになる。
甲斐の武田信玄が信濃へ侵攻し、尾張では織田信秀(信長の父)が戦を繰り広げる時代である。
直虎が 7 、 8 歳になると、男児のいない直盛は従兄弟の伊井直親を婿に迎えることにした。直後、直親の父と、その弟が今川義元に謀反を疑われて惨殺され、直親も信濃の山中に身を隠す。
仲良しの許婿が姿を消し、少女はどれほど悲しんだことだろう。世をはかなみ、やがて出家してしまう。出家名は井伊家惣領の名である次郎と法師をつなぎ、俗世に戻れる余地を残した。
直親が 10 年後に井伊谷に戻ったとき、信濃に妻と子があった。直盛は直虎に還俗して正室となるよう求めるが、直虎は強く拒む。井伊家別家の娘が直親に嫁ぎ、待望の男児・虎松が生まれた。
井伊家は悲運にみまわれる。永禄 3 年( 1560 年)、桶狭間の合戦で今川義元は織田信長に討たれ、直盛も戦死。井伊家を継いだ直親も 2 年後、今川義元の子・氏真にまたもや謀反を疑われ殺された。虎松はわずか 2 歳。もう井伊家には男子はいない。直虎は女城主となり、かつての許婿の遺児・虎松を育てていく。
戦続きで疲れ切った井伊谷に、氏真は徳政令を発布した。表向きは借財に苦しむ民の救済だが、今川氏に金が入るように仕組まれている。この徳政令を受け入れれば井伊家は井伊谷の支配権を失う。直虎はおよそ 2 年間、実施を凍結し井伊谷を守るが、圧力に屈して徳政令を受け入れ、城を出た。
虎松が 15 歳を迎えると、直虎は鷹狩途中の徳川家康に引き合わせた。井伊家は家康の正室・築山殿の遠縁でもあり、家康は虎松に直政の名を与えて寵愛。直政は戦ごとに手柄を挙げ、禄を過増されていく。天正 10 年( 1582 年)、直虎は泰平の世を願いながら没した。 40 代であった。
直政は聡明さと先陣をきって戦う勇猛さで、家康の家臣随一の禄高を得、「徳川四天王」のひとりに数えられる。関ヶ原の合戦後は近江(滋賀県)佐和山城主となり彦根城の築城を計画しつつ、合戦の傷により他界した。
次郎法師直虎が願った泰平が訪れる。徳川幕府による戦乱のない時代は 260 年ものあいだ続く。この長きにわたる平和は世界史に類を見ない。井伊家は江戸時代を通じて彦根藩主を務め、譜代家臣の筆頭として幕府を支え、幕末は井伊直弼を含め 5 人の幕府大老を排出して明治を迎える。直虎の奮闘と情愛があってこその永遠のきらめきであった。
直虎は男性であり徳政令を受諾した、女人の次郎法師は別人、との説も現れた。徳政令を強要する今川氏が男性・直虎を作り上げなかったかどうか精査しなければならない。
(やまな・みわこ)
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