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第 26 回 本尊問答抄 創価学会教学部編
駿河国富士下方熱原郷(現在の静岡県富士市厚原とその周辺)での法難(熱原の法難)が頂点をむかえる弘安 2 年( 1279 年)の前年にあたる弘安元年( 1278 年) 9 月、日蓮大聖人は、故郷・安房国(千葉県南部)の弟子・浄顕房に、末法においては法華経の題目こそ本尊とすべきであることを、諸宗の本尊を破折しながら教示されています。それが「本尊問答抄」(新 302 ・全 365 )です。
何を本尊とすべきか
大聖人は、建治 2 年( 276 年) 7 月、義浄房と浄顕房の二人に「報恩抄」を送られた際、浄顕房に曼荼羅本尊を顕して与えられます(新 262 ・全 330 、参照)。「報恩抄」では、「本門の教主釈尊を本尊とすべし」(新 261 ・全 328 )と仰せになっています。浄顕房はこの教えと、実際に頂いた、題目を中心とする曼荼羅本尊との関係に疑問を抱いたのではないかと考えられています〈注 1 〉。
「本尊問答抄」では、この疑問を回想する問答が重ねられていきます。
冒頭で、「問うて云わく、末代悪世の凡夫は何物をもって本尊と定むべきや。答えて云わく、法華経の題目をもって本尊とすべし」(新 302 ・全 365 )と、明確に答えを示されています。
「法華経の題目をもって本尊とすべし」
さらに、「本尊というからには、勝れているものを用いなければならない。(中略)釈迦物や大日如来、十方の仏たちは全て、法華経からお生まれになったのである。それ故、ここでは仏を生み出す根源(=能生)を本尊とするのである」(新 303 ・全 366 、通解)と説明されます。あらゆる仏を仏にした「能生の法」である南無妙法蓮華経こそを、大聖人の本尊感が明らかにされています。
その後、真言宗の開祖・弘法(空海)、天台宗第 3 代座主の慈覚(円仁)、同第 5 代座主の智証(円珍)の、法華経よりも大日経が優れているという主張を批判されます。
その中で大聖人は、「今、日本国中の天台宗・真言宗などの僧らや、天皇・臣下・民衆は、『日蓮法師ごときが、弘法大師・慈覚大師・智将大師らよりすぐれているはずがあるだろうか』と疑っている」(新 305 ・全 367 、通解)と言及されています。それに対し、「弘法大師・智将大師らは釈尊・多宝如来・十方の世界の仏たちよりすぐれているはずがあろうか」(同)と反問し、涅槃経の「法に依って人に依らざれ」の文を引いて、「(私が)『法華経が第一である』と言っているのは、法(仏の説かれた教え)をよりどころにしている」(同)と断言されています。
そして真言の祈禱のために立てられる本尊の誤りを厳しく破折し、真言による祈禱を行っていた天皇、上皇方が破れたという歴史的事実に照らして、真言による祈禱を行うことは亡国を招くと警告されます。当時、元(大元、モンゴル民族による中国の王朝、蒙古)の再びの襲来が予想されており、朝廷や牧夫は、異国降伏の祈祷を自社に銘じていたのです。幸福とは、神仏の力で魔や怨敵を防ぎ抑えることで、調伏ともいいます。
大聖人は続けて、大難に遭うことを招致で地涌の菩薩の先駆けとして、前代未聞の曼荼羅本尊を弘めてきたと述べ、「願わくは、この功徳をもって、父母を師匠と一切衆生に回向し奉らんと祈請仕り候」(新 315 ・全 374 )と、報恩の想いを記されています。最後に、浄顕房にひたすらこの御本尊を信じて祈るように促して本抄を結ばれます。
過酷な状況下で門下を激励
身延での生活
当時、日蓮大聖人の身延での生活はどのようなものだったのでしょうか。
大聖人は鎌倉の様子について、「種々御振舞御書」(建治 2 年〈 1267 〉年御執筆)に次のように綴られています。
「この山のありさまは、西には七面山、東には天子ケ岳、北には身延山、南には鷹取山がある。四つの山の高いことは(山頂が)天に付くほどで、険しいことは飛ぶ鳥も飛ぶことが難しいほどである。その中に四つの川がある。すなわち、富士川、早川、大城川、身延川である。その(川で囲まれた)中に、一町(=約 1 ヘクタール)ばかりの平地がある所に粗末な仮住まいを構えています。裕は太陽を見ることなく、夜は月を拝むこともない。
冬は雪が深く、夏は草が茂って、訪ねてくる人もまれなので、道を踏み分けることも困難である。特に今年は雪が深くて人が尋ねてくることもない」(新 1247 ・全 925 ,通解)
数々の難や 2 度の流刑を勝ち越えられた大聖人は、体力を奪われていたようです。その上、身延での厳しい生活は、大聖人のお体に大きな負担であり、大聖人は年々、痩せていかれたことを門下に伝えられています。(新 1506 ・全 1105 、新 1926 全 1583 、参照)。
また、建治 3 年( 1277 年) 12 月からは、「下痢」「はら(腹)のけ(気)」の症状が起こります。「はら(腹)のけ(気)」は、激しい下痢を伴う胃腸の病気であったと考えられえます。
弘安元年( 1278 年) 6 月に悪化した際は四条金吾の投薬でことなきを得ました(新 1603 ・全 1179 、新 1491 ・・全 1097 、参照)。しかし、池上兄弟の弟・宗長に送られたお手紙では、同年 10 月に症状が再び悪化し、少し治っては、また症状が起こることがあると伝えられています(新 1495 ・全 1099 、参照)。このお手紙には、「寒さはますます厳しくなってきて、衣服は薄く、食物も乏しいので外に出る者もありません}(新 1495 ・全 1098 、通解)とも仰せです。
体調においても、衣食住においても、過酷な状況下で大聖人は、迫害に立ち向かう四条金吾や池上兄弟、南条時光ら多くの門下に渾身の励ましを送り、熱原の法難への対応についても細かく指示し、激励を重ねられたのでした。
最も価値ある人生
熱原の農民門下への取り調べが行われた後の弘安 2 年( 1279 年) 11 月 6 日、大聖人は、駿河国(静岡県中央部)の南条時光に、「これは、あつわら(熱原)のことのありがた(有難)さに申す御返事なり」(新 1895 ・全 1561 )と記されたお手紙(「上野殿御返事〈竜門御書〉」を送られています。熱原の法難の際、時光は、わが身の危険を顧みることなく、迫害を受ける大聖人門下を自分の屋敷にかくまうなどしていました。
共に法難を戦う若き弟子・時光に、大聖人は呼びかけられました。
「願わくは、我が弟子ら、大難をおこ(起)せ」(新 1895 ・全 1561 )
「大願」とは、〝あらゆる生き物(衆生)を導き、一緒に仏の覚りを完成しよう〟という菩薩の偉大な誓願です。法難の渦中にある門下に大聖人は、最高の目的のために生きる、もっとも価値ある人生を教えられたのです。
大聖人は、御供養の品を届ける時光に、たびたび、感謝と激励のお手紙を送らえています。
「わずかな所領なのに、多くの公事(=荘園・公領に課せられる年貢以外のさまざまな税や労役)を課せられて、自身は乗る馬もなく、妻子は身に着ける着物もない。このような身であるのに、法華経の行者が山中の雪に苦しめられて、食べる者も乏しいだろうと気遣って、銭一貫文を送られたことは、貧しい女性が夫婦二人で着いていた。ただ一枚の着物を乞食行の修行者に与え、利咜(=阿耶律の過去世の兄)が器の中にあった稗を辟支仏(=縁覚)に与えたようなものである」(弘安 3 年〈 1280 年〉 12 月御執筆、上野殿御返事〈須達長者御書〉、新 1919 ・全 1575 、通解)
時光を思いやる、大聖人の深い真心が込められています。
各地の門下に寄り添うように
池田先生の講義から
大聖人門下へのお手紙は、その大半が、直接お会いすることが難しくなった佐渡流罪以降、特に身延に入られてからのものです。
迫害の渦中にある弟子、肉親の死や人生の苦笑にあえぐ門下の心の機微と察し、心情を思いやられる大慈大悲からほとばしるお言葉が綴られています。生命と生命が響き合う、門下との心温まる興隆に満ちているからこそ、時を越えて、拝する人々の心に、尽きせぬ感動が迫ってくるのです。
(「信仰の基本『信行学』」)
一人一人への慈愛のまなざし
大聖人は身延の地から、各地の門下一人一人に寄り添うように言葉を紡いでいかれます。
下総国(千葉県北部とその周辺)の富木常忍が大聖人のもとを訪れた際には、夫を送り出した富木尼に思いを馳せられます。
「今、富木殿にお会いしていると、尼御前にお目にかかっているように思われる」(建治 2 年〈 1276 年〉 3 月御執筆、新 1316 ・全 975 、通解)
富木尼は自ら病気を患いながら、夫・常忍の母(姑)を介護していました。その母が亡くなり、常忍が遺骨を携えてきたのです。母親の臨終の様子や家族の近況などを聞かれた大聖人は、帰途に就く常忍に、富木尼宛のお手紙(「富木尼御前御返事」)を託されたのでした。眼前の一人を励まされると同時に、その背後にいる人々に対して慈愛のまなざしを注がれたのです。
佐渡に暮らす千日尼に送られたお手紙(「千日尼御返事」)は、夫・阿仏房を亡くし、寂しい思いをしているであろう千日尼への思いやりに満ちています。大聖人は、阿仏房の成仏は間違いないとの御確信を綴られた後、次のように仰せです。
「散った花もまた咲いた。落ちた果実もまた成った。春の風も変わらず吹き、秋の景色も去年と同じである。どうして(阿仏房が亡くなったという)子の一字だけが変わってしまって、もとのようにならないのであろう」(弘安 3 年〈 1280 年〉 7 月御執筆、新 1751 ・全 1320 、通解)
他にも大聖人は、夫を亡くした上野尼や妙一尼、子を亡くした光日尼や松野殿夫妻など、大切な人と死別した門下に寄り添うようにともに投げかけながら、故人の成仏を確信するとともに、信心に励むことで故人と裁可絵できると、生死を超えた生命の絆について力強く伝えられています。
三世にわたる師弟の縁
2 度目の蒙古襲来で
弘安 4 年( 1281 年) 7 月、大聖人のもとに、下総国の門下・曽谷教信から手紙が届きました。同年 5 月、「文永の役」に続いて源(大元)が再び日本に来週氏(弘安の役)、自身も戦地に赴かなければならないという状況を報告したようです。手紙が届いた翌日、大聖人は早速御返事を送られています(「曽谷二郎入道殿御返事」)。
「想えばあなたと日蓮とは師匠と檀那の関係である」「いつ生まれ変わった時に対面を遂げることができるだろうか。ただ一心に霊山浄土へ赴くことを期されるべきであろう。たとえ身はこの難に遭ったとしても、あなたの心は仏の心と同じである。今生は修羅道に交わったとしても、後生は必ず仏国に居住するであろう」(新 1454 ・全 1069 、通解)
武士として、戦闘に従事することがあったとしても、信心を貫く以上、心は仏と同じであると、教信を勇気づけられています。
この年、大聖人は春から体調を一段と崩されとり(新 1926 ・全 1583 、参照)、門下から手紙が届いても返事を書けなかったほどです(新 1349 ・全 993 、参照)。そのような中で、敷地に赴くかもしれないと不安を訴える弟子のために、難に遭う意義を明確に説き、三世にわたる師弟の縁を教えられたのでした〈注 2 〉。
大聖人の御生涯全体を見る時、誤った教えを信じ弘める悪僧や、幕府要人への激しい批判も、大聖人の教えを信じ、ひたむきに生きる人々への慈愛に満ちた温かな励ましも——そのいずれもが、すべての人々の不幸を根絶し、仏の境涯を開かせたいという、大聖人の誓願と大慈悲から紡ぎ出された言葉にほかならないのです。 (続く)
〈注 1 〉 「撰時抄」では、「本門の教主釈尊を本尊とすべし」に続いて「いわゆる宝塔の内の釈迦・多宝、他の諸仏ならびに上行等の四菩薩、脇士となるべし」(新 261 ・全 328 )と説明されている。
このことから、単なる釈尊の仏像ではなく、法華経本門に説かれる虚空会の儀式を用いて表された曼荼羅本尊であることがわかる。この文字曼荼羅の本尊は、釈尊を久遠実成の仏ならしめた根本の法である「南無妙法蓮華経」を具現化した「本門の本尊」なのであり、このことは「本尊問答抄」で、より明らかにされる。
〈注 2 〉 なお、大聖人が「曽谷二郎入道殿御返事」を執筆された閏 7 月 1 日、前後からの暴風により元軍は壊滅した。
[関連御書]
「本尊問答抄」、「種々御振舞御書」「八幡宮造営事」「上野殿母御前御返事(大聖人の御病の事)」、「中務左衛門尉殿御書」、「兵衛志殿御返事」、「病平癒の事」」、「上野殿御返事(竜門御書)」、「上野殿御返事(須達長者御書)」、「富木尼御前御返事事」、「先日亜が御返事」、「曽谷二郎入道殿御返事」
[参考]
「池田大作全集」第 33 巻(「御書の世界〔下〕」第十九章)、『勝利の経典「御書」に学ぶ』第 6 巻(「法華証明抄」講義)
【日蓮大聖人 誓願と大慈悲の御生涯】大白蓮華 2024 年 8 月号
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