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河川に挟まれた激戦の舞台
城郭ライター 萩原 さちこ
長篠城
長篠・設楽原の戦いの舞台となった長篠城(愛知県新城市)。 1575 年、徳川家康方の奥平貞昌が籠る長篠城を武田勝頼が攻撃。やがて織田信長・家康連合軍と武田軍が設楽原で激突し、大敗を喫した武田氏は衰退して滅亡の一途を辿ることになります。
長篠城は東三河地域の平地と山地の境目、遠江放免、美濃方面、伊那方面の各地に通じる街道の分岐点にあります。この地域では、今川氏の没落後、武田信玄・勝頼親子と家康が熾烈な領土争いを展開。長篠城の支配権も、徳川から武田、そして再び徳川へと目まぐるしく交代しました。
城は寒狭川(豊川)と三輪川(宇連川)の合流点にあり、河川によって削られた河岸段丘を利用して築かれています。秘境のような静かな景観からは激戦など連想できませんが、牛渕本に立てば、二つの河川と断崖に守られた城の強みがよくわかるはずです。 500 余で 1 万 5000 の猛攻に持ち堪えられたのは、この地形のおかげでしょう。
台地の突端部分には野牛門があり、野牛曲輪が置かれていました。 JR 飯田線の線路を境に北西側が本丸となり、その境には7㍍の土塁を築いて独立性を高めていたようです。発掘調査によれば、本丸は南西側以外に土塁と堀がめぐり、北側に土橋でつながれた虎口があったよう。北側には虎口を経て帯郭、その北側に外堀がありました。
この虎口とセットで、長篠城史跡保存館の辺りには馬出があったとみられます。断崖地形をうまく利用しながら、平地が続く方向は土塁と堀をめぐらせる、なかなか防御性に優れた設計だったといえそうです。長篠城は徳川方の城となった後に城主の奥平氏によって最終的な回収をされたとみられますが、 1571 年に徳川方から武田方に帰属した際には、武田氏も手を入れていたようです。
城内を JR 飯田線が貫通しているものの、本丸を取り巻く掘りと土塁はかなりダイナミックで圧倒されます。本丸からは、武田軍が人を置いた中山砦、鳶が巣山砦、姥が懐砦などの砦軍が遠望できます。
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