いつかどこかで

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母の清水の思い出



『 母の清水の思い出 』 2007/9/15



明日は早朝家を出て清水へ行きます。

そのことを母に話すと、

「 私、清水へ行ったことがあるわ 」 と母。
「 清水駅は燃えていたの 」




母の談。




多分昭和20年の夏。
お母さまの叔母さんが清水に住んでいて、闇市で木綿の反物を手に入れたってことでお母さまは、私と肇ちゃん ( 弟 ) の二人にそれを取りに行って頂戴と言ったの。


        どうして、
ただの木綿の反物を取りに横浜から清水まで行かなきゃならなかったのかしら。
        着るものにそれほど困っていたのじゃなかったのにねぇ。


でも当時は、電車の切符も思うようにはなかなか買えなくて、その時も結局小田原かそこらまでしか切符を買えなかったの。

お母さまは、まあ何とかしてね、と。
何とか、ってまだ女学生と中学生よ。
困っちゃったけど、とにかく何とかしようと思って。
駅で降りたらちょっとの間隠れてて線路伝いに少し歩いて出ちゃおうかとか何とか考えながら行ったの。


       大胆な母親よねぇ。あちこちで盛んに空襲があった時期に、子供二人だけで。
       まあ、空襲用に汲んでおいた水を、あら調度いいわ、と玄関の水撒きに使っちゃうような人だったから。


清水に着いたら駅がほこほこ燃えていたの。

めらめらぼうぼう燃えてたんじゃなく、前の晩に空襲があったって誰かが言ってたから、その燃え残りが燻っていた感じ。
それで駅は無人。
肇ちゃんは、どうしよう、なんてぼうっとしてるから、何言ってんの、早く行っちゃおう、って駅を出ちゃった。


       小さな駅の小さな町だったのに、どうして空襲なんかされたのかしらねぇ。
       近くに大きな工場があったのかしら。港があるからかしら。


その後のことは覚えてないの。
とにかく横浜へ帰って、反物を抱えて二人で家に帰る坂道を歩いていたら近所の人に会って、こんにちは、なんて言ったことだけ覚えてる。

ポプリンみたいな生地でね、お母さまがワンピースを縫ってくれた。
肇ちゃんには何もなし。
ただのお供だったのね。




時々ふっと出てくる母の昔話。
戦時中の話はいつもちょっと楽しそう。( 不謹慎でご免なさい。 コチラ を読んでね )



          うちは木の茂った丘の上だったから結局空襲にも遭わなかったけど、燃える横浜の街はうちからよく見えた。
          恐ろしさは感じなかった。どうせ、みんな死ぬんだと思っていた。
          いずれ、一億総玉砕するんだとそれほどの悲壮感もなく思っていたよ。




物が無くて、お腹が空いて、死と隣り合わせだったけど、今よりは幸せだったのかも知れません。



ネットで調べたら、清水市が空襲に遭ったのは1945年7月7日の午前零時頃だったようです。
62年前の七夕の思い出、でした。



             今日は母の介護認定更新の審査でした。




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