P・K・ディックの世界 ――― 映画化された作品から
きっかけがあって、私の愛してやまない P・K・ディック
の不滅の名作、 『 アンドロイドは電気羊の夢を見るか ? 』
を
30年ぶりに再読しました。
2日間、心の震えるような夢のような時間を過ごしました。( 悪夢、かも知れません )
きっかけ、というのは、リンク先の映画ブログでスピルバーグ監督作品、 『 マイノリティ・リポート 』
が取り上げられたのを読んだこと。
それでディックの原作 『 少数報告 』
を衝動的に再読し、映画つながりで、 『 追憶売ります 』
( 映画 『 トータル・リコール 』
)
そしてこの、 『 アンドロイドは電気羊の夢を見るか ? 』
( 映画 『 ブレード・ランナー 』
) の再読となりました。
映画つながり、といっても、3本ともストーリーは原作とは似ても似つかないものになっています。
物語の背景となるシチュエーション、あるいはそのヒントだけ拝借しているといった感じですが、不幸にも、どれも観た途端に原作がディックと
分かってしまう程、そのシュチュエーションが特徴的です。
P・K・ディック が描く近未来はスペース・オペラ的SFとは完全に一線を隔した、現代社会の鏡像です。
背景となるシチュエーションは科学的にあり得なくとも、私たちは小説の最初の一文を読むと同時にその世界を受け入れてしまいます。
どういうことなのか、何故なのか、この3本を例に考えてみました。
『 アンドロイドは電気羊の夢を見るか ? 』 P・K・ディック
作
浅倉久志
訳
ハヤカワ文庫SF
『 DO ANDROIDS DREAM OF ELECTRIC SHEEP ? 』 1968
この物語の最初の一文を紹介します。
「 ベッドわきの情調 (ムード)
オルガンから、自動目覚まし (オート・アラーム)
が送ってよこした小さな快い電流サージで、リック・デッガードは
目を覚ました。 」
読者は当然、情調オルガンって何 ? オート・アラームって目覚まし時計のこと ? と、とりあえず体のどこかに電波を送られて目覚めさせ
られる仕組みの機械なのね、とぼんやりと考えます。
続く妻との会話から、情調オルガンというのが、本人がその日その時にこうでありたいと望む精神状態にダイアルをタイマーセットしておくと、
そのようなパルスが脳に送られ、希望通りの気分でいられるという、1人1台持つ機械であるということが分かってきます。
「 爽快 」 にセットしておけば、頭では絶望的と理解できる状況のもとでも気分は爽快、というわけです。
もちろん爽快さのレベルも調節できるし、逆に 「 絶望 」にもセットできます。
更に、“ そこ ” は核戦争後の地球で、地球は死の灰によってあらかた覆われ、灰は更に降り続け、生き残った人々の多くは他惑星に
移住、さまざまな理由で残った極小数の人々で成り立つ社会であることも分かってきます。
世界政府はメディアを通じて、残った人々に他惑星への移住を呼びかけています。
移住する全ての家族には、望みどおりのアンドロイドを無料で提供すると謳います。
“ そこ ” では人々はスクリーンと取っ手がふたつ付いた小さな箱、共感 (エンパシー)
ボックスを持っています。
スイッチを入れて取っ手を握ると、画面には、みすぼらしいなりの老人が、どこからか飛んでくる石礫に打たれ、血を流しながら荒廃した
山をひたすら登る姿が映ります。
それを見る人々は老人と一体化して痛みを共有することで喜びを得る、という宗教を心の支えにしています。
また “ そこ ” では人間以外の全ての動物はほとんど絶滅しており、人間は動物を飼いたいという欲求に苛まれています。
人々は動物の価格表ハンドブックを常に携帯し、動物を飼いたいという欲求のもとで暮らしています。
動物を飼うことはほとんど人生の目的であり、経済力のない家族は模造動物を飼い、それが模造であることを周囲にばれないよう
神経を使い、心のどこかで模造動物を憎んでいます。
模造動物は非常に精巧に作られ、故障の際も本物の動物が病気で苦しむのと見分けがつかないようプログラムされています。
等々物語の背景が、主人公が出勤するまでの陰鬱な朝の情景の中で、次第に明らかになってゆきます。
これらのシチュエーションを馬鹿馬鹿しいと感じ受け入れられなければ、ディックとは相容れないということでしょう。
そういう人も大勢いるとは思います。
ディックを好きな人間にとっては読み終わるまでの数時間、その陰惨な世界にどっぷりと浸かる快感が約束されるわけです。
主人公リック・デッガードが他惑星に移住しないのは、仕事が警察のバウンティ・ハンターだからです。
つまり、他惑星から地球に逃亡してくるアンドロイドを処理することで賞金を得て生活をしています。
アンドロイドはあまりに精巧に作られているため見た目で人間と区別はできないし、知能も優れ、その他の才能でも人間を凌駕します。
考え、判断し、感情的表現にも長け、中には自分を人間と信じているアンドロイドもいます。
アンドロイドを人間と区別するものは、ただひとつ ・・・・
その、 アンドロイドと人間を区別するもの
、がこの物語のテーマです。
リック・デッガードはアンドロイドを一体処理するごとに、その区別があやふやになり、仕事に自信を失い、消耗してゆきます。
誤解しないで頂きたいのは、ここで描かれるアンドロイドは、スピルバーグの 『 A・I 』 や、ロビン・ウィリアムスの 『 アンドリューNDR114 』 や ウィル・スミスの 『 アイ、ロボット 』 やその他山ほどある、ロボットにも心があるのよ、みたいな感傷的なものではまったくありません。
全ては精巧な人間の模造機械であってそこに妥協はありません。
それを見る人間の側に心があることが問題なのです。
陰惨で救いのない、空虚で滑稽でシュールで、現代社会をクールに皮肉ったシチュエーション、その中でもがく人間もちっぽけで滑稽で諦めに
満ちています。
物語は一応の結末を迎えるけれども、そこには解答も希望もなく、読後はただ暫くぼうっと、まあ、とりあえず私が存在するのがあの
ような世界でなくて良かったと考えます。
それがディックの世界なのです。
もうひとつ。
SF小説には当然、現実世界にはない物や観念が登場し、作家がそれに名前を与えます。
この物語に、ある面白い観念が出てきます。
キップル。
知能が一定の基準に満たないために移住を許可されない準主人公が説明しています。
「 キップルっていうのは、ダイレクト・メールとか、からっぽのマッチ箱とか、ガムの包み紙とか、きのうの新聞とか、そういった役に立たない
もののことさ。だれも見ていないと、キップルはどんどん子供を産み始める。
たとえば、きみの部屋になにかキップルを置きっぱなしで寝てごらん、あした朝目がさめると、そいつが倍にもふえているよ。
ほっとくと、ぐんぐん大きくなっていく 」
動物が死に、人が死に、捨てられた空の建物はキップルに占領され、街もキップルに占領され、地球全体がキップルに占領されつつある、
というわけです。
私には、部屋や建物や街がキップルに占領されてゆく様が目に浮かびます。
少し心が苦しくなります。
浅倉久志氏の訳も秀逸です。
この、原題を直訳しただけの邦題のインパクト。
映画の邦題をつける方々に見習ってほしいものです。
『 アンドロイドは電気羊の夢を見るか ? 』 は、 1982年、リドリー・スコット監督、ハリソン・フォード主演 『 ブレード・ランナー 』
のタイトルで
映画化されました。
実のところ、この映画は大好きです。
映像化された情景は原作の雰囲気をある程度伝えていると思うし、 シド・ミード
の手になる遠景など震えがくるほど美しく印象的でした。
原作と比較しようなどと考えなければ、非常に面白い映画です。
そしてタイトルを敢えて、インパクトのある原作と違えたところに、必ずしもこの原作の映画化ではないという製作者の意図が垣間見える
ようで嬉しいです。
つまりもしこの映画が 『 アンドロイドは ~ 』 とのタイトルであったなら、ディック・ファンにとっては噴飯ものであったでしょうから。
映画で設定されるシチュエーションは上記のうち、アンドロイドが他の惑星から地球に逃亡してくることと、主人公がアンドロイド ( 映画では
レプリカントといってたような ) のバウンティ・ハンターであることだけです。
しかもアンドロイドたちは、上で書いた、心を持つ、いわゆる ” 悲しきアンドロイド ” でした。
テーマが根本的に違います。
原作どおりの方が数段面白いと思います。