有限日記  

Irish Mist(アイルランド)

Irish Mist

まるでアイルランドの風景を彷彿とさせる、このような名前のついたウィスキーがあるのをご存知だろうか。甘い香りで女性に人気と聞いたので、ダブリンの空港で購入して帰ってきたのだが、あまりに強く、クセのある味に、お酒というよりはお菓子作りにたまに使われる以外、随分と長い期間、当時住んでいた家のダイニングテーブルの上に所在なさげに置かれてあった。

 アイルランドといえば、隣国のイギリス同様、冬は鬱蒼とした空のイメージが強いが、自分が訪れた11月も、想像していた通り、の空模様であった。雨というよりは、まさにMist(霧)のような雨の方が断然多く、ダブリンの街中を現地の人は、傘もささずに歩いている。霧雨でも、傘をさすことの多い日本人とは対照的。自分は面倒くさがりというのも手伝って、ダブリンではむしろ喜んでジャケットのフードを被って歩いていたものだ。

 アイルランドは、いろんな伝説があるからだろうか。まさにグレイの雰囲気を漂わせる鬱蒼としたMist(霧)は、現実とそのようなおとぎ話とをつなぐ境界線のような気がする時もあった。グレンダーロッホの遺跡を見ている時、ゴールウェイの港へとつづく河川敷きを散歩していた時、ダブリンの人気のない民家の中を歩いている時すら、なにかふと妖精が現れるのではないかと思う時がしばしば。それは、すこし背筋がぞくっとする瞬間がある反面、なんだか懐かしいような不思議な感覚がする。

 アイルランドで自分が大好きな場所は、トリニティ・カレッジのオールドライブラリー、アイルランドの国立美術館(旧館)、そしてゴールウェイの大聖堂だ。

 オールド・ライブラリー(図書館)は、本当に素晴らしい。あそこで働くことのできる司書さんは、幸せ者だ。あの重圧感、圧倒されるほどの高さまで整然と並んでいる古書の数々。最も古いといわれるケルトの書が保管されているのも、この図書館であるが、ケルトの書より、このオールドライブラリーの存在は圧巻である。古さだけでなく、歴史ある書物だけに、あの一冊一冊の中には、あらゆる人間の思想、理念が詰まっているのだろう。あたかも過去に生きた人々の精神が、書物という物体の中に納められているだけに、より一層あの独特な雰囲気があるのかもしれない、と思うのである。

 アイルランドの国立美術館は、偶然足を踏み入れたところ。無料でアイルランドの画家によって描かれた素晴らしい絵画を見ることができる。客がほとんどおらず、人間より圧倒的に絵の中の人間から見つめられることが多かったこの美術館。暇を持て余した監視員が、私を見るや否や早速話しかけてきて、キミはJapaneseかね、と。日本も今経済がダウンして(手でひゅーんと落下するまねをしながら)大変だね。コイズミで大丈夫なのか?とか、意外に絵画とは関係ない話をされたのにはびっくりした。ちなみに驚いたといえば、閉館時間になると容赦なく電気を消されることで、これには度肝を抜かれて、そそくさと美術館から逃げ出したのを思い出す。

 ゴールウェイは、当時私が身につけていたアイルランドの伝統的な指輪である「クラダーリング」発祥の地、という事で訪れた港町。自分の指輪を作った老舗を訪れた後、寄った大聖堂は、一言で表すと「荘厳」。上空から見ると十字架の形をしているこの教会。ちょうどミサが行われていたのだが、私はその前に訪れた国々のどの教会よりも、この教会には畏怖の念を抱いた記憶がある。富や権力の象徴ともとれる建築で人を圧倒するのではなく、この大聖堂の建築からは、真の信仰心から生まれ出る何かが、自分に自然に畏怖の念を起こさせたように思うのだ。

 常にどんよりとくぐもっているのではない。ふとした瞬間に、現れる霧。
 アイルランドの霧は、決して人を憂鬱にする鬱蒼とした霧なのではなく、何か空想を喚起させられるような、何か懐かしい人と再会したような、不思議と暖かい霧なのである。



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