◎河竹豊蔵 同人雑誌「果樹園」

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果樹園11号「光子と病院」

果樹園第11号から

「光子と病院」

私は、光子といいます。年は十七歳で、平凡に生きています。
「ふふ・・、平凡って何かしら?」
光子は、平凡な子であった。
 私は、朝起きると異常に頭が痛かった。
「ママ、頭が痛い。我慢ができないの。頭の中が、ガンガンする。私、今ままで、
こんな痛さ初めてだわ。痛い~!」
母の時江は、私の痛がり様にびっくりして、大橋病院に行く事にした。

病院の駐車場から、病院内に向かうと、入り口から一人が出てきた。その初老の男
は、母に何か尋ねた。母は、怪訝そうな顔をした。
 男は大きな声で、
「ワシの家は、どこだったかねん?知らんか?」
もう一度、
「ワシの家は、どこだったかねん?」
母は、何かを感じたのか、
「病院の受付で聞いてみて下さい。きっと、わかると思いますよ」
 初老の男は、母の言葉を聞き安心したのか、何事もなかったように、足早に出て
きた方へ、さっさと戻って行った。
「光子、あの人は、急に健忘症になったみたい?この春の陽気さと、満開の桜を見
て、記憶が変になったのよ。アルツハイマーよ?あんなに元気そうに見えるのに、
気の毒にねぇ」
 私の痛みは和らがず、初老の男の声がする。
(ワシの家は、どこだったかねん?
 ワシの家は、どこだったかねん?)

 病院の受付を済ませ、待合室の堅い長椅子に座った。午前九時だというのに、待
合室は賑やかだった。私の右側は椅子の端だから誰も居ず、左側に母が居る。その
母の横に、五十歳前後の男が座って居る。その男の足元を見ると、左足に茶色のス
ッリッパをきちんと履かず、スリッパの上に足を乗せている。そして、足の親指の
付け根が赤く腫れていた。男は、私の顔を見てから、母に向かい、話しかけてきた

「お嬢さんは、どこが悪いのですか?」
「うちの子は、朝から頭がひどく痛いというのです。今まで、病気なんかしない子
でしたから、心配です」
「そうですか。それは、ご心配ですね。でも、お嬢さんは、お若いから大丈夫です
よ」
「そうだと、いいのですが・・」
「そうですよ!」と、男は相槌を打った。
 私は、痛みの中で、男の言葉に抵抗した。どうして、若ければ平気なのよ。どう
して、この特別な痛さを分かってくれない。年寄りは、いつも、その手で誤魔化す
わ。母は、少し笑顔を添えて、
「ところで、失礼ですが、あなたはどうされたのですか?」
 男は聞かれると、チョット顔をしかめて、大げさに左足を指差した。
「痛風で、足が痛くて、泣きそうですよ」
「痛風って、凄く痛いんですってね?風が吹いても、痛いんですってね。大変です
ね!」
 母は、気の毒そうな顔をした。
「いやー、足の中に、先の尖った小さなガラスが幾つもあるようです。神経にチク
チクっときて、涙が出そうになります。外見では分からないから、私を見て、みん
な笑うのです。ひどいですよね?アッ、アッタタ・・アッタタ・」
 私は、年寄りは、演技も上手いものだと思った。
「時々、飲みに行くスナックがあります。偶然、カウンター越しに下を見ると、マ
マさんが、右足をバケツに突っ込んでいる。どうしたのって聞いたら、痛風だと言
うのです。それで、バケツの氷水で冷やしているんだって。豪傑だなーと思いまし
た。それと、女の人は、痛風にならないと思っていたので、意外でした。それで、
私は聞いたのです。痛風と陣痛では、どちらが痛い?ママさんは、しばらく考えて
から、そうね、陣痛の方が痛いと言いました。いやー、驚きました。この痛みより
、陣痛の方が痛いとは。私は、女性に産まれなくて、良かったと思いましたよ」
 私は、母を睨んで、私の痛さは、特別なのと、目で訴えた。けれど、母は私の訴
えに気が付かなかった。私は、もう、母と男の人で、勝手に笑って喋ればいいと思
った。私の痛みは和らがない。
(痛風より 陣痛が痛い
 女でも 私の痛さは とくべつ
 若くても 私のは とくべつ
 ほかの人と 私は違うんだから)

 待合室で、一時間ほど経った。痛風の男は、診察室に呼ばれて居なかった。私は
、妙に
「ワシの家は、どこだったかねん?」
の言葉が、耳に残っていた。母も同じなのか、
「光子、朝の変な人は、無事に家に帰れたと思う?」と言った。私は、ただ黙って
いた。すると、退屈なのか、母は話し始めた。
「光子ね、私の従姉で、章子さんっていう人がいる。私の母に聞いたのだけれど、
章子さんは、失恋して頭がおかしくなったんだって。その時、まだ私は若くて二十
歳くらいだったと思う。章子さんは、私より三つ位上。章子さんのお母さんに頼ま
れて、章子さんと二人で、新宿の伊勢丹に買い物に行ったのよ。特に、章子さんが
変に見える訳ではないけど、自分の服を選ぶのに、決められないのよ。ねぇ、ねぇ
、時ちゃん、これどっちの色がいいって聞くし、ねぇ、ねぇ、これどっちの形がい
いって聞くし、何から何まで、ぜ~んぶ私に聞くの。その時、ヘェー、本当に失恋
で頭がおかしくなってしまう人が居るんだ、と思ったわ。ほんと、あの時は、疲れ
たわ。あとで、章子さんのお母さんから、章子が凄く喜んで買い物から帰って来た
と、お礼の電話がきた。今思えば、章子さん、どんな男の人を好きになっていたの
かな?その人と、何があったのかねぇ。人生の全てを、一つの恋に賭けてしまって
、そこから抜け出せなかったのかねぇ。・・・ひとの心は、見えないから・・・難
しいよね」
 私は、ぼーっとしていた。
(恋は素敵 あなたがすべて
 あなた ナシでは 私の恋が できないの
 私のは 恋じゃあなくて
 真剣な 愛なんです
 振り向いてくれなければ 死んでしまうのです)

「ピポー・ピポー・ピポー」
 病院の外で、大きな音がした。私は我に返り、外を見た。白い救急車の屋根で、
赤い光がグルグルと回っていた。車が止まると、
「ピポーッ」と、一回鳴って、音も止まった。
 搬送寝台ベッドが慌ただしく、しかし、手際よく降ろされると、男の患者さんだ
と分かった。母と目が合ったので、
「朝のおじいさんじゃあないよね?交通事故で、運ばれたんじゃあないよね?」
 母は、顔を確かめようと立ち上がった。搬送ベッドが、病院内に入って来た。母
と同じ年齢位の女性が、
「おじいさん、おじいさん、しっかりして!もう、大丈夫だからね!おじいさん、
しっかりして!」と、呼び続けていた。
「フー、フーゥ」と、おじいさんは答えた。
 ベッドの脇に女性がもう一人いた。
「あなた、しっかりして!」と、涙ながらにおじいさんの手を握りしめていた。
「光子、朝のおじいさんじゃあないわ!」と、座った。廊下の奥の方に、ベッドは
運ばれて行った。その間、私は、頭の痛いのを忘れていた。待合室の人達も、自分
が病気である事を忘れてしまったようだ。それから、ザワザワとしてきた。しばら
く経つと、待合室は静かになって、私は、頭が痛いのを思い出した。
 (忘れないで
  わたしは びょうき
  あんたも びょうき
  みんな みんな びょうき)

 しばらくして、痛風の人が、左足を引きずりながら、母に手を上げて、
「お先に!」と、出て行った。
 私は、眠くなったので頭をもたげて目を閉じた。待合室のどこかで、トーンの高
い男の声が聞こえた。この声の持ち主は、目が見えない人の声だと、直感的に感じ
た。
「ケンジョウシャには、わからないさ」
と、聞き取れた。私は、健常者という言葉を、直接に耳にした事がなかったので驚
いた。
 私は、自分が頭痛から、耳が聴こえなくなった姿を空想した。お医者さんは、
「耳以外の神経が、異常に研ぎ澄まされている。この子は、勘が非常に良いですね
。」と、母に言った。でも、私には何も聴こえない。私は、白いノートを持って学
校にいた。聴こえないので、話す言葉を書いて貰った。仲の良かった友達は、気の
毒そうな顔をしている。同級生の中には、ゆっくり、ゆっくり、口を動かして、私
をからかう者さえ出てくる。
「光子、あんたは、おばかさんね!」
 『ばか』は、すぐに口の動きで分かるけど、『おばかさん』は、分からない。た
だ、相手に合わせて、私は笑うしかなかった。三日目、私は耳が聴こえるようにな
った。聴こえない素振りを一日だけ、しようと思った。実行すると、結構みんない
い加減な話をする。私は、トンチンカンな返事をした。皆、笑った。最後に、悩み
を抱えこんだ友人が、筆談で相談してきた。私は、自分を認めてくれた友に、初め
て耳が聴こえるようになっている事を伝えた。そして、抱きあって喜び、涙した。
他愛もない空想だったけれど、耳が聴こえない状態の時、身体全体の皮膚が、周囲
の状況を掴もうと穴が開き、感触や温度を感じたい、音さえ皮膚で感じたいと、神
経が極限まで働いた気がした。
  (あんたは びょうき
   けんじょうしゃ には わからない
   わたしも おなじ
   ちょっとだけ わたしのこと
   わかろうと してください
   おねがい です)


「吉村さ~ん、吉村光子さ~ん」と、看護婦さんが私の名前を呼んだ。
「光子、やっと順番がきたよ」
「ママ、今日は疲れた。ワシの家は、どこだったかねん?」と、母に笑って言った。
 母は、真面目な顔で、
「お前の人生は、これからだよ」と、言った。


  ワシの家は、どこだったかねん?
  ワシの人生は、なんだったかねん?
  ワシの想い出は、どこだったかねん?
  ワシは、誰だったかねん?

      「光子と病院」終わり

    同人雑誌「果樹園」第11号より 2008年9月10日発刊

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