シアトルからこんにちは

シアトルからこんにちは

2002年6月の日記



6月 30日 日曜日
のち

娘と散歩

午後「主人がイーサンを見てくれているので、一緒に川沿い歩かない?」と長女から電話があった。私の家の近くに昔丸太を運搬するために作られたサマミッシュスルーという人工川がある。

何年か前私は毎日一人で歩いていたことがある。神様に祈ったり娘のことを考えて泣いたりした思い出の場所だ。

その川沿いを娘と歩いた。5kmくらいだろうか。
娘はいろんな話をしてくれた。学校のこと、クリニックであった出来事、子育てのこと。いろんな話を聴きながら、ふっと、16歳のときのことを思い出した。反抗期の全盛に入った長女は酒、タバコ、麻薬(?)とそれはすごかった。ほとんど家に帰らなくなって、帰ったときは怒鳴ってばかりいた。一日も早くこの子が18歳になって家を出てくれますようにと心の中で願っていた。

その娘とこうして、川沿い美しい景色を眺めながら、ペちゃペちゃ喋っているなんて奇跡だ。

この瞬間がとまればいいのに。とおもったら、遠くにご主人が迎えにきている姿が見えた。「あーこの子はもう彼の奥さんなんだ。」と思い出し、ちょっぴり寂しい気がした。








6月 29日 土曜日
のち

シアトルシンフォニー

今晩主人とシアトル・シンフォニーの演奏を聴きに行きました。
ドイツ作曲者ガスタフ・マーラーの「復活」をソプラノ歌手、メゾソプラノ歌手、シアトルシンフォニー合唱隊とオーケストラとを交えて演奏しました。大きく分けて2つの部分に別れていて最初の部分が死ぬまでで後半は死後の世界です。天使の歌声とオーケストラの演奏がとてもすばらしく天国に行ったらもっと美しい歌声や音楽がが聞けるのかなーと感激しました。9月11日のテロ以来、アメリカの人はもっと命を大事にし、また宗教的になっているような気がします。傲慢になっていたアメリカ人にとってこれはいいことです。

この音楽は神様への賛美のためにつくられものなのでに心にひびくんでしょうね。

ところで、シンフォニー友のエレンさんと話しました。
前回あったときガンとわかって動揺していたのですが、今夜はうれしいニュース。ガンがだんだん小さくなっているのです。それにほかのばしょには全然見当たらないので化学療法はしないそうです。
首元に小さな腫瘍があるのですが、前回よりずいぶん小さくなっています。ずっと彼女のために祈っていたので大喜び。
はるみさんのおかあさんもよくなったそうだし、癒してくださる神に感謝。

それにしても昨日も今日も雨が降って寒い。夏はどこに行ったのでしょう。ジュンポロリンさん御夫婦の滞在中天気に恵まれて良かった。感謝。








6月 28日 金曜日
のち

ひとりごとをはじめました

共有日記にはいろいろその日起こったことを書いていますが、「ここには事実を書いて、神様の私への語りかけを聞き分けるため「ひとりごと」をはじめました。

きょうイーサンは水鉄砲で遊んだ。主人がおもちゃやで買ってきたものだ。正直言って鉄砲を2歳の男の子にあげるということに抵抗を感じたが、うれしそうな主人の顔をみると、なんとも言いそびれた...
やっぱり男の子だよね。もう嬉しくて大好き。ぱぱ(ここでいうぱぱとはおじいちゃんのこと。お父さんのことはダダと呼ぶ)とイーサン2人バンバンババーンと大喜び。教えなくてもすぐ引き金引いて遊べるようになった。ずぶぬれになっても止めない。

リモートコントロールの車、飛行機、たこ、水鉄砲と毎日主人は何をして遊ぼうか一生懸命考えている。家のだんなは本当に子供好き。

パパの嬉しそうな顔みて感謝の気持ちで一杯。











6月 26日 水曜日
のち

PBSのドキュメンタリーを観て...

無事ジュンポロリンさんとタカポロさんは日本に発った。シアトル滞在中いい天気に恵まれた。「シアトルは今日も雨だった」なんて昔はやってた歌の文句のようでなく(長崎だったっけ)最高の天気に恵まれ、ここの美しさを満喫してもらえたことはすごく嬉しかった。滞在記録はむこうのHPでゆっくりご覧下さい。

ヘブライ人への手紙 / 13章 2節
旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。

天使のような方をもてなす機会を与えてくださった神さまに感謝

ゆうべPBS(NHKのような番組)で「The Smith Family」 というごく普通のモルモン家族のドキュメンタリーをしていた。何気なく見始めた番組だったが、くぎ付けになった。

http://www.pbs.org/pov/pov2002/thesmithfamily/index.html

スミス家族は理想的なモルモン家族だった。夫は空軍の将校、妻は専業主婦。2人の男の子に恵まれている。結婚9周年め夢物語のような生活は180度変わった。夫ステイーブは妻キムに自分が青少年のとき性虐待に会ったこと、そして結婚後他の男性達と関係をもったことを打ち明けた。それから3年後身体検査の結果、キムがHIV感染していることがわかり、その後まもなくスチーブがエイズになる。

このドキュメンタリーは、「家族は天国でも一体である。」と信じるモルモン教への信仰、親戚、教会からの一時的な拒絶、夫の裏切りをゆるし、最後まで看護し愛しつづける妻キムの忠誠ぶり。家族として支えあう過程。スチーブが亡くなった後のキムの葛藤など、3年にわたって取ったフィルムだ。

見終わった後、心が重く悲しかった。人間的にはとても立派な家族かもしれない。確かに妻キムさんのしたことは普通の人にできることではない。自分が彼女の立場だったらなんて考えて想像もつかない。彼女と家族の愛を褒め称えたこの番組の中でわたしはどうも理解できなかった。

夫は自分の罪を認めず、神の前で告白もしなかった。ただ天国で家族と一緒にいたいのでモルモン教会に戻りたいと頼み、受け入れられた。この家族の赦し、愛と絆、妻の献身には本当に頭が下がる。

でも残念ながら彼らの関係の中にイエス様のいる場所はなかったような気がする...









6月 25日 火曜日
のち

水ロケット

夏学期からスケジュールがかわり、イーサンは朝11時に
バックパックとランチボックスをもってくる。

イーサンが来た!車のドアが閉まる音がすると同時、何か大声で話し声が家の中からでも聞こえる。心臓が飛び出しそうになるのを抑えながら玄関に飛び出す。「Hi Come on In」といいながら、おっと娘にもにっこりしないと..と娘のほうにも愛嬌をふる。
春休み後第一日目なので色々な指示がある。ときどき、娘は私と主人が2人子供を育てたことがあるのを知っているのかなと思うくらい丁寧な指示がある。でもこれも彼女が成長した証拠だと思ってはいはいと従順にきく。娘が学校に行った後、先ずホビーショップに行って水で飛ばせるロケットを買って公園にもっていって飛ばした。最近なんでも電池が必要なおもちゃばかりだが、これは人力と水さえあれば空に高く飛ぶロケットだ。最初の2回、やってるとき水が飛んできてぬれたので、3回目からは孫は遠くまで走っていって、はるかかなたからおじいちゃんがやるのをみる。20回ほどピストンをパンプすると、ロケットが飛んで空中で先に入ってたパラシュートが開きながら落ちてくる。数分かかってパンプした努力は1-2秒でおわる。

このあとスターバックスに行っていつもの牛乳とクッキーをごちそうになりうちに帰って、3人でランチを食べた。

その後、娘の家に連れて行く途中の車の中、エンニャの曲を聴きながら孫はすやすやと眠った。1時50分か。ちょっと予定より遅れた昼寝だがまあ第一目にしては成功。重たい孫を二階のアパートに担いで行って、ベッドに寝かせた。数分後と娘が大学から帰ってきた。

「どうだった?」と聞く娘に私は嬉しそうに詳しく話す。

これで私たちの役目は終わり。主人と私は静かにお邪魔した。

幸せだな。








6月 24日 月曜日
時々

日記新設しました

いろいろご迷惑かけてごめんなさい。
これからもどうぞよろしく。

きのうは朝から忙しかった。「おばあちゃんのグループの集まりが家であったので朝から掃除機をかけたり、テーブル拭いたり、片付テーブルセットしたりした。何せ私は家事が苦手なので、お客さんが来ると大変。(日ごろからやっとけばいいのについつい他のことをしたがるのです。例えばネットなど..)お客さんが来られた日は家がみちがえるようにきれいになって家族も大喜び。

午後7時にシータック空港にじゅんぽろりんさんとたかぽろさんを迎えに行った。ロスからの飛行機には東洋人が少なく「あ。あの夫婦だ。」とすぐわかった。思ったとおりのさわやかなカップル。
一緒に行ってくれたKさんはたかぽろさんにすっかり感激。なぜかというと、Kさんのご主人はノンクリ。娘さんたちが巣立ってから、ずっと一人で毎週教会に行く。仲良く教会に行く夫婦を見るとうらやましいのだろう。

主は彼女の忠誠さをご存知なのだ。

豊かに祝福してくださること間違いなし。

1. 06/25 18:26 こんにちは!Kazukoさんも家事苦手なんですか? 私と同じ! 私も人が来るたびに大掃除です。
2. 06/27 12:50 そうなんですよ。楽しい家事のしかたについてブレーン・ストーミングしませんか?






6月 23日 日曜日


毎日放送されているクリスチャン放送見つけました!

三浦綾子さん愛読者のHPから毎日放送されているFEBCのラジオ放送のHPアドレス
http://www.febcjp.com/index.html をみつけました!

<ある精神科医がわたしに言いました。「病院に来られる方は患者さんのエリートです。最も医療を必要としている方々は決して病院に来られないのです。教会も同じに思えてなりません。本当に救いを必要としている方は、決して教会に来られないのですから」と。その痛みこそFEBCがお仕えする主イエスのまなざしに他なりません。時間と場所を越えてだれ一人神様の祝福から漏れる方はないのです。


私はシアトルのローカル教会に行っているので日本語の説教が聴けません。こうして御言葉をインターネットで聞けること感謝します。










6月 22日 土曜日


神谷美恵子著作集

・生きがいについて

(著者:神谷美恵子,出版社:みすず書房)

 著者の神谷美恵子さんは,らい病患者が隔離・収容されている島で,患者さん達の心を癒すために献身的に励んでこられた人です。この著書は,筆者の人の痛みを思いやる優しい人柄と深い思索にあふれた名著として定評のある本です。

 この本の一部紹介
「物質にせよ,地位や名声にせよ,すべて所有というもののなんとはかなく,もろくむなしいものであるかを彼は身にしみて知った。それらを自分が所有していると信じていたとき,彼はそのなかに自分の存在の重みを感じ,それを生きるよりどころとしていた。しかし,ひとたび限界状況の中におちいってみれば,すべて外部からとってつけられた所有物は奪いさられ,彼はまったくはだかのままにとりのこされたのであった。彼がはぶりのいい時には周囲にむらがったひとびとも,彼がおち目になったとき,または他人とはちがった状態になったとき,ただそのことだけで彼を価値なきものと判断し,非難し,彼から遠ざかって行った。肉親すら彼を恥とした。

 このようなところを通ったことのあるひとは,もはや他人の評価や自己の所有するものに重きを置かなくなるであろう。また,自分の心に何ほどかの知識や徳や見識がたくわえられていたようにみえていたとしても,いざというときにはすべて崩れ去ることを経験したから,もはやそういうものによりかかることもしなくなるであろう。どんな状態で陥っても,どんなところにあっても,人間がふたたびみいだしうるよろこび,それは何であったか。それは人間の内なるものだけではなかったか。

(中略)

 このようなことを彼に教えたのは苦しみと悲しみの体験であった。結局,人間の心の本当の幸福を知っている人は,世にときめいているひとや,いわゆる幸福な人種ではない。かえって不幸なひと,悩んでいるひと,貧しいひとのほうが,人間らしい,そぼくな心を持ち,人間の持ちうる,朽ちぬよろこびを知っていることのほうが多いのだ。
 こうして過去の体験からも,彼の持つ価値体系はいわばひとりでにすっかり変わって来て,さかさまにさえなってくる。以前大切だと思っていたことが大切でなくなり,ひとが大したことだと思わないことが大事になってくる。これは外側から来た教えによることではなく,また,禁欲や精進の結果でもなく,すっかり変わってしまった心の世界に生きるひとから,自然に流れ出るものと思われる。」


・人間を見つめて

(著者:神谷美恵子,出版社:みすず書房)

 「生きがいについて」が,比較的,客観的・分析的であることを重視して整理して書かれたのに対し,この著書では,筆者自身がどう考えているのかが,より明らかに述べられています。しかし,筆者は「これを他人におしつけようとする気はまったくない」とも述べております。

 この本の一部紹介
「他人が自分をけなしても,それで自分の価値が下がるわけでもなく,褒めても自分の価値があがるわけでもない。そもそも自分の価値のあるなしすら,わからないのが人間ではなかろうか。ただ自分は自分でしかないのだ。「敗北と勝利とを,お前自身が区別してはならぬ。」というパステルナークの考えかたに,私は心からくみする。ここにこそ「判断中止(エボケー)」が必要だと思う。

 ありのままの自分,しかも自分ではよくわからない自分を「人間を超えるもの」の前にさらけ出し,それに身をゆだねる,ということは肩の荷をほぐすことであると私は信じている。
 他人の目に完全なものとして映ろうと苦労したり,自分の眼に自分が理想的であろうとしたりすることは,考えてみれば,こっけいな無理だと思えてくる。

(中略)

 要するに自己とか自我とかいっても,そもそも自分からこの世に生まれてきたわけでもなく,いわば「存在させられたもの」にすぎない。それはちょうど,花やけものや天体とまったく同じように「存在させられている」にすぎないのだから,究極的には「存在させたもの」の前に,草木や星のように,素直に存在するほかはないと思う。

(中略)

 (存在させたものの)泉を掘り当てれば,私たちは「何かすること」がなくても,何もすることができないような病の床にあっても,感謝して安らうことができる。死に直面しても,死は苦しみにみちた人生から大きな世界への解放として展望することができる。大きな視野にたち,大いなるものを信頼して,卑小な自分をまもることや,自分が所有するつもりになっているもろもろの物や力をまもることに,それほど熱中しなくなれば,どんなに多くのエネルギーが解き放たれることだろう。どんなに勇気が湧いてきて,冒険にものり出すことができるだろう。そのために自分の小さな生きがいをも捨てる覚悟ができてこそ,かえって真の生きるよろこびが与えられうる,という逆説も成り立つのではなかろうか。そうすれば「何かすること」を探しまわる必要はない。」








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