
時々、そう、
仕事をしていたり、出来事が起こってそれに躓(つまず)いたり、不測の事態に陥った時、あわてず考える余裕ができた時、
私たちは反省をして自分が歩んできた道筋を理解しようとしますね。
「 どうしてこの様になったんだろう?
」
「 この原因は一体どこにあるんだろう?
」
というように反省する言葉を心に思いながら、この問題になっている原因はどこに存在しているのかを見つけようとすると思います。
勿論これらの条件には、反省をする(振り返る)気持ちが無ければなりません。
でも人間は、必ず自分の心を確かめようとする行為がどこかで起こるものです。
どうしてこの様な反省をしようとするんでしょうか?
反省する事を、何が自分に呼びかけているんでしょうか?
反省が自分の人生を変える、変えさせる事が可能なんでしょうか?一体どこにその理由を見つければよいのでしょうか?
私の生き方に一本の道筋が現れたのは,二十年以上前のことです。
それまで自分でも全く人生に自信を持つ事ができず、どのようして生きて行けばいいのか判りませんでした。
そして当たり前のようにして、結婚をし子供が誕生しました。
それはそれで本当に感動しました。また生命的神秘を心に感じていました。
私はこのHPに色々と書いて来ましたが、まだまだ書き切れないものがあります。
それはどうしても書く為には、各テーマに沿ってその内容が熟さなければ、書けるものではないからです。
私は小説家でも何でもありませんから、それ程緻密な設定を必要とはしません。
そしてお金儲けで書いている訳ではありませんから、中傷を受ける必要もありません。だから伸び伸びと自分勝手な文書を書いているのです。
ところで今まで自分自身が
「 心のテーマを持たず生きて来た、自然に任せて生きて来た
」
と思っていたんですが、
どうもそうではないと最近感じ始めていました。
それはこれまでの経験の中で、故高橋信次氏の影響を受け、
それまでの自分に対して、人生への問題から回答を得てきた訳ですが、
常に問題は未来から止め処もなく現れて来るからです。
それまでは
私は一つの問題が解決すればもう現れる事はないだろう
と思っていました。
でも
現実には何度も何度も現れては消えて行くのです
。
どうしてそんなに現れて来るんだろうと、いつも考えていました。
しかし現実に問題が現れて来る以上、それを解決して行かなければ心は安心しませんし、平安には程遠い心の状態になります。
私は安心というのか、安泰というのか、平和というのか、その心の境地を求めます。
そしてその環境の中で生きて行きたいと思います。
でも問題が解決して安心をすると、直ぐに別の問題が生じて来ているんです。
どうしてこうまでして問題が矢継ぎ早に起こって来るんだろうと思い、少々疲れてしまう事があります。
性分かもしれませんが、
どうしてもまたその問題に前向きにぶつかって行きます。
自分では
「逃げたくない」
「諦めたくない」
その様な気持ちが心の底から現れて来るからでしょう。
そしてそうしたいと願っている自分の思いが存在しているからでしょう。
この思いの原点は一体どこにあるんでしょう?
私は生まれつきこの思いを持っていたんでしょうか?
後天的に、故高橋信次氏によって、この思いを持つ事が可能になったんでしょうか?
確かに私は故高橋信次氏の影響を色濃く持っています。
その影響とは、彼自身の「ものの考え方」を私に強要されたものとして受け取っているのではなく、その教え、その考え、その本当の究極思考が私を動かしたという事が言えます。
そしてその考えが私の求めていた願いと一緒に成ったという事が大きな原因だと思います。
言葉的に言えば、
共通化した思考が、私にその「実践を求めている」と言えるかも知れません。
私自身が故高橋信次氏によって、心の捉え方において、かなり強烈な影響を受けました。
それは私の父親に対し、また両親に対して、感謝する気持ちの回復や自分以外の人間に対して、心を傾ける慈悲心や愛情心が今まで以上に理解できた事が上げられます。
また自分勝手な思考で、社会情勢を見て生きて来ましたが、
心がすべて影響している事を発見させていただいたのも、故高橋信次氏のお陰によるものでしょう。
そして一番大きな心の発見は、全ての生命に対して、
『どうして生まれ死んでいくのか』
というとても大きな命題を、理解させて頂いたということ以外にありません。
現在ではGLAという団体を、引き続き形成されている高橋佳子女史によって、人間の心の奥深くまで、その本当の意味を解き明かされている事で、私自身、自分の心の奥に潜んでいる本当の自分と、それをカモフラージュしているもう一つの自分の存在を、明らかにして来ている喜びを持っています。
ただ現状の私の心は、現在に満足している感じではありますが、しかしこのままで良いとも思っていません。
もっと自分に挑戦的であり、欲深く自分の探求を進めたいと思っています。
そして最近、自分でも意外であった事があります。
それは、「心の原点に還る」という意味が解りかけて来たような気がする事です。
問題が生じた時に反射的に思う心ではなく、反省という感じのものではなく、自然に、常に感じるもの、としての、原点として思うものです。
反省をしているとどうしても、
自分の行なった「悪い点」だけを見つめてしまいます。
それは反射的に自分の行なったことを見つめるからです。
そしてその行なった行為が正しい事なのか、悪い事なのかといった二元的な、二見的なものの捉え方を瞬間にしてしまうのが普通だと思います。
しかしこの二元的二見的なものの捉え方以上に、
その現実を 「在りのままに捉える」
という行為が必要である事を、しっかりと教えて頂きました。
その結果、「良いとか悪いとか、美しいとか醜い」とか、はっきりと二つに分ける考え方を 「間違った捉え方」 として理解する事が出来ました。
この理解によって、人間の心を大きく成長させるには、この様な、「極端なものの捉え方」をしない捉え方が、本当に必要な考え、思考力であり、この捉え方を中心にして、物事の理解を進めて行ければ、問題定義がハッキリとして来るようです。
そしてその結果、
どの様な問題にも対処でき、それを解決して行く事が出来る捉え方だと判りますと、もうこれ以外の捉え方では、問題解決を正しく行うには、まったく不可能に近いことであることに気が付きました。
この考え方が心の原点、基盤となって、
全ての物事に対して、その判断に任せていく訳です。
もしこの捉え方が間違った捉え方であるのならば、私は本当に何をしにここへ生まれて来たのかが解らなくなるでしょう。
しかし色々な角度から私の人生を考え反省しても、そして自分のこの捉え方を反省しても、間違ってはいないと理解できるまで、約二十年も掛かりました。
それだけ慎重に判断しているんだと思います。
この理由には、故高橋信次氏が言われた言葉が原因しています。
それは、まだ私が青年の時期、何度か講演会を聞かせて頂いたときに話された内容の中で、故高橋信次氏は
「例え私が話した言葉の中で、そのまま鵜呑みにして言葉を理解しないようにする事です。一度自分の心の中に入れて、その中でよく噛み砕いて、理解できるところだけを理解して下さい。盲信はいけません」
と、私たちを戒めました。
このような戒めを話しされる指導者は聞いた事がありません。
殆どの指導者は、
「自分の言う事を信じなさい、私の言う事は正しいのだ」
と、自己主張ばかりしています。
私はその様な自己主張をされる指導者を支持しない心を持っています。
しかし故高橋信次氏は、全くその逆を生きておられる指導者でした。
故高橋信次氏はGLAの指導者でもありましたが、高電工業という電気機器関係の仕事をされている社長でもありました。
勿論今もその会社は存在し、発展しています。そして心を研鑽させている方々が、運営されている会社でもあります。
本当に私は、幸せ者だと思います。
でも、この幸せに浸る余裕は全くありません。
常に呼びかけは、私に来ています。
だからこそ、それらを何時も心の中に置いて、自分を見つめ続けています。
そして本当の原点は何かを考えます。
それは一体私は、何をしに生まれて来たのか、という問題定義です。
この前提には、
「 あの世
」の存在を否定しては、この問題は解く事が出来ません。
ですから「あの世」を否定する人には、決して理解は出来ないのも仕方がありません。
しかし存在するものは存在するのですから、否定し理解出来なくても、「在るものだ」と思って判断してみて下さい。
そうすれば少なくとも錯覚ではなくて、何かしらその様な気配を感じる事が出来るようになるかも知れません。
私は「あの世」の存在を感じています。
また何度か行った記憶はあります。傍に誰かが居ました。
それは心の世界ですから、また魂の世界ですから、この肉体を持って行くことは不可能です。
しかし心を常に天上界につなげる努力をしているのなら、きっと誰もがその経験をする事は可能です。
勿論その経験をするのがこの人生の目的でもなく、四次元以降の経験を求めるのが、生きている証でもありません。
また霊能力者になるのが目的でもありません。
じゃあ何が目的で私達は神様に許されて、生かせて頂いているんでしょうか?
そして全ての愛情で持って神様は私達を生かして下さっているんでしょうか?
そこには私たちの「心の美しさ」に問題があるんだと思います。
美しさと言っても、「綺麗、汚い」という事ではありません。
それは自分の心が、光にどれだけ包まれているのか、ということだと思います。
汚れの少ない心にどれだけ成っているか、ということだと思います。
人間として魂となっている私達の心に、何十億年という魂も居ればそうでない者も居るようです。
しかしそれが問題なのではなくて、生まれて来る以上、何らかの問題を抱えて生まれて来ているのが私達だとしたなら、その問題を解決して行くのが人生だという事が言えます。
その問題の中心に何があるのかということなのです。
その問題の中心に
「カルマ」「カーマ」「業(ごう)」「原罪」
というものが存在しているのです。
そしてそれぞれの人々の問題は、
全ての人に一人一人、問題が違うという事です。
その「カルマ」をこの世で正しく修正する為に、
生まれさせて頂いていることを理解すべきかも知れません。
それが今になってやっと心で理解できたところです。
本当に私の心は鈍感だと思います。
何度も何度も聞いている言葉なんですが、真実理解するためには、
実感するためには、私にとってこれだけの時間を必要としているんですね。
ですから私のような鈍感な者でも理解できるのですから、
殆ど皆さんはもっと速く理解できると思います。
別に言葉の裏返しの意味で言っているのでもありません。 本当にその様に思うからです。
最後に、故高橋信次氏は東北での講演会のときに、最後の力を振り絞って講演されていましたが、こう言われました。
「私を信じよ」
この言葉を聞いたとき驚いたのと同時に、素直に私は心から「ハイ」と言う事が出来ましたし、現在もそのままの心です。
この「私を信じよ」という言葉は、高橋信次氏が長い求道の末に、確信と真実〔理証、文証、現象〕が伴った重い言葉だと理解しております。
最後の最後まで神理を求め続けられ、
その結果、死に至る時点まで、確信を持つ道を歩かれた、
その魂の叫びであったと理解しています。
この言葉を聞いたとき、私の心にある言葉が蘇りました。
それは、「盲信」を戒めた言葉でした。
しかしこのとき私には、「絶対なる確信」を持たれた高橋信次氏の思いが伝わって来ました。
多くの迷える人間に、魂達に、声を大にして呼びかけられた、故高橋信次氏は、
高橋佳子女史に総てを一任され、天上界にお帰りに成られました。
この事実は時空間が歪まない限り、私の心の中では真実ですし、体験した現実です。
一人でも多くの魂たちが、この現実を真摯に受け止め、人間としてだけではなく、魂として、それも神の子としての己を理解されることを願っています。
そしてその証明は、
「人には嘘をつけても、自分には決して嘘をつく事が出来ない心、それこそが良心というものです。その良心に従って生きていくことこそ、本来の人間の生き方です」
と言われた故高橋信次氏の心が蘇ってきます。
「カルマ」「カーマ」「業」「原罪」の修正をする為に生きている。 これがこのテーマの中心です。
これを修正する方法は、
自分を知る、自分の全てを客観的に知って行く事しか道はありませんし、
そして修正する為に、正しく実践して行くという行為が必要ですね。
行為がなければ何事も修正する事は出来ないようになっています。
仏教で言えば、
「八正道」を実践する事ですし、キリスト教では
「悔い改める」ということです。
その為にはどちらも実践をしなければ意味がないという事に成ります。 しかし難しいイメージを持たれるかも知れませんが、現実は難しくはありません。
難しいなら、多くの人々の救いが出来るわけは在りませんから。 だからと言って、念仏を唱えたら救われるという軽いものでもありませんが、己の心を知る事が出来るのは事実です。
そして最後に、この真実の道を伝え続けているのが、GLAしかありません。
これだけは本当に真実です。
私が五十六年間生かせて頂いて、間違いがないと言えるのは、この真実だけです。ぜひ高橋佳子女史の言葉に耳を傾けてみて下さい。 誰にでも理解できるように道筋を立てられて、色々な方法で言葉で、我々が理解できるように噛み砕いて下さっています。
きっと我々は人として、道を求め続けてきた魂の願いとして、自分を理解でき、あらゆる疑問の答えが目の前に現れる時が訪れる事と信じています。
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