ココ の ブログ

「猫と女と」(27)




小説「猫と女と」(27)

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 しかし、建築家を含め作家は風評に迎合したり他人の目を気にし過ぎては大物には成らないのだ。商売人ならそれで良いだろう。ところが私は生憎そうでは無いのだ。商売人に成り下がった芸術家ほど醜いものは無い。金に目がくらんで溺れた連中は五万と居る。そういう連中のレベルに合わせたり憧れたりすれば先は観えて居る。この歳になって今更金に目がくらんでどうすると言うのだ。欲しい物は殆ど手に入れた。やりたい事も殆どやった。女だって飽きるほど相手にしたではないか。仕事にこそ後世に名が残るようなものを残したい。それが今の仕事を大事にする事で達成されるのだ。そんな事を想いながら忙しく静岡と大阪とを往復する内に新しい歳を迎え、いよいよ大学の体育館と増築校舎の工事も完成に向かって行った。それと並行して舞子の腹も目立って大きく成って臨月が近づいて行った。私はその二つが気掛かりで気忙しく毎日を過ごしていた。


 三月に入ると、もう舞子の状態を毎日の様に電話で確認しなければ仕事が手に付かなくなる塩梅だった。それなのに舞子に電話を掛けると後で必ず女が代わり「週に一度と言わず、三日にー度はマンションに来て頂戴な。今夜は来れるでしょうネ?」と言う。舞子の声の調子では切迫した状態でも無いのに是非傍にいてやって欲しいと言う。大学の工事が最終段階になり竣工検査も間近に迫り、引き渡し式や完成式典にも出席しなければならない。時間的余裕が無いと言っても聞き入れず「仕事にかこつけて逃げているの?」とまで言い出す。「分かった分かった。今夜は行くから」と言うとようやく安心する始末。静岡の出張も入れると女のマンションに行くのと自宅に帰るのと同じ回数になる。二つの家庭を持つという事は身体が二つ要るという事が初めて分かるのだった。女にもてようとするならマメな男が有利という事も実感として分かった。


 それらは頭では分かっていても実際に直面してみないと自分の生臭な性格では面倒くさいという気が先に立って仕事の方が優先してしまう。良い歳をして女に小マメな男というのがどうしても理解出来ないのだ。優男でもない自分が偶然にも女二人を同時に愛してしまったが故に毎日を忙しくコマネズミの様に動き回らねばならない。皮肉なものと苦笑いしてしまう。生まれ出る子の為に幼児用品を買いに回る時間も無ければ心の余裕も無いまま総てを女に任せている。暮には女が買い物をしているデパートから呼び出された事があった。「ねえ、舞子が独りで家で休んで居るしょ?毎日何かと忙しいのヨ。ー寸ぐらい私にサービスしても罰が当たらないのじゃ無い?」「うん?どういう事?」「意地悪ネ。この前の京都以来、何処にも連れて貰ってないのヨ。これからホテルに行きましょうヨ!久しぶりに二人っきりで羽根を伸ばしたいの」とウインクする。


 女は母親の顔から女の顔になっていた。五十を過ぎても身体は未だ四十代なのだろう。確かに女は舞子と比べると見劣りはするものの五十代には観えず、私の体力からすれば舞子ほどには疲れないものの、せがまれて仕方無くと言う風に私はホテルへ向かった。三角関係は未だ終えてはいないのだ。割り切ってしまえば臨月の舞子の身体を味わえない分、女が代わりをしてくれる訳だ。それは妻には無い世界だった。妻とはもう長くー緒に寝て居ない。愚息が高校へ行き出した頃に寝室を別々にして以来、形式的な夫婦になってしまった。それは彼女が望んだ事だった。愚息の進学の事を想えばそういう気に成れなかったのだろう。お蔭でマザコンの息子は湯あがりに裸のまま平気で妻の寝室に入って行き、自分の下着の洗濯物を探し出して身に付けて行く有様だ。何時までも幼い子供の様な気で居るらしい。これでは乳離れしない子と変わらない。


 大学院まで出た男が今でもそういう事を当たり前のようにやっている異常さ。馬鹿と言うべきか、母親までもが我が子の事をー人前の男と観て居ないのだ。女が舞子の事をー人前の女と観ているのとは大違いだ。そういう割り切り方が出来ない以上、幾ら私が家で親父面をしようが愚息には馬耳東風でしか無い。矢張り常識に欠け、マザコンも抜けきらない男は世の中に出ても負け犬で終わってしまうだろう。だが、仕方が無い。自分の進むべき道は自分で苦労し見つけないと見えて来ないのだ。久しぶりに女とホテルへ行くと女は激しく何度も求め、二時間があっと言う間に過ぎてしまった。未練を残しつつも舞子が待って居るからと女はお茶もせずに夕方のラッシュ前に梅田のターミナルから帰って行った。女も忙しければ私も忙しいのだ。そんな事を想い出しながら私は電車で女のマンションへ向かった。多分、行けば泊まりになるだろう。


 十年前なら苦にもならなかったろうが、二重生活は心身ともに疲れる。今では何の為に結婚なぞしたのだろうかと疑問にさえ想えて来る。芸術家が結婚や家庭に縛られないというのが今更の様に分かる。社会正義がどうの倫理観がどうのと言ったところで自分を縛る為の何ものでも無く、自分が生み出す芸術作品の為には何にも成らない。それが作家の偽らざる気持ちなのだ。建築家とて絵描きや詩人と同じなのだ。ものを作り出す人間に様々な規制は百害あってー利無しだ。自由奔放な生き方をする連中が羨ましい。仕事上で様々な規制を掻い潜り自分の信ずる形や機能を求めて建築作品を生み出した後のー息つける私生活だけでも自由気ままな状態で居たい。舞子は其処のところを分かってくれて私を慰めてくれる。ところが女は、母親として、亦、只の恋人として私を見ている。舞子を前面に押し出し自分はおこぼれを頂戴する立場で満足なのだろうか。(つづく)




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