動く重力

動く重力

普通免許とフリーター(03)

普通免許とフリーター(03)

「その猫に何の用があるの?」
 路地裏で猫を追い詰めていた僕は急に人が現れたことに驚かされた。もしかすると猫に話しかけていたところを見られていたかもしれない、と思って妙に気恥ずかしくなった。
 現れた人影は長身の女性だった。整った顔立ちと長く伸ばした黒髪が印象に残る美人だ。モデルとして雑誌の表紙を飾っていてもおかしくないような風貌だった。
「あ、あなたは、な、何ですか?」
 僕の言葉はあまりに不出来だった。最近のロボットでももう少しましなことが言えるだろう。
「何って、何?」 
 何と言われても焦っていて勝手に口をついて出ただけの言葉なので意味などまるで無かった。僕は女性の質問に答える代わりにとっさに思いついたことを聞いた。
「撮影ですか?」
 こんな路地裏でモデルと出会うなんてそういうコンセプトの撮影でもない限り有り得ないように思えた。
「サツエイ?」
 僕の質問は随分的外れだった。
「どういう意味なの?」
 疑問を重ねてくる女性。しょうがないので僕は正直に答えた。
「あなたが、ファッション誌のモデルのように見えたので」
 その気は無かったが、まるで口説いているようだった。
「モデル、ねえ」
 女性は少し考えた後に言った。
「覚えておくといいわ。モデルはこんなところで撮影なんかしない」
「そうですか?」
 僕は続ける。
「そういうコンセプトで撮ることがあるかもしれませんよ」
「そういうコンセプトで撮るんならそういうセットを使うんじゃない? わざわざこんな暗くてじめじめした所で撮影なんかしたくないもの」
「そうですか」
「きっとそうだわ」
 『それならあなたは何でこんな暗くてじめじめした所に居るんですか?』と聞きたかったが、向こうにしてみればまさに僕もその状況なので聞くことは躊躇われた。ひょっとしたらこの人も僕と同じで猫を追いかけているのかもしれない。
 なんとなく空を見上げる。ビルとビルの僅かな隙間から太陽が顔を出しているのが分かった。それでも、ここは薄暗い。少なくともモデルがどんな表情をしようが不気味に見えることは間違いなかった。


 女性は猫を見上げながら言った。
「名前、何ていうの?」
「桐原です」
 女性がこちらに顔を向ける。
「そう。あたしは、雪穂。でも」
 女性は再び猫を見る。
「あたしが聞いたのは猫の名前なんだけど」
 どうやら僕と雪穂さんは相性が悪いらしい。さっきから会話がちぐはぐだ。
「その猫の名前は、シロです」
 こんな呼ばれ方をするのは無実の容疑者かうちの猫くらいだった。
「あなたは随分ひねくれているのね」
 黒猫の名前がシロなのだからひねくれていると言われてしまえばその通りだろう。必死に弁解してもよかったが、わざわざ説明しても別段面白くもなんともないのでその件に関しては何も言わないことにした。
「雪穂さん。シロの特徴は」
「黒いことでしょ」
 話し終わる前に割り込まれる。その言い方は若干棘があった。猫の名前がお気に召さなかったのだとすぐに分かる。
「ええ、黒いことです。でも、もう一つあるんですよ」
 何? という視線で僕を見る雪穂さん。大して興味はなさそうだったが、僕は元から話を変えようと思って言ったのだから、雪穂さんが興味を持っていなくても構わなかった。
「シロは頭が悪いんです」
「ふうん。まあ、そうなんでしょうね」
「ええ、そうなんです」
「路地裏なんかに逃げ込んでいるわけだし」
 雪穂さんはそう言うが、僕には路地裏に逃げ込むことの何が悪いのか分からなかった。現に僕はシロを捕まえ損ねているのだから逃げ込む場所としては悪くないように思えた。
「路地裏はだめなんですか?」
「路地裏はだめね」
「だったら、猫は一体どこに逃げればいいんです?」
 僕は全国の猫の代表になった気分だった。
「そんなの、交番に決まってるじゃない。あそこは世の中で一番安全な場所だわ。女性を痴漢から助けてくれるのも警官だけだし」
 僕は雪穂さんに『警察が助けるのは人間だけですよ』と教えてあげても良かったが、話がややこしくなりそうなので適当に合わせることにした。
「痴漢は女性の敵ですもんね」
「それははずれ。女の敵はデートをすっぽかす男」
 やはり僕と雪穂さんは相性が悪いようだった。

戻る 次へ

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: