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今年も9月に、竹原市・三原市・東広島市・呉市・尾道市・大崎町・今治市・廿日市市という広い範囲に及ぶ石塔の調査を実施してきました。もちろん中心となったのは小早川領の石塔ですが、宝篋印塔の細かな部分の違いを調べるために、その周辺部にまで足をのばしました。いつもなら9月にはいると暑さも和らぎ、瀬戸内を吹く風も心地よくなるのですが、今年は連日34度を超す猛暑!石塔を測定する器具も照りつける太陽によって熱せられ、5分もすれば、もう熱くて持てないほどでした。そんなかちかち山状態が連日続いたため、いつもよりペースはダウンしましたが、それでも多くの新しい発見がありました。幸崎(さいざき)三原市幸崎町にあるO家の墓所では、2基の宝篋印塔をはじめ、数多くの五輪塔を確認しました。数えてみると、宝篋印塔は2基(基礎2個、塔身2個、笠2個、相輪は確認できず)五輪塔は、寄せ集めですが、各部を数えると、地輪が18個、水輪が35個、火輪が35個(ほかに火輪らしきもの1個)、空風輪が2個(ほかに空風輪らしきもの2個)もあります。このほか寺の礎石として火輪1個、地輪1個が使われています。この点から、このあたりには少なくとも宝篋印塔が2基、五輪塔が36基はあったことがわかります。このほかにも、江戸時代の一石五輪塔が10基あり、このうちの1基は、高さが95.5センチもある大型のものです。また、宝篋印塔の1基は、その形や比率から14世紀代のものと見られ、このなかでは、もっとも古そうです。おそらく、宝篋印塔がまず建てられ、その後、そのまわりに五輪塔があいついで建てられていったのでしょう。それをある時期にこの場所に集めて祀ったようです。すぐ近くには、弘安2年(1279)とも、元禄5年(1692)創建とも伝える曹洞宗の寺があります。寺の開基は、はっきりしませんが、五輪塔や宝篋印塔からみて、中世後期、ここにそれなりの有力者に保護された寺があったことは間違いないでしょう。墓所のすぐ前は、せまい瀬戸。この石塔群は、この水路を押さえていた勢力が建てたもののようです。おそらく中世は墓所のすぐ近くまで海がはいりこんでいたことでしょう。その海をみおろすように建てられた寺は、この勢力の氏寺だったのかもしれません。新庄竹原小早川の本拠地となる新庄でも、またひとつ宝篋印塔を確認しました。15世紀頃に作られたもののようです。眼下を旧山陽道が走り、正面には茶臼山城のある山がみえます。まだはっきりしたことはいえませんが、竹原小早川氏の本城となる木村城周辺に分布する宝篋印塔や五輪塔を見ると14世紀から15世紀にかけての石塔は、木村城周辺よりも、そのすぐ北に位置する茶臼山城の周辺に広がります。小早川氏の氏寺であった法常寺も、この近くにあります。これに対し、木村城東麓の末宗(すえむね)の谷は、荘園領主(賀茂神社)の預所(あずかっそ・荘園の管理責任者)がいた空間で、城の西南には賀茂社も鎮座します。こうしたことからみると、あとから割り込んでくる小早川氏の拠点は、はじめは木村城周辺ではなく、もう少し北側の茶臼山城周辺の一帯だったのではないでしょうか。これからの検討課題です。安芸津(あきつ)竹原小早川氏の外港として使われていた安芸津でも、たいへん立派な五輪塔をみつけました。お堂に囲われて大切に守られてきたため、とても綺麗で、各部がすべて揃っています。今年一番の成果が五輪塔の発見でした。ただ、確認したのが夕方だったことに加えて、五輪塔の周囲を何匹ものハチがホバリングをしていたため、詳しく調べることができませんでした。また、地輪部をセメントで固めているため、正確な高さは測定できませんでしたが、ざっと測定したところ、空風輪の高さは28.5センチ、火輪の高さは22.2センチ、軒幅は36.5センチ、軒厚は中央が7.5センチ、右端が7.8センチ、水輪の幅は37.0センチ、地輪の上端幅は43.5センチありました。空風輪、火輪、水輪、地輪の4面すべてに梵字を刻み、鎌倉末から南北朝期の五輪塔のようです。修験に関わる五輪塔と思われますが、詳しくは、来春、あらためて調査したいと思います。大崎上島大崎上島でも、藪に覆われた無縁仏のなかから、立派な五輪塔をみつけました。藪を取り除くと、これも各部4面に梵字を刻み、安芸津の五輪塔に劣らぬ作りです。空風輪の高さは24.2センチ、火輪の高さは22.7センチ、軒幅は34.3センチ、軒厚は中央で7.2センチあり、安芸津の五輪塔より、わずかながら小型の五輪塔です。残念ながら地輪がありませんが、島にとっては貴重な歴史資料、きちんとした形での保存がのぞまれます。すぐ後ろには、15世紀頃かと思われる宝篋印塔の基礎(幅34.8センチ)もありましたが、時刻はすでに17時をまわって、陽がかたむきはじめています。残念ですが、ここも来春、改めて調査をしたいと思います。大和町大和町の棲真寺(せいしんじ)には、鎌倉末から南北朝期のものとみられる立派な五輪塔があります。空風輪の高さは34.1センチ(空輪は21.0、風輪は13.3センチ)、空輪の最大径は24.2センチ、風輪の最大径は16.6センチ火輪の高さは26.3センチ、上端幅は16.9センチ、軒幅は41.0センチ、軒厚は中央で8.2センチ、右端で9.2センチ水輪の高さは34.4センチ、幅は43.7センチ(下から21.4センチの位置で最大径)地輪は高さは44.2センチ、幅は44.7センチ全体の高さは、126.8センチあります。空風輪、火輪、水輪、地輪の4面すべてに梵字を深く刻み、この界隈でも群を抜く立派な作りです。安芸津や大崎上島の五輪塔は、この五輪塔とほぼ同じ形をしていますが、これよりひとまわり小さく、梵字の彫りもやや弱いようです。このクラスの五輪塔は、丹念にさがせば、まだみつかるかもしれません。なお、今年もたくさんの地元のかたにご協力をいただきました。なかでも、新庄の宝篋印塔を教えてくださった新庄のKさん、いつも私たちの調査に協力していただき、測定やドライバーを務めてくださる忠海のOさん、お忙しいなか調査に同行してくださった忠海のSさん、現地でいつも便宜をはかってくださる吉名のFさんに新庄のSさん、小梨子を案内していただいたSさん、大崎上島を案内していただいたKさん、安芸津町史編纂室のNさん、Nさん、Mさん、そして呉市教育委員会の皆さん、お忙しいなか、本当にありがとうございました。このところ多忙のため、ブログの更新がとまっていますが、調査は順調に進んでいます。順次、このHPで紹介していきますので、いま少しお待ち下さい。次回は、来春3月末を予定しています。またお会いできる日を楽しみにしています!
2007.10.13

かつて竹原小早川氏の城がある新庄から、港のある三津(みつ・安芸津)に向かうには、東野の在屋(ありや)から峠を越えて木谷(きだに)におりるルートが使われました。しかし、ルートはひとつではなかったようです。少し遠回りになりますが、もうひとつ、仁賀の西谷に出て、戸石(といし)、正司畑(しょうじばた)をへて、三津の印内(いんない)にぬけるルートがありました。現在は、戸石から岩伏を経由して印内に抜ける自動車道路が整備されていますが、この道路は、明治29年生まれのSさんが村長を務めたときに、仁賀と三津の人たちによって拡張・整備されたもので、それまでは、正司畑を経由して三津に歩いて買い物に出ていたそうです(『ふるさと仁賀』26頁)このルートは、三津のなかでは比較的規模の大きい印内の城(いまは松尾城と呼ばれていますが、本来の名前はわかりません)の東側に抜けることから、港へ抜けるもうひとつの道として重視されていたのでしょう。そのルート上に位置する戸石の村はずれ(字「上大谷」)の田んぼの縁のところに、いま多くの五輪塔が寄せ集められています。多くは崩れていますが、その数は、空風輪6、火輪8、水輪5、地輪3となり、少なくとも8基の五輪塔が存在したようです。しかし、いずれも粗い花崗岩で作られ、摩滅も激しく、石の質はよくありません。形からみて、いずれも戦国時代から近世初頭の五輪塔でしょう。このほか、自然石の墓石が2基、石仏が1基あり、墓所としても使用されていたようです。田んぼが拡大されていくなかで、ポツンとここだけ残されているところからすると、古くから五輪塔はこの場所に祀られていたのでしょう。 火輪の軒幅は、それぞれ、21.47センチ、22.00センチ、22.17センチ、22.17センチ、23.16センチ、24.63センチ、25.01センチとなり、それほど大きなものではありません。このうち、小型ながら19.13センチの火輪がこのなかでは、もっとも古そうです。また下の写真に写る空風輪は、上記の火輪よりも時代がさかのぼりそうです。このほかの火輪は、いずれも新しいもので、一番大きな火輪は、軒の下端が水平を作り、両端の反りがきついことからみて、古くても慶長期、おそらく近世初頭のものでょう。つまり、古いものは小型ながら、このなかでは比較的質がよく、時代が下ると大きくはなりますが、質は低下する傾向がみられます。質を落しても、大きなものを作りたいという願いが込められているようです。その大きさなどから見て、造主は、戸石の土豪クラスが想定できます。火輪幅 25.01センチ火輪幅 24.63センチ火輪幅 23.16センチ火輪幅 22.00センチ火輪幅 22.17センチ火輪幅 22.17センチ火輪幅 21.47センチ五輪塔のある場所に立って正面(東北東)をみると、500メートルほど先に小高い丘がみえますが(トップ写真参照・赤い屋根の右上)、平たくなっている部分には、かつて寺があったそうです。また、五輪塔群からの160メートルほどのところにあるSさんのお宅の隣には、かつてお宮があり、いまも前方の田を「ミヤダ」とよぶそうです。このほか、五輪塔の南側にある山の反対側の谷筋は、ジョウボウダニ(丈房谷)といい、焼き場もあったそうです。東野にある賀茂神社も、戸石に最初は祀られていたという伝説もあり、ここ戸石には、いまも中世の面影が残されているようです。戦国時代の戸石村については、古文書からも確認できます。天文17年(1548)12月26日の荒谷に宛てた竹原小早川家の奉行人某慶俊の安堵状に、「西村莵石・大谷土貢の事、壱貫五百文、四季納所棟別七百文臨時共に、足子一円、惣夫銭臨時共に、其外何も切岩様御判形の辻を以て前々の如く知行肝要たるべきの由候」とあり、戸石と大谷には、上仁賀の荒谷(あらたに)氏の領地がありました。また、年未詳月日付けの荒谷大蔵入道に宛てた小早川弘平(興景父)書状によると、「といし・大谷人足の事」とあり、人足や小早川家の新年を飾る「正月の松・かし(樫カ)」を負担していました。この荒谷氏は、小早川弘景が弘平に宛てた置文(15世紀後半)に「弘景の時、出候足洗(あしあらい)も、荒谷などはあべ共に同前にて候」と記される竹原小早川家の家臣です。ここに記される「足洗」とは、「人の足を洗うような、家臣のなかではいやしい身分」(『中世政治社会思想・上』岩波書店)をさすようですから、荒谷も、はじめは足洗クラスの家臣として、弘景に出仕したようです。荒谷と併記される「あべ」は、よくわかりませんが、置文では、「あべなどは家もさしてなきものにて候」とも記され、「若衆なみ」の扱いをうけているところからすると、同じく下級家臣として出仕したのでしょう。なお、『中世政治社会思想・上』(岩波書店)は、この「あべ」について、「竹原市新庄の字に安倍がある。この地を根拠とした家臣か」と記しますが、新庄に安倍の字はありません。ここで紹介した戸石の五輪塔の造主と推察される土豪は、もしかしたらこの荒谷氏に仕えていたのかもしれません。
2007.07.01

瀬戸内海の沿岸地域といっても、海岸地帯の村ばかりではありません。内陸にはいれば、山あいの村がいくつもあります。どこも高齢者ばかりで、村を離れたかたも多く、すでに廃村となったところも少なくありません。村の歴史が消える、その動きは、これからさらに加速されていくことでしょう。竹原市仁賀の山あいにも、こうした村がいくつかあります。そのひとつ、ある村の山中で古い宝篋印塔や五輪塔の残欠を多数見つけました。見つけた、といっても、村の人ならよく知る石塔ですが、当初は調査地域にも予定していなかった場所だけに、これは大きな収穫でした。やはり現地をくまなく歩いてみるものです。宝篋印塔は、もとは観音堂(元文5年〈1740〉卯月に再建。棟札あり)のある峠から谷をみおろすように立っていたようですが、現在は、シロヤナギの根本に、崩れ落ちそうな格好で置かれています。このため、相輪と笠の部分をはずし、木の脇に安置しました(基礎はとても重たいのでそのままです)。残念ながら、塔身はみつかりませんでしたが、笠や基礎は、なかなか良い造りをしています。写真からもわかるように、相輪は、下から6輪目まで残り、上部は欠けています。〔相輪の計測データ〕(単位はセンチ)高さ(現状) 28.75(下から6輪目まで現存、上部欠損)下部請花 高さ4.57 下端径11.58伏鉢 高さ5.32 最大径12.30(下より2.6の位置で計測)1輪の幅 1.78 間隔1.42(1輪目と2輪目の間を計測) 笠は、上6段下2段で、全体の高さは27.05センチ、軒幅は33.6センチ(隅飾が残る右側を正面として計測)、軒厚3.54センチとなります。小早川領の笠は、軒幅が33センチ代と26センチ代のものが多いのですが、この笠も、前者のグループに属します。隅飾の輪郭も4面すべてにあり、丁寧な造りをしています。竹原小早川氏の氏寺であった法浄寺にあった宝篋印塔(現在は竹原市歴史民俗資料館の敷地内に保存)の笠(上6段下2段、高さ28.7センチ、軒幅33.5センチ、軒厚3.4センチ)とほぼ同じ大きさ(法浄寺のほうがやや高さあり)となり、造塔者は、小早川一族か、その関係者と推察されます。高さと軒幅の比率は0.81、軒幅と軒厚の比率は0.11、最上段と最下段の幅の比率は0.65、軒幅と隅飾の幅の比率は0.31、軒幅と隅飾の間隔幅は0.35になります。全体的に造りはよく、段形もすべて垂直に落ちています。こうした比率や特徴から考えて、14世紀後半にはさかぼる笠とみてよいでしょう。さきほどの相輪とも一致しますので、両者は、本来の組み合わせのようです。〔笠の計測データ〕(単位はセンチ)形状 上6段下2段高さ 27.05軒幅 正面33.6 左側面幅33.7 右側面は欠損あるため未計測 軒厚 3.54各段の高さ 上部下段より順に、2.88 2.95 2.83 2.63 2.88 2.73 下部上段より順に、2.71 2.85最上段の幅 上端13.85 下端13.88隅飾 突起部高さ9.35(右を計測、現状) 幅10.26(右を計測) 軒端よりの入り込み0.43 突起部傾斜92度(0.3外傾)左右の間隔幅11.89 輪郭幅0.96 輪郭厚0.17二弧輪郭つき。4面すべてにあり。内部は素面。軒下 上段 高さ2.71 幅 上端26.95 下端26.9下段 高さ2.80 幅 上端21.66 下端21.35ほぞ穴 直径6.85 基礎は、高さ20.15センチ、幅36.8センチと比較的大きく、これまでの事例で見ると、小早川の一族クラスの宝篋印塔と推察されます。格狭間も4面すべてにあり、この点は、笠の隅飾の輪郭とも一致します。時代の特徴がもっともよくあらわれる基礎の各部の比率は、全体の高さと幅の比率は0.55、側面の高さと横幅の比率は0.48となります。また、側面にある上下の輪郭の幅の比率は1.03、上と左の輪郭の幅の比率は1.32、基礎幅と横の輪郭幅の比率は0.11となります。こうした比率から見る限り、この基礎は、14世紀中頃にさかのぼりそうです。基礎の格狭間の花頭形も、上の輪郭線に対し、ゆるやかな斜線で左右に開くB型で、花頭形の内側の茨までの幅(7.2センチ)が左右両側にある二つの円弧の合計幅(5.79センチ)より長い特徴を持ち、脚も内側の茨のさらに内側で切ります。脚幅は、下端輪郭線の約1/3(0.30)で、南北朝期に登場する様式になります(鎌倉末期は約1/5)。こうした点からも14世紀中頃の基礎とみて大きなズレはなさそうです。塔身がなくなっているのが、とても残念ですが、さきほどの笠や相輪も、本来の組み合わせとみてよいでしょう。ただし、この基礎には、ひとつ大きな特徴がみられます。それは、基礎の上部の構造が、一般的な、二段式でも、反花式でも、また反花式の簡略形とみられる繰型式でもなく、これまで見たことがない独特の形をしています。あえていえば、繰型式をさらに省略した様式といえましょうか。しかし、笠の隅飾の輪郭や基礎の格狭間が4面すべてにあることからすると、予算の関係で簡略化したわけではなさそうです。この点については、今後の課題です。〔基礎の計測データ〕(単位はセンチ)上部形状 繰形変形 側面上端角より6.2センチ入り込み(正面では3.46)全体の高さ 20.15 上部高さ 2.56側面の高さ 17.73 幅 正面36.8 左側面37.1 右は木があるため測定不能格狭間 4面すべてにあり 輪郭幅 上3.1 下3.2 左4.1 右4.0 縁厚0.49花頭形 幅25.46 高さ10.5 縁厚0.48 脚高さ0.95 脚幅8.45この宝篋印塔の周辺には、いくつもの五輪塔の残欠があり、その数は、空風輪2・火輪5(うち1個は砂岩で質悪し)・水輪7・地輪3となります。宝篋印塔を中心に、少なくとも7基の五輪塔が建ち並んでいたようです。このほか、ここから数分山をくだった場所にも、同じような宝篋印塔が山肌の小空間に建っていたとのことですが、その後、崩してしまったため、みつけることはできませんでした。また、宝篋印塔のすぐ近くにある観音堂から、5分ほど山中にはいった場所にも、宝篋印塔が1基あります。現状は、猪がぶちあたったのか、崩れていましたが、最近まではきちんと建っていたそうです。相輪が見あたりませんが、最近まではあったそうですから、どこに転がっているのでしょう。笠は、上5段下2段で、軒幅は25.18センチ。塔身は、高さ13.61センチ、幅は11.65センチ(中間で計測)、梵字などは彫られていません。基礎は、繰型式となり、このあたりは、この形が一般的なのかもしれません。塔身を安定させるほぞ穴が掘られています。基礎の側面の高さは29.32センチ、幅は17.06センチ、比率は0.58となり、輪郭幅も、上2.244センチ、下2.88センチ、左4.154センチとなり、背面は素面となります。輪郭の比率は、上下は1.28、上と横は1.85、側面幅と輪郭横の比率は0.24となり、側面比や輪郭比から見ると、16世紀頃の基礎と考えられます。ただし16世紀末まではくだらず、戦国期でも前半の頃のものではないでしょうか。写真からわかるように、宝篋印塔の建つ斜面のすぐ下には、平地が広がり、近くに住むDさんによると、むかしここには「ドウコウボウ」(堂光坊)という大きな寺があったと伝え聞いているそうです。中央の木の奥(写真正面)にも、多数の五輪塔の残欠があるそうです(肉眼でも数基は確認できます)。寺の由緒は、まったくわかりませんが、さきほどの宝篋印塔や五輪塔などがある観音堂のところまでが寺の範囲になるのかもしれません。観音堂は、その寺の名残でしょう。観音堂の近くに建つ宝篋印塔が14世紀中頃のものと考えられますから、ドウコウボウは、南北朝時代には存在していたようです。そして、戦国期の宝篋印塔や五輪塔が残ることから、ドウコウボウは、この頃までは存続していたのでしょう。しかも、さきほどの宝篋印塔の大きさからみて、小早川一族クラスの保護を受けていた可能性が高そうです。小早川とともに栄え、小早川とともに歴史のなかから消えていった、まさに、まぼろしの寺といってよいでしょう。今回の調査では、五輪塔などの残欠は、草深い山中にあったため、立ち入ることができせんでした。冬になったら、本格的な調査を実施して、まぼろしの寺の解明に努めたいと思っています。
2007.06.08

寄せ集めながらも2基の五輪塔がある仁賀町西谷の満福寺跡(八坂神社)。五輪塔の残欠ならば、その周辺にも散見します。寺跡から300メートルほど北東にあるH家の裏には、火輪3、水輪3、空風輪1の残欠があります。少なくとも、3基の五輪塔があったわけで、それぞれの火輪の大きさは、軒幅24.31センチ、25.24センチ、23.34センチとなります。上記の写真の奥にみえる寄せ集め塔。水輪+火輪+水輪水輪+火輪満福寺跡のむかって左側の五輪塔(火輪幅26.66センチ)と同じころか、それ以降(戦国末~近世初頭)のものと推察されますが、やや小さくなります。造塔者は、満福寺跡の五輪塔の造塔者よりも、やや下のクラスではないでしょうか。満福寺跡から南西200メートルほどのS家の裏山にあるS家の墓所にも、寄せ集めの五輪塔が3基あります。写真のように、空風輪3、火輪4、水輪1、地輪1となり、少なくとも4基の五輪塔があったようです。H家の裏にある五輪塔とほぼ同じ、戦国末から近世初頭のころのものと思われますが、空風輪をはじめ、形があきらかに異なることから、同世代ではなく、数代にわたって造塔されたる五輪塔と考えられます。空風輪は、むかって右のものが古く、火輪も、右側(軒幅中央27.03センチ)、左側(幅23.4センチ)、中央(24.5センチ)の順になるようです。このうち右側の火輪は、この界隈では最大の火輪になりますので、H家裏の五輪塔の造塔者よりは、上のクラスと考えられます。しかし、満福寺跡の五輪塔(右側)ほど古いものではありませんから、満福寺跡の五輪塔の造塔者よりも新しく、おそらく戦国末期に台頭してきた家が建てたものでしょう。なお、左の火輪の下にも、もう1基火輪がありますが、摩滅が激しく、大きさも小型の火輪になります(火輪幅20.0センチ)測定データ(単位はセンチ)空風輪(右側) 全体の高さ21.0 空輪最大径13.97 風輪最大径13.97空風輪(中央) 全体の高さ33.9 風輪最大径19.7 空風輪(左側) 全体の高さ23.87 風輪最大径14.2火輪 右側 軒幅27.03(中央) 26.51(下端) 26.93(軒上端)高さ18.4 上端13.58 軒上端摩滅 ほぞ穴径7.76 右側 軒幅24.5(中央) 高さ21.8左側(上) 軒幅23.4(中央) 高さ14.7左側(下) 軒幅20.0(中央) 摩滅激しい水輪 最大径30.9地輪 幅(上端)28.9 高さ8.5中央の五輪塔の地輪にみえるものは自然石このほかS家から100メートルほど南西にあるK家の墓所にも五輪塔の残欠があります。写真ではわかりにくいのですが、空風輪1、火輪1、水輪2、地輪1の存在から、少なくとも、2基の五輪塔があったようです。このうち火輪(軒幅28.1センチ×22.2センチ)は、摩滅も激しく、左右の反りが強く、下端が水平であることなどからすると、比較的新しく、近世初頭のものでしょう。ここは墓所とはいえ、K家が離村しているため、参る人もいなくなり荒れています。離村者が増えると、このように祖先の墓も忘れ去れていくのです。いま村には、こうした忘れられた墓所が各地に見られます。村の衰退を物語るあかしです。 以上、満福寺跡とその周辺には、少なくとも13基の五輪塔があったことを確認できました。宝篋印塔は一基も確認できませんから、小早川の一族クラスのものは、いなかったのでしょう。また満福寺跡にある五輪塔がこのあたりでは比較的古いものになりますが、あとは戦国末以降のものとなります。こうした点から、満福寺跡にまつられている五輪塔の主が西谷にいた領主クラスのもので、他の五輪塔の主は、その領主に随う従者の家という想定もできるかもしれません。
2007.05.31

竹原市仁賀町の西谷に鎮座する八坂神社の境内には、かつて萬福寺というお寺がありました。萬福寺跡に残る薬師堂寺の由来など、詳しいことはわかりませんが、楽音寺(がくおんじ)に奉納された大般若経の奥書に「折手同竹原之庄、西谷萬福寺頼勢、如是各折本 于時永禄三年十月二日」とあり、小早川隆景の時代には存在したことが確認できます(楽音寺文書)。楽音寺は、三原市本郷町にある竹原小早川氏ゆかりの寺院で、14世紀後半から15世紀中頃の院主職(寺務一切をつかさどる僧侶)には、頼真、ついで頼春という名の僧侶がついていました。永禄3年(1560)に萬福寺の住職だった頼勢も、院主と同じ「頼」の字をつけることから、楽音寺ゆかりの僧侶だったのでしょう。だとすると、萬福寺は、楽音寺と同じ真言系の寺院だったようです。満福寺跡からみた仁賀の風景寛保3年(1743)の『賀茂郡仁賀差出帳』には、すでに「古寺跡、番僧も御座無く候、本尊薬師如来秘仏ニて御座候」とあり、江戸時代には無住となっています。江戸初期の慶長年中に焼失し、その後、無住となったという伝承もありますが、おそらく福島正則の入部を契機に廃寺となったのでしょう。本堂は、写真に写る薬師堂の画面左側の空き地に植えられている桜の木のあたりにあったと伝えられています。ただし、『賀茂郡仁賀差出帳』には、「堂のそうじ等、近所の百姓仕り候、村惣仏ニて御座候」ともあり、その後も村人の信仰を集めていました。トップの写真に写る仁王像も、文政10年(1827)3月吉日に建てられたものです。現在は、薬師堂だけが残っていますが、仏さまは、村内の別の場所に移してお守りしています。境内には、権現社と八坂神社が鎮座していますが、これは『賀茂郡仁賀差出帳』に記される「権現」と「牛王」の「かやぶき」のお社にあたるものでしょう。八坂神社境内の近くには、いま2基の五輪塔が祀られています。地元では、小早川氏にさきだって、鎌倉初期からこの地を支配していた後藤兵衛実元の末裔、四代篠原伯耆守元次、五代篠原安芸守の墓と伝えられています(安楽寺旧記)。五輪塔の年代は、鎌倉時代までさかのぼりませんから、この伝承は、のちの創作にすぎません。しかし、初代にあたる後藤兵衛とその子、後藤備後三郎実金の墓は、東野の安楽寺にあったという伝承とあわせると、前回の記事でも指摘したように、仁賀と東野の深いむすびつきをうかがわせる話として興味をひきます。これは、むかって右側の五輪塔です。水輪を二つ重ね、さらに火輪の上にも水輪を積み上げています。水輪は、左側の五輪塔のものを含めて4個残ることから、少なくともここには、4基の五輪塔があったことになります。左側の五輪塔も、すべてが揃うといっても、おそらく異なる五輪の各部をもって組み上げたものでしょう。火輪の形状からみて、いずれも戦国期か、それ以降のものとなりますが、左側の火輪(軒幅26.7センチ)が、火輪の下端をほぼ水平とし、軒の端を反りあげるのに対し、右の火輪(軒幅23.8センチ)は、軒の反りもゆるく、左の火輪よりも古いかたちとなります。戦国期の火輪だとしても、16世紀前半か、あるいは15世紀までさかのぼるかもしれません。火輪(右側)火輪(左側)なお、この周辺には、宝篋印塔は、残欠をふくめて確認できません。このことからすると、この寺は、小早川一族ではなく、その家臣クラスのものによって維持されていたと考えられます。測定データ(単位はセンチ)空風輪1 全体の高さ25.8空輪 最大径19.0 下端径16.1風輪 最大径20.4 ほぞ径5.0火輪2 むかって左 長さ(軒)26.66 高さ17.8 上端10.717 軒厚4.982 ほぞ穴径5.982 むかって右 長さ(軒上端)23.737 (軒中央)23.794 (軒下端)23.812 高さ13.164 上端10.383 軒厚3.955水輪 むかって左 最大径31.1 むかって右 下から 最大径28.5 30.1 26.6地輪 長さ26.838 高さ20.8
2007.03.24

GoogleEarthの新ヴァージョンに、竹原小早川氏の居城である木村城周辺の衛星写真が加わりました。衛星写真のターゲットは広島空港ですが、おかげで竹原小早川氏の本拠地周辺や沼田小早川氏の本拠地周辺の地形が手にとるようにわかります(地形どころか、拡大すれば1軒ごとの家のかたちまですべてわかります)。さっそくGoogleEarthを使って、竹原小早川氏の本拠である木村城周辺を空からのぞいてみましょう。画面の東側に木村城、その北側に小早川氏の氏神である八幡社(僧侶〈そうず〉八幡宮)、さらにその北側、国道二号線沿いに氏寺の法浄寺跡があります。小早川氏の館跡は、はっきりしませんが、「谷から広がる中世」(『専修史学』32号・2001年)のなかで詳細に論じたように、城の西側にある手島屋敷とみてほぼ間違いないでしょう。木村城からみると、画面右から2本目の道路のつきあたり、右手側にみえる大きなお屋敷が手島屋敷になります。また、画面の左手にみえる谷が青田谷です。いま一度、衛星写真を見ると、木村城の北側にも、茶臼山〈ちゃうすやま〉という城跡があります。木村城ほどの規模ではありませんが(主郭は17メートル四方)、東西の道と南北の道を押さえる位置にあり、小早川一族か、重臣クラスの城ではないかと考えています。木村城の西側は、賀茂川が流れていますが、この川は、北から南へと流れ、やがて瀬戸内海に注ぎます。その源流は、画面左側の萬福寺跡の印がある西谷(にしたに)地区のさらに南側となり、西谷を蛇行しながら、やがて北側を東西に走る国道2号線を横切り、山につきあたると、いっきに東に流れをかえて、手島屋敷の背後の山(本城山)にそって流れ、茶臼山城の南側あたりで、大きくカーブを描きながら、木村城下と想定される東野(ひがしの)方面に流れてきます。このため、いまも、東野から西谷へむかうには、この賀茂川に沿って作られた道路を使い、大きくUの字を描くように迂回して行きます。しかし、賀茂川が西谷から山にぶつかって東に角度をかえるあたりは、むかしは川の氾濫源と推察され、足場も悪かったことでしょう。橋ができる前は、川には石が置かれて、それを渡って、東西に走る山陽道に出たそうです。事実、この近くにある簡保の宿の温泉を掘るためにボーリングをしたところ、一番下に岩盤があり、その上の地層には何度も洪水をうけた形跡がみられたといいます。したがって、道路が整備される以前は、たがいに山の道―つまり、城のある東野側からは、青田谷や、賀茂神社の南側にある柏野(かいの)の谷を通って、交流をもっていたようです。しかも、その関係は、深いものがありました。この土地は、中世、賀茂社の荘園「竹原荘」だったことから、賀茂神社が祀られていますが、いま東野にある賀茂神社の氏子は、西谷側にも広がっていました。また、賀茂神社の境内に祀られている八幡宮も、もとは、西谷にあったという伝承が『国郡志御用ニ付下しらべ書出帳 賀茂郡竹原東野村』(文政2年)に記載されています。「先年ハ、大明神ハ御山東ノ谷、八幡宮、西の谷ニ有之、然ルニ元和六申年五月廿日より廿一日、大洪水ニ山抜、両社共流失、依而再興、両社一宇ニ相成申候」これによると、元和6年(1620)5月21日から22日にかけての大雨で山が崩れ、東の谷(柏野の谷)の賀茂社と、西の谷の八幡宮が鎮座する山がともに崩れたため、八幡宮を東の谷に勧請して賀茂社といっしょに再興したというのです。この八幡宮があったと伝えられている場所は、画面からわかるように、賀茂社の南側にある谷をのぼって峠をこえ、西谷側に出た正面の山あたり、イモガザコとよばれる場所になります。その西谷の風景です。東野の柏野の谷から続く道は、画面右手にみえる山のむこうがわにおりてきます。その山すそと対置するようにみえる左手の山裾周辺が、むかし八幡社があった場所と伝えられています。このほか、『安楽寺旧記』(成立年未詳)によると、賀茂社は、「都之鴨より御勧請、当所へつきの時、芋カ之大石の上に御腰休、夫より東ノ谷へ御遷宮在候」という伝承もあったようです。これによると、賀茂社そのものも、西谷から勧請したということのようですが、このあたりはどこまで真実を伝えているのか、はっきりしません。ただ、こうした伝承がうまれるところに、両者の深い結びつきを想定できます。東の谷、西の谷という呼び方も、両方の谷が密接にむすびついていたことに由来するのでしょう。西谷に住む古老のかたによると、西谷の北側(賀茂川の氾濫源地域)の村との交流はあまりないが、東野との交流はあるといいます。いまならば、山の反対側どうしの村との交流は、考えにくいことですが、むかしは、山の道で結ばれた深いつながりがあったのです。そして、この西谷を通る道は、さらに画面の南方向に進むと、山越えをして、安芸国の中心地、西条に抜けました。西条は、戦国時代、山口の大内氏が安芸支配のために築いた鏡山城があり、大内氏の重要拠点でした。こうした点からすると、大内方として行動する小早川氏にとって、木村城から柏野の谷を抜けて西谷に出るこの道は、西条に通じる重要な道だったのではないでしょうか。
2007.01.15

謹賀新年本年も「中世武士団をあるく」 よろしくお願いいたします昨年は仕事に忙殺され、秋から更新がとまってしまいました。最大の理由がこの本の執筆です。『戦国争乱をいきる 大名・村、そして女たち』さまざまなアクシデントがありましたが、昨年末、なんとか無事に世に送り出すことができました。2005年に放送されたNHKカルチャーアワー「戦国争乱の群像」のために書き下ろしたガイドブックがベースです。このため、章立てをはじめ、基本的なところはかわっていませんが、大幅に内容を追加し、新たな研究成果もとりいれたため、ページ数にして、およそ1.5倍に増えています。おかげさまで販売状況も堅調に推移しており、ガイドブックよりもさらにわかりやすくなったという声も届いています。内容については、編集者のかたがうまくまとめてくださった本の紹介文を掲載しましょう。戦国時代は「力量」の時代でもあった。室町幕府を中心とした秩序が崩壊し、各地に割拠した群雄は、お互いに覇権をきそいあった。しかし、戦国時代の主役は英雄たちだけではなかった。崩れた中央政府のかわりに、地方が力を得て、新しい秩序を形成する時代でもあった。大名を支える家臣や村の人々や女たちもまた時代の主役であり、西国への幹線経路としての瀬戸内海を中心に活躍した海賊等も時代の担い手であった。第1章 戦国大名の実像 力量の時代 大名への道 君は船、臣は水にて候第2章 大名の戦場・村人の戦場 戦場の掠奪 生きるための戦場 雑兵に支えられた軍団 豊饒と平和を祈る 戦う村第3章 父の偉業・子の重圧 父の期待 重圧の日々 未来を托す「三本の矢」 隆元の願い第4章 素顔の戦国武将 愛しているのは源助だけだ―武田信玄 大酒を飲むな―毛利元就 聞きなさい、父の仕合せな物語を―吉川経家第5章 乱世を生きる女たち 夫を改める妻 妻の力・母の力 猛き女たち 第6章 海賊衆の世界 海の秩序を守る海賊 台頭する三島村上氏 潮に守られた海の城 能島の海第7章 秀吉襲来 大名の危機管理 村の危機管理内容は、大名の戦国、村の戦国、女たちの戦国、そして海賊衆の戦国と、多岐にわたりますが、飢饉・戦乱・疫病が毎年のように襲う戦国時代、その過酷な時代を人々はどう生きたのか、これがこの本をつらぬく視点です。戦国時代は大好きだけど研究者の書いた本は難しくて読まないというかた歴史小説は好きだが研究者の本はどうも…と思われているかたさらにはゲームで戦国時代にはまっているかたまた、手軽に戦国社会の実像を読み解きたいかたこうした方々を念頭に、できるだけわかりやすい記述を心がけました。小説やテレビとは異なる戦国社会の実像、一度、体験してみませんか。NHKライブラリー(NHK出版)の一冊定価は970円+税となりますなお286頁の7行目に誤植がひとつあります。ここは、「に達いなかった」ではなく、「に違いなかった」になります。お手数ですが、訂正のうえご一読ください。「中世武士団をあるく 安芸小早川領の復元」もまもなく再開します。
2007.01.07

講演会のお知らせです今年も、夏の調査にあわせて、その成果を市民のかたに還元する講演会をおこないます。今年は、竹原市内に多く残る石塔(宝篋印塔・五輪塔)を通して、地域の歴史を復元していく手がかりをさぐります。竹原市民に限らず、どなたでもご参加できますので、ご関心のあるかたは、ぜひいらしてください。当日のご参加も可能です。日時 2006年9月10日 日曜日 午後1時より 約2時間(若干延長あり)場所 広島県竹原市 竹原勤労青少年ホール 3階(市役所裏)主催 竹原市郷土文化研究会後援 竹原市教育委員会入場無料(ただし資料代の材料費として200円かかります)以下は、講演会のパンフレットに掲載した紹介文です小早川と竹原の歴史をさぐる 第3回『石塔から読みとく中世の竹原』竹原は、安芸国の中世武士団として名高い小早川氏のふるさとです。城は新庄町にあり、隣接する東野町も城下の中心でした。いまも市内を歩くと、随所に中世の人々が生きたあかしをみつけることができます。なかでも宝篋印塔や五輪塔の数は、全国屈指! その多くは小早川氏やその家臣が建てた供養塔あるは墓塔と考えられますが、歴史の資料としても竹原の大切な財産です。そこで今回は、市内各地に残る宝篋印塔や五輪塔の時代的な特徴やその見方を紹介し、石塔を通して中世の竹原を復元してみましょう。在屋と木谷をむすぶ歴史の道についても紹介します。ふだん見慣れた石塔を通して、中世という時代の姿を思い描いてみませんか。
2006.09.03

戦国時代、「日本最大の海賊」と呼ばれた村上武吉。その本拠は、芸予諸島のほぼ中央に位置する周囲800メートルほどの能島になります。島全体が城として築かれ、早い潮流と上陸地点の少なさから、高い防禦性を誇っていました。しかし日常生活をおこなう上で欠かすことのできない飲料水は、300メートルほど対岸の大島に頼っていました。大島には、集落も形成され、寺や墓も大島にありました。その大島に、いまも土地の人が「コウガ屋敷」と呼ぶ一画があります(宮窪小学校の後方一帯、現在の海岸線より約500メートル内陸)。コウガの意味はわかりませんが、村上氏ゆかりの場所と伝えられ、2004年の発掘調査でも、16世紀後半から17世紀初頭にかけての瓦などが大量に出土しています(『瀬戸内海西部閉鎖海域における海民文化形成史の考古学的研究1』)。コウガ屋敷の後方(西側)には城跡もあり、その南側には「カジヤダ」(鍛冶屋田)の地名も残ります。また元禄2年(1689)の検地帳には、「ばんじよ給」(番匠給)の地名も記載され(『しまなみ水軍浪漫のみち文化財報告書』)、職人集団の存在をうかがわせます。また、カジヤダの近く、コウガ屋敷の南西にある証明寺跡には、14世紀中頃とみられる宝篋印塔が残り、北東の海南寺の墓地にある15世紀頃のものとみられる宝篋印塔も、もとは証明寺にあったものを移したものと言われています(移転に関しては『宮窪町誌』298頁による)。こうした点からすると、「コウガ屋敷」から「城山」一帯に、領主の空間がひろがり、その南西に信仰の空間が存在したのではないでしょうか。能島村上氏の日常の生活空間も、能島ではなく、対岸の大島にあった可能性が高いと考えられます。証明寺跡より、城跡(画面左側の家が建つあたりに見える小丘陵)・コウガ屋敷(画面右端の茶色い屋根の建物から道路付近)・海南寺(コウガ屋敷の奥、右の電柱のすぐ右脇に見える屋根)・瀬戸内海をのぞむ
2006.08.03

このところ、講義・講演・原稿執筆と過密スケジュールが続き、ブログの更新がとまっています。そんななか、石塔の調査は、順調に進んでいます。春には、尾道・竹原・安芸津・大島(今治市)地区を中心に調査をおこない、いくつかの新しい発見もありました。なかでも、竹原小早川氏の本拠となる竹原市新庄・東野地区から、在屋の谷を経由し、外港として機能した安芸津へのルート(歴史の道)解明に、重要な手かがりとなる「武士の墓」と呼ばれる五輪塔群や、小早川家の家臣磯兼の屋敷跡とみられる場所を確認できたことは、大きな成果のひとつでした。その成果の一部は、6月8日の中国新聞でも大きく取り上げられています。奥在屋の山腹にある「武士の墓」とよばれている五輪塔群の現状歴史の道を解明するうえで、大きな手かがりとなる今年の夏(9月上旬)も、これまでの成果を踏まえて、小早川領内の石塔調査を予定しています。9月10日には、竹原市内の会場にて「石塔から読みとく中世の竹原」(仮題)という講演も予定しています。お近くのかたは、ぜひご参加ください。会場・時間などは、市の広報にも掲載される予定ですが、このブログでもあらためてお知らせします。ただいま『戦国争乱を生きる』という単行本を執筆中です(さきに刊行された『戦国争乱の群像』の増補・改訂版です)。当初の原稿締切り日を大幅にすぎているため、その作業にもうしばらくは没頭しなければなりません。この仕事が一段落したら、このブログも再開しますので、いましばらくお待ちくださるようお願いいたします。
2006.07.17

いま忠海に残る石塔(宝篋印塔・五輪塔)のほとんどは、その比率や特徴から、16世紀以降に建立されたものと考えられます。このため、忠海の発展も、小早川隆景の時代、賀儀城に乃美宗勝が配置され、軍港としての機能を持つようになってからだと考えられます。ところが、地元で石塔の調査を続けているOさんのグループが、浄居寺において比較的大きな五輪塔の火輪をみつけました。五輪塔を構成する地輪・水輪・空風輪の部材は確認できませんが、火輪は、このあたりでも立派なつくりをしています。大きさは、高さ30.6センチ、軒幅上端46.7センチ、軒幅下端45.6センチ、軒厚右端11.7センチ(左端は上部破損)、軒厚中央8.6センチ、火輪上部幅18.5センチあります。このあたりの五輪塔としては、堂々たる造りをしており、四面に五輪の火をあらわす「ラ」の梵字があります。軒の反り具合も、なだらかに反るタイプで、室町期のものと見てまちがいないでしょう。これほどの五輪塔をいったい誰が建てたのでしょうか。詳しくはわかりませんが、小早川家一族は宝篋印塔を建てますから、造立者は、小早川関係者ではなさそうです。いずれにせよ、この五輪塔は、忠海が乃美宗勝以前に港を押さえる有力武士がいたことを示唆するものとして、極めて基調な歴史資料です。きちんとした保存がのぞまれます。なお、浄居寺の境内には、このほかにも、石塔の残欠が散在しています。いまなお調査中ですが、測定済みのデータは、以下の通りです。〔宝篋印塔〕相輪2個。うち1個の相輪データ、4段目まで現存。現状の高さ36.0センチ。笠3個。うち1個の笠のデータ、上4段下2段、全体の高さ22.5センチ、軒幅24.6センチ、隅飾左右間隔8.0センチ、上部1・2段目は内側に食い込む。基礎1個。〔五輪塔〕火輪1個。高さ17.8センチ、軒幅28.1センチ。水輪4個。うちG1の最大径29.9センチ。
2006.03.21

瀬戸内海に面した竹原市の忠海(ただのうみ)は、小早川隆景の時代、軍港が置かれ、隆景の重臣として警固衆(水軍)を指揮した乃美宗勝(のみむねかつ)の本拠地でした。その乃美宗勝の墓と伝える宝篋印塔が忠海の勝運寺(しょううんじ)にあります。海に向かって立つこの塔は、相輪の八輪目から上を欠損するほかは、各部を備え、基礎の形式は、二段式になります。基礎の高さは、39.6センチ、幅は50.9センチあり、これまで確認した基礎のなかでも、竹原市内では4番目、隣接市町村を含めても9番目の大きさとなります。しかし、作りは簡素で、輪郭と格狭間は一面のみで、ほかは素面になります。こうした略式は、16世紀末以降の小型塔によくみられますが、幅が40センチ近くもある基礎では珍しいでしょう。各部の比率をみると、高さと側面幅の比率は0.78、側面の縦横比率は0.60、輪郭の上下の幅の比率は1.4、上の輪郭幅と横の輪郭幅の比率は2.4となり、16世紀後半以降の数値を示します。また、基礎上部の下段側線も、横の輪郭の内側線とは一致しません。元亀元年(1570)に勝運寺を創建したと伝える乃美宗勝は、天正20年(1592)9月23日に筑前国で没したあと、遺髪を勝運寺に埋葬したと伝えられています。塔の比率や特徴は、その時代の特徴を示していますから、寺伝通り、この宝篋印塔は乃美宗勝の供養塔として問題はないでしょう。このほか勝運寺では、宝篋印塔の基礎4基、塔身2基、笠5基、五輪塔の地輪1基、水輪1基、火輪2基、空風輪1基を確認しています。いずれも16世紀以降の石塔で、15世紀にまでさかのぼる石塔はなさそうです。このことから、勝運寺が乃美宗勝によって建立されたとする寺伝も、ほぼ、信頼してよさそうです。石塔データ 伝乃美宗勝の墓(宝篋印塔)〔基礎〕全体の高さ39.6センチ 側面の高さ30.5センチ 幅50.9センチ階段部分の全体の高さ 9.1センチ 一段目 高さ4.2センチ 幅41.0センチ 二段目 高さ4.4センチ格狭間 1面のみ 花頭形中心から端まで17.0センチ 同中心から内側の弧まで7.2センチ縁厚1.6センチ 脚高3.3センチ 脚幅12.7センチ輪郭 上幅2.5センチ 下幅3.4センチ 左幅5.7センチ 右幅6.0センチ(上部)6.4センチ(下部) 輪郭縁厚0.7センチ〔塔身〕高さ27.9センチ(上下をセメントで固定するため概算値) 上端幅27.9センチ〔笠〕形状 上6段下2段全体の高さ47.9センチ軒幅51.6センチ(正面) 軒厚6.9センチ 露盤幅23.1センチ隅飾 高さ19.4センチ、左右の間隔17.9センチ 二弧輪郭付 内部は素面 このほかの宝篋印塔の基礎基礎2 反花式 高さは土中にあり計測不可 幅31.5センチ基礎3 高さはコンクリートで埋まり計測不可 幅30.7センチ基礎4 二段式 高さ25.0センチ 幅40.9センチ基礎5 反花式 高さ17.0センチ 高さ26.0センチ
2006.03.02

小早川の領域には、たいへん多くの宝篋印塔や五輪塔が残存しています。このうちの宝篋印塔は小早川家の当主や一族、五輪塔はその家臣クラスのものが建てた供養塔、あるいは墓碑と考えられます。ところが、小早川の本拠となる高山城下には、なぜか、宝篋印塔や五輪塔がほとんどありません。それは、なぜなのでしょうか。小早川家は、氏寺である米山寺に歴代の供養塔があるため、本拠には建てなかったと考えることも可能です。しかし、おなじ小早川でも、竹原の小早川家の場合、城下には、氏寺の法浄寺の跡地以外にも、多数の宝篋印塔・五輪塔が散在しています。もしかしたら、いまだ山の中に埋もれているのかもしれませんが、それにしても少なすぎます。あるいは、小早川隆景が三原に拠点を移したとき、高山城下にあった寺も三原に移転していますから、そのとき石塔類も一緒に移したのかもしれません。しかし、宝篋印塔だけではなく、五輪塔まで移したとなると、かなりの数に及んだはずです。また、三原に移転した竹原の法浄寺の場合、跡地には多数の石塔が残されています。このため、石塔まで移転したとは考えにくい点もあります。結局、高山城下になぜ石塔が少ないのか、この問題は、いまだに解けない大きな謎なのです。そんななか、高山城下に残る数少ない石塔のひとつがこの石塔です。高山城下の西側、新幹線の線路近くに鎮座する荒神さまの近く(M氏宅脇)にあり、「片山家祖先足助四郎三郎」の墓と言われています。もちろん「足助」の墓という話は、後世につくられた伝承にすぎません。 下から、宝篋印塔の基礎らしき石材、五輪塔の地輪らしき石材、五輪塔の水輪、宝篋印塔の笠、五輪塔の空風輪を重ねた、いわゆる寄せ集めの石塔で、各部分はセメントで接合されています。このうち基礎は、幅が37.0センチあり、大きさだけを見れば、小早川一族クラスの基礎になりますが、セメントを塗り固めているため、反花や格狭間が確認できず、詳細はわかりません。笠は、上6段下2段式で、全体の高さは29.5センチ、軒幅は33.9センチとなり、その比率は0.87となります。また、隅飾の下端幅と軒幅の比率は0.32、笠の上部最上段と下部最下段の比率は0.7になります。こうした各部の比率や、各段の側面のうち、1・2段目を内側に切ること、隅飾の下の弧をほぼ直角に造ることなどからすると、16世紀後半以降の笠とみてよいでしょう。この場所は、高山城に登る道のひとつがあったと言われています。付近には、寺院か、墓地があったのでしょうか。おそらくこの石塔は、このあたりに散在していた宝篋印塔や五輪塔の残欠を重ねてひとつの「墓」として作りあげたもので、まだ周囲の山のなかには石塔の残欠が埋もれているのかもしれません。高山城周辺では、このほかにも、先日紹介した具住神社や高山城内において宝篋印塔の残欠を確認しています。今後、より精査な調査を実施して所在確認を進めていく予定です。地元のかたからの新たな情報もお待ちしています。石塔データ〔宝篋印塔の基礎〕全体の高さ コンクリートで接合しているため計測不可側面 現状の高さは16.8センチ 幅37.0センチ〔五輪塔の地輪らしき石材〕高さ18.8センチ 幅 上端28.0センチ 下端 摩耗のため測定不可〔五輪塔水輪〕高さ16.7センチ 直径25.8センチ〔宝篋印塔の笠〕形状 上6段下2段全体の高さ29.5センチ軒幅 正面33.6センチ 左側面32.8センチ 右側面33.9センチ 軒厚3.7センチ上部各段の高さ 上から 2.9、2.6、2.6、2.7、2.6、2.9センチ最上段の側面幅 上端15.7センチ 下端15.9センチ隅飾 高さ13.0センチ 下端幅10.6センチ 輪郭幅1.2センチ 左右の間隔11.1センチ軒下 上段 高さ3.2センチ 幅 上端27.8センチ 下端27.8センチ 下段 高さ2.8センチ 幅 上端22.6センチ 下端22.3センチ
2006.02.24

小学校をあとにして、高山城に向かう道をのぼりましょう。いまは舗装されていますが、かなりの急坂です。しばらく登ると、土肥谷にある愛宕神社がみえてきました。この神社の境内からは、眼下に、小早川家の御館跡と推察される本郷小学校や本郷の町並みをのぞめます。画面の下半分に広場が見えますが、ここが小学校の校庭です。愛宕神社は、小学校(御館跡推定地)からみて、ちょうど西北に鎮座しています。古くから西北(乾の方角)は、魂風(たまかぜ)の吹く方角とされ、祖先の霊が行き来する特別な方角とされてきました。このため、村の共同墓地を西北の村境につくることもよくおこなわれました。小早川家の御館跡から見て、魂風の吹く西北に鎮座するこの神社も、おそらくは御館を守護する神社として信仰されてきたのでしょう。さらに言えば、先日紹介した小学校の東側にある具住神社は、もとは土肥谷にあり、小早川家に崇敬されたと伝えられています。もしかすると、この具住神社こそ、御館の西北を守護する神社として、この愛宕神社の場所に鎮座していたのかもしれません。この場所からすぐ後ろをふりかえると、高山城は、もう目の前です。画面の左方向には、小早川隆景が新たに築いた雄高山城もみえます。このあたりは、もともとは、谷が広がっていたそうです。いまは新興住宅地となって、古くからの地形は大きくかわってしまいました。このため、城の直下がどのような地形になっていたのか、よくわかりません。このあたりを写した古い写真をお持ちのかたがいらしたら、ぜひご連絡ください。
2006.02.17

本郷小学校は、校庭からみえる校舎の後ろに、もうひとつ新しい校舎があります。その後ろの校舎を、具住神社の丘から見たのが、この写真です。校舎のすぐ後ろが急斜面になっている様子がわかります。その場所まで、近づいて見ましょう。左側に写る校舎が、新しい校舎ですが、ここは、もともとは山の斜面でした。その斜面を削って校舎を建てたため、裏手の山が、このような急傾斜になったそうです。写真のなかで元校長先生が指を指しています。このあたりから、工事中にコップ1杯程度の黒米(玄米)が出土したといいます。ただし、この黒米がいつの時代のものかは、わかりません。その斜面に、いま小さな祠が鎮座しています。すでに名前も忘れられている祠ですが、文政2年の「国郡志御用ニ付下調書出帳」には、「土井上 籠守(かごもり)大明神」の名前が記載されています。「土井」の上という位置からみて、これが籠守大明神に相当するのでしょう。大明神という名前にしては、あまりに小さな祠です。もともとは、もう少し斜面の下にあったものを、校舎増築のときに、いまの位置にあげたそうです。もしかすると、御館の鎮守だったのかもしれません。
2006.02.11

踏切を渡って、小早川家の御館跡とみられる本郷小学校の敷地にむかいましょう。写真からもわかるように、小学校は、道路よりも、少し高い位置にあります。大正末年頃の地籍図によると、小学校の前面(南側)には、細長い水田と畑が並行している様子が読み取れます。館の前面には、堀と土塁が築かれていたのでしょう。本郷小学校の敷地の全景です。前方にある建物が校舎、その後方に高山城、校舎の右手(東側)にある建物は、体育館です。体育館の後方に、木が茂った丘がみえますが、ここには具住(ぐじゅう)神社が鎮座しています。文政2年の「国郡志御用ニ付下調書出帳」によれば、具住神社は「土井東」にあると明記されています。この点から、本郷小学校の敷地が「土居」(土井)に相当するとみて間違いないでしょう。地籍図によると、撮影地点から具住神社の丘まで、校庭を斜めに横切るように参道が続いています。1枚目の写真に見える小学校にはいる道は、参道の入口のようです。その手前、右側のY氏宅の前には、灯籠も設置されていたといいます。具住神社は、慶長年間に土肥谷からこの場所に移されたと伝えられますから(明治35年由緒書)、この参道も、そのときに造られたものでしょう。神社の講は、小学校の周辺に住むおよそ13軒によって構成されていますが、かつては、本郷町の町のほうからも、お詣りにきたそうです。大正末年頃は、この参道の両脇に、畑(一部水田)が広がっていました。さらにそれ以前、室町・戦国時代の頃は、ここに小早川家の屋敷が建ち並んでいたのでしょう。当時の有力な武家の屋敷は、京都の足利将軍邸をモデルにつくられていました。その構成は、正門をはいると、広い空間があり、その奥に、儀式などを執り行う主殿を中心とした屋敷群、その奥に主人が住む日常の屋敷群が建ち並ぶというものでした。小早川家は、幕府奉公衆の家柄ですから、その屋敷も将軍邸をモデルにしてつくられていたのでしょう。敷地(堀跡を含む)の大きさは、地籍図から測定すると、東西約90メートル、南北約120メートルほどになります。具住神社に、もう少し近づいてみましょう。体育館のすぐ後方、具住神社の丘のすぐ下にも、石垣で固めた平壇があります。以前は、ここに民家が建っていましたが、もともとは、具住神社の丘とあわせて、館を防御するための上下二段の郭が設けられていたのでしょう。具住神社は、この小学校の敷地の脇から、のぼっていきます。いまは、小さなお堂があるだけですが、宝篋印塔を礎石に転用しています。このあたりは、調査が不十分なため、あらためて歩いてみたいと考えています。なお、小学校の敷地内の調査は、本郷町教育委員会の許可を得て、元本郷小学校の校長先生にもご同行いただいて実施しています。また、小早川家の御館跡に関しては、「石塔と景観の語る中世ー安芸国小早川領を行く3」(『専修史学』34号、2003年)のなかでも詳しく紹介しています。関心のあるかたは、参考にしてください
2006.02.09

あけましておめでとうございます朝日に染まる瀬戸内海昨年の大晦日、無線LANのモデム故障という突然のアクシデントにみまわれ、新年のご挨拶が遅れてしまいました。インターネットの世界は、便利な反面、ちょっとしたアクシデントで、すべての機能が止まってしまう怖さがありますね。現代社会がもつ大きな弱点のようです。今年は、小早川領域はもちろん、平賀領域にまで石塔の調査範囲を拡大し、地域による相違性なども検討したいと思っています。このため、3月末から4月上旬にかけて、竹原市(東野・忠海)と東広島市(安芸津)、9月上旬に、竹原市・三原市(大和)・東広島市(河内)を中心とした調査を予定しています。今年もよろしくお願いいたします。
2006.01.05

小早川氏の御館跡と考えられる本郷小学校の周辺を、もう少し詳しく紹介しましょう。先日も紹介したように、画面の中央に写る学校が本郷小学校、その後方にどっしりと構える山が、小早川氏の本拠となった高山城です。画面では少しわかりにくいのですが、山陽本線の手前にも、線路に並行する道路があります。その道を、白い屋根のお宅のところで左折すると、200メートルほどで、西国街道沿いに形成された本郷の町の中心部にでます。その左折部分のところで、線路を背にして写したのが、この写真です。写真ではわかりにくいかもしれませんが、道は、西国街道に向かってゆるやかにくだっています。西国街道につきあたった左側には、恵美須神社(江戸時代の名称は「胡堂」)が鎮座し、この界隈が町の中心であったことをいまに伝えています。ただし、中世の町も、江戸時代と同じ位置にあったのか、このあたりは少し慎重に考えておく必要があります。文政2年(1819年)の下調書出帳によると、「町裏 祇園社」とあり、町の裏側に祇園社があったことが記されています。この祗園社がどこにあったのか、いまはわからないのですが、中世の町場に祀られることが多い祇園社が江戸時代の町の裏側にあったということは、中世の町と江戸時代の町は、少しずれていたのかもしれません。とうぜん西国街道も、いまとは異なる道筋を通っていたのでしょう。ただし、中世の町が、江戸時代の町と異なる場所に形成されていたとしても、山陽本線の線路より南側の低地にあったことは、間違いありません。このように、中世後期の本郷は、西国街道沿いに町の空間、その少し高台に領主の空間が形成されていたのです。いま町場から小学校方面に向かうには、一度、線路の手前で左にまがり、そのすぐ先の踏切を渡らなければなりません。その踏切のところで撮影したのが、この写真です。右手に小学校が見えます。踏切を渡って、右にまがったところに正門、直進すると、道は次第に傾斜を強めながら、高山城のある城山へと続きます。しかし、大正末年頃の地籍図を見ると、町場から小学校に向かう本来の道は、線路を斜めに横断して左手方向にすすんでいました。そして、この小学校の左脇の道に通じていたのです。こうしたことからすると、町(恵美須神社脇)から小学校へと北上するこの道は、中世の町場と御館とを南北にむすぶ重要な道として、小早川の時代から使われてきた、歴史ある道だと考えられます。
2005.12.11

昨夜遅く、『中世武士団を歩く』へのアクセス件数が1万件を突破しました。スタートから5ヶ月と2週間、国から支給される科学研究費の成果を、できるだけ多くのかたに、わかりやすく伝えようとはじめたブログですが、当初は、このような専門的なブログにどれだけの方が関心をもっていただけるのか、不安でした。ところが予想以上に多くの方に愛され、ブログを通して新しい知人もできました。このところ更新が遅れがちですが、これからも石塔を中心に、小早川氏に関する最新の成果を発表していきます。また、地元の皆様からの情報もお待ちしています。これからもよろしくお願いいたします。今日は、1万件を記念して、このブログの主役である、小早川氏が築いた高山城を紹介しましょう。 標高は190メートルあり、東西に並行する二つの尾根を中心に郭が配置されています。井戸も7か所確認されており、ところどころに小さな石垣も築かれています。城跡からは、かつての沼田荘(ぬたのしょう)を一望できるほか、西から南にかけて、沼田川が瀬戸内海に向かって流れ、眼下を山陽道(西国街道)が走ります。このように、高山城は、交通の要衝に築かれた山城でした。その築城は、鎌倉時代の小早川茂平の時代と伝えられていますが、城の存在を確認できるのは、文和4年(1355)の貞平の時代からになります。ただし、この頃の高山城は、軍事上の目的から臨時に築かれたもので、恒常的な施設をともなう城ではなかったようです。その後、応仁の乱がはじまると、竹原の小早川弘景を主力とする西軍方の国人衆に包囲され、「高山城合戦」が繰り広げられます。このとき、京都にいた小早川熈平は、応仁2年(1468)、城に残った家臣に、夜間の「城戸」の開門を禁止させ、昼も開閉には用心するよう申し付けています。恒常的な城としての高山城が築かれるのは、この頃からだと考えられます。画面の手前に、本郷小学校が見えますが、このあたりは、江戸時代は「土居」と呼ばれていました。土居という地名は、館跡を示すことが多く、いまでも小学校から奥の谷一帯を土肥谷とよんでいます。大正末年頃の地籍図を見ると、「土居」の一帯から、方形の敷地跡や堀跡とみられる細長い地割が読み取れます。地籍図から判断すると、北から西を堀と土塁で区画し、南に堀を設け、東は丘陵で防御された空間だったようです。地籍図から割り出した敷地の大きさは、西側の堀跡も含めて東西約90メートル、北の横堀跡から南の敷地(水田手前)までが南北約120メートルほどで、内部の敷地は、東西63メートル、南北96メートルほどになります。小早川氏の御館の所在地は、いまだに特定されていませんが、これまでの調査のデータに基づけば、この場所が小早川氏の御館跡だと考えられます。小早川氏は、小学校の敷地の横の道を通って、城山に登っていたのでしょう。いまその途中に愛宕社がありますが、ここからは眼下に「土居」をのぞめます。そこは「土居」の西北に位置することから、もともとは御館を守護する神社として鎮座していたのでしょう。さらに想像をめぐらすならば、いま小学校の東に鎮座する具住(ぐじゅう)神社は、もともとは土肥谷にあったものが、現在の土地(神原谷)に遷座したものといわれています(明治35年由緒調査書)。具住神社は、小早川家の崇敬を集めたと伝えられていますから、もともとは、この愛宕社の場所にあり、御館を守護していたのかもしれません。なお、小早川氏の御館については、「石塔と景観の語る中世ー安芸国小早川領を行く3」(『専修史学』34号)のなかで検討しています。詳細は、こちらをご参照ください。
2005.11.19

龍泉寺にある「応安八年」(1375年)の宝篋印塔は、『三原市の石造物』によると、基礎の上部中央に、径10.1センチ、深さ7.1センチの円筒形の穴がうがたれています。いま、基礎の上には別の基礎や笠が積まれているため、この穴を確認することはできませんでしたが、報告書も指摘するように、大きさから見て、遺骨を埋葬した奉籠孔のようです。龍泉寺が沼田小早川の有力一族、小泉氏の氏寺であったことからすれば、その遺骨や、宝篋印塔の造立者は、小泉氏の可能性が高いといえそうです。とくに年代的に近い人物が、氏平です。氏平は、南北朝の内乱期に活躍した小泉氏の初代にあたる人物(沼田小早川家当主の貞平の弟)で、龍泉寺を氏寺として整備し、貞治4年(1365)8月22日には、知行地を息子の宗平に譲っています(小早川家文書)。没年はわかりませんが、譲与の年代から推察すると、氏平の墓塔の可能性は高いといえましょう。ただし、「小早川系図」によると、兄の貞平(沼田小早川当主)も、応安8(永和1)年(1375)2月19日に亡くなっています。応安8年塔に陰刻された日付のわずか二ヶ月前のことです。この点を重視するならば、氏平の兄の貞平の可能性もでてきます。この場合は、貞平の墓塔を、弟の氏平が建てたものかもしれません。いずれにしても、氏平に関わる塔であったとみなして、間違いはないでしょう。これまでの調査データに基づけば、基礎の横幅が39.8センチ以上のものは、小早川の当主クラスの宝篋印塔となります。応安8年塔は、基礎幅が47.3センチもありますから、その大きさだけをみれば、沼田小早川家の当主であった兄貞平の墓塔とみたほうが良さそうです。そこで注目されるのが、沼田小早川家の氏寺であった米山寺に建つ「本明」の銘をもつ宝篋印塔です。 この塔は、前面に「小早川春平墓」と陰刻する石標が立つため、春平の塔といわれています。しかし、基礎に陰刻される「本明」とは、「成就寺殿仏心本明大禅定門」、つまり小早川貞平の法名であり、これが当時のものだとすれば、この塔は、貞平の塔となります。そこで、この本明塔と、さきほどの応安8年塔を比較してみましょう。写真の上が応安8年塔、下が本明塔になります。 本明塔の基礎幅は、42.6センチですから、龍泉寺の応安8年塔の基礎(47.3センチ)より、ひとまわり小さなものになります。しかし、各部の比率は、全体の高さと幅の比率が0.68、側面の縦横比率が0.50、側面にある上下の輪郭幅の比率が1.2、上の輪郭と左の輪郭の幅の比率が1.7、基礎幅と横の輪郭幅の比率が0.13となり、いずれも応安8年塔とほぼ同じか、たいへん近い比率を示します。このことは、本明塔が、応安8年頃、つまり貞平の没年の頃に製作されたことを示しています。しかも、基礎の上部を二段式につくる宝篋印塔は、沼田小早川領においては、当主の塔に多くみられる特徴です。さらに本明塔は、すべての側面に格狭間を持ち、たいへん丁寧な作り方をしています。こうした点からすれば、本明塔は、小早川貞平の供養塔であると考えて、ほぼ間違いはないでしょう。そのうえで、あらためて、本明塔と、応安8年塔を比較してみましょう。すると、比率は近似していても、その形は、少し異なることに気がつきます。たとえば、格狭間の花頭形は、本明塔が輪郭に平行して左右に開くタイプであるのに対し、応安8年塔は、やや斜めに左右に開くタイプになります。また、脚の高さも異なるようです。そして、もっとも大きな違いは、本明塔の上部が二段式であるのに対し、応永8年塔は、上部が反花形式であるという点です。このように、両者は、ほぼ同時期の製作とみられますが、石工は異なっていたようです。それは、発注者の違いをあらわしていると考えられます。こうした点から、応安8年塔は、兄貞平のために、氏平がみずからの氏寺として整備した龍泉寺に建てた宝篋印塔とみるのが、もっとも自然のように思われます。実は、南北朝の内乱期において、小早川一族を率いて各地を転戦していたのは、弟の氏平でした。鎌倉幕府が滅びたとき、沼田小早川家の貞平は、最後まで幕府の六波羅探題に従って行動したことから、建武政権のもとでは、本領の沼田荘を没収され、早くから足利尊氏に従った竹原の小早川景宗を頼りに、尊氏への接近と本領回復をはからなければなりませんでした(小早川家文書)。そうしたなかで、兄の貞平にかわって各地を転戦し、奮闘したのが氏平だったのです。その氏平の活躍もあって、沼田小早川家は、このあと幕府の信頼を勝ち得て力を盛り返してきます。その意味で、氏平の存在は、沼田の小早川家のなかでは、たいへん大きな存在だったことでしょう。それ故に、兄貞平の供養と、小早川家内部での存在を主張するために、大きな宝篋印塔を龍泉寺に建てたのではないでしょうか。いずれにせよ、氏平に何らかの形で関わるこの塔の存在は、瀬戸内海の島々に大きく乗り出していった氏平が、海の流通をおさえ、本家にもまさる財力を蓄えていたことを物語っているように思われます。その意味で、当時の小泉氏の勢力の大きさをうかがえる、貴重な基礎といってよいでしょう。塔身や笠が欠損していることが悔やまれます。〔お知らせ〕音戸の瀬戸にある清盛塚について、『中世武士団をあるく』の姉妹ブログ『侍大将まこべえが行く』で紹介しています。あわせてご参照ください。『侍大将まこべえが行く』の文字の部分をクリックしていただければ、サイトに飛びます。
2005.11.12

白滝山の頂上直下にある龍泉寺には、宝篋印塔や五輪塔の残欠が散在しています。その内訳は、およそ以下のようになります。 参道周辺 五輪塔 空風輪1 本堂周辺 宝篋印塔 相輪1 五輪塔 空風輪1 歴代住職の墓地周辺 宝篋印塔 基礎3 笠2 相輪1 五輪塔 地輪4 水輪2 火輪17 空風輪3 一石五輪塔7その後、Oさんから、本堂周辺でさらに残欠を見つけたとの情報をいただきました。このため、全体の数は、もう少し増えそうですが、これまでのところは、宝篋印塔は、少なくとも3基、五輪塔は17基の存在を確認できました。多くの残欠は、いま本堂の少し上にある歴代住職の墓地に集められています。 その一画に、ひときわ高く、基壇を石垣で固めた1基の宝篋印塔が立っています。一見、完備した宝篋印塔のように見えますが、近づいて見ると、大きな宝篋印塔の基礎Aの上に、別の宝篋印塔の基礎Bをのせ、さらに宝篋印塔の笠、相輪を積み重ねた、寄せ集めの石塔であることがわかります(写真左下)。一番下の基礎Aの背面には、「応安八年乙卯」「四月十九日」の年月日が二行にわけて陰刻されています(写真右上)。写真ではわかりにくいかもしれませんが、「八」の字は読めるかと思います。その意味では、年次を刻む貴重な基礎になります。ところが、ひとつ問題があります。それは、北朝の元号であった応安8年(1375)は、2月27日に「永和」に改元されているため、4月19日は「永和元年」でなければならないのです。改元から、およそ1ヶ月半。時代は、南北朝内乱の時代です。なんらかの事情で、改元の通達が遅れていたのかもしれません。あるいは、北朝方の小早川氏のもとには通達が届いていたものの、石工への通達が遅れていたのかもしれません。また、あらかじめ銘の日にちが決まっており(たとえば忌日など)、改元の通達が届く前に、彫られてしまったとも考えられます。しかし、後世の人が、改元を知らずに、なんらかの日にちを刻んでしまった可能性も捨てきれません。そうなると、ここに刻まれた年次を、そのまま石塔の制作年代に比定するわけにはいかなくなります。そこで、一度この年次から離れて、基礎そのものが14世紀後半の特徴を備えているのか、あらためて検討することにしましょう。まずは、基礎のアップです。 素材は、花崗岩によって造られています。幅は、47.3センチ、全体の高さは、31.7センチ、側面の高さは、23.8センチあり、小早川領内では、比較的、大きな基礎です。側面の輪郭幅は、上部3.5センチ、左5.5センチ、下部3.7センチになります。なお、正面は、欠損部分があるため、左側面を計測しています。格狭間は、3面にあり、正面は、東側(画面右方向)を向いています。この数値を基にした、各部の比率は、全体の高さと幅の比率は0.67、側面の縦横比率は0.50、側面にある上下の輪郭幅の比率は1.06、上の輪郭と左の輪郭の幅の比率は1.57、基礎幅と横の輪郭幅の比率は0.12となります。この数値は、いずれも14世紀の基礎の比率に該当します。つぎに、基礎の格狭間を見てみましょう。その形は、花頭形がゆるやかな傾斜で、左右に開くタイプ(B型)になります。左右にある円弧は端によっていますが、花頭形の長さより、二つの円弧の幅のほうが、長くなっています(両者の比率は0.94)。このことは、この基礎が14世紀の後半の基礎であることを示唆しています。また、脚は、茨の内側で切り、脚間の幅と輪郭の下端幅の比率は0.3(1/3弱)になります。これは、安芸東部や備後では、南北長期に一般化する大きさです。また、基礎上部の反花も、2.2センチほど入り込んで彫られています。こうした点から考えると、この基礎は、14世紀後半、おそらく銘にある「応安八年」の基礎とみなして、問題はないでしょう。広島県内でも、数少ない年号銘をもつ基礎であり、年代を判定するための基準塔になります。その意味でも、本来の塔身や笠・相輪を欠損していることが、たいへん残念です。
2005.11.03

瀬戸内海の美しさに感動していると、うしろから学生たちの歓声が聞こえます。その声につられて後ろを振り向くと、真正面に、小早川氏の本拠地であった高山(たかやま)城と、その城下の光景がとびこんできました。 中国山地の山々が壁のように横たわるその手前、画面右側に、頂上が平たい台形状の山がみえます。これが高山城です。標高は190メートル、比高(地上から最高地点の郭までの高さ)は180メートルあります。応仁の乱では、竹原の小早川弘景を主力とする西軍方の国衆が、この高山城を包囲し、激しい攻防戦が繰り広げられました。高山城が恒常的な城として築かれたのも、このころのことでしょう。いまは開発が進み、塔ノ岡とよばれる山腹一帯にまで住宅が建ち並んでいますが、かつては、山の麓に城下が広がっていました。現在の三原市本郷町です。画面を少し拡大してみましょう。少しわかりにくいかもしれませんが、その高山城の前面から左側にかけて、大きく曲がりながら沼田(ぬた)川が流れています。 高山城の対岸(左側)に、急な斜面をもつ山がみえます。これは、小早川隆景が新たに築いた雄高山(おだかやま)城です。新高山(にいたかやま)城とも呼ばれています。標高は196メートルあり、高山城よりもわずかに高いのですが、比高は180メートルとほぼ同じです。内部は大きく5つの郭にわかれ、石垣の跡もみられます。雄高山城を見ずして戦国の城を語るな、そういっても過言ではないほど、すばらしい造りをしており、城好きのかたは、必見です。23日に紹介した小泉氏の上野城も、画面の右下に見えます。高山城と雄高山城が見える !!! 城下の地形がよくわかる !!!もうそれだけでも、小早川氏の研究者にとっては感動ものです。小早川一族の小泉氏も、龍泉寺に登っては、この景色を見ていたことでしょう。いま高山城や雄高山城に登っても、瀬戸内海は、ほとんど見えません。しかし、この白滝山を中継点として利用すれば、瀬戸内海の島々への連絡も、容易でした。白滝山の存在は、小泉氏のみならず、本家の小早川氏にとっても、重要な場所だったのです。白滝山は、小早川領を一望できる、絶好のビューポイントです。機会があれば、ぜひ登頂して、雄大な景色をお楽しみください。ただし、柵などはありませんから、あまり前に出すぎると、崖下に転落します。あしもとは、くれぐれもご注意を。
2005.10.25

少し画面をひいて撮影した3枚の写真をつなげてみました。一番、右側の写真が10月12日に掲載した写真と同じ方向を撮影したものです。画面のほぼ中央に細長く見えるのが大三島、その右手前に小さく見える島が大久野島です。戦時中は、毒ガスの製造がおこなわれていたため、地図から消されていました。私のもうひとつのブログ『侍大将まこべえが行く』に連載中の「瀬戸内海を旅する」に全景写真がありますので、こちらも参照してください。大三島の左側に、台形のような形をした島が見えますが、これは生口(いくち)島です。その生口島と大三島の間に、かすかに見える島が伯方(はかた)島。また、生口島の左手方向には、高根(こうね)島、因島(いんのしま)、佐木(さぎ)島も見えます。まさにここからの眺めは、芸予諸島を独り占め! です。画面右下の山頂直下には、小さな広場と屋根が写っていますが、これは龍泉寺(りゅうせんじ)です。この寺は、奈良時代の創建と伝える古い寺ですが、南北朝時代、沼田小早川家の一族として芸予諸島の支配にのりだした小泉氏の氏寺(うじでら)となって栄えました。小泉氏は、この南北朝時代から積極的に海に進出し、地元の海賊衆と連携しながら、海の武士団としての性格を強めて生きます。その勢力は、最盛期には、弓削島(ゆげしま)・因島(いんのしま)・伊予大島にも及びました。ところが、小泉氏の本拠地は、白滝山の北側、つまり内陸側の小泉町になります。そこで、海とは反対の方向を振りかえってみましょう。 眼下に小泉町の町並みが一望できます。画面の下に学校と運動場がみえますが、その一画に青く写るプールの斜め上に見える小高い丘が、小泉氏の居城と伝える上野(こうずけ)城です。小早川家の有力一族の城としては、あまりに小さすぎますが、よく見ると、もともとは、左後方(画面中央)からのびる丘陵の先端部であったことがわかります。それが道路を作るために切り開かれ、先端部だけが独立した山のように残ってしまったようです。おそらく、本来の城は、切り開かれた部分を含めて造られていたのでしょう。そう考えれば、小泉氏の城としても、おかしくない規模になります。それでもこの程度の高さの山から、瀬戸内海は見えません。このため、芸予諸島に勢力を広げる小泉氏にとって、島々を一望できる場所の確保は、不可欠だったはずです。小泉氏が、この龍泉寺を氏寺にして保護したのも、一族の発展と先祖供養を祈願するといった宗教的な意味合いだけではなく、芸予諸島と本拠地とをむすぶ連絡網の中継点として、また海の見張所として、その役割を期待したからでしょう。上野城からは、南にむかって白滝山にのぼる道もありました。おそらく、龍泉寺に隣接するように、小泉氏の家臣が常駐する建物もあったのでしょう。最初に掲げた写真の画面左手には、幸崎(さいざき)町の渡瀬(わたせ)も見えます。ここは、幸崎から忠海周辺に勢力をもった沼田小早川一族の浦(うら)氏の本拠地と考えられている場所です。小泉氏や浦氏は、ともに連携しながら、本家にかわって、瀬戸内海支配に乗り出した、海の武士団、海賊衆でもあったのです。
2005.10.23
ITさんよりご質問があった賀儀城の大きな四角い穴について、現地の歴史に詳しいОさんから、情報をいただきました。下記にОさんの文章をそのまま掲載します。お答えします。戦時中に陸軍暁部隊が駐屯していました。その部隊の小型船舶を隠していた穴です。東側の穴には中央が深い溝になっています。これはスクリューを避ける溝です。私達が小学校在学中にはその時の船外機がありました。忠海は昔から戦には欠かせない土地だったようですね。やはり、戦時中の遺跡でした。ちなみに、文中にある陸軍の暁部隊とは、陸軍の船舶輸送に関わる部隊に付けられた通称名(ニックネームのようなもの)です。本当の部隊名が敵に知られると都合が悪いため、かわりにこうした通称名が使われたようです。専門外の事ゆえ、忠海の暁部隊の正式部隊名まではわかりませんが、たとえば、機動輸送第八中隊は、暁第16732部隊と呼ばれるなど、暁部隊のつぎに部隊番号が明記されました。それにしても、なぜ、こうした船舶部隊が忠海に配備されていたのでしょうか。忠海の沖にある大久野島は、陸軍の造兵廠火工廠忠海兵器製作所(1929年竣工)が設置され、日中戦争からアジア太平洋戦争にかけて、毒ガスを製造していました。さらにその一部は、北九州市(当時は企救郡曾根村)にあった陸軍の造兵廠曾根製造所に運ばれて、砲弾・爆弾に注入されまた。忠海の暁部隊は、こうした毒ガスの輸送任務と深く関わっていたのでしょう。こうした戦争中の出来事も、これからはきちんと記録を残しておかないと、いずれ忘れ去られてしまいます。とくに忠海の戦争遺跡は、大久野島の毒ガス関連の戦争遺跡とあわせて、記録し、保存することが必要でしょう。これからのOさんたちの取り組みに、期待しましょう。さきほど、大きな揺れを感じました。仕事部屋の本棚がぎしぎし揺れました。震度4だそうです。大きな地震がくると、いつ本棚が倒れてくるか、心配になりますが、倒れても本棚どうしが途中で支えあうため、まあつぶされる恐れはないと思って、じっとしています(というより、本があちこちに積まれているため、すぐに脱出できないのです)。今回も、本が散乱するほどではなかったので、一安心です。
2005.10.16
三原市の南西、竹原市との境にそびえる白滝山(しろたきやま/標高350メートル)。その山頂に登ると、瀬戸内海から中国山地を独り占めできる大パノラマがひろがります。この日(9月11日)は雲が多く、波光きらめく瀬戸内海とはいきませんでしたが、左に大三島(おおみしま)、右に大崎上島をのぞみながら、その彼方に、愛媛県今治市の波方(なみかた)ターミナルの白いタンクも確認できました。その場所はというと、この小さな写真ではわかりにくいのですが、画面の中央やや左側に、ひょっこりひょうたん島のような小さな島(小久野島)がみえます。そのほぼ正面方向になります。この波方ターミナルは、石油・化学品・LPGなどの原燃料を貯蔵する日本有数の大型貯蔵基地として、1983年に建設されました。年間100万トンもの原燃料は、四国はもちろんのこと、西日本・九州、さらに韓国や中国へも再出荷されているそうです。さらに波方といえば、能島(のしま)の村上氏とならぶ瀬戸内海の海賊衆・来島(くるしま)村上氏の本拠地があった場所です。その場所は、波方ターミナルより、5キロほど東側(画面右側)になるため、白滝山からは、大三島にさえぎらて見ることはできません。しかし、ここに立てば、芸予諸島を行きかう船の動きが手にとるように見えたことでしょう。画面手前、高い鉄塔が立つ左側にわずかに見える町並みは、忠海(ただのうみ)です。その町並みのすぐ左側に、こんもりと小さな丘がみえますが、これが以前(9月2日の記事参照)紹介した小早川警固衆(水軍)の司令官・乃美宗勝の城と伝わる賀儀城です。そのほぼ正面に、波方が位置します。そこから海岸沿いに南下すれば、来島通康の長男、得居通幸がいた賀島(北条市鹿島)、さらに南下すれば松山に行けます。忠海が伊予国への作戦基地として重視された理由も、ここに登るとよく理解できます。
2005.10.12
前回に続いて、風早の浄福寺にある宝篋印塔のお話です。風早は、『万葉集』に、「風早の浦に船泊して夜作る歌」と記されるように、奈良時代から、風を待つ船の港として利用されてきました。このため、竹原の小早川氏は、この土地を重視し、南北朝内乱期の実義の時代に、風早を含む「三津(みつ)村」を支配し、延文5年(1360年)には、幕府から「三津村地頭職」を預けられています。以後、風早・三津・木谷の「三津村」は、小早川氏の当主が支配する重要な外港として機能していきます。これに対し、浄福寺の宝篋印塔は、基礎の比率や特徴から、小早川氏がこの土地を支配する以前の14世紀前半の造立と考えられます。この比定が正しければ、造立者は、小早川氏ではありません。それでは、いったい誰が、この大きな宝篋印塔を造立したのでしょうか。いま注目しているのは、15世紀後半、小早川弘景が息子の弘平に書き残した置文(おきぶみ/現在、および将来にわたって守るべきことを記した文書)のなかに、「内の者」(小早川家臣)として登場する「風早」氏の存在です。弘景によると、風早氏は、「内の者」の筆頭にいた手島衆につぐ格式をもつ家臣として位置づけられています。しかも、本来は、風早氏のほうが格上だとも言っています。ところが、手島衆のほうが小早川家に長年忠勤を励み、さきに家来になったことから、家臣団の序列では、手島衆のほうが上になったというのです。このため弘景は、風早氏にも配慮して、日頃は、風早のほうが手島より上なのだと皆に言い聞かせていました。小早川氏にとって、風早の地をおさえる風早氏は、それだけ重要な武士団だったのでしょう。小早川家の正月儀礼を記した文書にも、小早川一族の梨子羽・草井・小梨子・木谷に続いて、「風早式部」の名が登場します。おそらく、ある時期に婚姻関係が結ばれて、一族としての扱いをうけるようになったのでしょう。風早氏については、史料も少なくわからないことも多いのですが、古くからの風待ちの港であった風早に拠点を置き、瀬戸内海水運の一翼を担うことで、発展してきた海の武士団だったようです。さきほどの置文によると、風早氏は、風早の西側に隣接する安浦の武士団と推察される「内海衆」(うちのうみしゅう)の一族でもありました。両者は、連携して、このあたりの海のルートを支配していたのでしょう。それが、小早川氏の勢力拡大のなかで家臣団に編成され、港と海を支配する武士団として、家臣団のなかでも高い地位を獲得したようです。こうした点から推察すると、この宝篋印塔は、風早氏が先祖供養と一族の結束を固めるために造立したものなのかもしれません。そうだとしたら、これほどの宝篋印塔を立てた風早衆の財力も、あなどれません。ただし、この宝篋印塔の基礎の上部は、反花を略したくり型をしています。あるいは、このあたりで制作費を安く抑えているのかもしれません。いま宝篋印塔が立つ前面には、瀬戸内の海が広がり、牡蠣の養殖がさかんにおこなわれています。この海に乗り出していった風早衆とは、どのような人々だったのでしょうか。その実態の解明も、これからの課題です。なお、写真は、浄福寺からみた三津湾の風景です。筏のようなものが見えますが、これが牡蠣の養殖場です。正面に大きくよこたわる島は、大崎上島(おおさきかみしま)になります。この島には、まだ足を踏み入れていませんが、中世は、この島も小早川領でした。このため、いずれ島にも渡りたいと思っています。
2005.10.02
大きな宝篋印塔といえば、東広島市安芸津(あきつ)町風早(かざはや)の浄福寺にもありました。残念ながら塔身を欠き、さらに相輪のかわりに、お坊さんのお墓として使用される無縫塔(むほうとう)をのせています。このため、なんともへんてこな格好をしていますが、もとは、たいへん立派な宝篋印塔だったようです。基礎の幅は、61.0センチ、高さは、37.6センチ、側面の高さは、29.5センチあり、昨日紹介した竹林寺の宝篋印塔とほぼ同じ大きさです。しかし、基礎の高さが低い分だけ、こちらのほうが古いことを示しています。基礎の大きさからして、もともとは6尺5寸塔として立てられたものでしょう。なお、全体の高さは、三原市の米山寺の元応元年塔(重要文化財)や、竹原市吉名の延文二年塔をもとに、基礎幅の3.3倍で計算しています。基礎の上部は、反花を省略した繰型(くりがた)をしています。基礎側面の輪郭幅は、上部は4.5センチ、左は6.2センチ、下部は4.5センチあります。笠もなかなか立派なもので、高さは31.0センチ、軒幅も53.0センチあります。またしても細かい話になりますが、時代の特徴がもっともよくあらわれる基礎の各部の比率は、全体の高さと幅の比率が0.62、側面の縦横比率が0.48となります。また、側面にある上下の輪郭の幅の比率は1.0、上と左の輪郭の幅の比率は1.38、基礎幅と横の輪郭幅の比率は0.1となります。基礎の格狭間は、花頭形が左右に水平に開くA型で、左右にある二つの円弧の幅も、花頭形の幅より長く、端によっています(この違いは竹林寺の宝篋印塔の格狭間と比較するとよくわかります)。脚も、茨の内側で切り、その幅は、輪郭幅の1/3弱となります。このように各部の比率は、14世紀、それも14世紀前半の数値を示し、各部の特徴も14世紀の基礎と見て違和感がありません。こうしたことから、この宝篋印塔は、14世紀前半に造立されたものとみてよいでしょう。その意味からしても、塔身と相輪を欠くのが、残念でなりません。『芸藩通志』(1825年)によると、浄福寺は、中世「薬師丸とよぶ地」にあり、それを「慶長五年」に「今の地に移」したそうです(巻81・1296頁)。この「薬師丸」は、浄福寺から、およそ800メールほどの西南よりの土地になります。だとすると、この宝篋印塔は、寺の移動とともに薬師丸から、現在地に移った可能性も考えられます。しかし、浄福寺がここに移る前から、この地に立っていた可能性も否定できません。この場合、ここに由緒ある寺がかつてはあった可能性がでてきます。このどちらの説を採用するかで、宝篋印塔が立つ場所の性格がかわってくるのですが、いまとなっては、どちらが真実なのか、確認できません。なお、浄福寺の境内には、およそ多数の石塔の残欠が散在しています。宝篋印塔は、相輪5・笠7・塔身・基礎3個。五輪塔は、空風輪21(ほかに空輪のみ2、風輪のみ1あり)・火輪23・水輪21、地輪6個。一石五輪塔は、21基を確認しています。ここから、少なくとも宝篋印塔は7基、五輪塔は23基あったことになりますが、ほかから持ち寄られたものもありそうなので、あくまでも参考値として考えてください。
2005.09.30

先日、紹介した東広島市河内町の竹林寺には、多くの宝篋印塔や五輪塔が境内各所に散在しています。今回は、時間の関係で細かな調査はできませんでしたが、それでもパーツごとに数えていくと、宝篋印塔は、基礎がもっとも多く9個、五輪塔は、地輪(基礎)を71個を確認できました。ここから、少なくとも江戸時代の初期には、80基の石塔が境内周辺に建ち並んでいたことがわかります。ご住職さまのお話によると、まだまだ土の中から出てくるとのことでしたから、実際の数は、もっと多かったとみてよいでしょう。中世、竹林寺は、安芸国の武士団、平賀氏の援助を受けていました。いまも多く残る宝篋印塔や五輪塔は、平賀氏に関わる石塔とみてよいでしょう。なかでも、本堂の前に建つ宝篋印塔が目をひきます。基礎の幅は、60.6センチ、高さは、41.5センチもあり、側面の高さも29.9センチあります。また、輪郭の幅は、上部が3.3センチ、左が7.2センチ、下部が4.0センチあります。笠も大きく、高さは、48.6センチ、軒幅も、54.7センチあります。少し細かい話になりますが(とばして読まれてもかまいません)、時代の特徴がもっともよくあらわれる基礎の比率を計算すると、全体の高さと幅の比率は、0.72、側面の縦横比率は、0.49、全体の高さと基礎上部の比率は、0.28となります。また、上下の輪郭の幅の比率は、1.21、上と左の輪郭の幅の比率は、2.18、基礎幅と横の輪郭幅の比率は、0.12となります。基礎の格狭間は、花頭形がゆるやかな斜線で左右に開くB型ですが、左右のカーブは、側面に対して垂直におりるように円弧を描きます。また基礎の花頭形の幅は、円弧幅よりわずかに短いことから、1370年代以降の製作と考えられます。茨の内側で脚を切るところも14世紀の基礎の特徴を備えています。ただし脚は高く、その幅は、輪郭幅の1/4となります。このように、各部の比率は、そのほとんとが14世紀後半の数値を示し、各部の特徴も、14世紀後半の基礎とみて違和感はありません。しかし、輪郭の横幅が同時期のものとしてはやや広く、輪郭上部と横の比率が14世紀の数値(1.8以下)を超えています。この点から、ひとまず、15世紀初頭の宝篋印塔とみておきましょう。その大きさから見て、この宝篋印塔は、先祖供養と一族の結束・繁栄を願って、平賀氏の当主と一族によって造立したものと考えられます。さきの年代比定が正しければ、平賀弘章の時代の造立となります。当時、大内方に属していた弘章は、応永10年(1403)、守護方の山名軍と激しく戦い、三人の子供を失っています(平賀家文書248)。この塔には、こうした激しい戦乱を生き抜くため、一族の結束をはかろうとした弘章の願いが込められていたのかもしれません。あるいは、その弘章が応永19年(1412)に世を去り、その供養も兼ねて、一族の結束をはかろうと、孫の頼宗が造立したものなのかもしれません。ところで、この基礎の格狭間は、沼田小早川氏の氏寺であった米山寺の同時期の宝篋印塔と比べると、左右のカーブの造り方が少し異なります。これは、石工の違いによるものなのでしょう。竹林寺は、江戸時代、尾道の石工に発注をしたことがありますから、この宝篋印塔も尾道の石工が製作したと考えたいところです。しかし、いまのところそれを特定するだけの材料がありません。石工や生産地がわかると、石塔の流通も解き明かすことができるのですが、こうした重要な事柄ほど、よくわからないのです。また、平賀氏の援助をうけた竹林寺に立ち並ぶ宝篋印塔と、小早川氏の援助をうけた米山寺に立ち並ぶ宝篋印塔を比較すると、米山寺の宝篋印塔のほうが良い造りをしています。幕府奉公衆としての家格を誇り、瀬戸内海の交易も押さえて発展した小早川氏の財力の大きさは、こうした石塔の質の違いからも、うかがえます。このほか、小早川氏の領域では、宝篋印塔と五輪塔の比率は、1対4.6程度になります。これが小早川ゆかりの寺になると、宝篋印塔の割合が増し、たとえば、米山寺では、5対2と逆転します。本郷町の永福寺においても、宝篋印塔と五輪塔の割合は、3対4と拮抗します。これに対し平賀氏の竹林寺では、1対9以上の割合で、五輪塔の数がぐっと多くなります。しかしこの割合は、平賀氏に限らず、ごく一般的にみられる割合ですから、小早川氏の領域が、むしろ特殊だといってよいでしょう。それが何を意味するのか、まだはっきりとはわかりませんが、小早川氏は、その財力をもって一族クラスのものも宝篋印塔を造立しましたが、平賀クラスになると、当主クラスしか宝篋印塔を造立できなかったようです。その本格的な謎解きは、これからの課題です。ところで、今日の大河ドラマ「義経」では、大きな五輪塔が出てきました。木曾義高の供養塔という設定ですが、五輪塔の形が時代とまったくあっていません。火輪の形もそうですが、貧弱な水輪は、鎌倉時代のものには見えませんさらに言えば、義経が頼朝にしたためた起請文に牛玉宝印(ごおうほういん)という特別な紙が使われていましたが、起請文に牛玉宝印が使われるのは、もう少しあとの13世紀後半と考えられています。このあたり、時代考証がめちゃくちゃです。もっともドラマも荒唐無稽な話ですから、細かなところに目くじらをたてる必要はないのですが、タイトルバックに「時代考証」の文字を堂々と出す以上は、もう少しまともなドラマを制作してもらいたいものです。なかでもお粗末だったのは、壇ノ浦で法皇から届いた書状を読むシーン。ここでは、なんと一の谷の合戦で使用した感状がふたたび使われていました。どうせ視聴者には、わからないとでも思ったのでしょうか(だとしたら視聴者もなめられたものです)。大河ドラマは、所詮、この程度の作りかたなのです。大河ドラマは、あくまでもフィクションであって、歴史ではありません。水戸黄門や暴れん坊将軍、さらには大奥などと同じレベルで、気軽に楽しまれるのがベストな見方ではないでしょうか。
2005.09.25

今年の調査は、竹原市東野・新庄・西野・忠海、三原市幸崎・小泉、東広島市安芸津・河内、豊田郡瀬戸田という広範囲にわたり、小早川氏の支配領域はもちろん、隣接する平賀氏の領域にまで及びました。確認した宝篋印塔は、相輪37・笠41・塔身14・基礎33、五輪塔は、空風輪96・火輪211・水輪170・地輪153に及びます。各部を完備する石塔は少なく、多くは残欠ですが、各部の最大基数からみて、宝篋印塔は41基、五輪塔は211基の存在を確認できます。このうち宝篋印塔の基礎は、お堂の礎石として転用されることも多く、調査にあたっては、お堂の下にも注意を払う必要があります。今回も、そうしたお堂をみつけました。河内町の竹林寺にある本堂(重要文化財)です。 戦国時代に建てられたという本堂の礎石は、そのほとんどが宝篋印塔の基壇や基礎を転用したもので、なかには写真のような15世紀のものと判断できる基礎も使われています。 重要文化財の建物の礎石を掘るわけにもいかず、細かな測定はできませんでしたが、お堂の下にもぐりこんで調査することはお許しいただきました。次回、あらためて細かな調査を実施したいと考えています。
2005.09.19
広島での調査を終え、ようやく自宅に戻りました。今年は、雨もほとんど降らず、調査も順調に進みましたが、真夏の暑さが戻り、いささかバテ気味です。しかし、竹原市の葛子(かずらこ)や忠海(ただのうみ)、東広島市安芸津町の木谷(きだに)、三原市の渡瀬(わたせ)などで新たな発見や出会いがあり、大きな成果を得ることができました。これもひとえに、Kさん、Tさん、そしてFさん、Sさんをはじめとする竹原郷土文化研究会のかたがたや、Sさん、Оさん、Yさんを中心とする忠海歴史民俗研究会のかたがたのご協力の賜物であり、ここにあらためてお礼申し上げます。講演会も、130名ほどの方々にご参加いただき、盛況に終えることができました。事務局には、次は何をやるのか、といったご質問もあったそうですが、来年は、「石塔の語る中世」と題して、市内各地に残る宝篋印塔や五輪塔のお話しする予定です。このほか、安芸津町でも、「木谷の中世」(仮題)の講演を予定しています。今年で5年目を迎えた私たちの調査ですが、2003年の夏に続き、今年も、中国新聞に調査風景の記事が載りました。しかも、今度はカラー写真での紹介です。手前に写る黄色のポロシャツが私です。記事には「大学院生三人」とありますが、このとき一人は扁桃腺を腫らしてダウンしていたため、写っていません。奥にいらっしゃる方は、地域の歴史を丹念に調べられている地元のKさん。私たちの調査も、Kさんの情報をもとにして進めています。この調査の様子は、RCC中国放送のラジオのニュースでも取りあげられました。地元の皆さんからの期待が高まるにつれ、責任の重さを強く感じます。これから、調査データの整理・分析をすすめ、来年の3月末、ふたたび竹原市と安芸津町の石塔調査、ならびに中世の風景の復元作業をおこなう予定です。竹原市・東広島市安芸津町・三原市幸崎町の皆さま、またよろしくお願いいたします。
2005.09.17
今日はまる一日、竹原市にある「小早川墓地」で五輪塔の調査です。 いつもヤブカに悩まされるため、蚊取り線香を用意するのですが、今回は、8時間はヤブカをよせつけないというスプレー缶を試してみました。 これはすごい威力です。 墓地全体にスプレーしてから作業をはじめましたが、8時間近く蚊をよせつけません。 調査の必需品がまたひとつ増えました。 あすは、午前中に、三原市小泉町の龍泉寺にある石塔の調査をすませたあと、午後は、市内で講演です。 総選挙とあたってしまいましたが、お客さんの入りはどうでしょうか。
2005.09.10
今日8日から小早川領域の調査がはじまりました。 いつものように羽田から広島空港へANAでむかいます。 この路線は、着陸直前に、小早川の城であった高山城と、小早川隆景があらたに築いた雄高山城を眼下にみれる、城好きにはたまらない路線です。 今日は座席位置もよかったのですが、着陸態勢にはいっているためデジタルカメラが使えず残念。 午後からは竹原市の葛子を調査しました。 ここは、石塔だけではなく、水利権や屋号などから中世がみえてくる、たいへん興味深い土地です。 明日は、趣向をかえて、船で瀬戸内海の島々をめぐります。
2005.09.08
明日8日から、恒例の小早川領域の調査がはじまります。今回は、竹原市葛子、東野、田万里、忠海、東広島市安芸津、三原市渡瀬を中心に、石塔の所在調査と実測、ならびに中世武士団の館跡などの調査を予定しています。簡単な経過報告は、携帯から投稿する予定ですが、コメントなどは閲覧できません。このため、お返事はすべて帰宅後となります。ご了承ください。帰宅は16日の夜を予定しています。なお9月11日午後1時より、竹原市市民館3階において、「小早川隆景と乃美宗勝」をテーマに講演をおこないます(竹原郷土文化研究会主催)。入場は無料ですので、お近くのかたはご参加ください。終了は3時を予定していますが、私の講演はいつも20分ほど延びますので、選挙を終えてからのご参加をお待ちしています。
2005.09.07
またも、とんでもない事件が起きました。昨3日、島根県にある天台宗の古刹、鰐淵寺(がくえんじ)の収蔵庫から、鎌倉時代の絵画など、国の重要文化財4点を含む収蔵品13点が盗まれてしまったというのです。そのなかに、後醍醐天皇直筆の御願文(ごがんもん)も含まれていたというのですから、たいへんなショックです。「願文」(がんもん)とは、神仏に対して祈願の意をあらわすために作られた文書(もんじょ)のことで、全文自筆で書くことを原則とします。ですから、この願文も、後醍醐天皇みずからが神様にお願い事をして書いた文書になります。しかも、この願文は、後醍醐天皇が2度にわたる倒幕計画に失敗し、元弘2年(1332)3月、幕府によって隠岐島に流されてから、5ヵ月後に記されたという点でも注目されます。そこには、彼が都から遠く離れた隠岐へ流されてもなお、倒幕にかける意志を強くもっていたことをはっきりと示す事柄が書かれていました。まずは、その内容を、最初に原文、続いて、読み下しにして紹介しましょう(今朝の朝日新聞に写真が掲載されています)。 「 敬白 発願事 右、心中所願、速疾 令成就者、根本薬師 堂造営、急速終其功 可致顕密之興隆之 状、如件、 元弘二年八月十九日(花押) 」 〔読み下し〕 「敬白(けいびゃく) 発願(ほつがん)の事 右、心中の所願、速疾に成就せしめば、根本薬師堂造営、急ぎ速やか に其の功を終え、顕密の興隆を致すべきの状、如件」後醍醐天皇は、ここで「心の中の願いが速やかに叶ったら、根本薬師堂の造営を急ぎおこないます」と誓っています。この「心中の所願」が、倒幕を意味することは、まず間違いないでしょう。彼は、なおも倒幕の野望を捨ててはいなかったのです。その意志は、元号に、より明確に示されています。ここで後醍醐は、「元弘」という元号を使用していますが、すでに願文が記された元弘2年8月19日は、「正慶」(しょうきょう)という元号にかわっていました。元号は、後醍醐が隠岐に流された直後の4月28日、後醍醐にかわって即位した光厳(こうごん)天皇のもとで改元されていたのです。ところが後醍醐は、新天皇が定めた「正慶」をあえて使用せず、自らの在位中に定めた「元弘」の元号を使い続けました。そのことで後醍醐は、自分こそが正当な天皇であり、光厳天皇は認めない、という意志を強く示そうとしたのです。このように、この願文には、倒幕へ執念を燃やす後醍醐の強い意志がこめられていました。それほど貴重な文書なのです。それが盗まれてしまったというのですから、怒りはおさまりません。これほどの文書は、たとえ盗んでも、すぐに足が付きますから、そう簡単には売れないはずです。どのような方法でもかまいません。犯人は、激しい意志の持ち主だった後醍醐に呪い殺される前に、一刻も早く文書を返却しなさい !!!!
2005.09.04
忠海の勝運寺には、小早川警固衆の総司令官として活躍した乃美宗勝(のみむねかつ)の肖像画が残されています。宗勝が亡くなってから66年後の万治元年(1658年)に描かれたものです。宗勝は、16歳で初陣をはたして以来、河内・出雲・伊予・豊前の各地に転戦して活躍しますが、そのなかでも最大の功績といえば、厳島の合戦を勝利に導いたことでしょう。勝利といっても、戦いで大活躍したわけではありません。彼の力が発揮されたのは、外交の場でした。そのころ元就は、強力な警固衆(水軍)を傘下におさめる陶晴賢(すえはるかた)とまともにぶつかっては勝てないと、強い危機感を抱いていました。このため、瀬戸内海で大きな力を持っていた伊予の来島(くるしま)の村上通康(みちやす)に協力を求めます。このとき小早川隆景の命令を受けて来島におもむいたのが乃美宗勝でした。このことは、元就が隆景に送った書状のなかに、「乃兵(乃美兵部宗勝)来島へ御出」とはっきり記されています。それにしても、なぜ宗勝が派遣されたのでしょうか。実は、宗勝の姉は、当時、三島村上(さんとうむらかみ)と呼ばれ、瀬戸内海の中央部を押さえていた三つの村上氏のひとつ、因島の村上吉充のもとに嫁いでいました。そして、彼女の娘は、能島の村上隆勝に嫁いでいました。この二人から生まれた男の子こそ、こののち「日本最大の海賊」と呼ばれ、海の戦国大名として君臨する能島の村上武吉(たけよし)になります。つまり、村上武吉のおばあさんは、宗勝のお姉さんだったのです。厳島合戦当時、武吉は、23歳。その武吉を後見していたのが、武吉の妻の父、来島の村上通康でした。このため、来島村上の動きひとつが、勝敗を左右する鍵となっていたのです。元就や隆景は、こうした海の領主たちの間で結ばれていた婚姻関係をたよりに、乃美宗勝を来島に派遣し、宗勝の交渉に賭けました。その結果、ついに来島は、元就のために船を動かします。おそらく能島の村上武吉も、来島と行動をともにしたとみてよいでしょう。一時は、来島の動向がつかめず、毛利家重臣の児玉就方率いる河内(かわのうち)警固衆(広島湾の牛田などを基地とする毛利直属水軍)と小早川隆景の警固衆、あわせて120艘前後で、一か八かの勝負にでようとしたほどの元就でしたが、この来島来援によって、ついに陶軍を討ち果たし、合戦に勝利することができました。その戦いは、のちに、元就自身が、来島の来援で「長男の隆元と私の頸がつながった」(原文は「来嶋扶持を以て隆元・我等頸をつきたる事候」)と語るほど、危機一髪の勝利でした。厳島の合戦というと、元就の謀略の話(しかもどこまでが史実なのかよくわからない話)が話題になりますが、合戦の経過からみれば、来島の来援こそが、なにより大きな勝利の要因でしょう。しかし、海賊衆との婚姻を軸に、来島の村上氏と粘り強く外交交渉を進めた乃美宗勝の活躍も忘れてはなりません。その意味で、乃美宗勝こそが、陰の、そして最大の功労者だったといえましょう。真の戦いは、戦いの前からすでにはじまっていたのです。このあとも宗勝は、門司城の攻防戦や、大坂の木津河口戦など、各地で活躍しますが、朝鮮への出陣中に中風を病み、文禄元年(1592年)9月23日、筑前国の糟屋郡秋屋で世を去ります。享年は66歳。まさに戦いのなかを駆けぬけた一生でした。
2005.09.03

忠海が軍港としての機能を強くもつようになるのは、戦国時代、小早川隆景の重臣として、警固衆(水軍)を指揮した乃美宗勝が賀儀城を築いてからのことだと考えられます。 画面中央にみえるこんもりした丘が賀儀城跡になります。そのすぐ右側(西側)にうつる赤茶色の屋根は、忠海西小学校です。なお、この写真は、先日(29日)掲載した忠海の裏山からみた瀬戸内海の写真の右側部分に相当します。もう一枚、別の角度から撮影した写真も紹介しましょう。こちらは、戦前の忠海尋常小学校を写したものです。校舎の後ろに海につきだすように城跡の丘がみえます。賀儀城が築かれた時期は、はっきりしませんが、江戸時代の後半に編纂された『国郡志下調書出帳』によると、もともとこの場所には、床浦明神が鎮座していたそうです。床浦神社は、いまも城跡や西小学校より、西側にありますが、これは戦国時代に「宗勝公、此処ヘ城郭ヲ築玉フノ時、今ノ社地ヘ遷サセ」たものだといいます。また、床浦明神には、神社を造ったときの棟札が残り、そのなかには「永禄八年十二月」の年次を記す棟札があります。この棟札が、築城にともなって移転したときのものだとすれば、城は永禄8年(1565)頃に築かれたことになります。当時の政治状況からみても、永禄年間の築城とみてよいでしょう。築城当時は、「三方海、西ノ方地続キ」といったありさまで(『国郡志下調書出帳』)、いま以上に海につきだした城だったようです。おそらく、港と瀬戸内海航路を押さえる城として、機能していたのでしょう。戦国時代、乃美宗勝率いる小早川警固衆は、この忠海から伊予方面、あるいは九州方面へと出撃していきました。いま城の西側の砂浜は、海水浴場になっていますが、戦国時代は、もっと内陸まで海がはいりこみ、船溜りとして利用されていたのかもしれません。
2005.09.02

忠海(ただのうみ)から山越えをして広島空港へむかう道路は、手軽に瀬戸内海を一望できる私のお気に入りの場所です。写真からも、瀬戸内海が多島海であることがはっきりとわかります。眼下には、江戸時代、港町として栄えた忠海の町。画面ほぼ中央に大きく横たわる島は、伊予の河野氏や海賊衆の信仰をあつめた大山祗偽祇(おおやまずみ)神社が鎮座する大三島(おおみしま)。その大三島がきれる左手方向に、かすかに白く見える2本の柱は、生口島(いくちじま/画面の左手に先端だけみえます)と大三島をむすぶ多々羅大橋(たたらおおはし)です。この写真ではよくわかりませんので、その部分だけアップした写真を下に掲載します。全長は1480メートルあります。 この橋のむこう(大三島と生口島の間)にみえる島は、伯方(はかた)の塩で有名な伯方島。この伯方島と大三島にはさまれた鼻栗瀬戸(はなぐりせと)をぬければ、戦国時代、「日本最大の海賊」とよばれ、海の大名として瀬戸内海に君臨した村上武吉の拠点、能島(のしま)があります。また、画面右手にかすかに写る赤い鉄塔のかなたにうっすらと見える島は、大崎上島(おおさきかみしま)です。この大崎上島と大三島の間をぬければ、四国の波方(なみかた)に着きます。波方には、「最高の海賊」として能島の村上武吉と「その座を競いあってきた」来島(くるしま)の村上氏の波方館(はがたのたち)がありました。海城として築かれた来島へは、この波方港から小さなフェリーで5分という近さです。このように、忠海は、日本最大の海賊衆、能島の村上氏と来島の村上氏と双方と連携を保つうえで、最適な港でした。小早川隆景の重臣として小早川警固衆(けいごしゅう/水軍を当時は警固衆とよびました)を率いた乃美宗勝(のみむねかつ)が、この忠海に賀儀(かぎ)城を築いて拠点とした理由も、この風景をみればただちに納得できます。歴史学は、本を読むことも大切ですが、現地を歩かなければわからないこともたくさんあります。このため、私は、常々学生に「歴史は、本のなかで起きているのではない、現場で起きているのだ」(どこかで聞いたようなセリフですが)と呼びかけ、現地調査の重要性と楽しさを説いています。歴史学は、まさに旅の学問なのです。
2005.08.29
先日、ある石屋さんのブログに目がとまりました。そこには、「石造品」のタイトルで、宝篋印塔1基、宝篋印塔の笠2基、一石五輪塔3基の写真が掲載され、なんと「とあるルートから仕入れた」ものです、という書き込みがなされていたのです。石屋さんは、ブログのなかで「室町後期から江戸時代前期あたりの石造品です」と紹介されていましたが、形からみて、いずれも江戸時代前半の石塔のようです。いったい、どこから、どのような方法で入手したのでしょうか。宝篋印塔の笠の特徴がみな同じところを見ると、石屋さんの住む中部・東海地方の、とある場所から一括して購入したもののようです。ブログには、続けて「風化や苔のついている姿は、時代を感じさせ、小さな庭に置いておくと何ともいえない侘びた雰囲気が出てきます」とも記されています。石屋さんにしてみれば、これは庭石として売れると思われて仕入れたのでしょう。しかし、こうした石塔は、これまで私のブログでなんども強調したように、地域の歴史を調べるうえで大切な歴史資料であり、文化財です。それを、もともと建っていた土地から切り離しては、「時代を感じ」ることもできません。それどころか、業者を通して転売されてしまえば、所在は不明となり、二度と、この石塔から地域の歴史を読み解くことはできなくなります。このように、石塔の転売は、地域の歴史の一コマを奪う行為でもあるのです。先日(7月10日)、このブログでも紹介した竹原市東野の浄光庵跡も、石塔が残っていたから、その歴史が復元できました。もし、その石塔が流失していたら、浄光庵の周辺の歴史は、まったくわからなかったでしょう。残念ながら、中世や近世の石塔は、いまでもさまざまな形で転売されています。多くは、持ち主が処分に困って売却したものですが、密かに夜中にトラックで墓地などに乗り付け、数人で盗んでいくという悪質な事例もあります。このため、私のブログでは、人目がつかない場所にある貴重な石塔については、場所を特定されないように、詳しい説明は避けています。もちろん、多くの石屋さんは、正規の手続きで仕入れています。しかし、それならばなおさらのこと、本来は、どのような場所にあったものなのか、少なくともそのぐらいの記録をとって、売却していただきたいものです。また、石塔を売却するかたのなかには、うちの墓地にあったものなのだから、売るのは自由だと考えるかたもいらっしゃいます。しかし、たとえそのかたの墓地にあった石塔だとしても、その家の祖先の墓とは限りません。むしろ、いま残る石塔は、現在の土地や墓地の持ち主のかたとは、関係がないことのほうが多いのです。たとえば、ある旧家がつぶれて(つぶれる理由としては家族が絶えた、借金で村を出たなどさまざまな理由が考えられます)空き家になると、そのあとに入った新しい家は、古くからある墓地を自分の家の墓地として再利用します。このため、時代がたつにつれて、昔からあった石塔も、いつのまにか自分の祖先の墓として伝えられていくようになります。また、村のなかに散在していた石塔を、寺や神社、あるいは墓地に集めることは、ふつうにおこなわれています。ときには、意図的に、みずからの家を由緒ある家だと主張するために、ほかの場所にあった石塔を自分の墓地に持ってきて、我が家は武士の祖先だと誇ることもあります(武士が偉いわけではないのですが、日本には武士が偉いと思っている人がまだたくさんいます)。そればかりか、自分の家の墓をある武将の墓にしたてあげ、町の文化財に指定させてしまったという悪質な事例すらあります(これでは歴史の偽造です)。このように石塔は、最初に建てられた場所に、いまもそのままあることは少ないのですが、それでも重たい石を遠くまで運ぶことは難しく、たとえ移動したとしても、村のなかを大きく出ることは、あまりありません。また、あの石塔は、どこどこからここに移したといった伝承が村のなかで語られていることも多く、たとえ移動していても、もとの位置は、ある程度は予測できます。しかし、現在のように、業者によって転売されたら、もう所在の確認はできません。その意味で、売却するかたも、購入する業者のかたも、地域の歴史を読み解く大切な文化財を売買しているということを、そのことで地域の歴史を解明する手かがりを奪っているということを、もっと強く認識していただきたいのです。そしてなによりも、石塔は、その土地に関わる人物の墓であり、供養塔である、つまり信仰の対象であったことも忘れないでいただきたいのです。石塔の転売は、地域の歴史と文化財を破壊する行為です。ただちにやめてください。また地域のかたがたは、村のなかに残る石塔が、たとえ一部分であったとしても、中世、その土地に確かに生きた人がいたという大切なあかしとして、これかも大事に守り続けてください。よろしくお願いいたします。
2005.08.26

竹原小早川領内の五輪塔の火輪のタイプについて、あらためて整理しておきましょう。まず火輪の大きさですが、いずれも軒幅が30センチを越えず、小型の五輪塔になります。この点から、さかのぼっても室町時代のものでしょう。そのなかでも、もっとも古いタイプとみられるものが、竹原小早川家の菩提寺だった法浄寺跡にある五輪塔の火輪です(写真・左側)。軒の中心部を水平に造り、隅の近くで、同じ厚みを保ったまま反りあがります。このタイプは、Aaタイプとします。8月11日の記事で紹介した棲真寺にある鎌倉後期の五輪塔の火輪(写真・右側)と比較すると、屋根の反りがやや強く、軒幅の隅の反り方もやや異なります。なお、法浄寺跡ちかくに住むおぱあさんの話によると、寺跡からは、もっと大きな五輪塔が出土したといいます。すでに所在はわかりませんが、法浄寺には、棲真寺の五輪塔のような、鎌倉後期頃までさかのぼる五輪塔もあったのかもしれません。つぎに、Aaタイプに似ていますが、軒の厚みを同じ幅に保ちながら、全体的にゆるく反るタイプがあります。これは、Abタイプとします。写真の一段目・二段目、三段目の左側の7枚が、これに相当します。なお、写真の火輪は、一段目左側から、葛子神社周辺・法浄寺跡に隣接する墓地・浄光庵跡、二段目左側から、葛子神社周辺・吉名の寿福寺・吉名の寿福寺、三段目左側、「小早川墓地」のものとなります。また、このAbタイプより、軒の厚さが少し厚めに造られているものは、Acタイプとします。三段目の写真のうち、右側二枚(法浄寺跡・寿福寺)がこれに相当します。つぎに、隅にむかうほど上部の反りが強くなり、隅で反りあがるタイプがあります。このタイプは、軒の厚みが、中央と隅とでは大きく異なり、隅にいくほど厚み(軒の高さ)が増します。Aタイプより新しい形で、これは、Bタイプとしましょう。写真は、左側が「小早川墓地」、右側は東野の墓地にある五輪塔の火輪です。このBタイプと時期的には重なるとみられるのが、つぎのCタイプです。Cタイプは、軒裏(軒の下端の線)の中央は、ほぼ直線(水平)ですが、隅のところで少し反りあがり、軒の上部は、跳ね上がります(写真左側・「小早川墓地」)。ただし、同じCタイプでも、火輪の高さが極端に低いものもあります(写真中央・葛子神社周辺)。このため、前者をCaタイプ、後者をCbタイプとして区別しておきましょう。また、Bタイプに類似しますが、火輪の軒裏(火輪の下端)を隅までまっすぐ直線(水平)に造るタイプがあります(写真右側・「小早川墓地」)。このタイプは、16世紀末の慶長ごろみれら、江戸時代の特徴的な造り方となります。隅をやや斜めに切る造り方も、江戸時代の特徴です。このため、これは、Dタイプとして区別しておきましょう。このように整理すると、竹原小早川領の五輪塔の火輪は、大きく4タイプ、細かくみれば、7タイプに分類できます(ただし、あきらかに江戸時代前半のものとわかるタイプは含んでいません)。このうち、Aタイプがある場所には、14世紀までさかのぼる宝篋印塔も存在します。はやくから聖なる空間として整備された場所と考えてよいでしょう。ただし、個々のタイプがいくつあるのか、大きさはどの程度なのか、細かな調査と分類は、9月の調査を実施したうえで、あらためて整理したいと思います。なお、まこべえ隊のメンバーは、9月の調査用として、この記事を印刷し持参してください。
2005.08.25

小早川領内の五輪塔のタイプは、昨日紹介した4タイプだけではありません。小早川家の菩提寺として、14世紀中ごろの宝篋印塔などがあった法浄寺跡には、やや異なる形の五輪塔があります。 写真の五輪塔の火輪は、Aタイプとたいへんよく似ていますが、よくみると、軒の反り方が違います。Aタイプは、全体にゆるやかに反っていますが、こちらは、中心部を水平に造り、隅の近くで、同じ厚みを保ったまま、反りあがります(軒の上端で比較するとよくわかります)。この点から、さきのAタイプをAbタイプ、この形は、Aaタイプとしておきましょう。左側に半分だけ写る五輪塔の火輪も、同じタイプのようです。なお、この五輪塔は、しっかりと造られていることが、写真からもわかります。おそらく、これまで紹介してきた五輪塔のなかでも、室町時代にさかのぼる、古い火輪ではないかと思われます。苔むした、摩滅が激しい石塔ほど、一見、古く見えますが、実は、古い時代の石塔ほど、良い石を使い、しっかりと造られているのです。法浄寺跡には、もうひとつ、Abタイプとよく似た五輪塔の火輪があります。 軒の反り方は、Abタイプとよく似ていますが、こちらのほうが、軒の厚さが少し厚めに造られています。全体の高さもやや低いようです。このため、この形は、ひとまずAcタイプとして区別しておきましょう。ちなみに、火輪の上に水輪が乗っかっていますが、五輪塔の積み方としては、逆ですね。この二つの存在により、小早川領内の五輪塔は、6タイプとなります。なかでも、法浄寺跡に古いタイプの五輪塔があることは、この寺の歴史を物語るものとしても貴重です。市内にある歴史民俗資料館の宝篋印塔などと一括して、しっかりと保存するよう早急に対策を講じるべきでしょう。ところで、いま話題の広島6区の西側、三原市は、かつての小早川領域になります。過疎化の進む山村部を抱える6区で、利益と効率だけを重視する堀江社長の手法が、どこまで通用するのでしょうか。
2005.08.20

五輪塔の分類をすすめるうえで、区分しやすい部材は、火輪(笠石)です。火輪には、さまざまなタイプがあり、石田茂作さんは、著書の『日本佛塔の研究』(昭和44年)のなかで、大きく6種類に分類し、さらに12種類の形を図で示されています。このほかにも異なるタイプがありますから、細かく分ければ、火輪の種類は、もう少し増えるでしょう。このうち、小早川領内で確認できる五輪塔は、何種類あるのでしょうか。この答えは、まだ調査中のため、具体的な数はわかりませんが、たとえば、つぎの写真を見てみましょう。 これは、竹原市の「小早川墓地」にある五輪塔です。「小早川墓地」にある五輪塔のうち、一応、五輪塔としての形を残すものは、20基ほどですが(ただし空風輪のかわりに宝篋印塔の相輪をのせるものも含みます)、残欠までも含めると、個々の部材の内訳は、地輪18、水輪38、火輪33、空風輪35となります。水輪の数から推察すると、少なくともこのあたりには、38基の五輪塔があったようです。もちろん、現在のように、一箇所に集中して38基の五輪塔が建ち並んでいたわけではありませんが、それでもかなりの数になります。ただし、いずれも高さが1メートルに満たない小型の五輪塔ばかりで、鎌倉時代にみられるような、大きな五輪塔はありません。火輪の幅も25センチ前後のものが多く、形もよく似ているため、かりに組み合わせをかえたとしても、それほど不自然さはありません。墓地の周辺は、山崩れも多く、現在の組み合わせも、昭和35年7月15日に発生した山崩れのあと、地元のかたが掘り出して現状のように積みなおしたものになります。したがって、本来の組み合わせを保っているものは、皆無に近いとみてよいでしょう。そこで組み合わせを無視し、火輪の形だけを細かく見ていくと、いくつかの異なる点を見つけることができます。たとえば、火輪の軒の反り方をみてください。むかって右端の五輪塔の火輪は、全体的にゆるく反っており、7月28日の記事で紹介した箱根の五輪塔の火輪ともよく似ています。大きさは、横幅が24センチほどしかありませんから、鎌倉時代までさかのぼることはありませんが、室町時代までは、さかのぼるかもしれません。なかなか、いい形をしています。このタイプを、ひとまず、Aタイプとよぶことにしましょう。つぎに、左端の五輪塔の火輪をみてください。こちらは、隅にむかうほど上部の反りが強くなり、隅で反りあがります。このため、軒の上下の高さは、中央と隅では大きく異なります。Aタイプより新しい形で、これは、Bタイプとしましょう。最後に、中央の五輪塔です。この火輪は、軒裏(軒の下端の線)の中央は、ほぼ直線(水平)ですが、隅のところで少し反りあがり、上部は、跳ね上がっています。これは、Cタイプとしておきましょう。このCタイプは、Bタイプより新しいタイプですが、BからCへとある年代によってきれいに移りかわるものではなく、たがいに重なる時期もあります。このため、どちらが新しいか、簡単には判断できません。この点も、五輪塔の年代判定の難しさなのです。ただし、いずれも戦国時代のものとみて間違いないでしょう。つぎに、同じ「小早川墓地」の、別の五輪塔の写真をみてみましょう。 むかって左側の2基は、Cタイプ、右端の五輪塔は、Bタイプのようですが、よく見ると、右端の五輪塔の火輪は、軒裏(火輪の下端)が隅までまっすぐ直線(水平)で造られています。このタイプは、16世紀末の慶長ごろみれら、江戸時代の特徴的な造り方となります。隅をやや斜めに切る造り方も、江戸時代の特徴です。こうした点から、さきほどの3タイプよりは、新しい五輪塔だと考えられます。そこで、これは、Dタイプとしておきましょう。このように、「小早川墓地」だけでも、少なくとも、4タイプの五輪塔があります。ただし、これまでの石塔調査は、おもに宝篋印塔を中心に進めてきたため、それぞれのタイプがいくつあるのか、高さと幅の比率はどうなのか、といった細かな調査はしていません。このため、9月にあらためて調査をおこなう予定です。
2005.08.19

五輪塔の調査にあたって、最大の難関は、年代の特定です。五輪塔は、年号をもたないものが多いため、いつ頃つくられたものなのか、年代を特定することは、容易ではありません。小早川領にも、たくさんの五輪塔がありますが、いまのところ年号をもつ五輪塔は、三原市本郷町常円寺にある「至徳三年」(1386)の銘をもつ1基だけです。これとて、五輪塔の地輪の部分しか残ってはいません。 写真中央の四角い石が至徳三年の銘のある地輪です。銘は、地輪正面のむかって右側にあります(この写真だとわかりにくいですね)。また、多くの五輪塔は、さまざまな部材を寄せ集めて積みあげたものが多く、たとえ五輪塔の形をしていても、それが本来の組み合わせなのか、はっきりしません。なかには、写真のように、五輪塔の水輪を二つ重ねて、そのうえに空風輪をのせているものもあります。なにか雪だるまが王冠をつけているようにも見えますね。 左右の五輪塔は、いちおう五輪塔の形をしていますが、火輪と比べて水輪が大きく、あきらかに異なる五輪塔の火輪と水輪を組み合わせたものになります。空風輪も別物ですね。ちなみにこの五輪塔は、竹原市の「小早川墓地」にあるものです。土井卓治さんは、『石塔の民俗』(岩崎美術社)のなかで、「でたらめに四つ五輪塔形に積んであるものを本来の姿になおし、それが何時の年代のものであるかを決定することは、この道の専門家でさえも至難といより不可能といった方がよい」(105頁)と記していますが、もともと文献史学を専門としてきた「この道の専門家」でもない私にとっては、お手あげの状態です。もちろん、鎌倉時代のものか、戦国時代のものか、その程度の判別ならば、外観をみればできますが、もう少し細かく、何世紀ごろのものなのか、といった細かな点になると、石塔の研究者も、よくわからないのが現状なのです。しかし、この点をきちんと解明しないと、五輪塔を歴史資料として幅広く活用できません。たとえば、室町時代になると、1メートルに満たない小型の五輪塔がたくさん造られます。これは、それまでは、ある特定の階層のものしか手が出せなかった五輪塔を、その下の階層のものたちも造立するようになった(注文するようになった)ことを意味しています。こうした動きが、いつごろから顕著にあらわれてくるのか、どのあたりに多く造られるのか、こうした謎を解くためにも、五輪塔の年代の特定は、避けては通れない重要な作業なのです。ところが、これまでの石塔の研究者は、こうした小型の五輪塔については、それほど関心を向けてはきませんでした。それは、五輪塔の研究が、おもに美術史的な観点から研究されてきたことと関係しています。五輪塔は、鎌倉時代の後期の前半頃(13世紀末)に、ひとつの形が確立されます。そして、室町・戦国・江戸初期と時代がくだるにしたがって、その確立された形は崩れ、小型化していきます。このため、主な関心は、姿かたちの良い鎌倉時代の五輪塔に向けられ、「退化」した五輪塔については、それほど価値を見出してはこなかったのです(これは五輪塔に限らず宝篋印塔にもあてはまります)。しかし、私のように、石塔を美術品ではなく、歴史空間を復元するための歴史資料として活用しようと考えている人間にとっては、たとえ「退化」したものと見下されようと、その時代を読み解く、大切な資料です。なにより、その時代の人々の魂がこめられた墓であり、供養塔であることを、忘れてはなりません。たとえ五輪塔の残欠であっても、それは、その土地に五輪塔を造るだけの人間がいたことを示す歴史の証言者であり、これからも大切に守らなければならない文化財だといってよいでしょう。ところが、こうした残欠まで目配りした自治体史は、ごくわずかで、多くの自治体史は、調査すらまともにしていません。それでは、その地域の歴史をきちんと復元したことにはならないでしょう。したがって、これからは残欠にも目配りした調査がどうしても必要になってきます。さらに、五輪塔を歴史資料として活用するためにも、年代を知るためのモノサシづくりが必要になってきます。また、その前提として、どのようなタイプの五輪塔があるのか、きちんと分類する必要もあります。数が多いため、そう簡単にできる仕事ではありませんが、今年の小早川領の調査は、こうした五輪塔の分類作業を重要なテーマにすえています。
2005.08.17
先日も書きましたが、永禄4年(1561)3月27日、毛利元就は、長男の隆元とともに、三男で小早川家を継いだ隆景のもとを訪れています。元就一行は、隆景の雄高山城(新高山城)で6日間すごしたあと、閏3月6日、本郷を発ち、沼田川をさかのぼって、棲真寺を経由して吉田の郡山城へ帰国しています(「毛利元就父子雄高山行向滞留日記」『毛利家文書』403号)。棲真寺に向かう途中では、「滝を御見物なされ」たということですが、その滝とみられるのが、この瀑雪(ばくせつ)の滝です。高さは、およそ30メートルあります。この滝をみながら山越えすれば、棲真寺です。いまはその道も荒れ果て、歩く人はいなくなりましたが、滝の周囲は、真夏でも気持ちの良い風が吹きぬけています。元就も、たくさんのマイナスイオンをあびながら、滝を見上げたことでしょう。まこべえ隊の調査は真夏におこなうことが多く、暑さには苦労しますが、ときにはこうしたオプションで、疲れをいやしています。
2005.08.13

小早川領内に残る五輪塔のなかでも、大和町(だいわちょう)の棲真寺(せいしんじ)にある五輪塔は、鎌倉時代までさかのぼる五輪塔として、町の文化財に指定されています。地輪が土中に埋まっているため、全体の大きさは測定できませんでしたが、近くに立つ教育委員会の案内板によると、126センチあるそうです。4尺塔として造られた、小早川領内でも、かなり大きな五輪塔です。火輪(軒幅41センチ)は、やや高さがあり、軒も厚みがあって隅が少しそりあがる形をしています。水輪は、球形に近いながらも、最大径の位置は、中心よりわずかながら高い位置にあります。風輪は、半円球ではなく、深鉢状の形をしており(7月28日の記事にある箱根の五輪塔の風輪と同型です)、空輪の最大径は、中心よりやや下の位置にあります。五輪塔の確かな編年がつくられていないため、はっきりとは言えませんが、こうした特長からみると、鎌倉時代の後期の五輪塔ではないでしょうか。梵字を配していますが、空風輪・火輪・水輪の組み合わせが異なりますから、一度ばらけたものを、ある時期に現状のように組み合わたようです。五輪塔がある棲真寺は、寺伝によれば、小早川家の祖先にあたる土肥遠平(とひとおひら)が亡き妻、天窓妙仏の菩提を弔うために承久元年(1219)に建立したといいます。この五輪塔も、土肥遠平が亡き妻の供養のため建立したという伝承があるそうですが(『大和町史』)、そこまでさかのぼる五輪塔ではありませんから、この伝承は誤りといってよいでしょう。また、応海山棲真寺も、その存在が確認できるのは、13世紀中頃からとなり、建長4年(1252)の沼田本荘方正検注目録に「応海寺仏性燈油田三丁」と、その名がみえるのが最初です。その後、弘安2年(1279)に白雲恵暁が再興したと伝えられていますが、手かがりとなる古文書がほとんど伝来せず、寺の歴史はよくわかりません。しかし、『毛利家文書』のなかに、興味深い史料も残っています。永禄4年(1561)3月、毛利元就は、長男の隆元とともに、三男で雄高山城(新高山城)主の小早川隆景のもとを訪れたあと、棲真寺を経由して吉田へ帰国しています。いまも山深いなかにある棲真寺ですが、中世は、隆景の城のある本郷から吉田へ抜けるルートに位置し、小早川家の信仰も集めていたようです。境内周辺には、寄せ集めの宝篋印塔が3基残り、いすれも基礎幅が37センチ前後(37.5、36.8、36.7センチ)あります。小早川の一族にかかわる宝篋印塔なのかもしれません。棲真寺からは、隆景の居城も遠くに見ることができます。画面中央の遠くに見える二つの山のうち、左側の台形の形をした山が高山城、右側が雄高山城です。毛利元就も、ここから隆景とすごした日々を思いだし、吉田に帰国したのでしょうか。
2005.08.11
小早川領にも、たくさんの五輪塔が残っています。これまでの私たちの調査でも、竹原市で125基、三原市本郷町で86基、三原市大和町で90基の五輪塔を確認しています(調査はなお継続中です)。五輪塔や宝篋印塔は、すべての部材を完備するものは少なく、多くは残欠か、寄せ集めです。このため、石塔を数えるときは、石塔を構成する部材―たとえば五輪塔ならば、地輪・水輪・火輪・空風輪ごとに集計し、そのなかのもっとも多い部材を、その石塔の基数とします。たとえ、すべての部材を完備していたとしても、個々の部材ごとに数えることが大切です(もちろん完備したものは、完備したものとして記録しておきます)。このように計算することで、たとえ残欠しか残らなくても、また寄せ集めであっても、もともと存在していた基数を、ある程度は推測できます。写真は、本郷町の船木に残る五輪塔群です。ここには、地輪11基、水輪31基、火輪32基、空風輪は24基あり、火輪の数から、少なくとも32基の五輪塔を確認できます。ただし、このなかには周辺から集めてきた五輪塔も多数あるといいますから、この場所に32基の五輪塔が立ち並んでいたわけではありません。このように、五輪塔や宝篋印塔が立つ場所が、本来の造塔地ではないこともよくあることなのです。しかし、移動したとしても、村内か、せいぜい数百メートル圏内の移動です。そのことをふまえて、あらためてこの写真をみると、五輪塔はたくさんありますが、宝篋印塔は一基もありません。残欠すらないのです。このことから、この周辺を支配していた領主は、宝篋印塔を造塔できる領主(小早川一族)ではなく、その下のクラス、つまり家臣クラスだと考えられます。このように、宝篋印塔や五輪塔の分布を調べることで、その土地と関わりの深い領主の階層をあきらかにすることも可能なのです。
2005.08.08
この記事は、都合により削除しました。
2005.07.31
宝篋印塔ととともに、中世を代表する石塔が五輪塔です。五輪塔は、石のほかにも、金属、木、水晶などで造られましたが、このうち石造の五輪塔は、12世紀後半に登場し、鎌倉時代の後半には形が整って、その後、供養塔や墓標として、広く各地で造られました。その形は、すべては、空・風・火・水・地の五大からなるという仏教の思想に基づくもので、五輪塔の名称も、この五大思想に由来します。このため、五輪塔の各部は、下から、方形の土台を「地輪」(じりん)、円形の塔身を「水輪」(すいりん)、笠を「火輪」(かりん)、その上の半円形を「風輪」(ふうりん)、さらにその上の宝珠形の「空輪」(くうりん)と呼んでいます。このうち、風輪と空輪は、ひとつの石で造ることが多いため、「空風輪」とも呼んでいます。現在までのところ、五輪塔は、中国や朝鮮半島などでは見つかっていません。この点から、五輪塔は、日本の社会のなかで創りだされた、日本独自の石塔であると考えられています。写真は、箱根の芦ノ湖近くにある五輪塔です。このうち一番右側の五輪塔は、地輪に「永仁三年」(1295)の銘があり、高さは2.3メートルあります。左側の2基は、ほぼ同型で、高さもほとんど同じです(2.58メートル、2.55メートル)。おそらく、同時期に造られたものでしょう。その形から、右側の永仁3年の五輪塔より、少し新しいものと考えられていますが、それでも鎌倉時代後期の特徴をもつ、たいへん貴重な五輪塔です。いずれも、重要文化財に指定されています。なお、この3基の五輪塔は、ガイドブックなどでは、虎御前の墓(永仁3年塔)、曾我兄弟の墓として紹介されていますが、この伝承は誤りです。永仁3年塔の地輪に「地蔵講結縁衆」と彫られているように、これは地蔵信仰に基づいて造られた五輪塔であり、曾我兄弟などとは、まったく関係がありません。実は、このあたりは、関東でも有数の地蔵信仰の霊場であり、周辺には、地蔵菩薩磨崖仏や宝篋印塔(相輪は後世の別物)が散在しています。あわせて見学されるとよいでしょう。ちなみに、鎌倉時代、この規模の五輪塔を製作するとしたら、いったいいくらかかったのでしょうか。詳しくはわかりませんが、「厚七寸」ほどの反花座(五輪塔をすえる台座)の価格は、「一貫五百文」かかったと記す古文書があります(倹覚書状『金沢文庫古文書』)。たいへん大雑把な数値ですが、鎌倉時代の1貫500文は、現在ならばおよそ9万円。それが7寸の台座の部分だけだというのですから、8尺5寸の五輪塔を造るとしたら、100万円近くはかかると考えてよいでしょう。宝篋印塔よりは安く造れる五輪塔ですが、それでも、誰もが簡単に造れるものではなかったのです。
2005.07.28
まずは、左に掲げた宝篋印塔の基礎の写真を見てください。すべて、三原市の米山寺にある小早川家墓所の宝篋印塔になります。反花式と二段式といった違いはありますが、側面に限ってみたとき、上の2枚の写真に写る基礎と、3枚目の写真に写る基礎、そして4枚目の写真に写る基礎の形が、それぞれ微妙に異なることに気がつかれましたか。比較的わかりやすいのは、2枚目と4枚目でしょう。4枚目の基礎は、2枚目の基礎よりも、少し高さがあり、輪郭の幅も異なります。このように、基礎の形は、時代によって微妙に異なる特徴をもちます。その違いをひとつひとつ明確にしていけば、宝篋印塔の時代ごとの特徴を記したモノサシができあがります。そしてこの作業は、宝篋印塔を歴史資料として活用していくためには、不可欠な作業なのです。実は、ほとんどの宝篋印塔には、造られた年号が刻まれていません。いつのものなのか、わからないのです。もっとも、中世の宝篋印塔なのか、近世の宝篋印塔なのか、大まかな時代ならば、モノサシがなくても、ある程度の予測はつきます。また、石塔の入門書などには、宝篋印塔や五輪塔の基礎や笠の図を掲げて、個々の時代の特徴を記すものもあります。しかし、これとても大まかな特徴を示したものにすぎません。このため、これまで石塔の年代を特定する作業は、もっぱら様式論に基づいて、調査をする人間の経験とカンに頼っておこなわれてきました。しかし、これでは客観性に欠け、歴史の資料として扱うには、問題があります。これまで宝篋印塔が美術史の分野で注目されながら、歴史の資料として活用されてこなかった大きな原因は、この年代判定のむずかしさにありました。この問題を克服するためにも、客観的なデータに基づくモノサシ作りが必要なのです。しかも、宝篋印塔は、地域ごとに個性がありますから、こうしたモノサシは、地域ごとに作成する必要があります。それでは、どのようにして、基準となるモノサシを作ればよいのでしょうか。私の方法は、次の通りです。まず、調査地域内で年号のある宝篋印塔を確認し、その各部の寸法をできるだけ細かく測定します。たとえば、基礎の場合、計測の対象は、全体の高さの縦横、基礎の側面の縦横、側面にある輪郭の上下左右の幅、側面に彫られる花頭形の円弧の位置などが主なポイントです。このとき、基準となる基礎は、基礎そのものに年号が彫られているものを対象とします。宝篋印塔のなかには、塔身に年号が彫られているものもありますが、現在の組み合わせが本来の組み合わせとは限りません。寄せ集めとなれば、塔身の年代は、基礎とは無関係となります。したがって、誤差を少なくするために、あくまでも基礎に年号が刻まれているものを基準の基礎として定めます。ただし、基礎に限ると、個体数も少なくなります。このため、他の特徴などもふまえた上で、とくに問題がなければ、塔身に年号が刻まれているものも、基準の塔として編年に加えてよいでしょう。いま私が進めている、広島県(備後国と安芸国西部)には、基礎に年号を刻む宝篋印塔が5基あります。すべて14世紀のものとなり、このままでは時代差が読み取れません。このため、塔身に年号を刻みながらも、問題が少ないと判断した7基(14世紀5基、16世紀・1598年1基、17世紀・1619年1基)加えて、12基で編年を作成しています。各部の計測を終えたら、今度は、その数値をもとに、各部の比率を割り出します。これで、ある年代の基準値が決まります。たとえば、14世紀の基礎は、基礎の縦横の比率が0.72以下、基礎の側面比が0.52以下、基礎の上部の比率が0.28以下となり、比較的、横長の形をしています。また、上の輪郭の幅と、下の輪郭の幅の比率が1.2以下、上の輪郭と横(左右)の輪郭の幅の比率が1.8以下、基礎の側面の横幅と横の輪郭の幅の比率が0.13以下となります。さきほどの写真の一番上の基礎は、元応1年(1319年)の銘をもつ重要文化財の宝篋印塔の基礎ですが、この時代の特徴をよく示しています。2枚目の写真の基礎は、銘はありませんが、この時代の特徴をよく示し、米山寺では、元応1年塔につづく、1350年代以前の宝篋印塔とみてよいでしょう。小早川家墓所内では、前列、むかって右から8番目の宝篋印塔になります。また、同じ14世紀の宝篋印塔であっても、年代によって、輪郭の上下の幅が微妙に異なります。14世紀前半の比率は、ほぼ同じなのですが(つまりほぼ同じ幅ですが)、1350年から60年代にかけて、下の輪郭の幅が上の幅より狭くなります。しかし、それ以後は、逆に広くなっていきます。これは、14世紀の基礎をより細かく分類するときに重要なポイントになります。また、横の輪郭の幅は、時代をくだると広くなりますが(1・2枚目の写真と4枚目の写真を比較するとその差は歴然です)、14世紀の基礎は、上の輪郭幅と比較しても、その差は5ミリを超えません。つぎに、15世紀になると、14世紀の比率の特徴を残しながらも、基礎の上部の高さが増し、基礎の縦横比が0.75前後まで高くなります。この傾向は、二段式の基礎よりも、反花式の基礎にとくに顕著にあらわれます。また、二段式の場合、14世紀の基礎は、いずれも上部の段形の端の線が、左右の輪郭の内側の線とほぼ一致しますが、15世紀の基礎は、輪郭の幅が広がるぶん、段形の側線は外側となって、輪郭線とは一致しなくなります。これは、2枚目と3枚目の写真を比較すると、よくわかります。なお、15世紀の基準となる基礎は確認されていないため、この時代の基礎は、14世紀と16世紀の基準塔と、これまでの調査対象としてきた基礎の比率などを参考にして、割り出しています。ちなみに、3枚目の基礎は、小早川家墓所内では、2枚目の基礎のむかって右隣りにある宝篋印塔の基礎となります。つづく16世紀にはいると、基礎の高さはさらに増し、16世紀中頃の基礎の縦横比率は0.78前後、16世紀末には0.8前後となります。また、側面の縦横比も、0.55前後のものが登場してきます。輪郭の幅も、下や左右の輪郭の幅が広がり、上の輪郭と下の輪郭の比率は、1.6前後以上となり、下の幅が太くなります。上の輪郭と横の輪郭の幅の比率も、2.2前後以上となり、横の輪郭の幅が広くなっています。4枚目の基礎は、無銘の基礎ですが、こうした特徴をもちあわせていますから、16世紀、それも16世紀末の基礎とみてよいでしょう。この基礎は、小早川家墓所内の前列、むかって一番右側にある宝篋印塔のもので、小早川隆景の塔といわれていますが、年代的にも、隆景の供養塔とみてよさそうです。宝篋印塔の年代は、こうした各部の比率や、花頭形の比率・特徴など、いくつものポイントを押さえたうえで、最終的に年代を特定していきます。このブログで紹介している無銘の基礎は、こうした手順をふんで年代を推定したものなのです。ただし、ここに紹介した基礎の数値は、あくまでも広島県の西部における基礎の編年です。同じ広島県でも、東部は異なる特徴をもち、同じ瀬戸内海でも、美作や播磨では同時期のものでも、異なる比率がみられます。このように、宝篋印塔は、地域ごとに個性があるため、そのモノサシも、地域ごとに作成する必要があるのです。さらに細かな編年や記事の引用などは、「安芸国小早川領の宝篋印塔の編年試案―米山寺の宝篋印塔を素材としてー」(『荘園と村を歩く2』校倉書房)を参照してください。なお、論文中p221に掲載した表2のうち、銘部の部分に誤りがありました。以下のように訂正します。三原市沼田東町 米山寺 元応1年の塔 (誤)身身→(正)塔身三原市小泉町 吉井家墓 建武1年の塔 (誤)塔塔→(正)塔身
2005.07.20
前回(7月8日)の記事に掲載した竹原市の東野の絵図をもう一度見てください。画面のほぼ中央部に描かれる山すその尾根のあたりに、「浄光庵(ジョウコウアン)跡」という記載があります。ここには、浄光庵という小さな寺があったようですが、絵図が記された19世紀初頭以前に廃寺となっていたため、寺に関する情報は何も伝わっていません。元禄15年(1702)の「竹原東野村指出帳」にも記載されていませんから、江戸時代の早い段階に廃寺となってしまったようです。しかし、その場所は、ある程度は確定できます。いま、青田の谷から山にはいった場所に、むかし上閑(ジョウカン)さんが住んでいたという屋敷跡があります(現在は山林です)。現地での聞き取りによると、上閑さんの屋敷跡には、古くは寺があったという伝承があるそうです。「ジョウコウアン」と「ジョウカン」、似てませんか。おそらく上閑さんは、浄光庵の跡地に屋敷を建てたことから、ジョウカンと名乗るようになったのでしょう。上閑さんの屋敷跡からさらに山にはいった場所には、無縁墓地があり、宝篋印塔の基礎や五輪塔の笠なども残ります。この点からも、上閑さんの屋敷跡あたりを、浄光庵の跡とみて間違いないでしょう。それでは、浄光庵は、いつごろ存在したのでしょうか。その手かがりは、現地に残る宝篋印塔や五輪塔です。左上の写真は、そのなかでもとりわけ造りのしっかした宝篋印塔の基礎で、上部は竹原市内では数少ない二段式です(基礎1)。横幅は38.6センチあり、縦横の比率や格狭間の特徴、輪郭の上下の幅の比率や上部の段形側線と輪郭の横内側線が一致することなどからみて、14世紀後半の基礎となります。また、この基礎が残る墓地から少しのぼったところにも、宝篋印塔の基礎や五輪塔の笠などが埋もれています。宝篋印塔の基礎は2基あり、いずれも上部は反花式で、横幅は、35.5センチ(写真未掲載)のものと、36.7センチのもの(写真左下・基礎2)になります。このうち、基礎2と、さきほどの基礎1の格狭間の花頭形(矢印の位置)を比較すると、基礎1は左右にほぼ直線的に開く傾向が読み取れるのに対し、基礎2は、左右にゆるやかに傾斜して開くという違いが読み取れます。この傾斜タイプ(B形)は、直線タイプ(A形)とともに14世紀からみえるものできますが、側面の縦横の幅の比率は、基礎2が0.51、基礎1が0.49となり、基礎2のほうが、わずかに高くなります。このことは、基礎2のほうが、基礎1よりも新しい基礎であることを意味しています。また、花頭形の両端にある円弧の位置や、脚間の位置などは、14世紀後半の特徴を持ちます。しかし、側面にある輪郭の上の幅と下の幅の比率が1.35あることから(14世紀は1.2以下)、いまのところ15世紀前半の基礎と考えています。ちなみに、15世紀にはいると、基礎の上部の高さが増して、全体の縦横の比率が0.75前後となりますが(14世紀は0.72以下)、先の調査では、この基礎の全体の高さを計測していません。このため、今年の夏の調査で、あらためて各部を細かく計測しなおしたいと考えています。この場所には、宝篋印塔の残欠のほかにも、五輪塔の水輪1基、火輪1基、空風輪3基が残ります。このうち火輪(写真右)は、高さ13.8センチ、幅21.2センチほどで、小型の五輪塔の残欠になりますが、その形からみて、小早川墓地にある戦国期の五輪塔よりも、古いタイプとなります。また、上閑屋敷へむかうHさんの家の近くにも、宝篋印塔の基礎が埋もれています。こうした点からすると、浄光庵は、14世紀後半から15世紀にかけて存続し、戦国時代の終わりごろまでに廃寺となったと考えられます。また、基礎幅38.6センチという宝篋印塔の大きさから判断すると、塔の造立者、さらには浄光庵の開基は、小早川氏の一門、そのなかでもとりわけ有力な一門とみてよいでしょう。いまこの一門が誰なのか、明確にはできません。しかし、青田の谷の出口近くにかつて住んでいたMさんの屋号は、「兼久」(カネヒサ)といいます。谷には「兼久山」があり、谷の奥にあるサエモン池とその奥の池を、Mさんの家では「兼久池」と呼び伝えてきました。どうやら兼久は、谷を押さえる中心的な家だったようです。小早川一門に兼久という家はありませんが、包久(カネヒサ)ならばいます。包久は、小早川一門のなかでも、草井(クサイ)と並ぶ筆頭の家でした。おそらく兼久とは、この包久をさし、その系譜につらなる家とみてよいでしょう。そうなると、小早川一門の包久は、青田の谷の出口あたりに屋敷を構えて、谷を押さえていたのかもしれません。そして、浄光庵は包久の寺であり、宝篋印塔の造立者も包久だったのかもしれません。谷の出口あたりに一族筆頭クラスの包久が住み、谷を出たすぐ北側の山麓の諏訪迫(上青田)に小早川家の当主が住む、そんな風景がうかんできます。このように、たとえ記録がなくとも、宝篋印塔を通して、歴史の風景を復元していくことが可能なのです。
2005.07.10
広島藩は、文政1年(1818)、一定の様式に基づいて、領内の町や村から、その地域の地誌・古文書・旧記・村絵図を提出させ、膨大な地誌をつくりました。文政8年(1825)に完成したこの地誌は、『芸藩通志』(げいはんつうし)とよばれ、いま広島県の歴史を調べるうえで、不可欠な基本史料となっています。なかでも村ごとに記された絵図には、いまでは失われてしまった地名や寺跡などが記され、歴史の風景を復元するうえでも、たいへん重宝します。竹原小早川家の本拠となる東野村の絵図をみると、「小早川墓地」に相当する「後藤兵衛墓」と記されるすぐ右上に、「小早川興景夫婦墓」として2基の石塔が描かれています。これは、6月8日の記事で紹介した「ダイカン」「コウカン」にあたります。このことから、19世紀には、いまと同じように、上下2段からなる墓域が形成されていたことがわかります。また、墓地の前には、「正の堂 薬師」(ショウノドウ ヤクシ)・「長福寺跡」(チョウフクジアト)といった記載もみえます。「小早川墓地」は、いまも少し小高い場所にあるのですが、そこを降りて、村側にむかう道を数10メートルほど進むと、かつて観音堂が立っていたという一画につきあたります。観音堂は、昭和30年代初頭までは存在し、神楽も奉納されていました。おそらくこの観音堂が、絵図の「正の堂」にあたるものなのでしょう。東野村は、平安時代から、京都の賀茂御祖(かもみおや)神社(下鴨神社)の荘園だった竹原荘(たけはらのしょう)に属し、賀茂神社も勧請されました。絵図の左側には、この賀茂神社が八幡社とともに、「加茂・八幡」と記されています。賀茂神社の氏子は、東野のほか、西野・仁賀(にか)に広がり、この範囲が竹原荘だったのでしょう。その後、鎌倉初期までに、竹原荘に隣接するように、同じく賀茂御祖神社の荘園として都宇荘(つうのしょう)が成立します。このことから、竹原荘は本庄(ホンジョウ)、都宇荘は新庄(シンジョウ)ともよばれました。東野の東を流れる賀茂川の対岸(絵図では画面を斜めに流れる賀茂川の下側)は、いまも新庄とよばれ、都宇荘は、このあたりを中心とした範囲にひろがっていたのでしょう。なお、竹原小早川家の城となる木村城は、新庄にあります。これに対し、竹原荘に属した東野村は、村が藩に提出した「国郡志下調書出帖」(文政2・1819年)によると、「往古は本庄村」とよばれたそうです。絵図に描かれる「本城山」も、もとは「本庄」の山という意味で、「ホンジョウヤマ」とよばれていたのでしょう。それが江戸時代のある時期に、ジョウという音から、城があったと誤解され、「本城」の字が当てられたようです。実際、この山は、どこまで登っても、城跡をうかがわせる遺構は見当たらず、城があった山とみるわけにはいきません。絵図に記される「正の堂」も、本来は、「本庄村のお堂」という意味から、「ショウの堂」とよばれていたのかもしれません。その名前からすると、村の中心地として機能していたのでしょう。お堂の前の土地も、かつては「庄の堂の前」と呼んでいたものが、縮まって「正の前」とよぶようになったと考えられます。正の堂と隣接して記される長福寺との関係はわかりませんが、この寺は、正の堂との位置関係からみて、観音堂跡のすぐ横に住まわれるSさんのお宅があるあたりにあったようです。寺は、正徳2年(1712年)の時点(おそらく元禄年間以前)では、もう廃れていたため、詳しいことはまったくわかりませんが、小早川墓地から、正の堂、そして長福寺へと、ひとつの道で結ばれていることからすると、この墓地は、長福寺とかかわる墓地だったのではないでしょうか。おそらく正の堂も、長福寺の観音堂であったものが、寺が廃れたあともそのまま残り、村人に大切に守られてきたのでしょう。その長福寺跡とみられるSさんのお宅のすぐ南隣が、Tさんのお宅、つまりあの小早川家の館跡推定地となります。このような位置関係から判断すると、このあたり一帯は、領主の空間であったとみてよいでしょう。「国郡志下調書出帖」によると、19世紀前半のころ、「小早川墓地」の一帯は、「殿様建テ」と呼ばれてたそうです。この「建テ」を、館(たて)の当て字とみて、領主の館を意味すると考えれば、このあたり一帯が領主の空間であった可能性は、さらに高まります。ただし、現在の墓地の空間は、領主の館を建てるほどの空間はありません。このため、もともとは墓地を含むこのあたり一帯をさす呼び方だったのかもしれません。それが、この墓地にある宝篋印塔は、殿様が建てた墓だという伝承と結びついて、「殿様建て」という漢字に置き換えられ、その後、墓地の一帯だけをさす地名として残ったのではないでしょうか。さらにいえば、長福寺も、本来は、領主の館に付随したお堂が前身であったとも考えられます。そして、この「殿様」とは、小早川をおいてほかにはいないでしょう。その意味では、このあたり一帯を小早川家ゆかりの土地であったとみなして、まず間違いないでしょう。絵図には、正の堂のすぐ北側(絵図右側)には、「金九郎」(カナクロウ)とよばれる場所が記されています。ここには円正輔貞という鍛冶が住んで金糞を捨てていたという伝承が残ります(文政の書出帳)。東野の周辺には、鉄生産に関する遺跡や地名が多く残りますが、この金九郎には、領主に直属する鋳物師の集団が住んでいたのかもしれません。館跡推定地の前は、江戸時代は「馬場垣内」(ババガウチ)とよばれていました。いまこの地名は、まったく忘れ去られてしまい、正確な範囲は特定出来ませんが、館の前に馬場が広がっていたことが地名として残ったものなのでしょう。その北側には、「古町」(フルマチ)の地名もみえます(明治時代は「町田」とよばれました)。すでに水田地帯になっていますが、ここはかつて木村城の城下町が広がっていた場所なのでしょう。地名は、こうした歴史の原風景を復元する上で、大切な手かがりをあたえてくれる文化財でもあるのです。
2005.07.08
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