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アントニオ猪木さんじゃないけれど、、、、。明日から数えて124日目が平成31年度の、大学入試センター試験の第一日目です。ということで、センター試験受験生の皆様にとって残されている日は123日。(ちなみに今高校2年生で平成31年度にセンター試験を受験される皆様の残り日数は、488日)「人はいつか必ず死を迎える」という何をいまさら的な、普遍の真理を例に挙げなくとも、世の中にある様々なものには締め切りやら賞味期限やら消費期限やら、いわゆる「とりあえずここまで、ね」という区切りがある。受験生でいえばその一応の区切りとなるのが入試の日、なんだろう。物事によって区切りの時までの残された時間が異なるように、受験生にとっても第一志望先が異なれば試験日も異なるので、当然残されている時間は異なるのだけれど、いずれにしてもそれほど時間に余裕があるとまでは言えないだろう。で、いま「ぶっちゃけ、かなり、焦ってる・・・」という大学受験生たちは、「これから僕は(私は)どうすればいいんでしょう?????」的な質問を、したくなったりするのかもしれません。仮に塾生から同様の質問を受けたとしたら「(入試で1点でも多く取るために)やれば〜!?(やれよ!!!!に近い感情でありつつも明るく軽やかに)」と、僕はうちの受験生たちには言いますが、悲しいことに、このくらいの時期にこんな感じの質問をしてくる受験生の結果は、「はぁ・・・・・・」となってしまうことが少なくはない、、です。(注:質問する前に前フリがある場合は別ですが)よっぽどとんでもない潜在的な力を持っていないかぎり、明らかに足りない時間を補うことはほとんど不可能です。普通の能力の亀は競争して普通のウサギには勝てることもありますが、空飛ぶ亀(ガメラ?)レベルじゃないとフライング上等!なウサギには勝てません。と、これで終わると「どよ〜ん」とした空気に包まれて、きわめて鬱な気分になりますので、以降僕は淡々と善後策を話すんですが、内心は「いまこんな話してる時間ももったいない・・・」と感じてます。ま、それでも、気がつかなきゃまずいことに、遅まきながらでも気がつけば、多少は結果が「悪し」から「よろし」くらいにまでは、ならないことはないんですけど、ね。(入試終了まで相当にツラい日々にはなりますが・・・)結果はさておいて、入試が終わった後に悔いが残らないように、受験生の皆様におかれましては日々を大切にお過ごしくださいませ。
September 27, 2018
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私がよく見ていた連続ドラマの多くは、刑事もの、探偵ものが多かったような気がする。「太陽にほえろ」、「大追跡」、「Gメン75」、「俺たちの勲章」、「探偵物語」、「傷だらけの天使」など。(トシがバレてしまうのだろう:汗)つらつらと昔の記憶を回想していて改めて気がついたことがある。それは私が好んでよく見ていたドラマは、連続ドラマというよりも、むしろ一話完結型ともいうべきドラマであったということだ。連続していたのはドラマの中の世界の時間のようなものであり、ある一つの大きなストーリー(わかりやすいカタチの)があって、その大団円へと向かって進んでいくというようなものではない。もちろん、どのドラマにおいても登場人物の設定というものがあり、ドラマ自体の持つトーンというか、奥底に流れる連続性はたしかにあったのではないかと思える。(この感じ方には確固たる根拠はないのかもしれないが)私が好んで見ていた、上に書いたドラマをご覧になっていた方々には、おそらくは私のものの見方や考え方が、何となくわかるのではないだろうかという気がする。だからといって、それだけで私の全てがわかるということは、私自身でないかぎり、いや、正直なところ私自身にも断言することは難しいのだが、、、。このような自己観察擬きから推察するに、私自身は連続ドラマが好きであるのか。おそらくはあまり好きではないのかもしれない。とりわけ、予定調和的にハッピーエンドとなることが、暗黙の了解(いわゆる"お約束")として強制される類いのものは。閑話休題、やがて人生最大の夏休みと称されるバラ色のモラトリアムは過ぎて、私は社会人となり、それまでのアゴ(大口)をたたく生活から、他人からアゴで使われるような立場になった。怒声や罵声をエンドレステープのように聞かされながら、犬のように働き、丸太のように眠る日々が始まった。もちろん毎夜決まった時間に家で飲んだくれながら、連続ドラマに一喜一憂するようなことは夢想することさえ叶わない。冷静に考えてみると、これはかなり矛盾した状況ではあった。なぜなら、自分の会社が持っているクライアントが提供している番組を、扱いを持っている広告屋の担当のくせに見ていないのであるから。(でも、これがリアルというものなんだろう)見て来たようなウソをつく。そんなことを要求されるという側面も、決して珍しくはなく見受けられる世界で、働く者たちの多くが抗い難くもそうなってしまうように、私もいつのまにか「食えないリアリスト」へとなっていった。それから、私が連続ドラマをあまり好まない理由は他にもある。そのもう一つが「自分の性格」にあることは否定しない。いつも決まった時間に決まったことをする。それが自分の意志ですることなら多少は我慢できようが、もしもそれが強制されてのことであるのなら、その瞬間に温まりかかっていた私の熱は、冷凍庫に眠る瞬間冷凍されたマグロと化してしまう。そんなことからも私は、いつの間にやら連続ドラマを熱心に見るという行為と疎遠になった。今の私の仕事柄、ある程度は生徒たちの興味を持ちそうなことを、多少は知っておいたほうが必要だと感じることはある。ただ、それは多少の「多」ではなくてもいいようだ。映像の技術の進歩と比較して、制作されたドラマ自体の質は、比例しているというよりは、むしろ・・・・・・・・(自粛)ドラマに憧れる人生は幸せでもあり、不幸せなことでもある。ハッピーエンドが保障されているドラマの主人公になることは、月曜日のスポーツ紙を前週の土曜日の早朝に、手に入れた競馬ファンになることと等しく、誰もが一度は夢想するようなことに違いない。ただサイフが膨らむことのみを目的とするのならば、これは至上の出来事であろうから幸せなことなのかもしれない。けれども、ギャンブルというものが内包している、否、ギャンブルというものの本質を味わうことに、喜びを感じる者にとっては不幸せなこと極まりない。他人の書いたストーリーを演じることに喜びを感じるのであれば、私ならばいっそのこと見る側ではなくて、見せる側になりたい。でも、もしもそうするのであれば、見えないところにある見せたくはない(見せられない)ものを、見る(見せる)覚悟が必要になるのは明らかであろう。とりとめのないことをいつも以上に冗漫に書き散らしてしまったが、それはまぁ、凡百溢れている、巷間の連続ドラマの具現化した例ということで、、、。来週に続く・・・・・・・・・・わけはない。(苦笑)(Last updated October 20, 2008 10:22:26 PM)**************************************************************************************(ここから追記:2018.09.26)最近は連続ドラマに限らず、毎週決まった時間に放映されるテレビの続き物を、ある程度タイムリーに見ることができる生活になってはいるんですが、それでも1話完結タイプではないものを毎週決まった時間に見ることはあまりありません。(ヨメの見ている某国営放送の連続テレビ小説的なものは、見るともなしに見ますが)連続ドラマであれば大抵は放送終了後に撮り溜めしておいたものを一気に見ていき、面白い!と感じたものは最後まで、そうでないものはその時点までで終了、、、そんな見方をしております。「ブレイキング・バッド」というアメリカの連続ドラマは、今まで見た連続物の中でマイトップ3に入る面白いものでした。(内容はけっこうアレですけど・・・・)ごくごく最近はケーブルTVで、「デンバー動物クリニック」や「スゴ腕動物ドクター」を楽しんでいます。ということで、また。
September 26, 2018
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確かなデータを基にしたわけでもなく、断定はもちろん出来ないのだけれど、両親に「好き嫌い」が多い家庭で育った子には、「好き嫌い」が激しい子が多いように個人的には思う。例えば食べ物。単純に考えて、料理を作る人(母親でも父親でもいいけれど)が嫌いなものが家庭で食卓に上ることはあまりない。無意識のうちに嫌いなものを使わないようになるからだろう。食べ物に限らず、何が好きで何が嫌いでということはあくまでもその家庭、あるいは個人の自由であるから、他人がとやかく言えることではない。ただ僕は、嫌いなものがいっぱいある人の人生と、好きなものがいっぱいある人の人生とでは、生きる楽しさが「かなり違う」のではないかな、そんな風に思っている。好きになるのにはさして理由はいらないように思うが、嫌いになるのには何らかの理由があると思われる。論理的な理由、生理的な理由、どちらもあるだろう。ただ、好きになったものに対しては大抵「深く、広く」追いかけていくものだから、好きな理由も明確になっていくのだろうが、嫌いになったものに対しては、もうそれ以上は追いかけていかなくなるし、排除しようとまでするだろうからおそらくはそれでお終い。好きから嫌いへ。そして嫌いから好きへ。この2つはAからBへという図式は同じであるが、それこそ天と地、月と鼈、水と油ほどの違いがある。好きから嫌いへは、自分の中で変換していくものだが、嫌いから好きへは、自分からは変換していき難いものだ。好きから嫌いへは一瞬あれば事足りるが、嫌いから好きへはそうはいかない。嫌い→好きじゃない→嫌いじゃない、という紆余曲折から、ようやく好きというところにまで辿りつく、ように思う。物事を好きに近づけていくこと。それが僕の仕事のように考えている。アレは好き、コレは嫌いという単純な二元論的思考でしか考えられない子供(たまに親も)に対して、同じように二元論で対抗したところで結局はそれは単なる自分の考えの押し付けにしかならない。仮に「結果」だけに限定して考えればいいのかも知れないが、根源的な解決にはならないように思えてならない。だから私はなるべくそうはしないようにしている。僕にも好き嫌いは少なからずある。ただ、そのどちらに対しても「力ずくで排除しよう」とはしない。なぜなら嫌いなものに対して嫌いだといったところで、嫌いなものが雲散霧消するわけでもないし、腹が立つか、あるいはブルーな気分になるくらいが関の山だと思うからだ。それに、嫌いなものに対して語っている自分の顔は醜いと思うし、そんな自分の顔を見ている他人は面白かろうはずもないだろう。だから僕は仕事に限らずというか、全てに対してそう考え、生きている。嫌いなものに対して過剰反応してしまうのは、人間の生理的欲求であるのかも知れないが、僕はそれは先天的なものというよりは、むしろ後天的なものであるように思えてならないのだが、まぁ、どちらでもいいのかもしれない。とりとめもなく書いてはみたけれど、人それぞれ色々な考え方、生き方がある。誰もが同じようである必要なんてないし、みんな違って、みんないい、それでいいのではないだろうか。どうしても嫌いなものがあるのなら、いちいち腹を立てるよりも、華麗にスルーしていればいいのではないだろうかと僕は思うのだが、怒りがパワーの源になる人もいるのだろうから、こんな私の戯言も余計なお世話なのかも知れない。
September 26, 2018
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先週の土曜日は22日(夫婦の日?!)だったからというわけでもなかったのですが、予てからの予定通りB’zさんのライブを楽しみに出かけてきました。大変素晴らしゅうございました!コンサート後、帰宅するのに多少時間がかかりましたが無事我が家に。こんなんなって待っていたであろうろりおに、遅めの晩御飯をあげてから、ヨメと二人でコンサートの余韻を味わいつつ晩酌タイム。幸せな1日でした。
September 26, 2018
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久しぶりに味の素スタジアムまで行ってきます。空模様が気になるところではありますが、降っても晴れても曇っても、それはそれで、、、。ということで、こんな装い。。。
September 21, 2018
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ひとつ前のものと反対に、今回はポジティブ発言についてちょっとだけ、、、。僕は個人的、きわめて個人的な考えですが、根拠のないと思われる(客観的に判断してですが)、「ポジティブな発言」が「ネガティブな発言」と、甲乙、いや丙丁つけ難いほど好きではありません、というよりはむしろ「嫌い」です。思考とその思考による行動への影響を鑑みると、極端に過ぎるかもしれませんが、ネガティブ思考のほうがポジティブ思考に比べて、「失敗した時の被害が少なくなる」と、僕は思うからです。とはいえ、何かの目標に達するためには、今居るところから目標地点まで移動しなければならないので、ナメクジの牛歩では炎天下では着くまえに干からびてしまうので、カメのスキップくらいの早さは必要です。反対に周りを良く見ることなしに猛スピードでアクセルべた踏みでも、正しい道をきちんと進んでいなかったら、とんでもない所に着いてしまったり、崖から勝手にダイブ!、、、しないとも限りません。ポジティブとかネガティブとか、短絡的に考えたり行動したりするんじゃなくって、冷静かつ客観的に現状を見つめたうえで、目標地点まで地道に歩を進めるのが、最終的には理想なんじゃないかな~と、、、。あ、ポジティブ=目標達成への揺るぎない意志&行動(努力)ネガティブ=強い危機意識への不安によるもの&自己の過小評価ポジティブ、ネガティブの元が上のような感じで、しかも両方持ち合わせていて、自らが志向する方面への素養(才能)もある人なら、「プロフェッショナル」になれる可能性がかなりあると思いまーす。(笑)ということで、おやすみなさい。
September 20, 2018
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ネガティブ発言。お勉強の苦手な子たちにはつきものですね。 世の中にいるいわゆるお勉強が嫌いで、その結果として学力不振に陥っている子は、 仕事柄今までにかなり多くの数(ちょっと大袈裟か?)を見ておりますが、 彼らの多くは事あるごとに、 「そんなの無理っ!!!」 「どうせ私には出来ないし・・・」 「これやったからって何がトクなの?」 (以下略。余りにもブルーな気分になるので) 否定的な、後ろ向きな、いわゆるネガティブな発言をすることが多いように感じます。 「勉強しろよ!」と言われ続けてきて、 最早条件反射の域を乗り越えてしまったかのように、 彼らは自分の耳を蛤のようにぴたっと塞ぎ、 同時にネガティブな発言をし、どうにかその場をやり過ごそうとしてきた。そう、彼らはかなり手強い存在です。 私の彼らに対する対応は、 言うなれば「ネガティブ返し」。マイナスである彼らのネガティブな言動は、かなり強烈なパワーを持っているので、 中途半端なプラスでは太刀打ちすることができません。そこで、マイナスにマイナスをぶつけて「プラス」に、そう私は考え、対応するというわけです。(^^) 「やめちまえー」ではなくて、 「やめちゃえば~」ですし、 「ツライ~」ならば、 「ラクしたら~」といった感じです。 殊の外効き目はあるようですよ、特に試験前には。(嗤い)きつい話はきつい顔やデカイ声でぶつけるよりも、さりげなく笑顔で呟く方が、 耳にもココロにも突き刺さっていく。 私はそう思っています。 狭いスキマには、 楔よりも針の方が入りやすいしね。ムダなチカラも要らないし・・・。 誰にでもできる!!!!!とも思いませんが・・・(やや、オレちゃま?)
September 20, 2018
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ゲリラ的な豪雨が治まったようなので、なんとなく、久しぶりに、レコード棚からウェス・モンゴメリーのアルバム、「ダウン・ヒア・オン・ザ・グラウンド」を引っ張り出してきて、BGMにしながら今これを書いている。ろりお(愛犬:セター♂2歳過ぎ)は穏やかに寝ているようだ。と、実況中継はさておいて、、、。せっかく久しぶりに、何かそれなりにまともそうなことを書く気分に珍しくなっているので、ちょっと書いてみることにしよう。******************************************何かをしよう、何かをしたい、何かになりたい、何かが欲しい、、、、、、ま、何でもいいんだけど、ヒト(動物も)が何かを欲求するときって、その欲求を起こしている気持ちというか気分のようなものが、大抵の場合はあると思われます。そしてその欲求を満たすまで自分を動かし続ける、エンジンとガソリンみたいなものが、いわゆる「モチベーション」(動機づけ)と呼ばれるものですが、この「動機づけ」のうち、社会的動議づけには、達成動機づけ、内発的動機づけ、外発的動機づけ、というものがあります。詳しい話は専門家におまかせするとして、塾屋の立場から僕が「動機づけ」について考えてみると、目の前にいる子たちをどうにかして、「内発的動機づけ」へと誘いたいとするのだけれど、そこへ向かわせるために「外発的動機づけ」を、ついついしそうになる、、というか、してしまうことがあるなぁ、、、と、ココロに汗を感じつつも表現せざるを得ない。ただ、外発的動機づけと内発的動機づけは両立しうるものなので、その子の中に火のつくものがあって、これまで誰も着火を試みていなかっただけで、本人も燃え始めてエンジンがかかる、、、、ということもあるので、外発的動機づけという奴も忌み嫌うほどの悪者ではないのだろう。とはいえ、外発的動機づけに基づいた行動は、多くの場合あくまでも目的を達成させるがための行動であるので、内発的動機づけに基づいた行動に比べて、自発性、継続性、効率性といった面でどうしても劣るのは否めない。最初のとっかかりにする僕らの外発的動機づけを、どうやって自律性の高い外発的動機づけとし、内発的動機づけと肩を並べられるものにするか。これが僕らが解決できないまでも、目指すべきものなのではないかな~と、個人的には思いつつ、日々格闘しているのですが、、、、20000ピースにばらけている雪景色のジグソーパズルを完成させるような感じで、なかなかタイヘンなことではあります。。。限られた時間でお客様に満足というか納得できる結果を、提供しなければならない仕事であるのはわかっている。ただ、具体的なモノを売る仕事ではないし、その時だけ、結果さえ出れば、それでいい、、、、、って、そういう仕事でもないんじゃないかな?と僕は思うけど、、、。まぁ、いろんな考え、いろんなカタチ、いろんな人たちが塾やら予備校やら家庭教師やらをされていて、それぞれに思うところがあって、それぞれにそうしているんだろうから、よそ様の考え方ややり方に対してどうこう言うつもりは、僕には全くございません。(笑)最終的に、「きっかけは どんなフジュンな動機でも・・・・」に続く、下の句になってくれればいんでしょうね。(ヨメの出した本に載ってます:宣伝です、絶版だけど)
September 17, 2018
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ちょっとマジメに、うちの塾というか、私のモットーについて書くことにしませう。 **The great teacher explains. The superior teacher demonstrates. The greatest teacher inspires.(William A. Ward)僕はこの言葉が好きです。 「良い先生は説明をする。もっと良い先生はやってみせる。サイコーの先生はやる気にさせる」、と勝手に翻訳&理解しているのですが、その通りだと思っています。 仕事柄、説明をする、やってみせる、というのは、まあ実践できてはいるつもりなのですが、やる気にさせるという部分については日々試行錯誤の繰り返し。百人の生徒さんがいれば、百通りの方法があるわけで、なかなかスパッと上手くいくことは難しいようです。でも難しいからこそ、やりがいもあるし、楽しさもある(やや自虐趣味か?)わけです。 私は自分のことを「先生様」であるとは少しも思っていません。威厳も重厚さも迫力も、、、欠如しているでしょう。私とうちの塾の生徒さんたちとは、私がたまさかこのような仕事を生業としていて、彼らと縁があって一緒に時を過ごしている。そして私がちょっと早く生まれていて、ほんの少しだけ経験や知識があるから、今の関係になっているだけのことだと思っています。ですから当然、「教えてやっている」というような気持ちは毛頭なく、どちらかといえば「教えさせていただいている」というか、「ちょっと道筋をつけている」、あるいは「ちょっと背中を押してあげている」、そんな気持ちで彼らと接しています。お勉強が出来るようにする。これが第一義の目的ではありますが、出来れば単なる知識やテクニックの習得ではなく、生涯何らかのカタチで彼らの役に立つものを残してあげたい、というのが私の希望なのです。 私は到底尊敬に値するような人間ではないので、 「反面教師」でもいいのかな、とも思っています。 私を見て、私と接して、 軽々と踏み越えていってほしいです。 私はカンタンに踏み越えられないように、そーっとガンバリますから、、、、。 負けず嫌いなんで、、、、。(^^)ということで皆サマ、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
September 17, 2018
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何事においても、その道を究めるためには、 「***おたく」になる必要がある。 「***おたく」という言葉がいやなら、 「***バカ」でもいいし、 「***マニア」でもいい。 「おたく」になるうえで、心しておくべきことはただ1つ。 「他人に対して自慢をしないことだ」 「自分はこんなにスゴイんだぜ!どうだ???」という感じになってしまうと、それこそアキバに生息している一部の方々と同じように見られてしまい、ちょっと敬遠される存在になってしまう。 「おたく道」は、あくまでも自分のものであって、他人は関係ないのだ。ナゼ「おたく」になることを薦めるのかといえば、「おたく的パワー」を持つことは、絶大なエネルギーになるからだ。例えば「フィギュアおたく」の祭典は冬のオリンピックであるだろうし(まあ別の”フィギュア”もあるが)、「歴史おたく」が昂じると歴史研究家になる、といった具合だ。 文字通り「芸は身を助く」という状態になっていく。もちろん「道」を究めるためには、それ相応の努力が必要なのは言うまでもない。そしてその努力は自らが自らに課しているものだ。決して他人様から強制されているものではなく、またそうすることによって得られるものの価値も、自分にとってのものでしかない。でも、彼らは自ら選んだ道を、自ら追い求める。結果もさることながら、過程までも楽しんでいる。この姿勢は賞賛に値するものではないだろうか。さて、話はかわって、、、。お勉強に関しても、「おたく的素養」は必要だ。まず第一に「知的好奇心」の重要性がある。 何かを知りたいと思う気持ちがないところに、何かを知らしめるのは、かなり至難の業である。目的や動機の如何を問わず、「知りたい、わかりたい」というものを持ってさえいれば、多少は何とか出来る。目的や動機は不純なものでも全く構わない。逆に不純な動機の方が長続きするくらいである。 冷静に考えてみて、 「ナゼ成績をあげたいのか」、「どうして良い学校に行きたいのか」、、、というのも、いうなれば不純な動機と言えるのではないだろうか。 「ただ純粋にそのことを知るのがシアワセ♪♪」という人を探す方が困難であろう。いないことはないのだけれど、、、、。 第二に「こだわり」の重要性だ。 「おたく」にはこだわりがある。それは、「より深く、より詳しく」である。ある1つのことを知ったら、それに関連することも併せて知ろうとする。それも可能な限り詳しく知ろうとする。 「ダブルアクセル」が出来たら、次は「トリプルアクセル」という具合に、常に一段クリアできたら、もう一段高いところを目指す。このあくなき向上心があってこそ、道を究めていけるのだ。お勉強においても、こだわる気持ちは必要不可欠。 真の意味での「スーパーおたく」になれたら、自分で他人にアピールしなくても、周りが勝手に評価をしてくれる。お勉強もそれはおんなじだ。だから何かを見つけて、それを一生懸命に追っかける。ずっとずっといつまでも、そしてどこまでも追っかけた先には、、、、きっと自分が目指していたものが見つかるはずだ。それは「入試合格」かも知れないし、テスト100点かも知れない。さあ、今日から「おたく」を見習って、「プチ・おたく」になろう! Last updated February 27, 2006 04:02:32 PM
September 17, 2018
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うちでは現在もアナログレコードが活躍中。若い頃にストレス解消?!のために買ってたアナログレコードが、いまだに1000枚位残ってます。暇をみてたまにヤフオクに出品したりもしているんですが、レコード盤面のチェックも兼ねつつ、年代物のアナログプレイヤー(テクニクスSL-1200Mk2)で、昔を思い出しながらぼちぼち聴いています。最近聴いたのはこんなのです。ということで、これからは趣味系の話でもポツポツ書いていこうかなとか、なんとなく思ってます。
September 14, 2018
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このところのニュースを見ていると、いわゆる「ハラスメント=嫌がらせ』の話を目にする。テレビのワイドショーではいろんな人がコメントしているけど、まぁ、金太郎飴を切ったみたいに似たような話ばかり、、、。「****ハラスメント」(*****にはいまや30種類にも及ぶらしい)、その代表的とも言うべきものが「セクシャル・ハラスメント」と言われるものなのだが、この言葉がしきりに使われるようになった当時でも、一体どこまでがハラスメントにならずに、どこからがアウト!になるのかは、よく議論されたものだった。物理的な接触があるものがアウト!だというのはほぼ共通した認識であったが、議論の元となっていたのは「言葉」によるものであった。あからさまに男性が女性の容姿に関してあれこれ言ったり、彼氏の有無を尋ねたりするということは基本的にはアウトになる、当時はだいたいそういう認識になっていた。で、昨今様々なかたちのハラスメントが取りざたされているのだが、結局のところ恐ろしい結論しか出ていないようである。どういうことかといえば、ある言葉をちょっと強い口調や激しい感じでを受けた側が、「これはハラスメントだ」と感じてしまうと、言葉を投げかけた側にハラスメントをしようとした意図がなくとも、「ハラスメントをした」と認定されてしまうこともある、ということだ。立場の上の者が下位の者に対してちょっとキツイ物言いをすることは、昔から当たり前のようにあるし、誰もそのことを不思議にも思わなかった。僕が小・中・高校生だった頃には、言葉の暴力どころかリアルな鉄拳制裁まで往往にしてあったが、昨今のように大騒ぎになるようなことはほとんどなかった。全ての先生や目上の人たちが立派で、間違っていない、そこまでは思っていないにしても、僕らの年代の親たちは、「怒られた、怒鳴られた、叩かれた、アンタが悪い」と思うのが普通であったようだ。口で言ってわからないから手が出るといった指導法が、良いのか悪いかといえば、現在は悪いの一択になる。ただ、言葉まで禁じられてしまったら、何かを、どこかを改めたほうが本人のためになると、指導者なり先達なりが改めようとするときに、いったいどのようにすればよいのだろう?にっこりと微笑みながら、明るく軽やかに、「そっか〜、じゃあしょうがないねー。ま、いいや、ウフッ」と、見なかったことにしてスルーする、、、べきなのかなぁ。社会に出るとまったくの対等な人間関係っていうのは、おそらくはほとんどないと個人的には思う。そして、力が上の者は力が下の者に対して、その気持ちをいつもいつも忖度したりもしない。もちろん弱者の保護のために誰がどう見ても常軌を逸脱している、そう思われるようなハラスメントは根絶していかなければならないが、弱者が方便、あるいは武器のようなものとして、あれに対してもこれに対しても「***ハラスメントだ」と大騒ぎすること、そしてそれに視聴率目当てに同調して大騒ぎするマスコミのあり方は、「う===ん、、、」という感じしか僕には感じられない。現代の人たちは昔の人たちと比較して、ストレスに対する耐性がかなり低下しているのだろう。これが良いのか悪いのか?僕は????(以下、敢えて書かないでおきますね)
September 13, 2018
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「テキストの答えを渡す?渡さない?」という記事に反応・・・(やや遅くてニブい反応だけど)、というタイトルで書いたものを発見してしまった。。。(もう10年以上前:2007年3月に書いてた・・・おヒマor興味を持たれた方はよろしかったらお探しください:汗)と、これだけ書いて去ってゆくのもどうかなとは思いましたので、ついでにこれも、、、(アーカイブだけど)**********************************************タイトル:高校生の英語力(私見ですが)は、テーマ:塾の先生のページ(2307)カテゴリ:カテゴリ未分類今までに私が直接出会い、肌で感じたことをちょろっと書こうと思います。高校生の英語力は、学校の先生が思っている以上に、「お寒い」なぁと、感じております。うちに来た高校生たちには、もれなく、ある問題をサービスとしてやっていただいているのですが、いまだかつて、その問題を1発でクリアなさった、高校生はおりません・・・・・・・。問題のレベルとしては、やや高度な中学校の英語。最初、高校生(受験生)にやっていただくのは、「正直、失礼かも?」とまで思っていたんですが、ある時からは、「ゼッタイにやっていただかないと不安」、そんな思いに変わってきました。本来クリア出来ないことでもないはずのに、出来ない。しかし、高校の定期試験ではそれなりの成績はとっている。そこで、「自分は出来る」と思うようになってしまう。本当のチカラが身についている場合はいいが、もしもそうでなければ、、、、、、、。うちで来た子にやっていただいている、学力チェック用の問題のレベルは明らかに、彼らが高校で接しているものと比べると、明らかに易しい。だから、多少のミス(少に限るが)はあっても、ボロボロとは間違えないはずだ。でも、、、、、出来ない、、、、、、。語学というものは普通、本当の実力が身についているのなら、易しい問題は解けるのが当たり前であると思うのだが、そうではないのであれば、、、、、ほんとうのチカラがついていない、、、、というカナシイ結論に至る。うちは本当に、本当の、「基礎」から確認をする。たとえ高3であろうとも、必要とあらば、中学レベルの事もやるのだ。だって、グラグラした土台の上に、いくら立派な建物を立てようったって、「どだい、ムリ」だから。中学英語をナメるやつは、ウチの大学受験生にはいない。ナメるどころか、むしろオソれるくらいだ。近隣にお住まいの、多くの「英語がデキるよん♪」と仰る受験生たちよ。塾長・岡本は断言しよう。「デキると思っているのは、、、、、、勘違いだよ~ん♪」と。もちろん、きちんとデキる受験生も多くいらっしゃるだろうが、その数よりもかなり多く、「デキると思っているダケ」の受験生がいるのも、あなた方は信じたくはないのだろうが、事実である。難関と称される大学に合格するために必要なもの。それは「完璧な基礎」を身につけていることである。合否は難問にあるわけではない、と私は思っている。上を目指すのはいいことだが、上に行くためには、下から自力で登っていかなければならない。一歩ずつ、少しずつ上がっていった結果として、上に行くのである。誰の成績でも上げられる、、、、、なんてことは出来ない。どのくらい上がるのかも確約なんて出来ない。ただ、どんな状態で来たとしても、ある程度の結果は出せると思っている。「気のせい」かも知れないケド、、、、、、、。**********************************************(おまけ)上のやつを書いたのは2007年の2月、そして今は2018年の9月。10年以上経過した今どう思っているかというと、「基本的には同じ」であります。今も昔も学生たちの学力全体の構成状況は大きくは変わっていないと、僕は個人的に思っています。本当に実力がある層 ↓そこそこに実力があるように見える層 ↓そこはかとなく「マズい」層以下割愛、、、。一番上の層は偏差値でいうところの70オーバー、二番目の層は偏差値でしうところの〜65くらいまで、三番目の層は40〜50台、ざっくりと例えたらこんな感じです。公立中から高校に進学している子たちと、中高一貫校の高校生たちの間でもけっこうな学力差はありますし(学校にもよりますが)、文科省の暴走?迷走?の影響(学習指導要領の変更)による、生徒全体の全体のレベル低下もあるように感じていますので、僕の考えは10年前と似たようなものです。じきにセンター試験の英語は外部試験に変わりますが、どこの試験を受けて必要とされるスコアを目指すのかは、けっこう重要かな?と個人的には思っております。(僕が受験するんじゃないけど)英語って科目は地道な努力をきちんとすれば、努力に応じた結果が往々にして手に入る科目だと思っていますが、いわゆる「覚えなければいけない」ものの数は、それなりに多い科目でもあります。そして何かを覚えるのにかかる時間は、普通の人々にとっては大差がないように思います。「俺は大丈夫だ〜!」って思っている人たちが、もしも全員合格しているんだったら、人気のある学校の定員はオーバーしているんだろうけど、どうでしょう?大丈夫かそうじゃないかを決めるのは誰???以下、だんだんと独白→毒吐くになりそうなのでこのあたりで。
September 12, 2018
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感情は振幅するが故にドラマティックな様相を見せ、小説よりも大いに奇なる事実を我々に補填する。闇夜では黒いものが本来自らが持っているその強さを発揮することができなくなるのと同様に、あるいは木を隠すには森の中こそが相応しいように、あるものがその個性をより強く主張するためには、白に対しての黒、光に対しての影というような、いわば対極に位置している相対化の対象物を必要とする。人の感情に喜怒哀楽というものがあるのも、このこととあながち無縁ではなかろうと私には思えてならない。喜と哀、楽と怒という両極端に位置する対照的な感情の狭間で、人は心を、そして身体を振幅させながら生きている。人の心理状態は、ある時はピアニッシモを表現する器楽奏者の弦の揺れのように幽かで儚げであったり、またある時は祭り囃子の太鼓に抗うことができずに思わず身体を動かされたりするように昂揚することもある。意識的、無意識的の如何を問わず、いや、意識を自ら統御することの可否を問わず、人は感情を揺さぶり、感情に揺さぶられながら、自らのアイデンティティを確認する。ところが、このアイデンティティ、自己同一性というものは、考えてみると極めて逆説的な存在である。自己が自己であるということに本来他者という存在は必要がないはずなのだが、自己が他者ではないということを他者に対して客観的に証明するためには、自己を相対化するための自己以外の存在、つまりは他者という存在が必要になるということである。また、アイデンティティの確認のための自己相対化の対象は、自己に対しての他者という関係だけに留まらず、「いまこの瞬間の自己」と「いまこの瞬間以外の自己」という関係も存在する。ものごとを演繹的に考えるのか。あるいは帰納的に考えるのか。どちらもアプローチとしては正しくもあり、同時に正しくはない。たしかに、ものごとを丁半博打やコイントスのように二元論としてとらえてしまえば、自ずと導かれる答は単純化、明瞭化され、求めている答を迅速に得られることになるだろう。けれども、単純化、簡素化の弊害が例外無く生じてしまうのも不可避のことである。場合によっては単純化、簡素化されることによって、そのもののエッセンスまで亡くしてしまうことすら往々にあり得る。こうなると本末転倒ということである。それでも多くの人は不確定で流動的な、必ずしも明るいとは思えない「先」へ急ぐことばかりを善として、単純化、簡素化を極限にまで追求している。喜怒哀楽という言葉を用いて表現するなら、「喜と楽」だけを追いかけているとでも言えばよいだろうか。相対化することでしかアイデンティティを確認し得ない人間。これを認識することなしに、あるなにかを可能な限り正確にとらえることは困難である。ほとんど不可能であると断言しても差支えはないだろう。日々の営みひとつひとつを考え、それらにささやかな喜びや哀しみ、怒りや楽しみを感じ、自己の心や身体を適度に揺さぶり、揺さぶられること。これこそが人が人として生きる醍醐味ではないだろうか。
September 12, 2018
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「AがBすれば、CがDをする」というようなものの考え方は、 語学の読解問題のみならず、 論理的思考をする上で極めてポピュラーなものであろう。 順接的な繋がりであることもあれば、並立的な繋がりであることもある、このようなカタチの文章の組み立てを理解するためには、やはり前後の部分までをきちんと読んだ上でなければ判断しにくいと思われる。ある抽出された一文を独立したものとして捉えることと、あくまでもそれを文脈の中の一構成要素として捉えることとは、 最終的に筆者(話者)の言わんとしていることに辿り着けたとしても、その実質的な価値には、 「類・ヴィトン」と「ルイ・ヴィトン」ほどの違いがあるのではないかと、 個人的には考えている。 全体を構成するために部分は不可欠であろうが、 部分の集まりが常に全体を構成し得るわけでもない。 (「直近と未来の関係」と置き換えてもいいだろう)ろりおの散歩をしても汗だくだくにならなくなってきた夕べに、ふと思いつくままに駄文を認めて(したためて)いたのだが、これは、選択式の問題は解く事が出来ても、 記述式になると途端に「・・・」となってしまう、あちらこちらによくいる、「なんちゃって偏差値60くらい」の、受験生たちのことかも知れないなという、 薄ら寒い事実?に気がついてしまった。(うちの塾にも数多いらっしゃいましたが・・・)
September 11, 2018
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お腹いっぱい食べたいのであれば、まずはお腹を空かせる必要がある。いくら食べ物が潤沢に用意されていても、その食べ物をおさめる入れものが小さければ、 思っているほどには食べ物は入っていかない。 胃の大きさ、茶碗の大きさ、どちらも必要であろう。ということで、 私は食べさせるものよりも、 入れものを大きくすることから、どうにかしようとしている。もちろん、 入れものを作ることは、 食べ物を用意することよりも、ふつうは時間がかかるし、手間もかかる。何の喩えであるのかは、 分かる方には分かると思うので割愛、、、。
September 11, 2018
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決して自慢できるような話ではないのだが、根が飽きっぽいせいなのか、あるいは好奇心が過剰なせいなのか、私は今までにこの仕事(学習塾の運営)以外にも、幾つかの仕事をしてきた。学生の時のアルバイトは、商品の検品、喫茶店のウェイター、カレー屋の厨房兼カウンター、家庭教師、新聞社の聴き取り調査、予備校での答案整理・模試監督・情報収集、TVのエキストラ、警備員(工事現場、道路誘導、ロックアウトの立ち番)、衆議院事務局(警務部、記録部、庶務、憲政記念館)、ザ・肉体労働、他にも何か単発のお仕事はしたかも知れないが、思い出せたのは以上のようなもの。大学を卒業してからは、広告制作会社(老舗)、広告会社(新規)、広告制作会社(自営)、古書店経営、居酒屋経営、学習塾(アルバイト:集団、個別)、出稼ぎ(車体製造ラインでの作業:期間契約)、FC系個別指導塾(アルバイト~雇われ室長兼講師)、とまぁこんな感じで現在に至るというわけだ。非正規社員として雇用されたことと、正社員として雇用されたことと、管理職として雇用されたことがある。そして管理職、自営業者として、正社員、非正社員を雇用したこともある。携わったことのある仕事の内容から見ると、ヒトを相手にする仕事、モノを相手にする仕事、頭を使う仕事、体を使う仕事、表現をする仕事、表現をされる仕事、モノをうる仕事、モノ以外のものを売る仕事、大雑把にはこんな感じで分類できるだろう。「それが何か?」と抽象的に問いを投げかけられたら、それに対して私の答えられることは?そう、いろいろな経験をしているだけですよ、ということである。この経験がある「おかげ」、あるいはこの経験がある「せい」で、良くも悪くも今の自分のものの考え方があり、良いのか悪いのか自分ではちょっと判断しかねる、「今のワタシ」がいるというわけである。(もちろん「だから私はスゴい!」などと言いたいわけではない。)人にはそれぞれに異なった価値観があり、置かれている状況も誰一人として同一ではない。隣の芝生の青さにのみ憧憬の念を抱くのは容易だが、何故隣の芝生が青いのかにその思考を馳せることなくば、自分の芝生は永遠に美しく青々と茂ることはない。二昔前にちょっと世間で流行った、「丸金・丸ビ(金持ちと貧乏)」という底の浅い二元論が、(この手の二元論めかした話はもはや定番化しているし、妙に一般人受けする)ほんの少し前にもてはやされた「勝ち組・負け組」というようなカタチで、またぞろ出現するのを目にするにつけ、辟易してしまうのは私だけなのでろうか。(そうではあってほしくないが・・・)私見だが、人生における勝ち負けというものがもしも存在するのであれば、その最終的な判断は、いつ、誰が、どのように、下すことが出来るのか?それはおそらく今際の際に、他ならぬ人生を生き抜いた本人が、それまでに体感した正と負を総合的に鑑みて、下すものなのだろう。途中で、他人が、断片的に、下すものではない。もちろん、勝ったのか負けたのか、判断することができないということも、少なからずあり得るはずである。人生なんてそんなに単純なものではないだろうし・・・。さて、今日の気づきは何だろう?
September 10, 2018
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「親と子という関係において、必要なことってなんだろう?」と、なんとなく考えていたら頭に浮かんだのがタイトルにも書いたコトバである。主語も目的語もなく動詞を二つ連ねたのに副詞、これだけではいったいナニがなんだかわからないに違いない。(汗)「くくる」はもちろん「括る」であるのだが、問題は誰が何を「括る」のかということにある。まぁ、これは一般的な話にすぎるのかもしれないが、「括る」の主語となるのは大抵の場合は親の側であろう。で、「ナニを括る」という話になるんだけど、これはそれぞれのご家庭での考え方や親子間の力関係によって決まるようで、親が、「子供にこれから先起こりうるであろうことについて腹を括る」場合と、親が、「子供をこれから先自分の思い通りになるように括る(束縛するの意)」場合、このどちらか、あるいは両方のミックス(比率はバラバラだろう)になるだろう。僕の仕事上の経験からの、この「括る」ということについての考えは、「自分が腹を括る」のはラクではなくて、「自分が相手を括る(束縛の意)」のは、自分はラクだけど相手がラクじゃないってこと。そして、ラクをした側は最終的には、「首をくくる」(あくまでも比喩です)とまでは言わないまでも、いつかどこかでそれ相応の、ラクをしたツケを払わざるをえない、そんな風に捉えているんだけど・・・・・。「括るべきものは自分の腹」っていうのはよくわかってはいても、これはさっきも書いた通りけっしてラクにできることではない。ただ、親や教師や先達が、自らがまだ若く、幼く、未熟であった頃に思いを馳せながら、いま自分が腹を括っていることによって生じるイライラやストレスを十重二十重にくるみ、同時に本来腹を括ってほしいご本人様(子ども)も、彼らがそうなるときまで暖かくくるんであげることができたなら、最終的には「雨降って地固まる」というように大団円を迎えられるものである。目的地までの道のりは遠く険しいのかもしれない。が、その目的地を目指すことを決めたのは誰なのか、そしてそれを承認(追認でも不承不承でもいいだろう)したのは誰なのか。そこをよ~く考えることで、無用なストレスや諍いは回避できるはずであろうし、「逆もまた真なり」である。(恐ろしくも、否定できないものである)大団円へと続く「括る→くるむ」ルートは暗く、迷い易い。それゆえに生半可な腹の括り方では、途中であっちをくるくる、こっちをくるくるしたりという、行動の予測不能性につられて考え方や発言もくるくると変わってしまう。迷うという行為にはなんの不思議もないけれど、迷っている者について行くしか術のない者はどうであろう?結局のところ、ある者がある行為を為さんとして腹を括るということは、数ある選択肢の中から自ら選ぶ選択肢のみを残して、他の選択肢を切ることである。そしてその行為は自らが為すしかないものであり、選択の末に待ち受けている結果の吉凶は自らが招聘(希求)したものに他ならない。自らの選択の産物である結果が、たとえ自己の望むものとは乖離したものとなってしまっても、結果へと至る過程においていたずらに惑うことが、結果を甘受した際に付随する懐疑の念や悔恨の情を凌駕しているのであれば、それは無意識下でのラッキーパンチによる偶然の結果よりも価値のある経験であり、それはより高みの次元における結果へと自らを招き入れてくれるものとなる。僕には子供がいないので、おそらくはいくら言葉と気持ちを尽くしたところで説得力に欠ける話になるんだろうけど、「伴走者であるコーチが必ずしも選手より早く走れなければコーチとして認識されないということもないだろう。」と、僕はそんなことを勝手に思いつつ、太くもない腹をゆるくくくりながら日々を過ごしている。
September 10, 2018
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毎日毎日背反する思いに、マルセイ・バターサンドのように挟まれ、 私は仕事をしている。 無論、グチをこぼそうと思ってコレを書いているわけではない。(苦笑) 鶏が先か卵が先か。そんな話にも似ていなくもないのだけれど、いつもどうしたものであろうかと悩むことがある。それは演習量とその成果とのバランスというか、 整合性というか、そのようなもの。小学生、中学生、高校生、 受験生と非受験生、 単なる怠惰さのせいなのか、あるいは障碍の影響であるからなのか。 誰一人としてまったく同じ子供はいないので、そしてそれぞれの子供(や保護者)たちの目的も異なるので、 私の生業は日々難しくもあり、また楽しくもある。あまり深く考えない方がラクなのだろうけれど、ラクをするのは顧客でもある子供たち(と保護者)であるから、 彼らがラクをしていると思えるようにするためには、こちらは決してラクではいられない。ま、それはいいのだけれど、 子供たちがそれぞれの目標を達成するためにすべきことを、こちらがどんなに取捨選択し、凝縮し、 時には欺瞞したり、エポケーさせたりしようと腐心しても、なくしたり、減らしたりすることができないものはある。あるレベルのところを目指すのであれば、その関所を通過するための通行手形のようなものは要る。 裏口や抜け道を薦めることも当然できない。レベルが上がるにつれてそのレベルをクリアした時のメリットもあるわけだから、 落ちているお金を拾うようなタダ貰いの僥倖をあてにすることもできない。 目標を達成するための想いだけがどんなにあったところで、 (もちろんこれがあるのは大前提だけれど) 想いに相応するだけの行動が伴わなければ、おもちゃ屋の前で駄々をこねて泣きわめくお子ちゃまと変わりはない。 泣いて何でも解決してしまうのであれば、そりゃあ、泣きたいだけ泣かせるのだけれど、 泣いたところで目が腫れたり腹が減ったりするくらいだろう。 「泣かぬなら 笑いはいかが ほととぎす」ではないけれど、 泣きたかろうが、辛かろうが、苦しかろうが、 結局は「やるしかない」という答しか残っていないのであれば、レトリックだろうとギミックだろうと、あるいは詐術と陰で囁かれようと、 少しでも「ラクかも?」と思わせるようにするしかない、そんな風に私は思っている。 「趣味はお勉強です。知る事はサイコーにキモチイ~!からねっ。あとは何にもいりませんっ!」、なーんていう子が果たしてどれだけいらっしゃるか? 私にはそんな素晴らしい子はやはり稀だろうとしか思えない。 「だから、、、、モチベーションを高める?」その考え方はおかしい。 普通の子たちには何がしかの「個人的で、不純な動機」があって、それを実現させんがために「手段としてのお勉強」をしているのだろうし、また、そんな彼らのニーズに応えるために私のような仕事はあり、 子供たちのスポンサーである保護者の方々も、 命の次に大切なお金を払ってくれるのだろう。わざわざこちらがアタマを下げて、あるいはこめかみに青筋立ててまで、 彼らのモチベーションを高めて差し上げる必要があるとは、 私は毫とも思ってはいない。 (純粋に犠牲的精神を持ち、故に何かを目指している方は除くが) 将来、どこで、どんな時に、どれほど役に立つのかわからない与太話、 牛の涎みたいなモチベーション・トークを聞かされるために、 子供たちは通い、保護者たちはお金を払ってくれているのか。それはたぶん違うだろう。 彼らは結果を買いに来ているはずである。(例外もあるだろうが・・)いっぽう、「純粋に犠牲的精神を持ち、世のために役立ちたい」と思う子がいるとしよう。その子は今自分がしなければならないことをツライとか苦しいとか思うだろうか? 私にはどうしてもそうは思えない。(たぶんこれはかなり正しいと思う)たまさかそう思ってしまうことはあるのかも知れないが、そんな気持ちが強かったらその時点で挫けてしまわなくとも、 早晩その子の立派な想いは潰えてしまうだろう。 世の中で、自分がやりたいことを生業にすることができている人、 彼らのほとんどは「そうできること、そうなることを信じ、そうなるまで続けてきた」、そんな人に他ならないからである。 教えられたことを全て取り去った(忘れた?)後に残るもの、それが教育であるというような話を何処かで目にしたことがある。また、すべての教育は洗脳であるという、きわめてパラドキシカルな言葉もある。どちらも含蓄のあるもので、 私のような者が口にするのは含羞を禁じ得ないが、 暇に任せて徒然なる想いを書き散らしてきた、 駄文の末尾に引いてみた。 学校を出てからの、ずっと長い人生を鑑みると、 因果を含めるという部分も必要なのだろうが、それでもやはりできることなら彼らに、 諦めるということをさせずにいたいといつも感じている。 (我が身を省みつつというのは勿論である)因果応報、蓋し至言ならむ、かな。
September 9, 2018
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文を書けることと、 文を読めること。 「書ければ、読める」と思われがちだが、おそらくはそのようなことは傲慢な妄想だろう。 無論、書ければ読めると思いたくなる気持ちは、 全くわからないことはないし、 「書けるし、読める」という方もいらっしゃるとは思う。ただし、「書けるし、読める」という方には、 「ある素養」が必須なのではないのだろうか、 私はそう考えている。 書くことには能動的、主体的な意思伝達のための姿勢と、 必要最低限の表現力が必要であり、 読むことには受動的、客観的な認知力、分析力(判断力と言ってもよいが)と、 必要最低限の文法力、語彙が必要である、、、、このように考えられがちであろう。ところが、ここに陥穽があるのだ。 読むことにも書くことにも、 共通して必要なものがある。それを認識し、使いこなせる方こそが、 「読めるし、書ける」方なのである。 (敢えて理由は書かないので、わかる方だけわかっていただければいい) 読むことと書くこと。それらはいわば一揃いの箸である。 芋の煮っころがしなら、 一本の箸でも用は足せよう。しかしながら重箱の隅にある一粒の黒豆は、やはり一本の箸ではそれこそ箸にも棒にもかかるまい。 読むにせよ書くにせよ、 生きんとする冬の蠅のような意志を持ち、 私意や恣意に囚われずに思惟を四囲に巡らす。もちろん、 「ある素養」が根底にあることが、 最も肝要であるのは言うまでもない。
September 6, 2018
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歌詞が、印象的なメロディとともに、ココロと、アタマに、しみこんでくる。ご存知のようにこれはU2の名曲なのだが、昨晩「Rattle and Hum」という彼らのDVDでこの曲を聴いていて、ふと思ったことがある。「僕は生きられない。あなたがいても、いなくても」という歌詞を「あなたは生きられる。私がいても、いなくても」ととらえたのだ。そう。私の仕事、いや、私の存在はそんなものであるのだろうと。塾屋なんて、100均ショップに置いてるビニール傘のようなもの。突然の土砂降りに遭って困った時に、一時しのぎに買って使って、そのあとはどうでもいい、その程度のものなのかもしれない。(すべてにあてはまるということではもちろん、ないが・・・)私の塾は個別対応。個別指導(うちは個別学習だが)という文字面や語感から、いきおい「手取り足取り」何でも世話を焼くというようなイメージを、抱いている方々もおられるのだろうが、うちはどちらかというと、教えるというよりもやらせる方に重きをおいている。結局、子供たちが塾で過ごす時間というのは人生の中のごくごく僅かな、とても限られた時間だ。だから、私が彼らに対して出来ることも当然限られている。個々の知識を教えたところで、結局は本当に満足のいくところまではたどり着けそうもない。もちろん、彼らがまだ知らないことを教え、それぞれの目標を達成するためにその前提となる能力、学歴を身につけさせることが私の仕事に求められていることは重々承知している。目標を達成するために必要な学歴。その学歴を得るために、皆少しでも世間で認知されている「良い学校」へ、入ろうとするのだが、入るためには試験があるのが一般的だ。それも筆記試験が、、、、、、。そして試験の場においては、誰の助けも借りることは出来ない。孤独な戦いだ。普段からそのためのトレーニングをしておかなければ、乗り越えていくことは難しいだろう。その時には大変に感じるかもしれない入学試験。しかしそれも長い人生の中の、ほんの一瞬の出来事に過ぎない。人生においては、選択の自由が認められている。が、同時に、自分で考え、決めたことは、基本的には自分自身で行わなければならない。だから、、、、、「あなたは生きられる。私がいても、いなくても」そうあって欲しいと思いながら、普段から私は子供たちに接するようにしているのだ。追伸:U2のBonoさん、そしてB’zの稲葉さんのご快癒をお祈りいたします。
September 5, 2018
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できることとできないことの見きわめ、これがわかるかわからないかは、やるかやらないかということ以上に、大切なことであるように私は思う。わからないものが多い=点数に反映されるこれが普通の人が考える道筋であるけれど、実はここには大きな落とし穴があって、その落とし穴は大きさの割りに人目につきにくいものでもある。それゆえ、その落とし穴にはまることはよくある。大きくも見えにくい落とし穴にはまる理由、それはいわゆる「・・・・つもり」の所業である。「やったつもり」、「できたつもり」、「わかったつもり」、三大成人病も真っ青のこれらの「つもり」が、「つもり積もって、大雪崩・・・」。いまさらニュースのネタにすらならない現実へと、意に反してつながってしまうというわけである。さて、それでは、感性(フィーリング:いわゆる "なんとなく")に頼りつつ、慣性(惰性でもいいかな)の法則にも従いつつ、完成の域とはほど遠い状態のまま、陥穽にすっぽりと嵌まることから逃れ、至福の思いで「歓声」(=良い結果)を上げるには、残されている限りある日々をいかに過ごせばよいのだろう?自分では「わかっている」と思っていることが、実は客観的には「わかったつもり」にしかすぎない。そしてそれが多いと積もり積もって「大雪崩」になってしまうと、書いたのですが、なぜこれが危険なのか。それは本番(定期試験、模擬試験、入学試験など)の時に、「不安になって焦る」→ 「精神的に追い込まれる」→「自滅・・・」、という黄金の失敗パターンになるからです。(オソロシイ)ある程度以上のレベルの試験になると、いわゆる「迷う」問題があちらこちらに散りばめられています。とりわけ中学校入試(上位校)と大学入試(センター試験)においては、制限時間という手ごわい敵を相手にしなければなりません。迷っている時間は時間だけではなく、気持ちも一緒に奪っていきます。「そんなの迷いそうになったら飛ばせばいいじゃん?」、そう、その通りです。(笑)私は常々うちの子たちには口を酸っぱくして、耳にたこを何十匹も押し込む位に繰り返し言ってます。でも、悲しいかな、「わかったつもり」、「できるつもり」の意識が強い子ほど、それができないのです。極論を承知で書きますが、成績の良い子、いわゆるできる子とそうではない子との違いは、自分ができることとできないこと(わかることとわからないこと)、その両者の線引きができるかできないかの違いにある、私は強くそう思っています。そして同時に、できるかできないかの判断スピードの速さにもあると思っています。迷いからくる焦り、この一番の原因はとりもなおさず、「覚えていることの不正確さ」にあるのですが、その理由はいったいどこにあるのでしょうか?一に基礎事項の不足及び不徹底、二にその反復の不足、三に自分の知識(能力)への過信、と続けて書けば書くほどブルーな気持ちになるのでこのあたりでやめときますが、簡単にまとめると、記憶というものへの間違った認識、そう申し上げてもよいのかなと思います。「もう覚えた。できる!」ときわめて短絡的かつ即席に、誰もがそんな風に物事を習得、理解、そして活用できるようであるならば、「世の中は今とはまったくちがうものになっている」とは思いませんか?(笑)でも、物事の大雑把な単純化、簡略化による、いたずらな軽便思考の蔓延とそれを是とする風潮が厳然としてあり、その波は並々ならぬ勢いでオトナもコドモも飲み込んでいる。多少人生の荒波にもまれた経験のあるオトナは、それでも時には学習機能を働かせてことなきを得ることが可能だとしても、まだいたいけなコドモはどうでしょう?さて、ずれてきた話を元に戻しましょう。(汗)あることをきちんと「覚えている」のかどうかを、簡単に見極めるための方法とは?それは至ってシンプルなものです。質問、設問を与えて、それに「即座に!!!」答えられるかどうか、ただそれだけのものです。朝起きて朝ご飯を食べるときに、普通の人はいちいち「あれ?箸はどっちの手で持つんだっけ?」とか、「ご飯を箸でつまんだ後はどうするんだっけ??」とか、考えたりすることはおそらくないでしょう?あることをきちんと理解し、それを活かせるというのはそういうことです。ところが、殊お勉強に関しては普段から、それも試験問題に対峙している時にそうではないから、結果的に「つもり」であることが露呈してしまうわけです。少しでもあれ?と感じたり、迷ったりするもの、それらは結局のところ「できるつもり」、「覚えているつもり」にすぎません。一刻も早く再確認、再学習をきちんとする必要があります。それをすることなく今の状態が改善されることは、マークカードを塗り間違えて馬券が的中することと、同じくらいの確率でしか起こりえません。(私には20年間で一度しかありませんでした)巷では「基礎が大事だ、基礎が大事だ」とよく言われておりますが、私が考える盤石の基礎力とは「ただ、やった」というのではなく、いつ何時、それこそ気持ち悪くても、寝ぼけていても、即座に答えることができるレベル、です。あとは、どの範囲までのことを基礎と捉えるかということでしょう。難関と言われる学校こそ、ほんとうの意味での基礎力(底力といってもいいですか)を問われる。拙いながらの経験則ではありますが、私はあながち間違ってはいないかも?と思っております。
September 5, 2018
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自分の未来は自分で決めることができるけれど、自分の希望する未来になるのかどうかは、自分(の中:脳内)だけで決まるわけではない。とりわけなにがしかの「競争」を必要とするものにおいては。いわゆる「良いもの」には、良いと感じられるだけの価値が付されていて、当然のごとく「良くはないもの」と比して、手に入れる為には相応の負担(努力やお金など)が強いられるものである。自分が手に入れたいものの価値が高ければ、自分が払うべき対価も自ずと高くなる。そして対価を持たずにそのものを手に入れることは、たいていの場合は不可能である。(イリーガルな手段を用いる、あるいは僥倖と遭遇する場合を除いてだが)もちろん、「望んでいるものをあきらめる」という選択肢もあり、そのあきらめ方にも程度の差はある。あきらめずに最後の最後までなんとかしようと必死になるのか、あきらめて自分を納得させるのか。もちろん、それは自分自身で決めてよいことである。コンビニで買いたいものがあって、持っているお金が1円だけ足りないとき、買いたいものを買うことはできない。入試で1点だけ合格最低点に足りないとき、合格にはならない。足りないものは自分で足りない分を工面するほかない。工面できなければ、手に入るもので我慢するしかない。みんな、そうしてきたし、あなたもそうするしかない。後になって我慢したくないのなら、我慢をするのは今しかない。夏休みももう終わってしまった。入試シーズンが始まるまで、もう半年少々しかない。過ぎた時間は戻ってこないけれど、残っている時間はまだある。そろそろ「本当の受験生」になっても良い頃ではないですか?敢えて強制はしませんが・・・・・・
September 3, 2018
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私個人の考えですが、「現実に対しての認識があまりにも甘い」と思われる子たちには、巷でよく言われている「自己肯定のススメ」的なアプローチは基本的にはしません。まったく正反対の「全否定」に近いことを言い、彼らの「ナメた考えや態度」を叩き壊すようにします。というのも、「危機意識の無さが故の現状」であると思うからです。たかだか範囲がきわめて限定的で、採点基準も厳格とまでは曰く言い難い中学校(一般的な公立の)の定期試験で、超~短期の泥縄式試験勉強で、そこそこの点数が取れてしまう。その結果として、同じようなスタンスで本番の入学試験でも、「何とかなる」なんて考えが彼らの中に(ことによると保護者の方々にも)醸成されてしまう。最近の近隣の中学校から来ている塾生たちを見ていると、私にはそう思えてなりません。「自分はできる」と勘違いしている子たちを、無責任に応援しつつ安全地帯から見物すること、少なくともそれは自分のすべき仕事ではありません。もちろん、入試が終わった後で不幸な結果を手にした子たちを慰めることも、もちろん私の仕事ではありません。ただ、いくら私が彼らに対して「なんとかしてあげたい」と思っていても、私にできることも限られてはいます。(絶対的な指導時間の不足はどんなに効率的にしたところで限界があります)いままで「自分流で、自分なりに」やってきたことの結果に、現時点で納得がいっているのならそれで良いでしょう。そのまま継続していって、最終的に手にする結果を享受し、納得すればいいだけのこと。ただ、そうではないのなら、もういままでの「自分流で、自分なりに」とは、訣別しなければならない時期にきているのではないでしょうか?高校入試だけではなく、中学入試や大学入試の生徒たちをずっと見てきた私はそう強く思っているので、塾生たちには常にリアルな話を、おそらくは彼らがあまり聞きたくはないであろうことを、話しているわけです。(話していてあまり気分が良くはありませんが仕事なので)なんにせよ、もうそろそろ、口を動かす前に手やアタマを本気モードで動かして欲しいな~と、それだけを切に願うのみです。(汗)
August 28, 2018
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気がつくと8月も後半になっている。忙しくても暇であっても、感じ方の相違はあるのだろうが、同じ速さで時が進んだ結果なのだろう。最近はきわめてサボりがちなこのブログ、玉はごくごく少なくて石ころだらけではあるが、この投稿が3000件めの記事になるようだ。最近ブログを書かないのは、言いたいことは今までにあらかた言ったからなのと、本当に言いたいことは「ちょっと言えない内容」が多いからである。(文字としてカタチに残ると少なからず差し障りがありそうなので)昔はブログに書いた内容に関してちょっとバトルが起こったり、ブログがきっかけで素晴らしい出会いがあったりした。今よりも血の気が少なくはなかった頃は、諍いがあったところで特にどうということはなかったが、このところは「枯れてきた」(老化?)所為か、「日々平穏無事に」というのに慣れてきた。同時に、自分の考えは自分の前にいる人に対してこそ、語るべきものなのかなと、そんな風に思うようになったきた。(ま、それが伝わるか伝わらないかは別なのだが)ブログを書かないもっともらしい言い訳?の陰に、生来のなまけ癖が潜んでいることには、敢えて触れないでおこう。。。(汗)
August 20, 2018
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同業者の広告を目にすることがよくありますが、その広告の中に書かれているものの一つにいわゆる「合格実績」がある。僕はいつもこれを見るたびに思うことがある。一昔、ふた昔前のように、「え????」と思うほど眉唾ものの告知こそ、あまり見かけなくなってきてはいるけれど、それでもまだ「え??」と感じずにはいられないものはあるようだ。僕は自塾の広告らしい広告を未だ作ったことはない。それは僕自身が広告屋であったことと、おそらく無縁ではないからだろう。広告屋や不動産屋さんは、いわゆる「せんみつ」の世界であると言われている。千の話があるとすれば、実際にものになるのはそのうちの三つ、そんなきわめて不確実な状況が業務として常態化している世界。せんみつ屋である広告の世界で僕は働いていたのだが、いや、働いていたからこそ、か、僕は広告というもののチカラと恐ろしさを体感している(と思っている)。それゆえになかなか自分のために自分を宣伝、広告することに、怖れや気恥ずかしさを感じてしまう気持ちを払拭できないのかもしれない。(これを抜きにしても広告・宣伝にはお金もかかるしね)話を戻そう。「合格実績」を広告に使用することは、広告にリアリティを持たせようとするが故のことであろう。これは僕もこのブログにおいても書いている。ただ、僕は元・広告屋である。だから僕が書いているものは、仮によそ様から突っ込まれたとしても、なんとかつじつまが合い、説明がつく範囲に限定している。人それぞれ考え方には相違があるので、他人について言及することは避けるが、僕個人としては「きつい突っ込みを笑顔でいれたい」と感じるものは、正直なところ少なくはない。でもまぁ、広告というのはふつう、「実際のものよりも良く見えないと成立し難いもの」であるというのは、悲しくも否定しきれない事実でもあるから、嘆いても「せんないこと」ではあるのだけれど・・・正直に、誤解されることもないように、伝えたいことを伝える。広告でもブログでも、もちろん、本業でも。僕は自らの能力の多寡を省みずに、同時に決して高をもくくらずに、自分の伝えたいことを伝えている。すると、どうしても、「ちょっと弱い」伝わり方になってしまう。伝える内容に気を配り、伝え方に気をつけているからなのだろう。(それなりに、かもしれないが)だから、「絶対」、「必ず」などという言葉は、当然、僕には恐ろしすぎて使えない。でも、周りを見ていると・・・・・。例によって冗長な世迷言を書いてしまったけれど、せっかくここまで読んでくださった方々のために、元・広告屋&現・塾屋の立場から、広告の効果的な見方をひとつだけお知らせしようと思う。それは・・・・・・・「広告に書いてあること ”以外”について考えてみよう」ということです。基本的に広告というものには、伝える側が伝えたいこと=伝えたい相手に(自分が思うように)思われたいこと、そんな情報から構成されています。(ネガティブアプローチのものを除く)けれども、あまりにも素晴らしすぎることばかりが羅列されている広告の多くは、残念ながら広告の通りであるはずもない、と僕は感じています。それゆえに、広告の文面や絵面(えづら)に踊らされることなく、冷静に見る必要があるだろうと僕は思うのです。良いことは「これでもか」というくらいに書いてはあっても、逆は・・・・ということです。何事も、ちょっと面倒だと思っても、自ら足を運んで、自分の目で見て、自分の耳で聞いて、最終的な決定をすること。これが結果的には「面倒」を回避する最善の策ではないでしょうか。塾選びも同じだろうと僕には思えてなりません。ブログに書けることもあれば、書けないこともあります。いくら事実であるからといっても、それを遠慮なく書いてしまうとおそらくは、「ムダに敵を増やす」ことにもなるでしょうし、「恐れを為して気後れする」方もいらっしゃるかもしれません。だから僕がこのブログで書けることはこの程度までです。(汗)ただ、実際に僕の塾までわざわざ足を運んでいただいた方々には、包み隠さずに僕の塾がどのようなところであるのか、ご覧いただけますし、どのようなお話でもいたします。ということで、慰めのコトバをかけられるのではなく、喜びの雄叫びを上げたい方々は、お早めにどうぞ。
August 16, 2018
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いわゆる「先生」と呼ばれる方々の中には、「我々は教えることが仕事である。故にわかりやすい説明をすることに腐心しなければならない。」と近視眼的に、「”自らの”指導」にばかり拘泥する人がいる。一方「他人から教わる」ことばかりに意識が偏り、「学習:学び、習う」というもののもうひとつの大切なもの(習うよりも自ら学ぶほうが肝要であり、身につくものであると私は強く思っているが)を忘れてしまっている生徒たちも、少なからずいる。ま、こんな状況を、「お互いの利害が一致しているからいいじゃん?!」と思われる方々は、この先を敢えて読まないで(読むとほぼ間違いなく「イラッ」とするので)いただくとして、そうは思わない方々(どれだけいるのだろう?)に対して、僕の考えをちょっと書こうと思う。「わかりやすい説明」の最も恐ろしいところ、それは「自らアタマを使う」ということを蔑ろにするということである。教える側の偉大なる勘違いは、教わる側の短絡的思考法を促進し、その結果として、「大したことない指導者の劣化コピー」を生産していくということである。教える側のわかりやすい説明(ほんとにそうなのかどうかも怪しいのだが)は、少しでも単純化、効率化を望む教わる側の耳にとっては、突き棒で心太を押す程度にするりと入り込んでいく。が、耳からするりと簡単に入っていった情報は、アタマの中をもするりと通り過ぎて、炎天下の氷の欠片と同じ運命を辿る。「いや、そんなこたぁ、無ぇ〜〜〜!!!」と、顳顬に血管を浮き上がらせつつ反論する方はいるだろう。しかしながら、世の中にはそんなにラクに美味しい思いができるものなんか、たとえば鳥取砂丘で駱駝に乗りながら1本の金の針を探すほどにはありゃしない。"Easy come, easy go."、すぐ手に入るものは、すぐ手を離れるものでもあるのだ。違うかな???とはいえ、塾屋である僕自身に、ある程度の表現力や説得力がなかったとしたならば、もちろん今までこの仕事を生業としていることはなかったであろう。ゆえに、最低限度のそれらの能力が自分にあるのかもしれないとは思うが、仕事をしているときに四六時中、「もっとわかりやすく」とか、「もっと簡単に」とか、考えたり、実行したりすることはない。それはなぜか?「良い結果につながることがあまりない」(←かなり婉曲な表現!)からである。僕は自分の生徒たちに対していつもこんなことを話している。「試験の時に僕は隣には居ないよ。君が自分で問題を読んで、頭と手を使って、出題者の欲しがっている答えを、どうやっても誤読されない程度の言葉と字で、伝えなければならないんだよ。」と。ついでに、こんな話もしたりする。「僕の仕事はあんたに教えることじゃなくって、あんたが自分でどうにかできるようにすることだから」と。教えることはもちろん、僕にとっても生徒にとっても必要不可欠なものであるのだが、教えること(教えられること)それ自身は目的ではなく、ただのひとつの手段にすぎない。僕らのような仕事において、「手段」という商品を強烈にアピールしたとして、いったいどれだけのお客さんが、魅力を感じて買いに来てくれるのだろう?僕はあんまり食指が動かない。僕が俗物で、即物的な人間であるからなんだろうけど・・・
August 16, 2018
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昨日は大暑。運良くヒマでしたので、ヨメとちょっとお出かけして、素晴らしいひとときを過ごしました。(桜肉が美味しかった!)その余韻を味わいつつ、その後これまた久しぶりにちょっと知ってるBARにも顔を出して、軽く1,2杯美味しいウィスキーをいただいてから帰宅。久しぶりに自分としてはそこそこに飲んだので、しっかりと熟睡できたようです。そんなこんなで、うちでも本日から夏期特別時間割が始まりました。夏休み終了まで、夏バテしないように気をつけます。
July 24, 2018
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文科省があーだこーだと言いながらやっている、高大接続改革。要は国際化・情報化の急速な進展により、社会構造も急速な変化をしているので、そんな社会で自立的に活動していけるように、学力の3要素:1・知識・技能のか期日な習得2・1を基にした思考力、判断力、表現力3・主体性を持って多様な人々と恊働して学ぶ態度をバランスよく育むことが必要だよ〜ん!とか文科省のHPに書かれています。(詳しくは自分でチェックしてね)まぁそんなこんなで、大学入試も従来のセンター試験があれやこれやと変わる(特に英語)ことは、皆さんご存知でしょうから改めては申しません。で、今度は「eポートフォリオ」っていう、ちょっとカッコよさげな名前のもんが最近特に取りざたされているようです、、、、、が、、、、、、、、ぶっちゃけ「web日記」ってことですね。で、、、、、、、、その「日記」が、、、、学校の担任の先生やら保護者やらに、、、、「見られる」ことも多々ある、、、、そんなものみたいです。(うすら寒っ)個人情報の保護は大丈夫なのだろうか。まぁ大部分の高校生たちは、学校の先生に言われて(大学入試で必要になってくるからとか)、漸次やっていくことになっていくのでしょう。(嘆息)このeポートフォリオですが、大学側は入試の際に受験生に提出させて、調査書を補完するものとして、将来的に活用しようと考えているようです。それにこれがあれば、高校の先生方のお仕事は明らかに減るでしょうね。そしてその減った時間で、「ホントにやんなきゃいけないこと」をやる時間がとれるようになるなら、麗しいことであるな〜と思います。(笑)学力試験の結果による数値化プラス調査書及び評定平均値(ただし参考程度)、これが従来の大学入試における合否の決定要素ですが、これからは、学力試験での結果プラス「調査書+eポートフォリオ」(比重が重くなりそう)、そんな入試になっていく(させていこう、かな)ようです。(いわゆるAO化かな)あくまでも今やっている改革が軌道に乗っていくようでしたら、ですが、、、。でもわざわざ文科省が民間委託してまでやろうとする意図が、よくわからないというか、なんか裏があるんじゃないかなとも、思えてなりません。(以下自粛)いずれにしても、定員に対して希望者の数が上回れば、良い悪いは抜きにして、何らかの選抜は必要なので、従来の学力試験であれ、eポートフォリオに記録した項目に対してであれ、選抜する側の採点基準なり評価基準なりを、「今よりも」、希望者(受験者)たちに対して明確に示すことは必要不可欠である。(センター試験は極めてフェアな試験だと僕は思ってます、謎な私大の入試と比して)入試に限らず勝敗や優劣をつけるすべてのものは、ルールやレギュレーションを明確化すべきであると、個人的には常々強く思っております。これがあってこそ、コンペティターはモチベーションを維持することができるし、理想的な競争社会の醸成にも繋がるし、ひいては国際社会での競争力を高めることになると、、、、。コンペティターは自分の能力を鑑みて、勝負になると思う土俵でこそ戦うべきであって、納得のいかない、あるいは最初から全く勝ち目がない、そんなところで戦うべきではないのです。多くの人々にとって最後の入試となる大学入試。そして我が国では学生生活の出口(最終学歴)が、その後の人生に少なからず影響を与える社会である。最終学歴となる場へ入るためのルールは、厳密に精査し、公表することが必須である。そうじゃないと、だーれも真剣に入試と向き合わない!っていう、恐ろしい世の中になっちゃうような気がしますがどうでしょう?と、最近の話題についてざっくりと書いては見ましたが、個人的には、、、、「高大接続計画」を推進していこうとするよりは、「**接続計画」をとっととやったほうが、圧倒的に日本の未来は明るくなる!!!と、思っているんですが、、、、。
May 30, 2018
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書き忘れましたが、、、元塾生の経営しているコーヒーバーは、東中野にあるCOFFEE BAR GALLAGEです。あと、のぼりはこんな感じで入り口にあります。
May 18, 2018
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日々のほほんと過ごしているうちに、気がつくともう前回の日記から、1ヶ月半以上経っておりました、、、。もはや日記ではなくて「月記」に、、、(嘆息)前回書いた後、元塾生の結婚式にお呼ばれしたり、元塾生が経営しているコーヒーバーにお邪魔したり、東京ドームで野球観戦したり、なんてことをしておりました。(汗)ついでに、という訳でもないのですが、今までは窓に「個別学習」というパネルを貼っただけの、明らかに見るからにしょぼそうで怪しげな謎の場所的な我が塾でしたが、ちょっとだけ外から見ても「あ〜、塾なんだー、ここ」と、わかっていただける程度の告知(告知のぼり)をすることにしました。で、今さっき過日注文しておいたのぼりが届いたので、さっそく組み立てて、設置してみました。有りもの(既成のデザイン)を数種と、上の画像にあるオリジナルデザインのものを注文していたのですが、オリジナルデザインのものの仕上がり具合が、思っていたよりも「麗しい」感じでしたので、ちょっとうれしかったです。今回届いた分はとりあえずの様子見程度なので、また追加であれやこれやと頼もうかと考えております。告知効果が見られたら、ろりおにモデル料を払わなきゃ、です。
May 18, 2018
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今後の大学入試の英語において導入される民間試験はいくつかありますが、いずれの試験においても従来の2技能から、「読む」、「書く」、「聞く」、「話す」の4技能を評価するものとなります。いくつかある英語の民間試験における、CEFR(ヨーロッパ言語共通参照枠)のレベルによって、英語の成績が決まるというのが基本ですが、実質的にはこれまでの大学入試センター試験における英語と比較して、、、、「難易度」が上がると考えておけばよろしいかと思います。(汗)従来のセンター試験の英語のレベルは、ざっくりと言えば、「英検」の準1級(ぎりぎり合格ではない点数なら)を保持しているなら、実力をきちんと出せばほぼ満点が取れるものでした。それも、全問マーク式の試験でしたので、実際には英検2級~準1級レベルの受験者でも、9割オーバーの得点を取ることはよくありました。ただ、今後導入されることが決まっている民間試験では、2技能から4技能を要求されるものとなるので、まずはこの点が難化するポイントとなります。そして、あるレベル以上の大学・学部が入試の際に要求するであろうCEFRのレベルは、「B2」レベルから上になるであろうと推測されます。いくつかある英語の民間試験はそれぞれに違いがあるので、どの民間試験を、いつ受けるか、そしてそのために、何を、どう、準備しておくのかは、圧倒的に英語が得意な受験生以外(たいていの受験生が含まれるでしょう)にとっては、合否を左右するほどの大きな問題だと、個人的には思っております。どの民間試験を受けることが良いのか???それは、あなたの必要とするCEFRのレベルがどこなのか、今のあなたの英語の実力がどの程度なのか、英語の学習にかけられる時間がどのくらいあるのか等々、によって決まります。個人的な考えですが、CEFRのレベルのB1まではさほどの苦労は必要がないと思われますが、B1からB2にすることはそれなりに時間も苦労もいるかなと、、、。C1から上は、、、、、、、、です。いずれにしても、ルールがそうなってしまった以上は、ルールの範囲内でどうにかするしかありません。英語はきちんと学習すればある程度までは、ほぼゆるぎなく成績が上がる科目ですから、地味な努力でなんとかなると思います。(準備は早いほうが良いってことです)より詳細なお話は、お問い合わせのあった方に、、、ということで、、、、。
March 31, 2018
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先日無事に志望校に合格した塾生から、得点開示の結果を知らせていただきました。(ここには書きませんが、塾までお問い合わせをいただいた方には詳細を・・・)自己採点(僕がしましたが)の結果とほぼ一致していて、ほっとしました。(笑)前期試験も同じ学校を受験していて、その時の自己採点と比べて、10点ちょっと低かったのですが、後期の試験の方が難しかった(平均点が下降)ので、まぁ、ぼちぼち取れていたほうかなとは思ってました。ご本人も、保護者の方も、「半ばあきらめムード」だったとの話を、合格発表の後にうかがいましたが、、、僕は他の受験生の出来次第では、十分に合格する可能性はあるかなと思っていました。(ま、僕の塾ではよくある話ですが・・・)結果的に、受験校を変更しなくて大正解!!!でした。来年度の入試も、塾生たちの「完全合格」を目指します!!!
March 19, 2018
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なんやかんやとしているうちに自分の塾を開いてから15年以上が経っていたのに、今更ながら気がつきました。。。それなりに一所懸命に日々過ごしてきた結果か、絶対数(塾生)の少なさか、今のところは塾生たちの志望校合格率(中・高・大学受験)は、90%以上を維持できております。まぁ、きわめて限られた経験から得たものですが、気がついたこと(共通点らしきもの)があります。僕の塾では僕が塾生たちのすぐそばに居て、わからないことを説明したり、問題を解いているのを「見ていないフリをしながらしっかり見て」います。塾生たちの様子を見ていると、「あ、この子今眠いね」「あ。この子今話をきちんと聞いてないね」「あ。今わかったって言ったけど、、、、???」というようなことがほぼわかります。(笑)で、成績を上昇させる妨げになるであろうことに関しては、穏やかに諭したり、丁寧な口調で追いつめたり、果ては怒鳴りつけたり、しながら、改めていただくようにしております。とはいえ、たま〜に疲れていて眠そうな時に、いきなり怒鳴りつけたりはしませんが、、、、。最近無事に志望校に受かった塾生たちも、けっこう僕にあれこれ言われていましたが、「ざんねんだったね。がんばったのにね・・・」と、さも同情しているかのように慰められるよりは、良かったんじゃないかな〜と個人的には思ってます。(偽善よりは偽悪!)と、話はずれずれですが、、、、、、。(汗)「共通点」、の話ですが、「基本的に人の話をきちんと聞かない子は、、、、、、、問題を解く時にもきちんと問題を読まない」という、恐ろしくかつ腑に落ちることが判明しているということです。(恐!)英語のできない子のほぼ全てが、英文を音読させるときちんと読めないし、国語のできない子の大多数も、文章を音読してもらうと「・・・・・」(謎?)、です。まぁ、聞き取ることに不安があるなら「メモ」を取りゃぁ〜いいんですが、当然そうすることもありません。小学生、中学生、高校生、大学生のうち(お金を払う側)なら、「すみません」で済む場合のほうが多いでしょうが、お金をいただく立場(社会人)になると全く違います。ふつう,人は教わってないことをなかなか自ら学ぼうとしないですし(興味のあることは別)、自分の知っていること、経験したことの範囲程度のことが、「自分の思う世界」になりがちなものです。だから、世の中の常識を知らないこと一方的に責める気持ちはありません。ただ、僕はご縁があってうちの塾に来ていただいた方々には、大きなお世話かもしれませんが、「良かれ」と思うことは伝えるようにしています。(直る、直らないはおいといて)話をきちんと聞けないタイプの子が、学校と同じような指導形態の塾や予備校で、果たして成績が伸びるのか????(ぶっちゃけ、きちんとできる子はどこででもなんとかなります、自学でももちろん)じゃあ、できない子はどうすればいいのでしょう????(気が向いたら、つづくかな?)
March 15, 2018
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おかげさまで2017年度にお手伝いした受験生たちは、全員無事に志望校(高校・大学:国内外)から「入ってね!」とのお知らせをいただきました。今年からは更なる合格率上昇?!を目指して、真面目でやる気のあるご家庭のモチベーション維持&学力向上サポートのために、入塾時点までの成績による各種優待サービスを始めようかなと考えております。新中3生においては、中1・2年時の内申点合計(9教科X5段階X2年)=90点中、85点以上の方は入塾金と年間維持費免除。72点以上の方は入塾金免除。新中2生においては、中1年時の内申点合計が40点以上の方は入塾金免除。36点以上の方は入塾金減免。(60%割引)と、ここまでならよくありそうな普通の話なので、追加もしておきます。他塾からの転塾の方々(成績不問)、中高一貫校在籍中の中学生(成績不問)、大学受験を予定している高校生(成績不問)、以上に該当する方々にも何らかの費用減免措置を考えております。また入塾相談の結果、僕が納得した方々にも同様に、、、」です。ただし、、、、、、、、、、、、、、ただ「安くなるから」、、、、、、、という理由だけでお考えの方々は、、、、どうぞお近くのお安いところに、、、、、、、、、。「多少タイヘンでも、絶対に成績を上げたい、何がなんでも志望校に合格したい。それもできることならある程度はコストも抑えて、、、」と考える方々のみ、お願いします。各種優待サービスについてですが、予定の人数に達し次第終了いたします。ご相談、お問い合わせはお気軽に、そしてお早めにどうぞ。追記:うちの塾の詳細については、当ブログトップページ左側にある、「個別学習ヴァージャーについて・1」をご参照下さい。
March 13, 2018
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今日は千葉県公立高校後期選抜の合格発表がありました。うちの塾からも1名受験しましたが、無事に合格しました!今年の子は本当にどうなることかと、近年稀に見るくらいに不安がありましたが、無事に第一志望の学校に合格してくれました。後期選抜を受験した塾生も久しぶりでしたし、公立高校合格に?マークが点灯していたこともあって、とても悶々としたこの一週間でありました。ここ千葉県の公立校入試、あと二回(新中2・中3生)は今年度と同様に、前後期の二回の試験となりますが、新中1生(今年の4月入学)からは、公立高校の入学試験は1回になりそうです。大学入試も変わってきますし、ね。なにはともあれ、今年も全員無事合格となってやれやれです。
March 7, 2018
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個人的に週末にお馬さんのレースを細々と楽しんでいたり、苦しんでいたりしておりますがそれはさておいて、、、。お勉強(小中高校はもちろん大学でも)の世界では、「ローリスク、ハイリターン」の思想は、残念ながら「残念な結果を招く」大きな要因となることが、少なくないように感じております。だって、そうじゃないなら、誰だって好きでもないお勉強を、好き好んで地味にやったりはしないと思うからです。(もちろん僕自身も含みます:汗)特別な能力を持ち合わせてない限り、ある程度の結果を得るためには、それ相応の労力を必要とするのが普通です。必要とされるものを身につけるために、少しずつ地味にコツコツとやる人もいれば、短期間でまとめて一気にやる人もいます。試験当日の学力試験で合否を決めるのは、ここ千葉県の公立高校入試であれば、5教科の合計得点と中学3年間の内申点の合計、が基本です。(面接やら自己表現やらもありますが一部の学校を除いては上が基本です)これがどういうことを意味しているのか???ぶっちゃけ、たとえ今までサボっていたとしても、入試の日までに、***合格に必要な学力+基準点に足りない分の得点の上積み**これを満たすことができれば良いということなのです。ただし、、、、、、、、、、、、、多くの学力不振の子供たちが、完全に自力で、(可能であれば親兄弟の助けを借りてもかまいませんが)「なんとかできる!!!」のでしょうか?そんなに多くはないように思います。だから自力では難しい部分を、アウトソーシング(塾、家庭教師など)するのでしょう。アウトソーシングにかかる費用が気になるところでしょうが、細く長くでも、太く短くでも、最終的にかかるコストに大差はありません。しかしながら、太く短く、にかかるリスクは、細く長く、よりも大きくなります。なぜなら「期限:締め切り::入試の日」があるからです。同時に、試験直前や試験当日になったからといって、個人の持っている能力(得点)が飛躍的にアップすることも、残念ながらほとんどないからです。それなのに、、、、、、、。(以下割愛で)「勉強しないで良い学校に入りたい」って思うのは、「働かないで良い暮らしがしたい」っていうのと、いったいどこがどう違うんでしょう???「ローリスク、ローリターン」、「ハイリスク、ローリターン」、どちらも良くないですね。「ローリスク、ハイリターン」、まぁ、普通はないですよね。「ハイリスク、ハイリターン」、これが資本主義経済の基本でしょう。リスク(コスト)をどこまで許容できるのかと、リターン(結果)をどれだけ重視するのか。両者のバランスをどうするか、どうしたいかによって、学校を選んだり、塾や家庭教師を選んだりするのがよいでしょう。安いか高いかも問題ではありますが、合格か不合格かはもっと大きな問題ではないのでしょうか?と、どうでもよさそうなことをつらつらと書きましたが、親の覚悟と、塾屋の覚悟がセットになってこそ、お子さんも覚悟を決める。だからうちに来てくれた子たちがかなりの確率で合格を手にしている。僕が毎年入試シーズンが終わると感じていることです。やれやれ、、、、、。(2、3日お休みするかもしれませんので、もしもうちの塾に興味をお持ちになられた方がいらっしゃいましたら、ご連絡は携帯、またはメールでお願いします。)
March 1, 2018
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本日は千葉県公立高校後期選抜が実施されました。受験生の皆様&保護者の皆様、お疲れさまでした。うちの塾でも一人が受験してきましたが、本日は悪天候の影響で開始時間が1時間遅れとなりましたので、急な予定変更に戸惑って、力を出し切れなかった方もいらっしゃったかも、、、。さて、うちの塾生から本日の試験問題を見せていただきましたが、前期選抜の平均点(5教科合計)と比較して、おそらくは下降するのではないかと感じました。国語:50~60英語:48~55数学:54~58理科:50~61社会:40~505教科合計は、242~284あたりではなかろうかと、現時点では思っております。かなり幅がありますが、それは前期選抜の後にも書きましたように、上位校受験者たちの得点は284点前後で、中堅~下位校の受験者たちの得点が242~261点くらいではないかなと、私は思っているからです。(まぁ、今更この個人的な予想が当たろうが外れようが、終わってしまった入試にはどうでもいいことなのでしょうから、、、。)少ないデータを用いてのざっくりとした個人的な分析ですが、今年の前期選抜よりも、昨年の後期選抜よりも、今回の後期選抜の5教科平均点は低いものになるでしょう。うちの塾ではここ数年後期選抜の受験者がいませんでしたが、今日の問題(設問)を見た感じではそう思ってます。とにもかくにも「吉報が届くといいな」と願うのみです。今日から来年度の入試準備を開始しようと思います。
March 1, 2018
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え〜、本日は千葉県公立高校後期選抜の出願日でした。当塾でも前期で残念だった1名が捲土重来を期して、前期と同じ高校を受験する予定です。(倍率がそこそこ高めなので変更の可能性もまだありそうですが・・・)前期試験では学力検査のほうはパーソナルベストを更新したのですが、2日目の配点が高すぎていた影響で(当然受験前からわかっていましたが)、残念な結果に終わってしまいました後期試験では倍率もさることながら、「何点取れれば合格ラインに乗るか」「そのラインを超えられるのか」ということにかかっています。これまでの学習経過、メンタルの強弱、そしてなによりも「合格するぞ!」という想い、3月1日の試験が終了するまで、あきらめない気持ちを持ち、真摯な努力を続けた先にこそ、桜は咲くのだと思ってます。受験する本人があきらめないでがんばる限り、僕もできることをできるだけするのみです。************************************************閑話休題、実はこれまでは個人的に好きなほうではなかった、いわゆる「AO入試」の対策をこのところやっておりました。もちろん、好きではない=苦手、、、、ということではありません。最近ちょっと手伝ったところ(大学)は、僕がそれまでAO入試に抱いていたイメージとは違っていました。喩えて言うなら「就職試験」に近しい感じです。出願するまでの学業成績はもちろんのこと、学業以外の、それこそこれまでの受験生自身の経験、経験から得たもの、問題意識の有無、そしてもちろん大学への志望理由、大学生活、そして卒業後のプラン等々を、限られた字数(僕が今回手伝っていたのは英文)で、答えるというものでした。(他にもアメリカの大学のAOの対策も手伝いました)アメリカの大学の受験のお手伝いも、英文による日本の大学のAO受験のお手伝いも、今回が初めてのことでしたので、ネイティブにも大いに助けを借りながら手探りで進めていきました。結果に関しては半信半疑でもありましたが、今まで以上に慎重に対策を進めていった結果、日本の大学1校、アメリカの大学1校から、「Admitted」をいただいております。(2018.02.23. 現在)来るべき大学入試の変化を考慮すると、ぼちぼち、、、、「AO入試対策」もやっていかなきゃいけないかなと思っています。そんなこんな今日この頃です。追伸:このブログのトップページ左側にある、「個別学習ヴァージャーについて」というところに、うちの塾の最新の指導、合格状況、今までの合格先などを記してあります。よかったらご覧下さいませ。
February 23, 2018
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本日千葉県公立高校前期選抜2日目が終了しました。昨日塾生から問題を見せてもらい、同時に彼らの話も聞いた結果、今年の前期選抜の科目別予想平均点は、以下のような感じかなと思ってます。国語:58~62英語:53~56数学:48~53理科:56~60社会:53~585教科合計は、268~289あたりかなと、、、、。ただ、上位校を受験する生徒さんたちは、しっかり取らないといけないかなという問題が多かったように思いますので、合格ラインは昨年度より上昇するのではないかと感じています。(上位層がしっかり得点しているようなら、5教科合計はもう少し上がるでしょう)しかしながら中堅〜下位校の生徒さんたちについては、「問題が易化したから得点も上がる」ということを、短絡的には申し上げられない(私見です)ので、受験生全体の平均点をあまり気にすることもないかなと思います。グラフ(成績分布)は「ふたこぶ」になる、、かな?いずれにせよ、もう終わってしまった試験の結果は今更どうすることもできないので、一刻も早く「次のための準備」をしておくのがよろしいかと思います。受験生の皆さんおつかれさまでした。
February 14, 2018
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まだ塾生たちが来ていないので問題用紙は見ていません。ただもう解答は総進図書さんのHPにてアップされています。正解表をざっと見た感じでは、去年よりも平均点が上がるのかな?という気がしています。ま、例年通りに、中堅〜下位の高校については、当日の受験生たちの出来がなかなかに予想が難しいので、なんともいえないところではありますが、、、、。上位校に関しては、平均点は上昇するかな思ってます。県教育委員会の発表を5月まで待たないと、、、、ですね。さて明日は第2日目ですね。受験生の皆様のご健闘をお祈りします。
February 13, 2018
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ということで、かなり久しぶりにやってきました。(汗)たった今、明日千葉県公立高校の前期選抜試験を受験する、塾生たちの最終指導を終了しました。やるべきこと、やれることはなんとかやりました。あとは塾生たちがどのくらい実力を出せるかどうか、です。いちおう気休め?!程度ですが、注意事項やら、「出るといいな、な直前予想」やらもやったりしました。気になる5教科の合計得点(受験者平均点)ですが、270~280点ぐらいを想定しながら指導をしてきました。明日塾生たちが試験問題を持ってきてくれたら、より詳しく分析できるかな?と思ってます。ま、塾生たちには最後まであきらめずに問題に食いついてもらって、1点でも多く得点していただきたいな〜と願うのみです。
February 12, 2018
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いつの間にやらもう5月も終わり。平成30年度の公立高校前期入試(現中3生が受験)まで、残すところあと250日少々となりました。仮に今から毎日2時間お勉強をしても、500時間くらいってことで、それを5教科均等に割り振るとしたら、1科目あたりわずか100時間、、、。この時間で3年間分をきっちりとできるかなぁ???他人事ながら気になるところではあります。それはさておいて、、、、。1週間ほど前(5/24)に、ようやく県教育委員会から平成29年度の入試結果が公表されました。前期の合計点は276.1点(前年比 +18.6点)後期の合計点は306.9点(前年比 +18.2点)前後期とも過去5年で最も高得点という結果でした。ちなみに、前期試験終了後の2月13日に、このブログに僕が書いていた前期の平均点予想ですが、社会だけがちょっと高めの予想でしたが、他の科目はけっこうイイ線いってたかな?と思います。 (予想) (結果)国語 62 60.8数学 52 51.4 英語 54 53.7理科 56 56.4社会 60 53.83科 168 165.95科 284 276.1データの数が少ない割にそれほどかけ離れた数値にはなっていないですし、科目ごとでも社会以外は設問一つ分もずれてはいないようなので、現状の僕の分析力ではこのあたりが限界かなと思います。まぁ、データは少ないよりは多いほうが良いとは思いますが、量が多くても少なくても、データ自体をどう読むか?が、けっこう大事かな、と個人的には思っております。(^^)平成30年度の平均点予想ですが、***点〜***点あたりになりそうだなと、なんとなく思ってます。できることなら、平成30年度のうちの受験生たちも、前期試験で全員合格を目指したいなと思ってます。
May 30, 2017
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「逆算してから積み上げる」の続きです。受験を例にとるのがこのブログとしては相応しいであろうと思われますので、僕が個人的に最もくみしやすいと感じている千葉県公立高校の受験の話にしましょう。簡単に箇条書きをすると、*締め切りはいつで、あと残り時間がどれだけあるか。*今自分がどの程度のチカラがあるのか。*目標との差がどのくらいあるのか最初にチェックするのが上の3点です。締め切り(入試の日)はもう決まっています。2018年2月13日、この日が新中3生が千葉県公立高校前期選抜試験を受験する日です。つまりもう1年は残っていません。。。ちなみに私立高校の入試は1月中に実施されます。次に今の自分のチカラがどの程度なのかを判断しなければいけないのですが、ここはかなり重要です。ざっくりとした判断基準ですが、偏差値50前後の公立高校(船橋芝山高校、市川東高校あたりかな)に、さほどの心配もなく合格できる学力は主要5科目がオール4以上(高津、東高津中)です。「えっ、オール3じゃ無理なの?」と思う方々もいらっしゃるでしょう。「はい、無理です!」と答えざるをえません。というのも、今の公立中学校の成績の付け方(学習成績分布表というものが千葉県教育委員会のホームページに行くと見る事ができます)は、「相対評価」ではなく「絶対評価」によるものだからです。(もっとくわしく真剣に知りたい方は教育委員会のページへぜひ!)加えて、昨今の公立中学校の定期試験は、明らかに公立高校の入試問題と比べて、「ゆるゆる」過ぎるものです。ゴムのゆるいパンツはパンツが落ちますが、定期試験があまりにもゆるいのは、入試で受験者たちが落ちることになります。でも、ここ何年か見ていても、中学校の定期試験の内容はそれほど変化がないように思います。一昔、二昔前であれば、8割以上取れていれば、まぁぼちぼちできていると言えましたが、今なら8割程度取れているからといって、そんなに安心していてよいとは僕には到底思えません。(定期試験の平均点も高すぎますし、ね)そんなわけで、8割取れていてもさほど安心できない状況の中、もっともっと取れていない状況にあるならば???塾に通っている子供の親御さんたちでも、こんな現状であることをあまりご存知ではない方が少なくないのことに、最近保護者面談を実施して改めて実感した次第です。(嘆息)上に書いたようなことからも、3つめの目標との差も、正直なところあまりお分かりになられていない方が少なくないようです。自分で書いていてだんだんとウツな気分になりつつありますが、身近で誰も言っていないようですし、僕が言ったところでどうなることでもないような気もしますが、とりあえず、、、。ゆるゆるの高校入試は運良くというか、相手に恵まれてというか、なんとかなったりすることもままあるのが事実であるとは、僕も否定はしませんが、大学入試や中学入試(どちらもそれなりのレベルのところ)では、やっぱり行き当たりばったりな感じの受験対策では、望む結果を掴ませてあげるのはかなり難しいかなぁと、、、。自分できちんと計画が立てられて、なおかつその計画に致命的な瑕疵もなく、加えて計画の遂行を妨げる要素がなければ、麗しい結果はもれなくついてきます。多少(の少のほう)の計画の遂行の不具合があっても、遂行できた分に相応の結果は手にすることができます。計画が笊で、遂行もテキトーだと、、、、どうなるか?書く気はまったくおこらないので割愛します。。。
March 16, 2017
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"No plan,No success"とまでは断言できないにしても、行き当たりばったりに限りなく近い、絵に描いたたなからぼた餅的な計画では、実現したいことや達成したい目標が首尾よく運ぶことは、まぁ、レアなあれ!(稀有なこと)ってことになるような気がします。(かなり確信にちかいものがありますが)そもそも計画が笊な状態で、そしてスプーン程度の道具を使って、プールの水を泳げる状態になるまで増やそうとする。これが学力が相当程度に危険な子たちに共通する思考法&実践法かな?と、それなりの時間を塾屋として口を糊してきた僕の印象です。(汗)予定をある程度きちんとしたカタチで立てられたとしても、立てた予定を実際に予定通りに進行できるかという問題も残ります。で、この実際に「やる!!!」ということこそが、大抵の場合「大きな問題」となることも否定し難い事実であろうな〜と、僕は思っております。僕は昔からずっとこのブログでも書いてきましたが、(そして書いたことで多少の波風が立ったこともありました)「がんばれ!」って言葉で物事をなんとかしよう、させようという、根拠のない、それでいてもっともらしく、そのうえ無責任な、指導者たちが「大嫌い」です。なぜなら、「がんばれ!」という言葉はきわめて抽象的であるうえに、「がんばっているのか、いないのか」を判断するのも、指導者たちの恣意によるものでしかないと思うからです。(がんばれって言われて本当にがんばるような子たちなら、そもそも誰かから「勉強しろっ!!」と言われてとっくにお勉強しているような気がしますが、逆の子たちはどうでしょう???)ま、指導者(僕)が有能でなくとも、僕が第一次大戦後のドイツのインフレ並みに「がんばれ」の多発をしなくとも、うちの塾では塾生たちはなんとか合格してくれているから、指導者の能力(いわゆる教える力に限定)や、不必要可欠(必要不可欠の反対の意味ね)な「がんばれ!」の連呼は、塾生たちに結果を出させるのにはあまり関係がないのかもしれません。さすれば巷間まことしやかに語られている「教務力」っていうのや、「褒めて、励まして」ていうのは、実際のところはどうなんでしょう?僕個人の考えとしては、観察力、分析力、猜疑力、矯正(強制もありかな)力、これらのほうが指導力、教務力よりも、伴走者(アドバイザー、コーチなどのいわゆる指導的立場の者)には実は大事なものなんじゃないかなと思っています。(ま、あくまでも僕の考えです)閑話休題、タイトルに書いた「逆算してから積み上げる」、これが受験にせよ仕事にせよ、なにか事を成し遂げるために、それも可能な限り当初の目標に近しいところに到達するために、かなり効果的な手法であると僕は信じ、実践しています。続きは、近日中に書く予定、、、、とかこういう物言いをするってことこそが「キケン」、、、、だって、ツッコマれてしまうと返す言葉がございませんが、、、、。(汗)(可及的速やかに前向きに善処する予定、、、、決定で・・・・)
March 7, 2017
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明日3/1はここ千葉県公立高校の後期選抜試験の1日目(5科目)ですね。今年のうちの塾生(中3生)たち(最早既に元・塾生になられている方が多いですが:汗)は、皆前期選抜で無事合格したので、今は心安らかに家で愛犬とまったりしております。前期選抜の時に、一応平均点予測と出題予想などをしていたのですが、平均点はまぁ想定していた範囲に近く、(試験前に想定しておくのが「肝」かな?と個人的には思ってます。終わった後でああだこうだ言ったところで、試験を取った得点が変わることもないですし・・・)僕は中学受験でも高校受験でも大学受験でも、基本的には同じスタンスで入試対策をしています。それは過去の出題傾向や受験者のレベルや合格最低点を、データとして重視するということです。もちろん、入試までの短期、中期、長期的な受験計画を立て、当然すぎることではありますが、予定が予定通りに運ばないということも勘案して、一人ひとりの合格までのスケジュールを立てて、実践していくわけです。合格率はそれほどひどくはなく、というよりはむしろ、僕の言うことをある程度聞いて、そこそこのレベルでやってくれた子たちは、まぁなんとか納得できる結果を手にしているようです。これはきわめて個人的な見解ですが、うちの塾生に関しては、受験前にある程度は結果がわかります。大丈夫だと思っている子は須らく大丈夫であったし、微妙な感じかなと思っている子でも八割方は受かり、まずいな、と思う子でも五分五分くらいではなんとかなっていたりします。(今まで公立高校志望で落ちてしまった子は一人だけです、奇跡的?!ですが)で、与太話はおいといて、、、、。明日の千葉県公立高校後期選抜ですが、理科の出題予想(うちでは使わなくなりましたが)はしていたりします。せっかく予想したので、見ている人がいるのかいないのかわかりませんが、とりあえず書いておくことにします。(理科だけだけど)・天気:気団・火山:火山岩・ヒトの消化、呼吸、血液・遺伝・等速直線運動・電流と磁界・炭酸水素ナトリウム(熱分解など)・光合成この中から何か出題されるだろうなぁ、と思っています。ちなみに天気・気団、炭酸水素ナトリウム、ヒトに関してはけっこう怪しいかなと、、、。それでは、受験生の皆さまのご健闘をお祈りするとともに、2018年度の受験生の皆さまの通塾のご検討も、ついでにお願い申し上げます。追伸:事故採点の話ですが、ほとぼりがさめた頃合いに、そ~っと書こうかなと思っています。今書くと差し障りがありそうなので、、。
March 1, 2017
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未確認だった塾生たちが報告に来ました。全員無事合格でした!(^o^)ということで、本年度の公立高校受験組は全員前期試験にて入試終了。どっかの中学校の先生が言ってたらしいふざけたこと、「前期はほとんどダメだから・・・」っていうのは、幸いなことにうちの塾生たちには当てはまりませんでした。(まぁ、特に珍しくもありませんけどね、へへへっ:嗤い)最後の追い込みが功を奏して、全員1が月に実施された最後のVもぎの点数をアップさせて、それぞれの合格を手にしてくれました。来年度も今の感じからするとけっこうタイヘンな予感と悪寒がしますが、僕の言う通りに塾に来てくれて、僕の言うことをある程度きいてくれれば、それなりの結果にはつながるかな?と、そこはかとなく思ってはおりますがどうでしょう??明日はヒマになってしまったので、うちでろりを(英セター・♂:まだ1歳未満、でももう23Kg)と、まったりしてようと思います。
February 20, 2017
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今日は千葉県公立高校前期選抜試験の発表日ですが、1名は本人(&保護者)からの合格確認済みで、他の子たちは仄聞ですが合格したとの話を先ほど聞きました。多少の謎?!は残っておりますが、なんとか無事に全員合格(らしい)となったのはなによりです。最悪の事態に備えて、後期試験の予想&準備は手抜かりなくしておりましたが、それも杞憂に終わりそうです。ということで、前期試験が残念な結果に終わってしまったけれど、後期試験に向けて背水の陣を敷いて捲土重来を期すぜ!という、気骨のある中3生がいらっしゃいましたら、ぜひどうぞ。猫の手を借りたり、藁にすがろうとするよりは、かなりあてになるとは思いますよ。
February 20, 2017
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先ほどどこよりも厳しい?!と思われる、うちの受験生たちの自己採点が終了しました。その結果は、、、、、、まぁ概ね皆、普段の力は出せたようです。英語の出題形式が一部変更されていて、例年であると英文で説明されている、単語を答える問題が「リスニング」によるものとなっていました。(ただし変更初年度ということもあって、問われている単語は基本的なものでした)数学は若干易しくなっていた(ただし、ある程度できる子にとっては、です)ように感じました。国語は聞き取り問題がやや易しくなっていたことと、物語文が読みやすいものであったこことから、やや易しくなったかなと思います。理科はおそらくは昨年の前期選抜の点数よりは高くなると思います。社会は昨年度並み〜プラス2,3点といった感じです。(やや易化かな)で、気になる平均点の推定ですが、国語62、数学52、英語54,理科56,社会60,5科 286点くらいになるんではないかなと、何となく思っておりますが、学校裁量による採点にかなりばらつきがあるように思えてならないので、上の点数とある程度の開きがある可能性は否定できないだろうと思っております。ま、いずれにせよ、もう済んでしまったものに対して、あれやこれやと悶々としたところで、点数が変わることもないので、最終的に「合格です!」と通知を受けるまでは、粛々と準備だけは怠らないようにするだけです。ということで、前期に引き続き、後期の対策&予想に早速取りかかることにします。受験生の皆さんの第二日目の健闘をお祈り申し上げます。
February 13, 2017
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本日は2017年度千葉県公立高校前期選抜一日目です。塾生たちも受験に行っております。これから問題を確認(私が)、自己採点(各自&私)、平均点予測&合否の可能性、後期への準備、などなどをする予定です。直前予想は一部的中?した感じ(模範解答だけ見た上での印象)。とりあえず、明日も面接やらなんやらがありますので、準備はしておかなきゃ、です。。
February 13, 2017
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