聖書に学ぶリアリティセラピー


聖書の「ヨハネの福音書8章3節~7節」の記事からRT(リアリティセラピー)の原則を学びたいと思います。 

「律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、イエスに言った。『先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。』彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。『あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。』」

この場面は、イエス様をおとしいれようとするユダヤ人たちが、姦淫の現場で捕らえられた女性を連れてきて、彼女をどのように処するべきかを、イエス様に問いかけているところです。これは、彼女を「罰する」と答えても、「赦してあげなさい」と答えても、当時の社会システムの中では、告発される内容なのです。それがわかっているので、ユダヤ人たちはイエス様を罠にかけるために質問しているところです。

さて、この質問に対して、イエス様は、罪を犯しているその女性に対しても、自分をおとしいれようとするユダヤ人に対しても、非難や批判をすることなく、群衆に「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」、と【自己評価】を促す質問をしています。そして、群衆は【自己評価】をして、自分自身に罪があることを認めて、石打にするために持っていた石を捨て、立ち去って行ったのです。ここに、イエス様の自己評価の質問が、群衆の内面に問題意識をもたらし、新しい行動を選択させることになったことを見ることができます。

リアリティセラピーでは、批判する側が建設的なアドバイスであると思っても、受け取る側には非難としか映らないことが多いので、批判・非難しないことが関係づくりに最も大切である、と教えています。さらに、相手のことを公の場で評価しない方がよい、とも教えています。では、問題があるとわかっていても、手をこまねいているのかというと、そうではありません。相手に【自己評価】を促すことで、今している、また、しようとしている行動が自分の願望を満たすために、本当に効果的なのかを考えさせます。この【自己評価】の技術を身につければ、相手を批判・非難してその行動を変えようとしなくとも、相手に気づかせることができます。動機づけの面で考えると、非難されて変えさせられる外からの刺激より、自分自身の気づきによる内からの思いの方が強力であることを、私たちは【選択理論】から学んでいるはずです。

ここで問題となるのが、【自己評価】のレベルでしょう。高い【自己評価】をする人と、低い【自己評価】をする人がいるのは事実です。もし、聖書のこの場面で、低い【自己評価】をする人がいて、「自分には罪がない」と考えたとしたらどうでしょうか。おそらく、当時の習慣に従って石を投げていたかもしれません。【自己評価】を正しくするために大切なのは、【上質】のものを常に提示することです。その【上質】のものを十分知ってもらって、それと自分を【自己評価】してもらうことです。群衆のみなが正しく【自己評価】をしたのは、【上質】であるイエス様を見ていたからでしょう。それは、イエス様は神の子であるので、一度も罪を犯すことなく、すべての人の模範となっていたからです。

私たちも、リアリティセラピーで技術を学ぶにおいて、自分のレベルを正しく自己評価するためにも、常に【上質】のものに触れていたいものです。また、学びを始めた人に指導していくに当たって、常に【上質】のものを提供していきたいものです。


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