こがらしの吹くまち

こがらしの吹くまち


ただいまこれを書き直し中。

 窓の外は一面銀世界だった。降り積もる牡丹雪は止むところを見せず、何もかも飲み込んで白く染めてゆく。
私には、浄化されていくようにさえ見えた。
「雪?」
「凄いよ、見える?」
 隣のベッドで寝ていた妻はゆっくりと身を起こすと、子供の様な笑顔を浮かべた。
「うわぁ、真っ白だね。ホワイトクリスマスなんて、いつ振り?」
「雪は、五年ぶりだって」
 無垢な少女を思わせる笑顔には相応しくない痩せこけた頬が痛々しかった。
彼女は頭に被ったお気に入りの白にウサギの絵が入ったニット帽を直し、私に向き直った。
「プレゼント、何くれるの?」
 医者や看護婦に聞く限り、相当辛いそうだ。四十度の熱が下がらないとも聞く。
「何がいい?」
 にも関わらず、私がこの部屋に入ってからというもの、ずっと笑顔。
「あなたの愛」
 と、ニンマリ答えた。顔が赤く火照っているのは熱のせいだろう。
「いい子にしてたら、サンタさんが届けてくれるよ」
「またそうやって、子供扱いする」
 ムスッとして顔を半分布団にうずめた。私は彼女の頭を撫でてやり、立ち上がった。
「……帰るの?」
 意識してのものかはわからないが、上目遣いが可愛くて後ろ髪を引かれる思いだった。
けれども、彼女の疲労困憊具合は限界に近いはず。今日はこれでも調子が良い。
「ゆっくり寝なさいな」
「うん」
 いやに素直な返事に少し戸惑い、つい足を止めて振り返った。
「ねぇ」
「何?」
「私、ひとりぼっちなんかじゃないよね?」
「もちろん」
 目だけが見える。涙は出ていない、けれども泣いているように見える。私は必死で笑顔を取り繕った。
「じゃぁ、あなたもひとりぼっちじゃないよ」
 目尻が緩んだと思うと、彼女は布団をはいだ。満面の笑みを浮かべている。
「うん……じゃあ」
 その笑顔には、それ以上聞かないでとでもいうようなオーラを感じた。
「また来てよね?」
「もちろん、しっかり寝ろよ!」
「おう!」
 わざと野太い声を出した彼女は、私と目が合うと恥ずかしそうに笑った。

 病室と廊下を挟む前室に出た私は、服を着替えなければならない。
今彼女の抵抗力はほぼ無に等しい。故に今彼女は無菌室という個室に入れられ、
我々が入るためには履物を変え宇宙服のような服を着た後、全身消毒を受ける必要がある。
 無菌室の辛いところは、外出が許されないことだそうだ。
けれども寂しく辛いはずの彼女は、面会時間の関係で週末にしか来れない私をいつも笑顔で迎えてくれていた。
 廊下は前室やあの部屋に比べると少々肌寒い。暖房は効いているのだが、設定温度が二、三度低いのだ。
と、顔見知りになった看護士に聞いた。もう、一年半になる。
「お! 金田さんじゃねぇか!」
 コートを抱えて歩いていると、声を掛けられるのはいつもここだ。
帰ろうというときに限って、毎週毎週呼び止められる。
長い間通う内に、私は喫煙所仲間の一員のようになっていた。いつも同じ老若四名の入院患者がタバコを咥えて語り合う。
「今日もお見舞いお疲れさん。どうだ、一服」
 ガラス張りの休憩室の中にいる、マルボロを咥えた六十歳。
中度の糖尿病で入院中の高橋さんがその声の主。彼を挟むように私の二つ下、二十三歳の若者が二人腰を据えている。
向かって右がバイク事故で右腕を骨折した木下さん。左側も同じくバイク事故で左足を骨折した田島さん。
二人とも、マイルドセブンの愛用者である。
「金田さん、奥さん調子どう?」
「ぼちぼち、ってとこかな」
 私は無意識のうちに足を止め、周囲に目を走らせていた。
懐から赤ラークの箱を取り出し、唇で挟む。
ライターをとポケットを探るが、何故か手は震え、しまおうとする手から滑るように床へ落ちた。
慌てて拾い上げると、高橋さんと目があった。
「高橋さん、あの、火あります?」
「タバコは、中で吸えよ」
「……はい」
 注意よりは、怪訝さが滲み出ていた。私は拾った箱を懐に納め、彼の後を追った。
「ほら、ライター」
「あ、どうも」
 点火。眼前で火花が散り、すっと目が冴えた。そうだ、鎌田さんがいない。
私は深く煙を吐き出し、部屋にいる三人に目を配った。
「鎌田さんは?」
「一昨日からICUだ」
「ICU?」
「集中管理室っすよ」
 高橋さんは小さく頷くと再び腰を下ろし、燃え尽きた吸殻を灰皿に擦り付けていた。
妻も骨髄移植直後に入っていた時期がある、その略称には聞き覚えもあった。
 けれども、何より私は戸惑いを隠せずにいた。私は腰を下ろすよう勧められ、角の席に落ち着いた。
呆然とする私に気を利かせて高橋さんが説明しはじめた。
「ほら、鎌田のオヤジ直腸がんだったろ? 実はな、いつも見栄張ってセブンスターの箱持って来てたけど、
アレ数ヶ月前から空だったのよ」
「まじっすか!」
 無言の私とは対象的に若者二人がハモった。
「俺には随分話してくれてたんだけどな、あのオヤジ随分頑固者でさ、痔だっつって聞かなくて。
入院したときにはステージ3。こないだ肺に完全転移してるのがわかってタバコどころの話じゃなかった……奴さんも年だ。
もうお迎えだよ」
 煙を吐き出し、長い吸殻を灰皿に放り投げると、二人に目配せして私の方を向いた。
「ちょっと、話がある」
 申し合わせたように、二人が出てゆく。出て行ったのをみると、高橋さんは体ごと私のほうへと向き直った。
珍しくといっては失礼だが、真面目な顔である。
「奥さん、具合どうだ」
 高橋さんは矢継ぎ早に次のタバコに火をつけていた。
「すまん、本当は知っている。俺も時々、見舞いに行くのさ」
 うつむき加減で煙を吐き出した彼は、顔をもたげると私の目を見つめた。
「……」
「俺はなぁ、三十路で妻亡くしてんだ。美人でな、気立てが良くて。そりゃぁもういい妻だったよ。
そのお陰で、三十年独身よ。寂しいもんだぜ、子供もいない」
 深呼吸のように吸い込み、やはり長いまま灰皿に捨てた。
「お前さんとこの、奥さんがそっくりだな。辛いのによ、亭主の前でやせ我慢して」
 机の上に置いたマルボロのケースに手を伸ばしかけたが、やめた。
「死んでからなぁ、不憫でなぁ……あの世言ったら多分笑われるんだろうよ」
 豪快に笑う高橋さんを横目に、私は短くなってきたタバコを捨て、呆然としていた。
と、彼が突然笑うのをやめたと思うと、私の後ろにあるドアが勢い良く開いた。
「高橋さんまたそんなところに!」
 巨体で名高い看護士、近藤さんに睨まれ、高橋さんは蛙状態。
「いやな、この若造にな、人生っちゅうもんをな」
「おだまり!」
 亀のように首を竦める高橋さん。横綱は引きずるように高橋さんを連れてゆく。
「……金田、これを受け取れ。俺のテツを踏むなよ」
 ズボンのほうにあるポケットから取り出されたのは、四つ折りの便箋だった。
「ケツ? 何よ不潔ね」
「顔も頭も悪い上に、耳もかい?」
 悲痛な叫びとともに、高橋さんは消えた。呆然としつつも、机の赤ラークを手し、一本取り出して咥えた。
そのままぼんやりと辺りを見回し、おもむろにライターを探す。
けれども、ないことを思い出すと脱力したからか、抜け落ちるようにタバコが落ちた。
私は膝に落ちたそれをつまみあげ、凝視する。この草の塊を『緩やかな自殺』と称した人がいる。
果たして、鎌田さんはこれを吸ったから死のうとしているのか。それとも全く無関係なのか。
どうせ、吸わなくともいつかは死ぬ。『死があるから生に意味がある』と言った人がいる。
無という状態が存在する故に有ることが証明されるわけであって、命が消え行くということがあって、
命はやっと存在していることとなる。では、妻が死ねば何かが存在しているという証明になるのだろうか。恐らく違う。
 はたまた、『人の命など、死ぬのが早いか遅いかの違いだ』と言った人がいる。
 けれども私は。彼女が死ぬとき、そう思える自信はない。

 外はやはり寒かった。コートを羽織ったまま、居間にあがる。
高橋さんからの手紙は、あのままポケットへ突っ込んだまま。
腰を下ろしてから、ポケットからくしゃくしゃになった紙を取り出し、コートをたたむ。
けれども私にそれを読む勇気はない。
 しわを正しただけのその紙を、テーブルの上に置き私はおもむろにテレビをつけた。
特番だったらしく、芸能人討論会のような風変わりなものをやっていた。議題は『自殺』。
自殺は今では交通事故による死亡者数の三倍以上とも言われている。どうしてだろうか。
生きることが辛いからだろうか。もう、どうでもよくなったからだろうか。
 かくいう私だが、本当の苦しみというものを知らないから軽々しく言えるのかもしれない。
周囲環境からは恵まれてきたほうだし、言ってしまえば人の死など常にあることで。
地球という存在からみれば、存外ちっぽけなもので――
 危うく自殺肯定論者になるところだった、と自らを戒める。
けれども、人間の主張することほど矛盾に富んだものはないわけで、精神や立場によって主張などコロコロ変わる。
逃げることは悪いことではない。しかしながら、逃げずに前へ進もうとしている人の支援者が逃げてどうするのだ。
 番組も終盤、結局結論などでるはずもなく、微妙な終わり方をした。
真面目に見ていた私が馬鹿らしく思え、もう寝てしまおうと思った。リモコン持った私に、
『さぁ明日もグッドラック! キューティー小柳、明日のカウントダウン占い!』
 黄色い叫び声とともに現れるは見るからにプラスティックの杖を手にしたおばさん。
キューティーの名をつける限界はゆうに超えていよう。
『二位はかに座! 思い立ったらすぐ行動、ラッキーカラーは黄♪ 三位は……』
 確かに変なおばさんではある。けれども、当たるといって有名な占い師でもある。
私は見えない何かに背中を押されたような気がした。妻のために、何かしよう。
『ホワイトクリスマスなんて、いつぶり?』
 ふと、今日聞いた言葉が頭をよぎった。あの時私は、雪は五年ぶりと言った。
では、ホワイトクリスマスはいつぶりだったんだろう。
「初めて告られた日だ」
 はっと気づいた私は、急く思いを落ち着かせ、記憶をたどりつつ電話台の棚を探った。
彼女は覚えていたのだ。小恥ずかしいラブレターを渡したあのクリスマスの日が雪だったということを。
此処に引っ越してきた日に、この棚にしまったのだ。
少々色あせた白い横型の封筒の後ろはハート型のシールで止めてある。私は思わず噴出した。
中身は透けるように薄い便箋である。五歳から習字を習っていた彼女の字はとても綺麗で、対する私の字はみみずのようで。
面白くもあり、懐かしくもあった。  
七年前の明日、いや今日。この手紙を受け取った。彼女の欲しがった愛とは、これのことなのだろうか。
そうと決まれば善は急げである。便箋の代わりにB5のルーズリーフ、ボールペンと茶封筒のなんとも貧弱で、
有り合わせ感漂う組み合わせだけれども。時間も時間故これ以上は無理。それよりなんとしても、明朝渡してやりたい。
 しかしながら、いざ机に向かうと一文目というものが出てこない。
私は無い知恵を絞った後『良い子にしていましたか? サンタです』なる分を紡ぎ出した。
思わず自分で恥ずかしくなるような文章だが、それでよかった。妻を笑わせてやりたかった。

 私は朝から気分がよかった会社にはもう休むと伝えた。それどころか物分りのよい部長はねぎらいの言葉さえかけてくれた。
喜び勇んだ私はただトートバッグに入れた茶封筒を何度も何度も手で確認していた。
この中には、心をこめた、みみずの字がびっしりと入っている。私は駅前のバスターミナルまで歩き、タクシーに乗り込んだ。
「どちらまで?」
「都立病院までお願いします」
 車は走りだし、チェーンの音を響かせた。運転手は見るからに良い人という印象。
「お見舞いですか」
「ええ」
 彼は気さくに私へ話し掛けた。二人の息子がいてもう独立しているらしい。
息子の事を話す彼は本当に幸せそうで、私はそれを羨ましく思った。
ニコリと笑ったその時、トートバッグに入れた手が、振動を感じた。着信先は病院で、私は慌てて出る。
『もしもし、金田さんですね?』
 電話口の声は切羽詰まっていた。私は焦る気を抑え、答える。
「今向かっています」
『あ、はい。わかりました。三階の無菌室へいらしてください』
 プツリと切れた。私は携帯をトートバッグに放り投げ、運転席に乗り出した。
「すいません。少し、急いでもらえませんか?」
「――任せてください」
 チェーンの音が大きくなった。スピードが増していることは確かなのだが、私はいてもたってもいられない。
後二分もすればつくのだが、それが私には何時間にも思えてならない。やがて立派な建物が見えてきた。
メーターは千二百十円。小銭を出すのももどかしく、千円札を二枚助手席に置いた。車が止まり、ドアが開く。
「お客さん!」
 飛び出そうとしていた私は、素早く振り返った。
「焦りは禁物ですよ」
「……ありがとう」
 彼はニコリと笑みを浮かべ、去った。残された私は冷たい空気を大きく吸い込み、辺りを見回した。
今日は交通量が多く、タクシーが去った後もチェーンの音が騒がしい。
並木ははでやかな装飾と白いアクセントを纏って誇り立ち、歩道はカップルや家族連れでひしめきあう。
 私は鳴る雪を踏みしめて病院に入る。自動ドアが開くと、温風が吹き抜けた。
受付を通り抜け、真っ直ぐエレベーターへ向かう。
上のボタンを押すとドアはすぐに開き、三の階数ボタンを押すとドアは滑らかに閉じた。
無菌室は三階、エレベーターから右に進んだところだ。私は急く心をなだめ、拳を握り締めて耐えた。
独特の音と共にドアが開くと、私は足を踏み込むと同時に言葉を失った。
「おい、救急カーどけろ!」
「アシドーシス見られます」
 私は呆然と立ち尽くしていた。呼び出される理由はわかっていた。けれども、整理がついているというわけではない。
「あっ」
 私を見て顔見知りの看護婦がはっとした。一瞬戸惑った後叫ぶ。
「せ、先生! ご主人いらっしゃいましたっ。あの、ムンテラは」
「岬君、ご主人どこかにお通ししておいて!」
 想像外の返答に対し挙動不審になりつつも、彼女は私に向き直ると口を開きかけた。
ムンテラとは病状説明をさす業界用語。以前なら、大抵は主治医の彼が顔をだし、急遽でやっていた。
今日はそれすらない。動揺するのは、彼女だけではなかった。
「は、はひっ」
 なんとも仕事効率悪そうな彼女だがその通り、やる気を除けば看護士向けではない。
更には同時に複数の事を考える力に欠け、今のような場合にはオーバーヒートする。
私はそれをわかっていつつも、巻くし立てるように尋ねた。今は私にも余裕はない。
「中、見られませんか?」
「え、あ……少々お待ち下さい」
 予想通りの慌てぶりに罪悪感を抱きつつも、彼女は無菌室の方へ跳ねるように行く。
「先生! ご主人が中を見れないかと!」
 ほんの少しの間を置いて返事が返ってきた。
「じゃあ金田さんを面会室にお通しして!」
 声を受け、岬さんは振り返った。「こちらへ」と私が連れられたのが面会室。
病室と大きな窓一枚挟む部屋で、中と電話がつながっている。私も時々利用していた。
しかし、彼女は主治医と研修医と看護師達に囲まれ、横たわる姿さえ確認できない。
 私はただただ祈った。トートバックに入れたままだった手を、強くにぎりしめた。
 ふと、医者の手が止まる。
 私の方に振り返り、受話器を手にした。
『……ご臨終です』

 残念、今年も雪は降らなかった。去年は翌日に降り、結局ホワイトクリスマスを拝めたのは9年前の事となる。
去年の雪さえ四年ぶりだった。
『親愛なる我が夫へ』
 故に、雪の中の墓参りというのは今までに一度もない。
『3つだけお願いがあります』
 この手紙が遺書であったことに気付いたのは、葬式等全て終わった後の事だった。
私と彼女に共通して親しい高橋さんに託したのだろう。字は彼女らしく、綺麗だった。
『毎年私のお墓参りに来てくれる事。何せ、寂しがりやですから』
 この辺りから滲んでいる。どのような状況で書かれたかが良くわかる。
『それと』
「パパ!」
 三歳になった我が息子が駆け寄ってきた。
『奥さんと貴方の子を連れて、来てくれること』
 色褪せた便箋に滲んだボールペンの字。私は墓前に手を合わせた。
『最後に』
 私は息子の横に立ち、しゃがんで頭を撫でた。
『いつまでも幸せでいてくれること』
「それじゃあ、行くぞ」
 無邪気な彼は母親のほうへと駆け寄った。次は彼女の亡き夫の墓参りである。
最初は逝き遅れた者同士の慰めあいだった夫婦も、息子ができて随分変わった気がする。
 少なくとも、今は幸せだと断言できる。
『先に逝かせて頂きます。 金田 あゆみ』
 先に逝ってしまった寂しがり屋さんには悪いけれど。
 逝き遅れた分、私は生きます。

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