【恋の行方】

【恋の行方】

2025.07.14
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
橋は名を持たなかった。名無し橋、あるいは無名橋。夕闇が荒川の河原を水墨画の淵へと沈めていく。風がざわめき、葦の穂が微かに身をよじる。その奥に、灯をともした箱のような喫茶店がぽつんと佇んでいる。「ノア」と書かれた看板の文字が、黄昏に溶け込むように滲んでいた。男はそこにいた。窓際の席に根を下ろし、安物の煙草を燻らせている。風霜に晒された船底のような皺が、男の顔に深い陰影を落としていた。その目は、遠い日の残像を追うように、どこか諦念を帯びている。店のドアが開いた。女だった。薄いベージュのコートに身を包み、カシミヤのストールが首筋を隠している。まるで古画から抜け出たような、儚い姿だった。「遅れてごめんなさい」と女は囁いた。鈴を転がすような、しかしどこか翳りのある声だった。男は立ち上がり、無言で椅子を引いた。「いや、待ったというほどの時間ではない」二人は向かい合った。湯気を上げるコーヒーカップが、二つの影を落としている。言葉は沈黙の中に溶け、ただ時間が緩慢に流れていく。やがて、男が重い口を開いた。「久しぶりだな」「ええ、本当に」二人の間には、言葉では埋められない歳月が横たわっていた。喜び、悲しみ、そして拭いきれない後悔。それらが澱のように堆積し、互いの視線を鈍らせている。荒川は変わらず、静かに流れている。その流れを無言で見つめながら、二人はそれぞれの胸に押し込めた感情を噛み締めていた。これは逢瀬だ。過去と現在が交錯する、禁断の儀式。夕焼けのように、美しく、そして脆い光を放っている。男は女の瞳を見つめた。その奥には、底の見えない淵が口を開けている。男はそこに、自身の人生の残骸を見ているようだった。そして知っていた。この逢瀬が、二度と繰り返されることのない、かけがえのない一瞬であることを。それは、荒川の流れのように、永遠に記憶の底に沈み、忘れられることはないだろう。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2025.07.14 21:10:10
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: