気がつけば、思い出し笑い

ショートストーリー6



 今月でうちの親父が38年勤めた会社を定年退職する。
 趣味が釣りだけという、あとは会社人生一筋のモウレツサラリーマンだ。 若い頃は休みらしい休みもなく、僕の運動会や卒業式に出席したこともない。
 子供の頃はそんな家族を省みない親父を自分勝手だと思い込み、反発していた時期もあったが、自分が学校を卒業して社会に出る頃から少しずつ親父の気持ちもわかるような気がしてきた。いや、わかるはずなどない。時代が違いすぎる。

 少年の頃は決して僕から親父に話しかけることがなかったが、最近では親父とスポーツニュースを見たり ちょっと照れくさいけれど仕事上のアドバイスを求めたりするようになった。なんとなく、親父も嬉しそうだ。

 先週の日曜日、親父はいつものように朝早く釣りででかけたようだった。僕はけだるい休日の朝の何度目かの眠りを貪っていた。空腹に耐えられず、階下へ降りていくと母がひとり、押し入れの整理をしている。縁側から差しこむ陽射しのなかにぺたんと座り込んだ、母の手元には1冊の古いアルバムがあった。

 端々が黄色く変色したモノクロの写真には若い頃の父がいた。学生時代のバンド仲間らしい。父の手にはサックスが握られていた。物心ついてから親父に音楽の話など聞いたことはない。しかし物置に埃こそかぶってはいるものの、大事そうに梱包されたいくつものレコードや古いオーディオを子供のころ、見つけて母に「誰の?」と尋ねたことがある。 
 「おとうさんのよ」という母の答えになんとなく納得はしたものの、イメージできない自分がいた。今、こうして40年前の写真のなかの親父と対面すると自然にその時代の情景が見える気がする。まだ親父が親父でなく、僕が僕でなかった頃のことだ。

 その夜の食卓は親父の釣ってきたハゼの天ぷらだった。鼻のアタマが日に焼けて、ビールを飲む親父は上機嫌だった。「来月からは毎日ハゼや太刀魚が食べられるわね」と母が茶化した。

 親父の定年日は11月にしては気温が高く、日中の蒸し暑さには辟易したが待ち合わせの時刻が近づくにつれ 気持ちのいい風が吹いてきた。今日は昔親父が好きだったジミー・スコットのライブだ。

 僕のポケットにはチケットが2枚。もうすぐ親父が汗をかきながらやってくる。まずは夕暮れのバーカウンターでビールを奢ろう。


 「ご苦労さまでした」。

 多分、そんなことは口が裂けても言えないだろう。
 本当に久し振りのライブに、親父は嬉しそうに2杯めのビールを
 注文していた。

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: