闇光線

闇光線

杖の思い出


「本当に、何もなかったなあ。」

 この町に来て、もう15年ほどになるが、私の中にこの町での思い出は一つもなかった。3歳のころに両親に他界された私は、この町の祖母のところに預けられることになった。つまり、その時から今までずっとこの町にいるのに、何もなかった。何もしなかった。普通に小学校に通い、普通に中学校に通い、普通に高校に通い、何もないままこの年になってしまった。死んだ両親との思い出も別の町のことであり、この町の思い出ではなかった。祖母ともそこまで仲が良かったわけでもなかったので、そこまで会話が弾んだこともなかった。この年ならば恋の1度や2度もしてもいいのに、それさえもなかった。この町は私に何も与えてはくれなかった。
 この町は俗にいう「過疎地」だ。住民はみんな老人で私みたいな子供はほとんどいなかった。小学校のころは15人ほどいたのだが、その友達ももう都会のほうへ引っ越してしまってすぐにいなくなった。そのころから私は「孤独」を感じ始めていた。

 コツッ、コツッ、っと何かに固いものをぶつける音がする。ずっと思い出探しをしていた私のそばをその人は歩いていた。その人を私は知っていた。
「え?」
その人は昔ながらのベージュの革ジャンの似合う、視覚障害者のおじいさんだった。そしてその右手の杖の音は、さっきまで探していた私の思い出だった。
 中学になって、別の町の学校まで通うようになった私はいつもその音を聞いていた。いつ、どんな時でもその音は駅のホームに鳴り響き、私の生活の中に入ってきた。駅が静かな分、その音はいつも私の耳にくっついてきて、気分によって、心地よく聞こえたり、耳ざわりだったりした。向こうは何も見えないので、私がどう思っているかなんて知らないと思うけれど。

 祖母が他界して、しばらくたった時、この町を出ることを考えた。そもそも何もないこの町にいる必要はなく、上京して生活したほうがいいと思ったのだ。
 でも、私は東京に行ったとして、この町に戻ってくることがあるだろうか。この町を覚えているだろうか。そんなことを思い出すようになった。今までこの町を出て行った若者たちはこの町のことを忘れてしまって、東京から帰ってこないのではないだろうか。自分もそんな風になってしまうのだろうか。  
 ならないという自信はなかった。自分も彼らと同じようにこの町を出て行っているのだから。私はその時罪悪感と憂鬱の間の様な、そんな感じがした。

 電車がやってきた。私をこの虚無の町から遠ざける乗り物。私を遠いところまで連れて行く乗り物。私はこれに乗って東京へと出て行くのだ。もう後悔も罪悪感も憂鬱もなかった。私は乗り込む前に杖の音を探した。
 私がその人の目の前に行くと音で分かったのか気配を感じたのか立ち止まってくれた。私は深々とその人に礼をした。そうするとその人はまた音が聞こえたのか気配を感じたのか少し驚いたような顔をして、それから向こうも深々と礼を返してきた。なんだかホッとしたような嬉しいようなよくわからない気持ちになった。

 私は電車に乗り込んだ。私を乗せたその電車は駅からだんだん離れて行く。
駅には杖の音が取り残され、また、コツッ、コツッと寂しく響いた。
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