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小沢征爾さん死去、88歳…ボストン交響楽団などで日本人初の音楽監督2024/02/09 21:07 読売 世界的指揮者で、ボストン交響楽団やウィーン国立歌劇場の音楽監督を日本人で初めて務めた小沢征爾(おざわ・せいじ)さんが6日、心不全で死去した。88歳だった。葬儀は近親者で行った。 旧満州(現中国東北部)生まれ。10代から指揮を斎藤秀雄に学び、1959年、フランスのブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。20世紀を代表する指揮者シャルル・ミュンシュやヘルベルト・フォン・カラヤン、レナード・バーンスタインに師事。楽譜の深い読み込みに支えられた綿密な解釈と全身を使った力強い指揮で評価を確立した。 61~62年にニューヨーク・フィルの副指揮者を務めて以降、米サンフランシスコ響の音楽監督などを歴任。73年に米5大オーケストラの一角、ボストン響の音楽監督に就き、2002年まで務めた。同年~10年には、世界屈指のオペラ劇場、ウィーン国立歌劇場の音楽監督として活躍。ウィーン・フィルやベルリン・フィルにも度々客演した。 国内では新日本フィルハーモニー交響楽団や水戸室内管弦楽団と深く関わった。恩師・斎藤の薫陶を受けた奏者らで作ったサイトウ・キネン・オーケストラとの活動にも力を注ぎ、1992年に長野県松本市で始めた音楽祭「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」(2015年に「セイジ・オザワ松本フェスティバル」に改称)の総監督を務めた。 十数年前から体調を崩すことが多かった。08年に文化勲章受章。22年に日本芸術院会員に選ばれた。作家の 征良 さんは長女、俳優の 征悦 さんは長男。彼が指揮するオーケストラを聴いたことはないような気がするが、テレビ等で見ただけでもそのパッションの強さを感じたし、それがオーケストラの演奏に強い力を与えているようだとは、私でも感じられた。一度演奏を聴いてみたいなと思ったのは随分後のことだったので、ついにその機会がなかったのが少し心残りだ。小澤 征爾さんのお兄様は文学者であり昔話研究家なので、その講演はお聞きしたことがある。指揮者の小澤さんのお兄さんと言うことはその時知り、弟さんの小澤幹雄さんは俳優。本当に才能豊かな一族だと思う。全力疾走した人生だと思うので、どうぞゆっくりお休みくださいと言いたいところだけど、きっとあちらの世界に行っても先に行った仲間たちとの演奏会の準備にとりかかっているのではないだろうか。本当にありがとうございました。
2024年02月11日
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このニュースにはとても驚いた。やはり記録しておかなくちゃ。谷村新司さん(74)急逝、「来年アリスで復帰」を望み闘病中だった2023.10.16 15:01 ポストセブン 歌手の谷村新司さんが、病のため東京都内の病院で急逝していたことが10月16日、分かった。74歳だった。今年の3月に急性腸炎のために手術を受けて、入院しながらの治療を報告。堀内孝雄(73)、矢沢透(74)との3人組「アリス」の全国ツアーを延期して、6月30日には、年末恒例のクリスマスディナーショーなども休止すると追加発表していた。年内いっぱいの休業を決断して、治療に専念していたが、ついに帰らぬ人となってしまった。(後略)谷村新司さんが急性腸炎の手術の経過が悪く亡くなったと知った時は、きっと他の病気も併発していたのだろうなとは思った。(急性腸炎の手術だけで亡くなるなんて医療ミスでもない限り考えられないから)アリスが再結成(?)して全国ツアーをするというようなことは知っていたので、全国のファンはどれほど残念な思いだろう。私は特にファンというわけではなかったが、彼らとは同世代でもありその曲も好きだったので、とても寂しい気持ちである。谷村さんが亡くなってから、テレビでも彼の曲が何度も流れているので、「昴」「いい日旅だち」などが耳や脳内に残るようになってしまった。(イヤじゃないけど)彼は良い旅立ちをできたのだろうか。ひょっとしたら、地上の星から天上の星になり、愛した昴の仲間入りしたのかもしれない。あらためて聞いていると、とても良い曲ばかり。今までアリスをはじめとする音楽仲間と共に、素晴らしい名曲を残してくださってありがとうございました。本当にお疲れさまでした。ご冥福を祈ります。
2023年10月22日
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先週の金曜日、11月26日に、関わっている団体の例会に合わせて一時間、ヴァイオリニスト 伊藤光湖さんのソロコンサートを開催しました。コロナ禍であるので、広く参加者を呼びかけることはせず、関連二団体の関係者だけの小規模なコンサートでした。伊藤光湖さんとの出会いは、2004年の伊藤さんのコンサートに知人の誘いで聴きにに行った時からです。(伊藤さんについては、このブログでも何度か書いています)その時に、彼女が施設や病院、小中学校でのボランティア演奏をしてくださる人と知り、ぜひ当市の子ども達にも彼女のバイオリン演奏を聴いてもらいたいと思いました。私は、さほどの音楽愛好家でもないのですが、ライブ演奏はジャンルを問わず好きなのです。(あまりにも大音響のものは苦手ですけれど)演奏する人が全身全霊を込めて演奏する音楽は、直接自分の身体と心にしみわたる感じがします。きっと、演奏する姿と合わせて聴くことと、会場に響く音楽の振動が、CDやラジオなど機械を通したものとは異なるのだろうと思います。 そんな動機で、一度だけピアノ伴奏もある本格的な演奏会を企画しましたが、その後は小中学校などでのボランティア演奏ばかりをお願いしていました。関わるグループの乳幼児向けのイベントにも協力してもらいました。 そんなご縁があって交流は続いていたのですが、伊藤さんのホームページでも詳しく書かれているように、 2017年6月に彼女が来日中に (当時の伊藤さんはパリと日本を往復して演奏活動をしていました)ご実家が不慮の火災に見舞われ、ご実家は全焼した上にご両親も失い、彼女も一酸化中毒と重症の呼吸器の熱傷(目、鼻、喉、気管、肺の火傷)となり、退院後もその後遺症と闘ってきました。そんな伊藤さんを、彼女を知る仲間たちと共に心配しながら、一日も早い彼女の回復と演奏活動の再開を願ってきました。 そんな伊藤さんも、やっと昨年から演奏ができる状態になったとはお聞きしましたが、なにせ「コロナ感染拡大」の真っただ中です。そんなわけで先週の金曜日にやっと伊藤さんと私達が待ちに待ったコンサートを開くことが出来たのです。 久しぶりにお会いする伊藤さんは、以前と変わらずお元気に見えました。そして、「色々と大変でしたね」という私に、「いえいえ、もっと大変な人たちがいますから、かすり傷のようなものです」とおっしゃるのです。「かすり傷」なんて言い表せるものではないはずなのにそういう伊藤さんは、私にはサバイバーでありチャレンジャーのように見えました。そんな伊藤さんの奏でる演奏が、皆さんの心を勇気づけることはいうまでもないと思います。 彼女が演奏を始めた時、全身に鳥肌が立つような感じになりました。この演奏をするために、どれほど日々の努力を続けてきたことでしょう。そのプログラムは、彼女の意気込みを感じさせるものであり、その曲を完璧に弾くために日々努力し続けたことを感じさせてくれました。彼女の、意気込み、真剣さ、音楽を愛する気持ちが、息遣いや全身から立ち上ります。それが聴くものの身体や心に波動として伝わるから、生演奏は感動してしまうのだろうと思います。 ピッタリと約束の60分を演奏し終わった伊藤さんに、私達のメンバーの一人が造ったバラの花束と、バラの花ことばに寄せたメッセージカードを贈りました。伊藤さんは大変喜んでくださって、そのカードを会場の皆さんに読んで下さいました。実は、私も贈呈の時に読もうかとも思ったのですが、花束に添える形がいいだろうと思ったのです。当日の会場の横幕にも、彼女が造ってくれたバラの花を飾りました。私はその時には知らなかったのですが、彼女も亡くなられたご両親も薔薇の花が大好きだったそうです。そして、その時の横幕の文字は濃紺。彼女のドレスも濃紺でした。なんだか、全部がつながっていて、青いバラの花ことば「奇跡」ともリンクしました。演奏会が終わった後、参加者の一人が「なぜか涙が出てきた」と言ってました。「こんな機会を本当にありがとう」と何人にも言われました。私は言い出しっぺではありましたが、花束やカードの準備、メンバーへの連絡など、全部仲間がやってくれました。この会を開くことが出来たことに、私の方こそ感謝するばかりです。伊藤さん、本格的なコンサートを開くときはぜひ教えてくださいね。《バラの花ことばから》青いバラ 奇跡11本のバラ 私の宝物22本のバラ あなたの幸せを祈ります30本のバラ ご縁を信じますもちろん、花束の数は30本でした。
2021年11月28日
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関わっているグループの例会の時に、旧知のヴァイオリニストの伊藤さんに来てもらって小コンサートをすることになった。彼女との出会いは、ブログを確認したら2004年の8月だった。あの時は、たまたま誘われてお付き合いのつもりでコンサートに出向いたのだった。あれから17年が経った。あの時一緒にコンサートを聴きに行った友人は、10年以上も前に突然あちらの世界に行ってしまった。伊藤さんにも色々なことがあった。それでも、また彼女の演奏を聴くことが出来るのがとても楽しみだ。私は格別音楽愛好家ではないと思う。でも、どんな音楽でも生演奏は好きだ。演奏家や歌手が心を込めて歌ったり演奏する姿と共に聞く音楽は、ジャンルの別なく感動する。そういえば、コロナ禍のせいもあって、随分生の音楽に触れていない。その日がとても楽しみである。
2021年11月09日
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10年近く前からコンサートなどでつながりを持ったヴァイオリニスト伊藤光湖さんのご実家が、6月30日未明に火災で全焼し、ご両親が亡くなられた。第一発見者となった光湖さんは、ご本人の言葉によれば「なぜか生き残り」重度の一酸化炭素中毒と重症の気道熱傷で集中治療室での辛い治療と、その後遺症に苦しみながらも、ご両親の「お別れの会」の日を迎えた。火災のことは新聞やテレビの報道で知り、その後の経過がとても気になりながら日が経ち、一か月以上も経ってからご本人からのメールをいただいた。私はさほど近しい関係でもないのであまり深いことを問い合わせることもせず、ホームページで火災のことやご本人の体調のこと、その後の経過などを気にはしていた。「全焼」ということで、彼女のヴァイオリンやご両親の写真などもほとんど焼失したようで、ご両親亡き後の様々な手続等にも大変な思いをされているのではないかと案じていた。合同メモリアルは、札幌パークホテルのチャペルで行われた。別会場で受付を済ませ、チャペルに入ることのできる約80人が案内されたのだが、とても大勢の参列客がいたので、多分会場に入ることができずに別会場でのモニターでの参列になっていたのだろう。私は幸いに、少し早く会場に着いたことや諸々のタイミングで、チャペルで光湖さんのご挨拶や演奏を直に聞くことができた。お母さまは書道の先生としか知らなかったのだが、今回のお別れ会でご両親それぞれ版画と書道では有名な人と初めて知った。ご家族はクリスチャンで、そのホームページの情報とお別れの会での経歴紹介によれば、お父様伊藤一雄さんは、教師を続けながら版画でも国内外で受賞され、海外の美術館にも数多くの作品が収蔵されているとのこと。またお母さまの伊藤龍子さんも、お若いころから書道での展覧会で受賞を重ね、現在では審査員としての活動もされていたようだし、亡くなるまで大麻高校で高校生への指導をされていた。つまり、家族三人とも芸術家のご一家だったのだ。きっと、ご自宅には数々の作品もあったのだろうと思うと、なんだか切なくなってしまう。火災の原因は「マッサージチェアからの自然発火」だそうだ。そんなことがあるのかと驚くと同時に、この世には本当に思いがけないことが起きることがあるのだと思う。ご両親とご実家を失った光湖さんの心身の状態がとても心配だったのだが、信仰を持っているということは、このような場合には大きな支えになるのだろう。私は特定の宗教には所属していないので、信仰があるとはいえない人間だ。だからきっと、このように理不尽と思えることが起きたら、怒りと悲しみを乗り越えるには七転八倒するのかもしれない。(いや、彼女だって当然七転八倒の心身の苦しみの日々だろうが)ご両親手を取り合って神のところに旅立ち、それを最愛の娘が素晴らしい演奏で葬送する。なにかとても荘厳な気持ちになり、そのご冥福を心から祈った。今までもご両親は一人娘の光湖さんを全力で愛し、励まし、支えてきたことだろうが、これからは今まで以上にすぐそばで見守り支えてくださることだろう。どんなに強い信仰や信念があっても、事実としてご両親のいない世界で生き続けることは、やはり寂しく辛いこともあろう。その経験が彼女の音楽の芸術性をさらに高めることを信じて、これからも応援したいと思う。
2017年09月14日
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珍しく夫が聴きに行きたいといったので、札幌でのウィーン少年合唱団公演を聴きに行く。今回のメンバーの中には、日本人の少年も一人いた。実は私も、この合唱団の歌声を聴くのは初めてだった。期待にたがわぬ美しい歌声で、しばし心が洗われるような時間を過ごした。声変わりをするまでと言うが、この少年たちのその後はどうなるのだろう。もちろん、音楽関係の仕事をする人も多いのだろうが、全寮制の規律ある少年時代に、音楽と世界の友達に出会い、さらに演奏旅行で世界を見聞きする体験はとても貴重なことだろう。アンコール曲には、「ふるさと」や「ソーラン節」を歌ってくれた。きっと、公演先に合わせて練習してくるのだろう。ただ、この合唱団にはダンスの指導者はいないのかなと思った。リズム感はある子ども達だろうに、ちょっと動きがぎこちないというか…。まあ、それはそれでご愛嬌で可愛かったけれど。
2017年05月21日
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7日、8日と、長く同じ町内に住んでいたMさんの葬儀に参列。20年ほど前に御夫婦で転居されてきて、10年前に奥さんを亡くされてからはお一人暮らし。数年前から癌で入退院を繰り返されていて、住居も私たちの町内の借家から、隣町のマンションに転居された。古い借家で冬季間は寒いし、年齢や体調を考えると家周りの雑草の手入れや除雪が大変だからという話だった。町内に住んでいた頃は、町内の役員を引き受けていたし、隣町に転居してからも、「この町内にはお世話になったし馴染みがあるから」と会長に話して特別町内会員として、町内会行事の参加はもとより、町内会の役割も引き受けていらっしゃった。でも、なんとなくお身内は少ないような感じで、お友達のことはよくお聞きしたけれど、一人息子さんの話もあまりされていなかった。先月の町内会の敬老会行事にも、招待者(75歳以上)であるにも関わらず一所懸命役割をこなされていたという。(なにせ、町内会に関わる人たち、参加する人たちが高齢化しているので、75歳以上でも大切なスタッフ)だから、突然の訃報にみんな驚いた。時々お会いするとき、「体調はいかがですか?」と聞いても、「あまり良くはないけど、こんなもんでしょう」ということだったし、以前とはさほど変わりのない体型だったので、深く聞くこともなかった。でも、本当に末期状態だったらしい。自宅で倒れて救急車で搬送され、数日後に亡くなられたとのこと。葬儀は、彼が生涯の友とした「音楽」が流れる「友人葬」だった。思えば、彼が私の町内に転居してまもなく、何かのコンサート(多分、ジャズコンサート)で会った。彼の方から声をかけてくれて、「ジャズ、好きなんですか」と聞かれたように思う。「ジャズが特に好きというわけではないけど、ライブは好きなので誘われたらどんな音楽でも」などと答えたと思う。はっきり言って、私がコンサートに足を運ぶのは、友人から「チケット買ってくれない?」と言われる時がほとんど。コンサートの実行委員になったこともあるけれど、それは、その趣旨に賛同していたり、誰かを応援したいと思った時。そんな消極的な音楽好きの私でも、彼は転居まもなくでこの町に友人も少なかったからであろう、「嬉しいなあ。同じ町内に音楽好きな人がいるなんて」と言ってくれた。そして、私がどんな音楽が好きなのかと少し聞かれたように思う。それからまもなく、私の家に彼が編集したという音楽テープを持って来てくれた。ポップス、ジャズ、ニューミュージックなど、私の好きそうな曲をセレクトしてみたと言う。本当にビックリしたけれど、せっかくなのでありがたくいただいた。そのカセットテープは、夫とどこかにドライブに行く時など、何度も聴いた。(実は私は、日常生活で音楽をたっぷり聞くのは、ドライブ中がほとんど。 ひょっとしたら、そんな話をしたのかもしれない)軽快で明るい曲が多いそのテープは、ドライブにはピッタリであった。それを話すと、彼はまた別のセレクションテープを作ってきてくれた。その後、彼はご自分の好きなジャズの同好者と出会い、自分たちでコンサートやレコードコンサートもするようになり、奥様が亡くなられてからは一層その活動に情熱を傾けるようになり、活動の幅を広げるようになっていった。葬儀は、そのお仲間たちによる「友人による音楽葬」であった。多分、ご自分の死期を感じていて、お仲間とそんな話をしていたのかもしれない。このような形の葬儀は初めてだったので少し戸惑ったが、とても爽やかで気持ちの良い「送る会」であった。色々な人の話を総合すると、決して順風満帆の人生ではなく(少しはご本人から聞いていた)むしろご苦労や悩み多き日々の方が多かったのかもしれない。それでも、「生きていることは誰でも苦労があるもの。自分だけではない」と、いつも音楽を心の糧として生き、この10年くらいは音楽の素晴らしさを周囲に伝える伝道師のように暮らしていたと思う。棺の中の彼は、最後まで自分らしく生き切った満足感の中にあるように、穏やかなお顔だった。Mさん、本当にありがとうございました。貴方からのベストセレクションシリーズ、大切にさせていただきます。
2016年10月08日
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中学生の孫が、札幌のコンサートホールKitaraで開催された第61回北海道吹奏楽コンクールに出場するので、妹と二人で出かける。全道の地区大会で出場が決まった学校ばかりなので、本当に聴き応えがあった。地区大会の時には、私の耳にもレベルの違いが多少はわかったけれど、全道大会となるとどの学校も中学生とは思えないような演奏をするので、本当に感心するばかり。地域によっては小学校にも吹奏楽部があって、それなりに演奏経験がある中学校もあるだろうが、中学生になって初めて吹奏楽部で活動するような学校も多いのではないか。前日孫に電話をして、「キタラで演奏できるってことだけですごいことなんだから、結果は考えないで楽しんでおいでね」と伝えたのだが、本人は「嫌だよー、金賞を取りたい」と言っていた。残念ながら、孫たちの学校は金賞は取れずに銀賞になってしまったが、ステージ上の孫の表情は、緊張しまくっているという感じを受けたので、これではちょっと金賞は無理かも…と、演奏前から感じてしまった。小・中学の吹奏楽コンクールは(いや、高校もかな)、指導者のコンクールに近いものがあるかなと思った。そして、見ていると指揮をする指導者の雰囲気や考え方が、演奏にも顕著に現れるようにも感じた。ステージ準備をしている時から、その雰囲気は伝わって来る。比較的前の席で見ることができたので、最初はそれぞれの演奏に感心・感動するばかりだったが、次第に、指導する先生と生徒たち、その演奏の雰囲気を感じることが楽しくなり、妹と準備段階から、「この先生は細かいことに厳しそうだね」とか、「この先生は何だかゆるい感じで、雰囲気いいね」などと予想したりもしていた。残念ながら、私たちの好みや耳は審査員とは視点が違うようで、予想がはずれる学校も多かったのだが、当たらずとも遠からじという感じがした。やはりレベルの高い演奏をする学校の先生は、ある程度の厳しさが必要なのだろうとは思った。しかし、厳しければいいわけではないなとも思った。こだわりが強くて厳しそうな雰囲気のある先生の生徒たちは、演奏前から緊張しているし、中にはステージを降りるまで緊張感ただよう学校もあった。私としては、中学校の部活では、何よりも「音楽を楽しむ。仲間と一つの曲を作り上げる喜び」を感じてもらいたいと願う。その結果が高評価になれば一番良いけれど、少なくても全道大会で演奏する喜びを感じて欲しいと思う。孫たちの学校は、緊張もしていたけれど、演奏中は曲に入り込んでいるような雰囲気もあったし、終わった時にはホッとしたような笑顔も見えた。多分それは、私たちには見えないけれど指導する先生の表情がそうさせているように思う。ちょっと違和感があったのは、指揮する先生が譜面をしきりに見る場合。たった七分程度の演奏なのだし、毎日のように練習しているのだから、譜面を見る必要があるのかなと思うし、譜面よりも演奏中の子供たちをその表情で盛り上げたり励ましてほしいなと思うのは、門外漢の見当はずれの考えなのだろうか。孫たちは銀賞でがっかりしてしまったようだが、私は十分に楽しむことができた。夜電話をして、「〇〇ちゃんのおかげで、キタラに行けて素晴らしい演奏を聞けたよ。ありがとう」と伝えた。「緊張したかい?」と聞くと、「メチャメチャ緊張したよ」と言っていた。やっぱりねえ。私は、孫の表情を見るばかりだったので、他の子のことはあまりみていなかったのだが、一人がそれほど緊張するということは、きっと他の子達も似たようなものだったのだろう。緊張しすぎると普段の力が出しきれないのは、どんな場合でも同じこと。「コンクールが終わったから、少しはお休みあるの?」と聞くと、「ううん、次は〇〇での演奏やコンサートに出るので、その練習がある」と少し元気がない。それなりの実力がある学校は、あちこちで演奏機会があるらしい。それは励みにもなるだろうけれど、休み無しはきついですよ。少しはのんびりする時間を与えてくださいと、先生にお願いしたいおばあちゃんであった。
2016年09月02日
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前日に続き、朝からとても暑い一日。この日は、岩見沢市で開催された「空知地区吹奏楽コンクール」に、中学二年の孫が出場するというので応援に出かける。空知地区は吹奏楽が盛んなのか、小・中・高校・一般の吹奏楽部がエントリーしていて、二日間にわたって開催される。孫たちは「中学校C編成(25人以内 自由曲6分以内)」で出場し、20校がエントリーしており、この中の三校が全道大会に出場できるとのこと。この日のために、夏休み返上で毎日練習に明け暮れていたという。私は、孫の小中学校の部活の過酷さに、義務教育時代にそこまでやるかと内心思っているのだが、孫が一所懸命頑張っているのだから、応援せずにもいられない。私たちは、孫たちの出場する前後10数校を聴いたのだが、そのレベルの高さに正直なところ驚いた。(まあ、他の地域の中学校の演奏を聴いたことがないのでよくわからないのだが)孫もそうだけれど、中学校に入ってから楽器に触れた子どもたちも多いはずなので、それをここまで演奏するレベルにするのは、指導者と子供達の頑張りと、それをサポートする親の頑張りの三位一体の結果だろうと思った。隣に座っていた他校の親グループが、演奏が終わった時に涙を流していた。多分、「よく頑張ったねー」ということと、「苦労していたけれど上手になった」という思いだろう。さて、孫たちの学校の演奏だが、これは贔屓目かもしれないがとても良かった。音がそれぞれとても明確に澄んでいて、メリハリもあり曲としての一体感もあり、指揮を取る先生を中心に気持ちがこもっているように感じた。心なしか会場の拍手も大きかったように思うが、それは私の期待感によるのかも。やはり、中学校の吹奏楽部のレベルは、生徒数や指導者の力量が左右するのだろう。ということで最後の審査発表は、私もとても緊張した。でも、おかげさまで全道大会に出場する資格を得て、子どもたちはもちろんのこと、親たちも私たちも大喜び。終了後ロビーに出ると、大喜びの学校の傍らには、沈み込んでいたり泣きじゃくる子どもたちの姿も。私は、芸術関係の部活動までがあまり競争を意識して、勝つことにこだわるのはどうなのだろうと思っている。しかし、このようにレベルを上げるには競い合うことも大切な要素でもある。そして、結果をしっかりと受け止めて、たとえ負けてもその中に大切なことを見出す作業を忘れて欲しくない。勝つことが一番大切なことではないのだと、部活で学んで欲しいと願っている。しかし、これでまた、全道大会に向けて益々力が入り、残りの夏休みもなくなるのかな。
2016年08月05日
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「ナイトdeライト」は、2006年北海道札幌市で結成された希望を歌う4人組ロックバンド。知人がこのグループの曲にとても感動し、ぜひ聞いて欲しいと誘われていたので、昨日友人と一緒に、札幌の道新ホールでのコンサートに行ってきた。四人のメンバーのうち、三人はキリスト教会の牧師さんの息子とか聞いていたので、そのせいもあるのか、ロックバンドのコンサートにしては、老若男女幅広い世代が来ていた。ロックコンサートは初体験だったので、大音響や立ち上がってリズムを取ったり拍手をしたりなど、ちょっと戸惑いも感じたけれど、こんな感じなのだと楽しかった。「希望を音楽で届けたい」というような話をしていたが、確かに歌詞(舞台正面の画面にテロップで表示される)などは、キリスト教のメッセージが背景にあると感じられた。しかし決してそれは不快なものではなく、ロックのゴスペルみたいな感じがする曲が多かった。色々感動した曲があったけれど、はっきり言ってメロディーは覚えていない。一つだけ、彼らのホームページで見つけた曲の歌詞を書いておこう。 「家」 作詞/作曲: 長沢紘宣夜も明けてきたよ 家に帰ろう君が戻るのを ずっと待ってるから誰に傷ついて どこで見失い何でつらいかを 全部わかってるから確かなのは 君のことを 何があっても あきらめないこと君のしたこと 間違えたこと その背中に 背負ったこと何より 君はかけがえのない人だよ いつでも新たな 道は踏み出せる 待ってる 帰ろう後ろを向きながら 前へは行けないそれに気づいたら 未来は変えてゆける立ち上がるのは それを選ぶのは 他でもなく 君なんだよ足に力を 手にはチャンスを その心に 踏み出す勇気を明るい光浴びるのが 恐くて 逃げてたなら心の中に灯ってる 光を感じようグルグル渦にのみ込まれそうになって自分が何かもよくわからなくなって傷ついたんだなぁ 倒れていたんだなぁこんな僕でも 待っていてくれるだろうか明るい光浴びるのが 恐くて 逃げてたなら心の中に灯ってる 光を感じよう何より 君はかけがえのない人だよ いつでも新たな 道は踏み出せる 待ってる 帰ろう【追記】下記の曲は、地元のサッカーチーム「コンサドーレ札幌」の公式サポートソングだそうです。サッカーはあまり観戦に行かないので、知らなかった…。 『終わらない夢』 作詞/作曲:三橋恵之矩何度だって倒れてもいいその度強く起き上がればいい夢を見ること夢を追うこと恐れないで最後まで走り抜けろ今こそ強くあれ 僕らが描いてたその夢が形になる時がきた掲げろ 僕らをつなぐその夢を叫ぼう 僕らの夢が終わらないことを日々流した汗や涙が 目指す場所の道となるから踏み出す大きなその一歩は揺るがない意思の土台になるんだ心を合わせて行こう 僕らが描いてたその夢が形になる時がきた掲げろ 僕らをつなぐその夢を叫ぼう 僕らの夢が終わらないことをすべてがうまくいくなどありえはしない世の中その度きみを支えて きみの追い風になること誓うよ掲げろ 僕らをつなぐその夢を叫ぼう 僕らの夢が終わらないことを
2016年04月10日
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卒業式のニュースをテレビで見て、「蛍の光」は最近の卒業式では歌わないのかな…とふと思った。あの歌が、スコットランド民謡に日本の歌詞をつけたものとは知っていたが、元はどんな歌詞だったのかなと調べ始めたら…。スコットランドの歌詞よりビックリしたことがある。「蛍の光」には四番まで日本語の歌詞があり、それが下記である。 【歌詞】 1)蛍の光 窓の雪 書読む月日 重ねつつ いつしか年も すぎの戸を 開けてぞ今朝は 別れゆく 2)とまるも行くも 限りとて 互みに思う 千万の 心のはしを ひとことに 幸くとばかり 歌うなり 3)筑紫のきわみ 陸の奥 海山遠く へだつとも その真心は へだてなく ひとえに尽くせ 国のため 4)千島の奥も 沖縄も 八洲のうちの まもりなり いたらん国に いさおしく つとめよわがせ つつがなく 【歌詞の意味】 1)蛍の光や雪に反射して窓から差し込む月の光を使って 書物を読む日々を重ねていると いつの間にか年月が過ぎ去っていき 今朝は杉でできた扉を開けてクラスメートと別れていく 2)ふるさとに残る者もふるさとから出るものも 今日限りでお別れということで 互いに思う何千、何万という 心の端々をたった一言 「無事で」とばかりに歌うのである 3)九州の果てであろうと東北の奥であろうと 海や山が遠く隔てたとしても 真心だけは場所に関係なく ひたすらに力を尽くせお国のために 4)千島列島の奥も沖縄も 日本の支配下にある 日本の支配が届かない国には勇敢に 「仕事」をしてください男性のみなさん、どうぞご無事で (yohoo知恵袋より)これって、最後まで歌えば軍歌じゃないですか!参考までに、ウィキペディア「蛍の光」によれば、4番の歌詞は、領土拡張等により文部省の手によって何度か改変されているそうです。私たちが一番しか教えられなかったのは、そういうことでしたか。そうそう、スコットランド民謡【Auld Lang Syne】の日本語訳は、以下。 Should auld acquaintance be forgot, 懐かしい友を 忘れるだろうか And never brought to mind? 二度と 思い出さなくなるだろうか Should auld acquaintance be forgot, 懐かしい友を 忘れるだろうか And auld lang syne! 遠いあの日のことまでも! Repeat: For auld land syne, my dear, 友よ 遠いあの日のために For auld lang syne, 遠いあの日のために We'll tak a cup of kindness yet, 変わらぬ友情に杯をあげよう For auld lang syne! 遠いあの日のために And surely ye'll be your pint-stowp, さあ、君はその盃を And surely I'll be mine, 僕はこの盃を We'll tak a cup of kindness yet, 変わらぬ友情に杯をあげよう For auld lang syne! 遠いあの日のために (Repeat) We twa hae run about the braes, 丘のふもとを駆け And pou'd the gowans fine, ひなぎくを摘んだね But we've wander'd monie a weary fit, やがて、苦しい旅が始まった Sin auld lang syne. 遠いあの日から (Repeat) We twa hae paidl'd in the burn 小川で遊んだこともある Frae morning sun till dine, 朝から昼までずっと But seas between us braid hae roar'd 今では、二人を広い海が隔ててしまった Sin auld lang syne. 遠いあの日から (Repeat) And there's a hand, my trusty fere! 誠実な友よ この手をとって And gie's a hand o' thine! そして 君の手を私に And we'll tak' a right gude-willie waught, 心ゆくまで 友情の杯を重ねよう For auld lang syne. 遠いあの日のために (Repeat)
2016年03月04日
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NHKスペシャル 魂の旋律~音を失った作曲家~佐村河内守という人については、私は全く知らなかった。絶え間ない激しい耳鳴りの中で、暗闇の中に降りてくるかすかな光のような音を拾い集めて音符にするなんて、私には正直なところ想像もつかないことである。まさに、命を削りながらの作曲。病苦から何度か自殺未遂をしているようだが、苦しみの中でしか紡ぎだせない旋律もあるのかもしれない。音楽の神様って、時々こんな試練を与える人を選ぶのかな。体の苦痛が少しでも軽減されるようにと、いのらずにいられない。いつか、彼の交響曲を聴いてみたいと思う。
2013年04月01日
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七詩さんの日記で「原発ショー歌」というのを知り、聴いてみた。小林旭の「自動車ショー歌」の替え歌である。思わず笑ってしまったが、笑ってられない現実とリンクして、皮肉な笑いになってしまう。歌詞をコピーしておこう。原発ショー歌(猫林アキラB♭)ヨウ素にセシウム ばらまいて爆発したのに 知らん顔骨のずいまで 腐ってるあとで病人 出ようとも因果関係 わからぬよう薄めて広める 放射能びっくりするほどあくどくておまけに儲けにゃ目がなくて役人なんぞは手なずけて村人だますにゃわけはない心配するなよ安全だ御用学者の猿芝居新聞テレビは今日もまた都合悪いこたぁ言わないでそれもそのはず連中は電力会社がスポンサー原発マネーに毒されてニュースも信用できゃしねぇヤラセに改ざんあたりまえ知事も町長もまるがかえなにがなんでも原発を動かすためならだまし討ちバカで無能な政治家を使ってまさかの再稼動このサイトから、次の曲も聞いた。東電に入ろう(倒電に廃炉) ウマイなあとうなり、笑いながらも悲しくなってしまう。今現在も、原発で必死で作業している人たちのことを思うと、日本の原子力発電推進は、なんと罪深いことをしてきたのだろうと…
2012年04月05日
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この一週間は、職場で色々あって本当に疲れた。それでも、何とか話し合いを重ねて一応の決着をみたのだが、さて、来週から話し合いの通りになってくれるかどうか一抹の(いや、かなりの)不安はある。しかし、私にはあれ以上のことは考えられないので、あとは長い目で見て行くしかないだろう。ブログを読んでいる人には何が何だかわからないだろうが、書けば個人のことに触れることになるのでやめておく。昨夜は、疲れで頭も肩もズシーンと重いまま、札幌の「ちえりあホール」にパリ在住の伊藤光湖さんのバイオリン・リサイタルに行ってきた。彼女とは、二年ほど前に知人の紹介で知り合い、私の住む町でのコンサートを企画して以来の友人というか、知り合いというか・・。昨年は、地元の小学校でのミニ・コンサートをしていただいたが、今年は私が仕事で全く動くことが出来ず、残念ながら地元で聴くことはできなかった。でも、一年ぶりに彼女の演奏を聴かなくちゃと、仕事を早退して札幌に出向いた。結果から言うと、本当に素晴らしかった。彼女は、ヴァイオリニストというイメージよりも、どちらかといえば体育会系のタイプ。華奢な体型からは予想外の、気合の入った演奏をする。もちろん、曲目によってはとても繊細で情感がこもっていると私は感じる。彼女は、演奏の前にその作曲者や曲目の特徴などを語ってくれるので、あまりクラシックには詳しくはない私でも、親しみを感じながら想像力を巡らせつつ音楽の中に入り込めて、それがとても嬉しい。今回の圧巻は、サラサーテの「カルメン幻想曲、作品25」彼女いわく、「フィギュアスケートにたとえるなら、三回転ジャンプなどの連続技が続き、 下手をするとこける可能性の高い曲です」とのこと。それだけに、演奏前には「ヨシ! 行きます!!」とでも言わんばかりの表情で伴奏者と頷き合って気合の入った演奏が続いた。私は他のバイオリニストの演奏を聴くのは数回しか経験がないが、何だか鳥肌が立つような演奏だった。弾き終わった彼女は、肩で息をしていて、マイクを持って「5000メートルを全力疾走した感じです」などと咳き込みながら話していた、その様子に、会場から「頑張れ!」との声がかかり、割れんばかりの拍手。もちろん私も、手が痛くなるほどの拍手を惜しまなかった。アンコールの「千の風になって」は、うって変わって心に静かに染み入る音色で、これまたジーンとしてしまった。そしてふと気がつくと、私のの頭と肩の重さが、不思議と軽くなっていたのだ。音楽は心を癒すというけれど、まさに脳と体のマッサージを受けたような感じ。少し経って控え室に顔を見に行くと、すでにステージ衣装のドレスから、運動部のお姉さん姿になった彼女が知り合いに取り囲まれていた。これが彼女の魅力なのだと改めて感じた。また来年、さらにレベルアップした彼女の演奏を聴くのが楽しみである。
2007年09月08日
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パリ在住のヴァイオリニストIさんの、小学校でのボランティアコンサートの日であった。実は、先月末の市民向けのコンサートを開催した一番の目的は、彼女に小学校で演奏をしていただく下地のようなものだった。今、私は彼女の名前をここに書くかどうか、迷いに迷っている。私は、彼女のことをできるだけ多くの人に知っていただきたい。しかし、何度かこの日記で書いているように、ネット上でのこの日記は、なんとしても「匿名性」を確保してゆきたい。彼女の名前を書けば、たどりたどれば私の名前にも行き着いてしまう。・・・・・・・申し訳ないが、やはり“Iさん”とイニシャルだけにさせていただく。Iさんが小学校や施設などでのボランティアコンサートを積極的になさっていると知り、ぜひこの町の子供たちにも生の演奏を間近で聴く機会を・・と思った。いくらご本人がボランティア演奏を引き受けるからと言って、それだけをお願いするのはあまりにも失礼だろうと思い、市民向けのコンサートとセットでお願いしたのである。このコンサートを受け入れてくださるようお願いをした小学校は、私の息子達もお世話になった学校である。全校生徒(700人強)が体育館で、「音楽鑑賞」という形でセットして下さった。最初に私は、全校生徒と聞いた時に、「低学年は一時間聞き続けられるかな?」と少し懸念した。しかし、質問の時間も含めて約50分、体育館に座った子供たちが、本当に集中して聴いていたのには正直驚いた。前方に座っている低学年の子達には、一部に多少のざわめきはあったものの、決して演奏の妨げになるものではなかった。後方の高学年の子達の表情を見ていると、まさに「聴きほれている」というような顔が並んでいた。子供たちの表情や態度を気にしている私などより、ずっと純粋に演奏に感動し、楽しんでいるのだった。さらに驚いたのは、質問の時間である。「質問のある人、手をあげて」という先生の声に、あちこちから「ハイ、ハイ」と三十人近くも手が上がった。そして、その質問がまた核心を付いているのにも驚いた。「音は、どうやって出るのですか?」「音はどのように変えるのですか?」「色んな音が出るのはどうして?」「どうしてバイオリンの真ん中はへこんでいるのですか?」エトセトラ・・。最初に彼女が、「バイオリンを見たことある人?」と聞いた時に、何人かは手を挙げたけれど、実際に本物の演奏を聞いたことのある子供たちは少なかっただろう。だから子供たちは、純粋にその小さな楽器が奏でる音色の美しさや複雑さに、感動と共に色々な疑問が湧いたのであろう。そのことが、子供たちの質問の様子から伝わってきた。コンサートが始まる前に、先生がいくつかの注意をしていた。「演奏中はおしゃべりをしないこと」「終わったら、拍手をする」「どうしても我慢できない時以外は、立ち上がらないこと」子供たちは、感心するほどにそれを守っていた。そして、全部の演奏が終わったとき、拍手の中で舞台を下がる演奏者に、数人の先生が「アンコール!」と声をかけた。その声に、Iさんが舞台に戻り、「今、『アンコール』と声をかけてくださいましたね。 演奏が終わってから拍手がずっと続いている時や、アンコールと声がかかったときは、もう一度アンコール曲を弾くことが普通なんです。今日は、アンコール曲として、みんなが知っている曲を弾きますね。一緒に踊れる人は、踊ってもいいですよ」と、何と「マツケン・サンバ」を演奏し、子どもたちも一気にリラックスして手拍子も起きた。しかし、700人の子供たちが手拍子で踊り始めると、バイオリンの音はかき消される。すると、また驚いたことに、みんなは自発的に手拍子を控え、中・高学年は座り始めたのだ。それは、子供たちの「演奏を聴きたい」という気持ちの現われのように感じた。終了後、校長室で私たち実行委員三人と、Iさんと感想などを話した。いくつも学校での演奏を体験しているIさんは、「子供たちがみんな集中して聴いてくれているのが感じられて、驚きました。音楽教育に力を入れていらっしゃるのでしょうか?」と聞いた。校長先生などのお話では、特別に力を入れているわけではないようだが、高学年の音楽は「専科の教師」が担当しているらしい。低・中学年の音楽も、熱心な先生だと言う。そのことが関係しているのかもしれないけれど、私は校長先生がおっしゃった「それよりも何よりも、全身から奏でる本物の音楽の力だと思います」と言う言葉が、一番の要因のように思った。そして、このコンサートを通して、演奏会での基本的なマナーやルールのようなものをしっかりと教えたかったというお話に、教育の場でのこのような体験の意味も痛感した。一部の子供たちの中には、じっと座っていることを我慢している子もいただろう。でも経験を重ねれば、マナーを守りつつも自然に音楽を楽しむ許容範囲を、自然に体得していくものだろうと思う。その後、今回のコンサートの実行委員や協力者を含めての昼食会があった。そこでの話も、本当に色々と考えさせられるものだった。Iさんに、学校などでのコンサートをしようと思った理由を聞いた。「今の子どもたちは、ゲームや携帯など、機械が作り出す音に囲まれています。私は、人間が一所懸命思いを込めて創り出す音を、子供たちに聴いて欲しいし、人が人に(直接)伝えるということがとても大切だと思うのです」と言っていた。私は、その言葉に本当に感動し、心底共感した。一人の実行委員は、こう言った。「日本では、小学生が生の演奏会に行けるチャンスはほとんどない。 また、子供達の中には、一生クラシックコンサートに行く機会がない子どももいるだろう。 学校という場で、どのような環境に育っている子供たちにも平等に聴く機会を持っていただくのは、とてもありがたいことだと思う」これも、本当にその通りだと思った。家庭環境は千差万別である。音楽なんてまったく縁の無い家庭もあるだろう。生の演奏の素晴らしさを知る機会がないまま成長する子どもも多いだろう。別の協力者が言った。「僕は、中学生の時に学校で札幌交響楽団員の室内楽演奏を聴いて感動して、それから音楽に興味を持ちました。今でも趣味で音楽をやっていますが、その原点は中学校での演奏会です。今日聴いた子供達の中にも、ひょっとするとこれがきっかけで音楽家になったり、音楽を生涯楽しむことになる子どもがいるかもしれない」そう、きっかけやチャンスは、できるだけ沢山子供達のまわりにあった方が良い。今の子どもたちに何よりも大切なのは、この世には様々な感動の機会があるということを、大人が伝えることだと思う。私が、小学校で生演奏を聴く機会を作ることに役立てるならと思ったのは、まさにその点にある。そして、今回の子供達の姿や反応は、私のその思いを「確信」と変えてくれた。様々なことを感じ、考えさせられ、そして今までの苦労が吹っ飛ぶような嬉しい一日となった。Iさん、そして今回のことで協力してくださった皆さん、そして生き生きとした素直な表現で私に感動を与えてくれた子供たち、本当に本当にありがとうございました。
2005年09月14日
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この数週間、心配しながらチケット販売にいそしんでいたコンサートが、昨日、無事に終了した。「この町では、クラシックコンサートのチケットはなかなか売れない」と脅かされ、散々心配していたのにも関わらず、結果的にはそんな悲観的予想をぶっ飛ばすように、多くの人が足を運んでくださった。補助金を得てチケット代を低額にした効果もあったようで、今までこのようなコンサートに来る機会がなかったような方も大勢。私自身は、裏方として色々心配したりチケット代の集計をしたりしていたので、ゆっくりと音楽を楽しめるというわけにはいかなかったが、別の意味での感動がたくさんあった。このようなコンサートに初めて足を運んだという、私の同級生(男性)。チケットを買ってくれた時には、「俺、眠っちゃうかも・・」と言っていた。その時私は、「寝たっていいよ。それだけ気持ちよくなれたら癒し効果絶大って証明だから」なんて言っていたのだが・・。終了してからの彼の言葉、「いやー、やっぱり本物の演奏ってすごいね。鳥肌立っちゃったよ」小学生の子どもにも聞かせたいからと買ってくれた人は「でも、途中で飽きてしまって嫌がるかも・・」と言っていた。今回は「家族でも楽しめるように」ということで、誰もがどこかで耳にしたことのある曲を選んでいただいたのだが、そのせいもあったのか、来てくれた小学生達はみんな集中して聴いていた。その姿に、大人の方が感動。農家の主婦として、朝から夕暮れまで農作業と家事に追われている40代女性。終了するなり駆け寄ってきて、感動でキラキラした目で私の手を握った。「ありがとう! 誘ってくれてありがとう! 仕事ばっかりで毎日疲れ果てていたんだけど、今日は体中がマッサージされたような感じだよ。何だか体が軽くなったみたい。ホントにありがとう。また誘ってね!」音楽に詳しいわけではないこのような人たちの声は、私にとって何よりの喜びだった。「頭の中がジーンとしてきた」と言う人もいた。「鳥肌が立った」と言う人は、何人もいた。「チケットはなかなか売れないよ」と言っていた人たちは、「よくこれだけの人が来てくれたですね。すごいです」と言ってくださった。どちらも嬉しかったけれど、日頃コンサートに足を運ぶ機会の少ない人の方が、純粋に演奏に感動して楽しんでくださったような気がするのが、少し面白い。さて、これからは支払いや報告書などの後始末の仕事があるが、とにかく無事に終わってヤレヤレである。
2005年08月29日
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昨夜のNHKテレビの「思い出のメロディー」で、ジローズの「戦争を知らない子どもたち」を聴いた。この二人を見るのも本当に久しぶりで、(と言っても、あまり見ていた記憶もないのだが・・)「子どもたちも高齢者になってしまった・・」と思いながら、それでもとても懐かしく聴いていた。フォークソングは私たちの世代の青春そのものとも言える。とはいっても、当時の私は音楽にさほど関心があったわけでもないから、青春のBGMというところだろうか。せっかくこの曲で思ったことを書くので、歌詞をコピーしておこう。戦争を知らない子どもたち 【作詞】北山 修【作曲】杉田二郎1.戦争が終わって僕らは生まれた 戦争を知らずに僕らは育った 大人になって歩きはじめる 平和の歌を口ずさみながら ※僕らの名前を覚えてほしい 戦争を知らない子どもたちさ2.若すぎるからと許されないなら 髪の毛が長いと許されないなら 今の私に残っているのは 涙をこらえて歌うことだけさ ※(くりかえし)3.青空が好きで花びらが好きで いつでも笑顔のすてきな人なら 誰でも一緒に歩いてゆこうよ きれいな夕陽のかがやく小道を ※(くりかえし)とても覚えやすいメロディーと歌詞なので、私でもすぐに口ずさむことができる。この歌を口ずさんでいた頃、私は何を思っていたのだろう。この歌は、私の印象としては「大人世代へのささやかな抵抗の歌」であった。私も戦争を知らない。父がソ連での抑留から無事帰還し、生きるために農業を営むことを決意し、そのために農家の娘だった母と結婚し、私が生まれた。大多数の大人世代は、多かれ少なかれそのような背景で生きるのに必死だったから、何かというと「おまえたちは幸せだ」と言っていたような気がする。「戦争中は大変だった」とはよく言われた。特に、食事のときに好き嫌いをしたり食べ残したりした時など・・。そんな親だったにも関わらず(いや、だからこそか)私は偏食が多くて、上記の言葉は耳にタコだった。おとなしくて口答えのできない私ではあったが、内心では「戦争なんて知らないよ。その後で生まれたんだもの」「今は幸せで悪くないじゃない」なんて呟いていた。そんな私には、この歌はとてもすんなりと心に響いていたように思う。大人の言葉に反発しながら、口答えもできず多少いじけて、それでも「戦争がない社会を生きる」とことを当然のことのように信じていた「戦争をしらない子ども(若者)」だった。鉄の雨が降る戦争の代わりのように、団塊世代は「受験戦争」があった。それをスタートとして、戦争を知らない子どもたちは競争社会に散っていった。競争を含む争いが嫌いな私は、競争からは自ら撤退するような生き方をしてきたように思う。私は幸か不幸か「女性」だったから、それが可能であった。この歌詞を書いた「北山修」氏は、フォーク・クルセダーズが全盛の時に芸能界から撤退し、もともとの目標であった医者になるため大学に戻った。その姿勢にも、私はとても共感したものだった。年月が経ち、あるとき私は「精神科医・北山修」の講演会に関わったことがある。特に彼に憧れていたわけではなかったが、一世を風靡した「戦争をしらない子ども」がどのような大人になっているのかには興味があった。そして、打ち合わせなどで電話や手紙でのやりとりや、当日の会話や講演などでの印象では彼は私の期待を裏切ることはなかった。その時彼が語った言葉の中で、印象に残っている言葉が二つある。「社会は、三割の人が変われば劇的に変化するだろう」「これからは、ゆるやかなネットワークが大切だと思う」。それは、私の心の中にも芽生え始めていた思いだったので、わが意を得たり、という感じで、とても嬉しかった。もともと「かっちりとした組織」が苦手な体質だったので、組織の中で生きるというよりも、日頃はそれぞれ自立した個として生きている者同士が、必要とあれば「目的」によって繋がってそれぞれの特性を生かして協力してゆく方が良いと思い始めた頃だった。北山修氏の言葉は、そんな私に大きな勇気を与えてくれた。多少いじけているように感じていた歌詞も、その時から違う印象になった。自分の願いを失わなければ、時には優柔不断に見えようとも、時には「長いものに巻かれた」ように見えようとも、しなやかにしたたかに、自分の目標を見据えて起き上がる強さの大切さ。そして、同じ思いを持つもの同士、軽やかに歌を口ずさみながら、目標に向って歩いてゆくことの大切さ。戦争を知らない世代は、戦争を知らずにすむ社会をめざして、武器を持って戦う方法ではない歩き方を模索したい。今の私には、そのような歌に聞こえている。しかし、武器を持たずには平和は守れないと考える人が多いのも事実。それも、戦争を知らない世代に増えているようだ。(そりゃそうだ、既にほとんどが戦争を知らない世代になっている)「持っていないものは持ちたくなる」という心理でない事を祈る。
2005年08月17日
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知人が出演するというので、札幌コンサートホール Kitaraへ。コーロ・ファーチレ&千歳フィルハーモニーオーケストラのジョイントコンサート。演目は、メンデルスゾーン オラトリオ「エリア」作品70の全曲。知人によると、「北海道初演で。二度と聞けないすごい曲」ということで、音楽に詳しくない私は、何がすごいのかよくわからぬままに、彼女の晴れ舞台を見るつもりで行った。さて聴いてみると・・、確かにすごかった。一部と二部、それぞれ70分間休みなし。聞いているだけでも疲れてくるのだから、ぶっ通し演奏している人たち、歌っている人達のエネルギー消耗は大変なものだろう。この大作を、市民フィルと市民合唱団がやってしまったのだから、これは文句なしにすごいことなのだろうと、素人の私でも思う。バス独唱(エリア)だけは、黒木純氏を招いたというが、他の人たちの独唱もなかなか健闘していた。仕事で忙しい日々を送りながら日々練習をしていたSさん、素晴らしかったよ!感動をありがとうね。
2005年05月08日
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友人と、Kitaraコンサートホール(札幌)に、千住真理子さんの30周年記念コンサート(夜の部)を聴きに行った。私は格別の音楽好きでもないので、千住真理子さんについても有名なバイオリニストであることや、お兄さんが作曲家の千住明氏である程度の知識はあったが、さほど強い関心があったわけでもない。このコンサートに行くことになったのは、最近親しくしている友人が「一度彼女の演奏を聴きに行きたい」と言っていたからである。たまたま新聞でこのコンサートのことを知り、「行くならこれだ!」と速攻でチケットを買い、その友人には「買ったけど、行くよね!」と事後報告。さて、本題のコンサートの感想を少々。今回はデビュー30周年コンサートということで、日本フィルハーモニー交響楽団と札幌交響楽団メンバーによる、ストリングオーケストラ(12名)をバックにした演奏であった。千住真理子さんのインタビュー記事にもあるように、彼女がバイオリンを手にしたのは、兄の明氏がバイオリンを習っていたので、それを見て「私も弾きたい!」とせがんだことからだそうだ。今回のコンサートには、兄の千住明氏の編曲、作曲のものが大半で、演奏の合間に明氏と真理子さんのトーク、さらにはお母様の文子さんのトークもあって、この家族のありように思いを馳せながら、アットホームでありながらレベルの高いコンサートだったのではないかと思う。音楽のことについてはよくわからないが、三人の子ども達をそれぞれ素晴らしい芸術家として育てた両親に、心からの拍手を送りたいと思った。長兄の千住博氏は日本画家、千住明氏は作曲家と、それぞれその道の第一人者になっている。今回初めて知ったのだが、お父様は慶応大学の教授だったそうだが、全く芸術とは無縁のご家庭だったそうだ。その中から、これほどの芸術性や人間性豊かな子ども達を育てたなんて、私なんぞ凡人からは「奇跡」のような感じがする。千住明氏はトークの中で、「私たち三人はそれぞれの方法による『ことば』で表現しているが、お互いに刺激し合い共鳴し合うと、より豊かな何かに出会ったり新しいものに開かれたりする」というようなことをおっしゃっていた。ロビーには長兄の博氏の作品三点が展示されていたが、確かにこの三人には共通する感性というか、精神性があるように感じた。真理子さんの奏でる音色、明氏の作曲した音楽、博氏の絵から受ける印象は、とても似ているような気がしたのだ。母の文子さんのトークを聞きながら、子どもの伸びようとする芽を見守り続け、誰よりも子ども達を理解し信じている「大きな母」を感じた。それよりも何よりも、弦楽器の音楽は脳内マッサージの効果があるような気がする。不思議なことに、聴き終わった後に頭の中がジーンと心地よい痺れのようなものを感じていた。
2005年04月05日
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知人に誘われて、小樽マリンホールで開催された「伊藤光湖ヴァイオリン・コンサート」を聴きに行った。実は私は、この人については全く知らなかったし、特にクラシック音楽が好きな方でもない。だから誘われた時は、知人へのお付き合いのつもりでチケットを買ったのだ。伊藤光湖(みつこ)さんは滝川市生まれ。岩見沢東高校を卒業後京都市立芸術大学でヴァイオリンを学び、その後渡英して英国ギルドホール音楽院で学ばれた。現在はパリに住んでいて、今も学びながらコンサート活動をしていらっしゃるという。札幌で毎年開催されているPMFには、1993.1997.2000年の三回参加しているという。日本でのコンサート活動は、日本に帰国している二ヶ月間くらいの間に集中的に開催しており、その合間を縫って道内の小学校でボランティアの演奏に歩いていらっしゃるということだ。それはちょうど、NHKの「ようこそ先輩」のような感じのミニコンサートのようである。今回のコンサートは、彼女のボランティア活動に共感した市民達が、もっと多くの子ども達に彼女のヴァイオリンを聞かせる機会を作りたいと、(多分その資金作りも含めて)実行委員会形式で開催されたものだ。その伊藤光湖さんはまだ若いすらりとした女性で、演奏の前にその曲についての短い説明をしてくれる。それがとってもわかりやすく、テキパキとした快活な語り口はすがすがしかった。私は演奏技術についてはよくわからないけれど、私達の良く知っているような名曲から、ご自分が歌曲やオーケストラの曲をヴァイオリン演奏のために編曲したもの、またご自分で作曲した小曲など、バラエティーに富むプログラムで、ヴァイオリンという楽器が奏でる音色の多様性や美しさ、楽しさを、十分に堪能することが出来た。演奏の合間に、実行委員が彼女へのいくつかの質問をしたのだが、そこでとても驚いたことがある。何と彼女が本格的にヴァイオリンを始めたのは、高校三年生からだという。それまでは空手やスキーなどをやっていて、空手の先生がヴァイオリンをたしなむ人だったので、その楽器を遊び半分に触れることはあっても、キチンと習ったことはないのだという。演奏家になるような人は、幼い頃からの英才教育を受けなくては不可能と思いこんでいた私は、それを聞いて椅子から滑り落ちそうになるほどびっくりしてしまった。「学び始めるのが遅かったので、今でもまだ勉強中なのです」と彼女は語っていた。運動が好きだった少女がヴァイオリンをしようと思ったのは、身体を壊してしまったからだという。才能の芽は、少しくらい時期が遅れても花開くものなのだなと、彼女の演奏を聴きながらつくづく思った。彼女は多分、運動も大好きだったけど、音楽も好きな少女だったのだろう。幅広い選択肢の中で、自分で選んだことだからこそ、スタートが遅れているための苦労もチャレンジ精神で乗り越えているのだろう。自分が楽しかったこと、感動したことを伝えたくて、小学校での演奏活動をしているのかもしれない。あのテキパキとした語り口は、まさに「体育会系」のノリである。思いがけず、素敵で逞しい地球人(日本)女性に出会うことが出来たことを、チケットを押し付けてくれた知人に感謝している。
2004年08月21日
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昨夜、札幌で開催された「岡林信康と彼の仲間達」のライブ・コンサートに行ってきた。岡林信康の名前は、私のような世代には懐かしい響きがあるのではないだろうか。フォークの全盛時代に「神様」なんて称号まで与えられていた彼だが、実は私が彼のコンサートに行くのは生まれて初めてであった。若い頃の私は本当に面白みのない若者で(今でもさほど面白くもないおばさんだけど)、ビートルズにもフォークにもさほど関心はなかった。しかし、町を歩くとそれらの音楽は流れていたから、岡林信康の名前や「山谷ブルース」くらいは知っていた。かといって、音楽が全く嫌いだったわけではない。ただ、十代後半から20代にかけては私自身が混迷の季節であり、音楽も絵画もテレビも舞台も、見ていても心がはじき返していたような気がする。それでも、徐々に心の落ち着きを取り戻し仕事をするようになってから、どちらかといえばフォークソング、ニューミュージックが私の体質に馴染んでいることを自覚し始めた。そうしているうちに、あっという間にこの年になってしまい、最近岡林信康が「エンヤトット・ミュージック」とやらをやっていると知ってから、一度ライブに行きたいと思っていたのだ。ということで、妹を誘って昨日のライブに行った次第。妹は若い職場仲間に、「岡林信康を聞きに行く」と言ったら、「誰、それ?」と言われたとか。テレビにもほとんど出てこないし、最近は彼の曲も聞く機会がないから、それも当然だろう。私自身、一度は「フォークの神様」と言われた人の歌を聴きたいと思ったわけで、正直なところ過大な期待まではしていなかった。さて、聞いた感想はといえば・・。「いやー、良かったぁ!」本当に想像以上に良かった。「チューリップのアップリケ」「山谷ブルース」などの昔の曲も、心に染みとおってきて泣けそうになった。時代背景は随分変わってしまっても、彼の曲には人の世の普遍性があると感じた。私が知らない曲もたくさんあったが、どれも曲と詩がとてもフィットしているので、言葉がスーッと心に届くのだ。そしてそれを歌う彼の声も、とても澄んでいながら柔らかく、つまびくギターやハーモニカと共鳴しあいながら、全身を音でマッサージしてくれるような感じがした。「外国の物まねではなく、日本人が持っているリズムを基本にしたサウンドを」と模索してきたのが、「エンヤトット・ミュージック」だそうだ。ギター、パーカッション、和太鼓、尺八、津軽三味線が渾然となった音楽は、日本的・アジア的でありながらもそれを越えた色彩もある。うまく表現することができなくて残念だが、遅ればせながら私は彼のファンになった。音楽も良かったけれど、それよりも彼の言葉や歌声には、彼自身が誠実に何かを探し続けてきたものを感じ、同世代としてとても嬉しく感じたのだ。そこには、強さも弱さも抱えながら、等身大で生きようとする一人の優しい人間の姿が垣間見えて、「ああ、良い年を重ねてきたな」と感じられた。今度からは、岡林信康がこちらに来たら、絶対に聞きに行こうと思う。何だか元気をもらった夕べだった。
2004年07月24日
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昨日のことになるが、札幌の「氷雪の門」で「モシリ」のライブを鑑賞した。(アイヌ詞曲舞踊団「モシリ」については、http://www.sh.rim.or.jp/~moshiri/を参照してください。)この舞踊団のことについては、何年か前にテレビで知り、一度見てみたいと思っていた。活動拠点は道東の屈斜路湖畔と思い込んでいたので、冬季間は札幌の「氷雪の門」でライブをやっていると最近聞いて、ぜひ一度行きたいと思い、夫を誘ってでかけた。「氷雪の門」は札幌のススキノにある、蟹料理専門店である。北海道と言えば「蟹」と連想する人が多いだろうが、道産子の庶民にとっては蟹は高級品なので、それほど頻繁に口に入るものではない。ということもあり、この「氷雪の門」http://www.hyousetsu.co.jp/に入るのも、今回が初めてであった。ライブ付のコースは全席予約ということで、私達は5250円(税込み)のコースを予約してあった。一時間前にお店に入り、ゆっくりと食事をしてからライブが始まったのだが、「カニ料理は高い」という先入観のある私は、ライブ付でこの値段では、さほどの料理は望めないと思っていたので、まずその料理に大満足することが出来た。さらに、「モシリ」のライブについても、期待通りの内容だった。アイヌ民族が伝承してきた歌・踊り・精神・祈りをベースに、現代的な演奏や踊りにアレンジした内容で、心や身体にに響く40分のライブであった。アイヌ民族の人たちが多分縄文の時代から受け継いできた長い長い伝統である「自然との共生」は、今は新たな意味を持って、私達の前に道しるべとして立ち現われてきたようにも思う。人間の力を過信し、力による支配を正当化し、物質的な進歩だけを追求しすぎた結果、人として生き物としてとても大切なものを忘れてきたということは、多くの人たちが気付いている。私達は、かつてこの北海道で謙虚に平和に動植物と共生していた人たちの知恵と心を考えなくてはならないだろう。そんなことを感じさせられたライブだったのだが、忘れっぽい私はあと何日か経つとこの思いをも忘れてしまうのかもしれない。でも、とてもよい時間を過ごすことが出来た。モシリのみなさん、本当にありがとう。いつか、屈斜路湖の自然の中で、もう一度みなさんのライブを聞きたいと思います。
2004年03月14日
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今日は友達との再会について書こうと思っていたのだが、それはまたの機会にすることにして、昨夜実感した「音楽の不思議な力」について書くことにしたい。実は、昨日、突然にコンサートのチケットが回ってきた。それは知人が義理で買ったもので、本人はさほど興味がないので、「もし良ければ、行ってくれない?」ということだったのだ。E市のレンガ倉庫を改装したミニ・ホールでの、「坂元昭二& HARD TO FIND」のコンサートだった。ギタリストの坂元昭二さんは、「北の国から」のテーマソングのギター演奏などで、その人を知らなくても彼のギターはよく耳にしているはず。さだまさし(この人も、私は大好き!)のコンサート・ツアーに、17年も一緒に活動していた経歴を持つ。「HARD TO FIND」は、札幌を拠点に活動するアコースティック・アンサンブルで、主にアイルランドの伝統楽器での演奏をしているというが、私は今回初めてそのバンドのことを知った。もちろん、演奏を聴くのは初めてである。さて、このように、思いがけず手に入ったチケットだったが、これが想像以上に素晴らしかった。私は、ジャンルとしては「フォークソング、民俗音楽」などが好きな方である。だから今回のコンサートは、その意味でまさに私好みではあったのだが・・・。 実は、昨日は午前中に少し力仕事兼神経を使うことをしたので、午後からはずっとひどい肩こりと、それに伴う頭痛が続いていた。だから、チケットの話があった時も、夜出かけることが少し億劫だったので、少し迷ったのだ。しかし、音楽ジャンルや「北の国からの坂元さん・・」という魅力に負ける形で、自分を励まして会場に足を運んだ。開演が始まるまで、私は首を回したり、肩を自分で揉んだりして、肩や首、そして頭痛を少しでも軽減したいと思っていたのだが・・・。演奏が始まり、中世の楽器「ハンマーダルシマ」の幻想的で心に響く音色や、物悲しくも軽やかなバイオリンの調べ、そしてアイルランドの縦笛「ペニーホイッスル」や、個性的な太鼓「ボウラン」の音色などに、私は魅了された。さらに、坂元昭二さんのギター演奏や、前記の楽器との合奏などに、私の心も脳も身体も、心地よいマッサージを受けたようになっていたのだ。約二時間のコンサートが終了した時、不思議なことに私の頭痛はケロリと消えていた。そして、あれほど重苦しかった肩や首の凝りも、何だかスーッと軽くなっていたのだ。本当に不思議で、キツネにつままれたような気分だった。音楽によるヒーリングなどについて聞くことはあったし、好きな音楽を聴くことで心が軽くなったり楽しくなったりする経験はあったが、肉体への効果を体感したのは初めてである。というわけで、すっかり坂元さんと「HARD TO FIND」のファンになってしまった私である。チケットを譲ってくれたSさん、本当にありがとう!
2003年08月25日
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