琴子のあじさいの部屋

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”あきらめる”の語源


調べてみました。

なるほど。。。すっきりしましたので
皆さんにもお伝えしなくてわ!と思い立ちました。

ちょっと読んでみてね☆ミ



アキラメルという言葉は、確かに仏教から出た言葉ですが、仏教でいう意味と、今日、世間の人々の使っている意味とは全く変わっていることを明らかに知っていただきたいと思います。

 仏教ではこれを諦観といわれているのです。
諦観とは、諦は印度の原語「サットヤ」で真理、明理ということです。観はミルということですから諦観というのは「アキラカニ真理ヲミル」ということなのです。この「アキラカニミル」の仏語が次第に変化して「アキラメル」になってしまったのです。

 ところが言葉がこのように変わっただけならよかったのですが、その表す意味までが変わってしまったのです。

 世間では、アキラメルといえば、何か、いいかげんにして片づけたり、ごまかしていくことのように思っています。
財布を落として困っている人に「いいかげんにアキラメロ」などと言いますのも「いいかげんに忘れてしまえ」という意味に使われています。これではあなたのいわれるように、アキラメ主義は進歩も発展も努力も失わせる考え方になってしまいます。
行灯でアキラメておれば、今日の電気や蛍光灯は発明されなかったであろうし、ラジオでアキラメておれば、テレビは造られなかったでしょう。
ただいまの自己でアキラメてしまえば、その人の進歩向上はなくなってしまうでしょう。確かに、このような意味のアキラメは、我々の敵です。

 しかし、仏教で教えるアキラカニミルの諦観の教えは全く異なっています。先述のように、大宇宙の真理である因果 の道理をアキラカニミヨと教えているのですから、無限の進歩発展向上努力をうながすものなのです。

 一切の学問は、因果の道理をアキラカニミテ今日まで進歩発展してきたものです。
先の例えで申しますと、財布を落とした原因は何であったかということを徹底的に探究し、アキラカニミテ、その原因がハッキリしたら、今後二度とそのような原因を作って悪い結果 を生まないように努力するということになりますから、無限に進歩向上するのです。

 仏教は、大変誤解されていますが、このようなこともその中の一つです。
仏教は決して無気力なアキラメ主義ではなく、反対に、とても意欲的な向上努力主義であることを知ってください。

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