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finesさんのブログ が尺八の特集だったのを
見て、尺八にまつわる数々の想い出がよみがえりました。
亡き父が大の尺八好きで、子供の頃は絶えず尺八の
音色を聞いていました。
何処で習ったのかは解りませんがまわりの評価は
かなり高いものがありました。
当時の農家だけの山間の村には”ごぜさん”や
尺八を持った虚無僧が時々玄関前で三味線や
尺八の演奏をしては恵みを受ける姿が良く見られました。
父は虚無僧が来ると必ず吹き比べを強要し
虚無僧を困らせていました。
私の記憶ではいつも虚無僧が『参りました』といっては
頭を下げる姿を見ていました。
上の兄貴2人も父に教えてもらって尺八をやっておりましたが
私はギターとアコーデオンで”湯の町エレジー”や”酒は涙かため息か”
など歌謡曲に夢中でした。(中学時代)
父も尺八で歌謡曲を良く演奏してました。
高校では野球漬の3年間でしたので尺八、ギター、アコーデオンも
頭から抜けていました。
東京のC大学に何とか滑り込んで念願の汚れた角帽を
かぶるようになりました。
高校時代は全然勉強しなかった反動で大学では
いくらか勉強したという形跡を残したいと決心してました。
それでも勉強漬けは性に合わないので何か楽しい
同好会にでも入ろうかと各会の宣伝を見て回っていましたら
尺八研究会の看板が目に入った途端、即入会を決めていました。
1週間ほど部室に出席してよいよ活動開始の時、先輩から
『尺八は自分の専用のものを購入してください』と言われ
金額を聞いたら確か3000円くらいだったと記憶してますが
当時の私には大変な大金でした。
入学金だけは親が苦労して工面してくれましたが授業料や
生活費は奨学金とアルバイトで稼ぐことになっていました。
2000円の奨学金と後は親が送ってくれた米(当時は闇米)を
学校の無い日に中野近辺の商店街を回り買ってもらって
生活費に当てていました。
それでも1日10円の学校の食堂のうどん1杯で過ごす日が
多かった境遇では、3000円は工面のしようもありません。
結局その日を最後に部室には行かず退会してしまいました。
その後尺八を習うことはありませんでしたが、尺八の音色には
魅かれCDも数枚持っております。
山あいの温泉宿、満月、尺八の組み合わせが尺八の
最高の舞台だというイメージはいまだに生きております。