私の小学校の国語の授業では読解力をつける事に特に力点を置いて教えていた。文章を一枚の紙に展開し、主題は、要旨は、段落は と絞り込んで行ったような記憶がある。この一連の作業が面白いはずはなく、授業を離れ文学作品に親しもうという気持ちは全く起こらなかった。 何十年か経ち国語の優等生だった人たちと話すと、ほとんどの人が「私は国語の授業が大嫌いだった」と言う。やっぱりなと思う。
中 2 で富山の田舎の普通の中学校に転校した。国語の熱い女の教師は指導要領を無視し、授業の時間を割き、文学作品を朗読してくれた。教室の片隅のチョイとガラの悪い男どもも水を打ったようになって聞き入っていた。文学の世界に引き込まれたきっかけだったように思う。この先生はもう亡くなられたと思うが、半世紀以上経った今も時々思い出す。
大学の若い助手は長さでリポートを評価するようなところがあり、だらだら引き延ばすことには長けてきたが、就職してみるとこのようなリポートは上層部の人には無視されてしまうことに気付いた。なんとか読んでもらおうと努力もしたが、何といっても一番の訓練になったのはラブレターであることは疑いない。とにかく読んでもらえなければ話にならない。二つ笑わせ、一つ泣かせるように。
寺田虎彦が言ったように物づくりと文章を書くのは、それほど違わないのではないかと最近思うようになってきた。こんなものを作ってみたいと思うのも、こんなことを書いてみたいと思うのも、動機としては同じようものなのだ。どちらも想像力を刺激されるロマンにかわりない。
最初の構想で失敗すると、駄作になってしまうのも一緒で、物づくりでも文章でもどんなに手を入れても立て直すことができず、初めから作り直した(書き直した)方が良い。最初に失敗するのは論理が間違っていたのではないかと思うこともあり、勘が鈍ったと思うこともある。とにかくどちらも私にとっては楽しい事なのだ。
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