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2006.04.01
『国家の品格』の二流性 7
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藤原さんの民主主義批判について考えてみようと思う。僕も、民主主義のすべてが素晴らしいとは思わない。板倉聖宣さんが語るように、民主主義は最後の奴隷制だと思う。「最後の」というのは、これを最後にして欲しいという願望と共に、民主主義は、そこで奴隷になっている人たちに、自分たちは奴隷だと思わせないようなメカニズムがあるだけに、奴隷制としては最高の形態ではないかという判断から出ているものだと思う。
民主主義に対する批判の部分では、藤原さんにほぼ賛成するとしても、その批判の結果として「だから民主主義はだめだ」という、民主主義の全体に対する評価は疑問を感じる。民主主義にも欠陥はあるという判断なら賛成だ。その具体的な欠陥を修正していくような方向で努力していこうという指針にもなる。
しかし、その欠陥はもはや埋めようもないもので、民主主義を捨てて他のものを採用すべきだとなったら、これは、その他のものが民主主義よりも総体として優れたものであるという確信が持てなければならない。一つは武士道精神を基礎にした倫理なのだろうが、それは、民主主義のように多くの人が賛成したから選ぶ行動の指針ではなく、正しいことは正しいという情緒的な確信から選ばれている。
民主主義にも欠陥があるからと言って、もっと欠陥がありそうなものにかえるべきだという提言はどうも受け入れられないものだ。藤原さんは、民主主義を支える「主権在民」の前提として「国民が成熟した判断をすることが出来る」ということをあげている。これは正しいと思うのだが、これから、「成熟な判断が出来ない国民には民主主義の実現は無理なのだからやめた方がいい」というような判断はすぐには出てこないだろう。
現実的には、未熟な国民が経験を積むことによって成熟した判断が出来るようなシステムの構築というものが必要なのだろうと思う。民主主義の暴走というようなものを防ぐ知恵が必要なのだと思う。
民主国家がヒットラーを生んだという批判も、結果的にヒットラーを生んだということを非難するのでなく、その過程で何を間違えたかを具体的に考えなければならないだろう。国民の熱狂が、判断においては間違った多数派を結成するという、民主主義のメカニズムをこそ解明しなければならない。
それを防ぐためには、少数派の弾圧や無視を禁止するのも一つの方法だが、藤原さんは、結果的に熱狂的に権力を支持した暴走する民衆を語るだけで、過程の考察というものがない。だから批判はもっぱら民主主義そのものに向けられるわけだが、これは、本当は「熱狂する大衆」の方に批判が向けられなければならないのではないだろうか。民主主義という制度は、熱狂した大衆を動員されるとひどい結果をもたらすということが、歴史的にハッキリと分かっているのだから、むしろそういう動員を禁止するような方向で民主主義を修正していかなければならないのではないだろうか。
例えば、選挙などで圧倒的多数派に支持されて、議席数が異常なほど独占されたら、それは熱狂によるものであるから、一定数以上の議席を超えた数は、その政党には与えないというような、政治上の独占禁止法のようなものも発想としては必要なのではないかと思う。そうでなければ暴走を防ぐことは出来ないだろう。
板倉さんが主宰する仮説実験授業研究会では、奴隷制に転落するのを防ぐために、「したくないことはせず、させず」という原則を設けている。これは、何らかの提案があったときに、その提案の反対者には直接その仕事を請け負わせてはイケナイという原則だ。多数者が賛成しているのであるから、その仕事は多数者で何とかしろということだ。
藤原さんは、「国民は永遠に成熟しない」という判断から、民主主義は永遠にその前提が成立しないと思っているようだ。だから民主主義はだめだと言うことなのだろう。「永遠に成熟しない」ということの意味がどのようなものであるかで、この判断は微妙な内容を含む。
どこかに成熟した理想というようなものがあって、そこを目指して現実が追いつくことがないということなら、これはすべての「理想」というものに付き物の限界だ。理想は、実現されていないからこそ理想と呼ばれる。実現されてしまうと理想ではなくなる。だから、理想像を描いてそれに到達することが「成熟」だと定義するなら、現実の国民が永遠に成熟しないのは論理的帰結である。
だが、この論理的帰結は、「成熟」という言葉をそのように定義した限りでの論理的帰結だ。この定義を、別の意味で定義するなら、「永遠に成熟しない」とは言えなくなる。民主主義が暴走しそうになったとき、それに対して批判し、暴走を止める行動を起こす主体性を持つ、というふうに定義すれば、これは十分現実的に到達可能な「成熟」になる。今の日本はまだこういう主体性を持った人々は少ないだろうが、多数決によって無理を通そうとしている長野県の百条委員会に対して、県民がその暴走を押しとどめる働きが出来るなら、長野県民は「成熟」に向かいつつあると僕は思う。
ここのところで藤原さんと僕とは意見が違うのだが、国民は「成熟」しないと思っている藤原さんは、「成熟」と呼ぶに値する「エリート」の必要性を強調している。「エリート」に関しては、宮台真司氏も強調しているところがある。僕はこれを一定の条件付きで支持しているので、藤原さんの「エリート主義」もいいのではないかと思われるかも知れないが、どうも宮台氏とは条件の違いを感じるところもある。
その条件の違いというのは、誰が真の「エリート」であるということを判断するのかということだ。宮台氏は、それを直接語ってはいないが、権力の側のエリートだけでなく、反権力の側のエリートについても言及するということから、それは実績で判断されるのだと考えているように思われる。実際に、何らかの判断において現実的に正しい判断を積み重ねることの実績のある人間が、真の「エリート」と判断されると考えているように思える。
僕は、このような判断をするのは、最終的には大衆の側なのだと思っている。大衆が真のエリートを判断するのだと思っている。それは、大衆が行うことだから間違えることもあるだろう。しかし、その判断力は、経験を積むことによって高くなってくると僕は思うのだ。
エリートというのは、広い視野を持ち、幅広く深い知識を持っているので、判断において他の人間よりも正しくできるという能力を持っている。大衆は、自分自身ではそのような能力を持っていなくても、誰がそのような能力を持っているかという見極めにおいては、自分の眼力を伸ばすことが出来る。
仮説実験授業が、科学の基本を教えているのは、科学者としての偉大さを誰もが判断出来るということも、その成果として期待している。科学においては何が偉大なのか。ガリレオの知識は、時代に制約されて、科学としては初歩的なものにとどまっているかも知れないが、その独創性、発想の豊かさは、ガリレオの発見した科学を、ガリレオがたどった過程をもう一度経験することによって、実感として理解することが出来る。そうすると、そのような実感を持った子供たちは、ガリレオがいかに偉大な科学者であるかを理解するのだ。
その子供たちの中から第二のガリレオが出てくる確率は低いだろうが、ガリレオの偉大さが判った子供たちは、やがて誰が一流なのかと言うことに正しい判断が出来るようになる。そうなれば、そのような子供たちが成長した姿こそが、大衆が「成熟」した姿だろうと思う。そのようなときに、民主主義はようやく黄金時代を迎えるに違いない。奴隷制を解消した民主主義に生まれ変わるかも知れない。
「エリート主義」は、エリートの育成ばかりに目がいくが、誰がエリートなのかを判断出来る大衆の育成こそが最も重要なことだと僕は思う。エリートであることを誰が判断するかということに言及していない藤原さんは、エリートの資質をいくら語っていても、その点で僕には不満がある。
教養を身につけるということや、国家の危機には命を捨てる覚悟があるというようなことは、どうも客観的に判断出来ないような資質であるようにも感じる。物知りであることが教養なのではない。また、命を捨てる覚悟の崇高さからいえば、清水の次郎長などは素晴らしいものを持っていたそうだ。次郎長は、「子分が自分のために命を投げ出すかは知らないが、自分はどの子分のためであろうと命を投げ出す覚悟がある」と語るような親分だった。このような覚悟を持っている親分だからこそ、子分の方では、親分以上に命を捧げる覚悟をもてるわけだ。しかし、このようなことは、外から見て判断出来るだろうか。
民主主義の欠陥から、それを否定して、エリート主義を帰結するというのは、悪しき形式論理のような気がする。実際には、エリート主義と共に、大衆のエリート観の貧しさも問題にしなければならないだろう。宮台氏が語る「田吾作のつばぜり合い」というようなものだ。
真のエリートを判断出来ない大衆は、末梢的な優秀性を巡ってつばぜり合いをするという。大衆のポピュリズムを獲得するものは、真のエリートの一流性ではなく、感情に響く末梢的な二流の部分だ。単純にエリートの必要性だけを語るのではなく、どんなエリートが必要なのか、エリートはどこで見分けるのかという視点を語る必要があるのではないか。学校における名門校の復活を願う流れなどは、単純なエリート養成のようにしか見えない。そこからは、おそらく真のエリートは生まれてこないだろう。
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最終更新日 2006.04.01 17:31:06
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