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前の記事の『自民党の憲法草案の新設条項』を読んで「ビジョンが無い」と書いたのは、20-30年先を見越していないということではないのです。むしろ、それぐらいなら、ビジョンは極めて明確です。つまり「富国強兵」という短期的なビジョンならばよく読み取れます。---右肩上がりの成長を続ける、簡単に侮られない様に軍隊は持ちたいし、軍需景気というメリットもある。その為には、上からの支配がし易い様に社会を変えたい、ということではないでしょうか。昭和初年どころか、明治初年ですね。でも、世界は果してその様に動いて行くのでしようか。否、動いて行くべきなのでしょうか。地球上にあるあらゆる問題、地球温暖化、原発、南北格差、核戦争、食糧問題、水の確保、等々、全ては「一部の人たち」の「上からの支配」で解決するのでしょうか。いっ時ならばするかもしれません。でも、素人目で見ても直ぐに破綻しますね。100-500年先を見越した憲法が欲しいのです。私は現在の日本憲法前文が、とりあえず、一番相応しい気がします。日本国憲法前文 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。(1946年11月3日公布)
2012年04月30日
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自民党が27日に発表した「憲法改正草案の主な新設条文」なるもの、一読、ほとほと情けなくなった。まあ百聞は一見に如かず、ちょっと斜め読みしてもらいたい。.自民党の憲法改正草案の主な新設条文2012.4.27 23:40更新 【第1章 天皇】 1条 天皇は、日本国の元首であり、日本国および日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく 3条 国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする 2 日本国民は、国旗および国歌を尊重しなければならない 4条 元号は、法律の定めるところにより、皇位の継承があったときに制定する 6条 5 1項および2項に掲げるもののほか、天皇は、国又は地方自治体その他の公共団体が主催する式典への出席その他の公的な行為を行う 【第2章 安全保障】 9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇および武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない 2 前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない 9条の2 わが国の平和と独立並びに国および国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する 3 国防軍は、1項に規定する任務を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動および公の秩序を維持し、又は国民の生命もしくは自由を守るための活動を行うことができる 5 国防軍に属する軍人その他の公務員がその職務の実施に伴う罪又は国防軍の機密に関する罪を犯した場合の裁判を行うため、法律の定めるところにより、国防軍に審判所を置く 9条の3 国は、主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海および領空を保全し、その資源を確保しなければならない 【第3章 国民の権利および義務】 15条 3 公務員の選定を選挙により行う場合は、日本国籍を有する成年者による普通選挙の方法による 19条の2 何人も、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してはならない 20条 3 国および地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない 21条の2 国は、国政上の行為につき国民に説明する責務を負う 24条 家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない 25条の2 国は、国民と協力して、国民が良好な環境を享受することができるようにその保全に努めなければならない 25条の3 国は、国外において緊急事態が生じたときは、在外国民の保護に努めなければならない 25条の4 国は、犯罪被害者およびその家族の人権および処遇に配慮しなければならない 26条 3 国は、教育が国の未来を切り拓(ひら)く上で欠くことのできないものであることに鑑(かんがみ)み、教育環境の整備に努めなければならない 28条 2 公務員については、全体の奉仕者であることに鑑み、法律の定めるところにより、前項に規定する権利の全部又は一部を制限することができる。この場合においては、公務員の勤労条件を改善するため、必要な措置が講じられなければならない 29条 2 財産権の内容は、公益および公の秩序に適合するように、法律で定める。この場合において、知的財産権については、国民の知的創造力の向上に資するように配慮しなければならない 【第4章 国会】 47条 選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律で定める。この場合においては、各選挙区は、人口を基本とし、行政区画、地勢等を総合的に勘案して定めなければならない 53条 内閣は、臨時国会の召集を決定することができる。いずれかの議院の総議員の4分の1以上の要求があったときは、要求があった日から20日以内に臨時国会が召集されなければならない 54条 衆議院の解散は内閣総理大臣が決定する 63条 2 内閣総理大臣およびその他の国務大臣は、答弁又は説明のため議院から出席を求められたときは、出席しなければならない。ただし、職務の遂行上特に必要がある場合は、この限りでない 【第5章 内閣】 66条 2 内閣総理大臣および全ての国務大臣は、現役の軍人であってはならない 【第7章 財政】 86条 4 毎会計年度の予算は法律の定めるところにより、国会の議決を経て翌年度以降の年度においても支出することができる 90条 3 内閣は、1項の決算報告の内容を予算案に反映させ、国会に対し、その結果について報告しなければならない 【第8章 地方自治】 94条 2 地方自治体の長、議会の議員および法律の定めるその他の公務員は、当該地方自治体の住民であって日本国籍を有する者が直接選挙する 【第9章 緊急事態】 98条 内閣総理大臣は、わが国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる 2 緊急事態の宣言は法律の定めるところにより、事前又は事後に国会の承認を得なければならない 3 内閣総理大臣は、前項の場合において不承認の議決があったとき、国会が緊急事態の宣言を解除すべき旨を議決したとき、又は事態の推移により当該宣言を継続する必要がないと認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、当該宣言を速やかに解除しなければならない。また、100日を超えて緊急事態の宣言を継続しようとするときは、100日を超えるごとに事前に国会の承認を得なければならない 4 2項および前項後段の国会の承認については、60条2項の規定を準用する。この場合において、同項中「30日以内」とあるのは、「5日以内」と読み替えるものとする 99条 緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる 2 前項の政令の制定および処分については、法律の定めるところにより、事後に国会の承認を得なければならない 3 緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体および財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない。この場合においても、14条、18条、19条、21条その他の基本的人権に関する規定は、最大限に尊重されなければならない 4 緊急事態の宣言が発せられた場合においては、法律の定めるところにより、その宣言が効力を有する期間、衆議院は解散されないものとし、両議院の議員の任期およびその選挙期日の特例を設けることができる 【第10章 改正】 100条 この憲法の改正は、衆議院又は参議院の議員の発議により、両議院のそれぞれの総議員の過半数の賛成で国会が議決し、国民に提案してその承認を得なければならない。この承認には、法律の定めるところにより行われる国民の投票において有効投票の過半数の賛成を必要とする 【第11章 最高法規】 102条 全て国民は、この憲法を尊重しなければならない一言で言うと、自民党は単に日本を戦前のように戻したいと考えているだけなのである。天皇を国家元首にし、軍隊を持ち、教育勅語に匹敵するような古臭い「家族の絆」みたいな倫理観を持ち出し、財産権も制限し、簡単に戒厳令も敷けるようにし、文民統制を原則とし(非常時になればすぐにひっくり返るような仕掛けは作っておき)、人権は公共為に大きく制限される。憲法改正のハードルは低くする。全て昭和初年の日本に戻したいだけなのである。日本をどうしたいのか。全くビジョンがない。憲法を変えるほうがいいと言っているわけじゃない。でも、こういうのをみると、ほとほと情けなくなる。
2012年04月30日
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去年12月に観た作品。この月は前半で韓国旅行をしたので必然的に少なくなっています。しかし、12月31日にTOHOシネマズ一ヶ月パスポートをゲットして、その日に二本見ています。よって、次の一月は生涯で一番映画を見た月になるのですが、それはまた次のはなし。「タンタンの冒険 ユニコーン号の秘密」スティーヴン・スピルバーグ監督作品「偉いぞ、スノーウィ!」2D吹き替え版を見ました。「カーズ3」でも感じたのですが、最近の3Dアニメ作品に目が追いついていかないのです。私にはジブリアニメぐらいの話の展開スピードがちょうどいい。歳をとったのでしょうか。最近の若者は、ゲーム世代なので、あれぐらいの場面転換のスピードがないと「面白さ」を感じないのでしょうか。まるで実写と見紛うようなよく作りこまれた3Dパフォーマンス・キャプチャー映画というのらしい。監督の思うようにあらゆる視点からの作劇を可能にしている。だから非常に目まぐるしい。犬のスノーウィがある意味、スーパンマン的活躍をして、主人公であるはずのタイタンは、時々都合のよい推理を働かせて、狂言回しのごとく行動するだけ。「びっくり藤壺」と驚くハドック船長のいい加減なキャラクターがまさかあそこまでの秘密を抱えていようとは、最初は思わない。人生で生きるうえで、何の助けにもならない、でもドキドキ感は満杯の正統冒険活劇である。スピルバーグが好きそうな内容だけど、私にはちょっと……。男の子のための映画としてはいいのかな。彼らなら、何回もDVDを見るだろうから。「壁にぶち当たったら、壊して進め」いいんだよ、子供の頃はそのまま壁を壊しても。「ハウスメイド」チョン・ドヨン様の豊かな表情の演技は相変わらず素晴らしいのだけど、監督の意図がわからない。上流階級の恐ろしさも中途半端、下流階級の成り上がろうという野望も見えない、彼女は何に復讐したというのか。「50/50」今、見終わって一日たって、そんな面白い作品じゃあなかったなあ、としみじみ思っているところです。所謂、若年性の癌による闘病日誌なのですが、直ぐにセラピストにかかったり、病気をネタにナンパしたり、ちょっと目新しいことはあるけれども、普通の癌闘病です。それよりも、彼は難なく(おそらく)医療保険にかかれて最新医療を受けることのできる勝ち組の仲間なのですが、その暮らしがもともとなんか「病んでいるなあ」という気持ちがむくむくと湧いてきました。最初登場する医者のカウセリングは、患者の目を見ないで専門用語を乱発し、早口で病状を言い、しかも癌の宣告をすらっと言ってしまう最悪の医者。友人のカウルはぽんぽんと「癌の同僚を励ます会」という飲み会を企画してしまう、同棲中の彼女は「優しくてsexも強制しない便利な彼」を上手いこと利用している自己中、両親はアルツハイマーの夫の看病ですこしヒステリー気味の母親。ここに出ている登場人物たちはみんなどこかしら病んでいる。それをさりげなく見せるのがこの作品の眼目なのだとしたら、まあそうなのかなあ、と思う。アメリカの病み方は、日本のそれとは、しかし少し違うので興味ない。結局南極(古い)、がん患者への接し方でもっとも必要なのは、日米共に、いかに患者の側に親身になって寄り添うことができるか、ということに尽きる。べたべたすることじゃない。べたべたを最後まで欲したのは私の父だったが。5年まえの冬の朝、「すい臓がんになってしまった、もう終いじゃ」と泣き笑いで言ってきたあの顔を思い出してしまった。「源氏物語ー千年の謎ー」一ヶ月フリーパスポートをゲットしなかったら、けっして見なかった作品。良く整理はしていると思う。源氏=藤原道長、紫式部=六条御息所という説は、この長い物語のホンの一部分でしか無い事を若い人は知って置いて欲しいとは思う。(とは言え、私も全部読んでないのだが)映画である以上、濡れ場は、きちんと演って欲しかった。真木よう子も中谷美紀も経験有るし、多部未華子も田中麗奈もこの際、挑戦して欲しかった。まあ、彼等にとっても、「そのくらいの作品」だということだ。「けいおん」。これもフリーパスポートゲットしなかったら、見なかった作品。でもまあ、70点くらいかな。大晦日の夕方、若い男三人だけが来ていた。映像的実験とか、素晴らしいドラマとかがあるわけじゃない。音楽的要素については、私は詳しくないので何とも言えないが、アニメにする必然性はない。しかし、如何にも日本的に素晴らしいのは、日常の細部、特に女子高生の細部に関する細かい観察とその表現だろう。アクセサリーや落書きはもちろん、手指の動き、会話の流れなど、多分そうなんだろうな~と思わせる。全体的構造を無視してでも、細部にこだわるというのは、極めて日本文化の特徴です(参考加藤周一「日本文学史序説」)。
2012年04月29日
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よく見たら、楽天ブログの一番下にこういうのが書かれてある。?Copyright (c)?1997-2012?Rakuten, Inc. All Rights Reserved.??と、いうことは、この楽天ブログは1997年から始まったということだ。まだ15年しか経っていないのだ。?なんか、とても短い。私の関わりは7年程だけど、(もうすぐ7周年がやって来る)それでもう「終わりかけている」という噂が出る程に、成熟、老齢化してしまった。まるでドックイヤーだ。?そんなに急いで、いったい何処に行こうとしているんだろう。?
2012年04月29日
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11月に観た映画の後半四作、全て力作です。「サンザシの樹の下で」チャン・イーモウが大作シリーズから離れて、やっと、「初恋のきた道」の世界に戻ってきた。最初の僅かな触れ合いはキャンデーだった。次には箸で食べ物を口に入れること。その次は川を渡るときに手を繋ぐこと。その次は……。もどかしいほど、少しずつ、二人は気持ちを通わせていく。これが映画になるということは、おそらく現代中国では珍しいことになっているということなのだろう。と、同時に70年代では普遍的な関係だったからに違いない。日本ではおそらく40-50年代ぐらいまでは普遍的な現象だった。もう一つの中国独特の要素もある。文革の嵐の中、若者たちの自由恋愛も"走資派"のレッテルを貼られかねない、町のインテリ階級の間ではそんな緊張感があり、よって二人の素朴な恋にもずっと緊張感が付きまとう。青年も少女もお互い親が文革のために自殺したり、牢獄に入れられたりしていた。簡単に感情を表現することは許されないことだった。けれども、二人とも若い。少女はそれに加えて幼い。抑えられない感情を時折に見せるそのさじ加減が、この映画の難しいところであり、チャン・イーモウは老練にもそれをきちんと描いた。チャン・イーモウはやはりチャン・イーモウだった。監督の文革に対する視線はいつも厳しい。ただ、監督の「女」の好みには賛成できない(^^;)。どうしていつもこんなに痩せっぽちの少女なんだろう。私としては、可哀想にも妊娠して中絶をする汚れ役をやった少女のほうが好みではある。革命の英雄たちの血を吸ったサンザシの樹の「革命の花は赤い」と思われていたけど、実際には白かった。ということが最後のテロップで明らかになる。その花も今は(中国近代化路線の象徴である)山峡ダムの水の下に沈んでいるという。作品は常に無声映画のように途中で話の筋をテロップで流したのは、そのような「昔語り」という仕掛けなのだろう。蓋し、現代中国人民の涙腺を刺激するに充分である。「一命」非常に動的だった「十三人の刺客」に比べ、今回はとても静か。しかし、昔の本格時代劇を髣髴させる起承転結を見せる。正統時代劇である。市川海老蔵が「武蔵」をやっていたころとは比べ物にならない豊かな表情を見せる。そうか、やっぱり才能がある人だったんだ。ただ、不満がある。それは「切腹」が単なる記号と化しているからだろうと思う。ここにおける切腹は単に体面を保つための道具に過ぎない。あまりにもエクセントリックなために、外国人受けはするかもしれない。現代人も会社構造における部長を、役所広司に重ね合わせたりして、時代劇で現代批判になっているところに共感するかもしれない。それだけのために、アンナ立ち回りは必要だったのか、と私などは思ってしまう。そもそも、物語の前提として、諸藩はなぜ「狂言切腹」と分かっていても、井伊家のようにそれをそのまま切腹させなかったのか。そこが描かれていない。最初の切腹を願った武士にいたっては、その藩はその侍を士分に取り上げてさえ居るのである。武士にとって切腹とは、「死を差し出して自らの主張を行う」という暗黙の了解があった。切腹の覚悟をしたということだけで、その人は立派だったのである。その後、切腹は形骸化し、責任を取ることの代名詞に使われるのであるが、それはたぶん明治以降の切腹解釈からきたのであろう。ともかくその建前があったからこそ、諸藩は狂言だとわかっていても、自藩の玄関で腹を切るのは躊躇し、本当に腹を切らせたならば、その武士の葬式、ならびに家族の面倒を見るというのが「武士の体面」だった。しかし、井伊家は「狂言切腹」という悪い噂だけを宣伝し世論を誘導し、本当に腹を切ったその「覚悟」を隠した。そうして家族の面倒を見るという責任を放棄したのである。だからこれは「武士の体面」と「情け」の対立ではないのである。本来の武士の道を踏み外した「組織」に対する強烈な批判の映画のはずだったのだ。しかし、分かりにくくなった。本格時代劇なだけに残念だ。「マネーボール」世の中の「革新」はどのようなことから起きるのか、ということに監督は関心があるのだろうか。facebookの場合は、もてない大学生のもてたいというスケベ心だった。いまや、プロ野球界を席捲しているマネーボール理論の場合は、ひとりの頭でっちかちのでぶっちょを雇い入れたことがキッカケだった・ブラッド・ピットは好演したと思う。しかし肝心要のチームが快進撃を始める理由がマネーボールのおかげだとはどうも思えないのである。反対を押し切って招きいれた選手を二人も放出した直後から快進撃が始まっているのである。違うのではないか、と思っても当たり前だろう。一番いいところは、主人公の娘が攫っていった。「エンディングノート」ナレーションなし、音楽さえないというドキュメンタリーの秀作がたくさん作られている昨今、最初から最後までナレーション(しかも監督が本人に成り代わり呟くという設定)つきの異色作品である。しかし、それがドキュメンタリーとしての「作為」を感じるものなっていないのは、偏にこの作品の主人公が監督の父親であり、しかも既に死んでいるという特異性からくるものであろう。末期がんのお父さんをなんと告知前から克明に記録していた。たから、偶然にも告知前の定年退職のスピーチで不覚にも涙ぐむところや、告知直後の呆然としている表情、その直ぐあとの復活している姿、そして全然闘病の影が見えない元気な闘病生活と、その一方で半年で見事にやせ細り、白髪が増え、そして死んでいく姿をフィルムに納めることができた。しかも歴史的な政権交代の時期と重なったので、「政権交代」のポスターも写す事ができている。編集に一年以上かけている。それだけに作り方はいろいろなやんだのだろう。その甲斐はある、いい作品だった。結果、見事に浮き上がったのは、化学会社の取締役という出世街道を走った男の平凡で典型的なサラリーマン人生であった。人は、人生の終り方に一番自分らしさが見えるのかもしれない。この男性の場合は、「段取りが命」ということなのだろう。計画的に進めて、できることなら前倒しに計画しないと気がすまない。葬式場は自分で決める、好みとコスト面を考えてキリスト教の洗礼を受ける、そのために家族旅行をして名古屋の実母の承認をさりげなく受けたりしている。段取りのよさの極めつけは、死の間際、エンディングノートが不測の事態で息子が「消えてしまった!」とあせっていった時に、少しも動ぜずに「そういうこともあろうかとコピーをとっている」と返した時である。大変面白いのは、お父さんの息子がお父さんの性格をそのまま引き継いで、人生で初めて肉親の死亡という一大事に、なんだかとても「張り切っている」ように見えるところである。私の父親が死んだとき、私の兄がちょうどこんな感じで張り切っていたので、笑えて仕方なかった。一方娘のほうはマイペースだ。段取り好きのお父さんの唯一の誤りだった「病室での洗礼」は、牧師さんからではなく、娘が本を読みながら泥縄式に洗礼をするというものだった。「洗礼名はパウロでいいよね」なんともいい場面だった。こんな娘だから、客観的に父親の人生を「映画」にすることができたのだ。私の父も、膵臓癌がわかった時は「ステージ5」。しかし、たまたま手術ができる病院が近くにあって、父は何とか苦しみながら三年間生きた。ただ、最後の三ヶ月は本当に苦しそうだった。こっちのお父さんは、死ぬ四日前まで元気いっぱい、こんな死に方もあるのだ、と羨ましかったが、まあ、死に方だけは人は選ぶことはできない。
2012年04月28日
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11月に観た映画「はやぶさ」で初めてJAXAという言葉を知ったのですが、実は政府はしら~とJAXA法を改悪し、「平和利用に限って」いた日本の宇宙開発を大きく変えようとしているらしいです。オンライン署名ができるので、是非ご協力お願いします。http://jaxaforpeace.a.la9.jp/ JAXA法改定反対署名 政府は、独立行政法人 宇宙航空研究開発機構(JAXA)法(以下、JAXA法)を改定し、宇宙開発を「平和の目的に限り」(第4条)とする現在の規定(以下、平和目的規定)を削除しようとしています。JAXA法からの平和目的規定の削除は、これまで平和利用に徹してきた日本の宇宙開発や科学のあり方を大きく転換するものです。日本の進路は、戦争放棄の平和主義の道か、軍事大国化の道かをめぐる岐路に立たされていると言っても過言ではありません。 私たちは、宇宙の軍事利用に歯止めをかけるため、また、宇宙のロマンを大切にするため、JAXA法から平和目的規定の削除に反対します。それは、以下の5つの理由に依ります。 1. 憲法の平和原則に抵触する JAXA法改定の直接的な契機となった宇宙開発戦略専門調査会の報告「宇宙空間の開発・利用の戦略的な推進体制について」(2012年1月13日)は、「JAXA法の平和目的規定を宇宙基本法と整合的なものとするべきである」と述べています。しかし本来、宇宙基本法のほうが上位法である日本国憲法と整合的なものでなければならないはずです。JAXA法が宇宙基本法と整合的ではないという理由で平和目的規定を削除するのは、憲法の平和原則に矛盾する本末転倒の議論です。 2. 宇宙の軍事利用のさらなる拡大につながる 日本の宇宙開発は、1969年の国会決議に基づき、永く非軍事に限られてきました。ところが 2008年5月に成立した宇宙基本法は、第2条で宇宙開発利用を「日本国憲法の平和主義の理念にのっとり、行われるものとする」と規定する一方、第14条で「我が国の安全保障に資する宇宙開発利用を推進するため、必要な施策を講じるものとする」と規定して、宇宙の軍事利用への道を開いています。そのため,宇宙基本法の成立に際しては多くの科学者・市民が、日本の宇宙開発をゆがめ、宇宙の軍事利用の拡大につながる恐れがあると、危惧の声を上げました。残念ながら、実際にその後、日本は宇宙の軍事利用の道へと踏み出し始めました。2009年に制定された宇宙基本計画では,自衛隊による偵察衛星の利用が国家戦略として位置づけられました。経団連などの財界は、宇宙を軍事・商業目的のために積極的に活用する要求を強めています。今回のJAXA法の改定は、宇宙基本法で危惧された宇宙の軍事利用の拡大のさらなる具体化です。 3. 科学の公開性・民主性の原則が侵される JAXAで軍事研究が行われるようになると、「安全保障」を理由に研究成果の公開や、研究の交流や、自由な議論が妨げられる恐れが生じます。 この心配はき憂ではありません。日本の情報収集衛星は、大規模災害(新潟県中越地震,福岡県西方沖地震,能登半島地震,新潟県中越沖地震、岩手・宮城内陸地震、岩手県沿岸北部地震、霧島山の火山活動、東日本大震災など)の被災地上空からの写真撮影を行っています。撮影画像は「必要に応じ、関係省庁にその結果を配布・伝達した」とされていますが、「秘密について保全措置を講じる者以外には非公開」を理由に公開されていません。 さらに心配なことは、第180回通常国会に、いわゆる「秘密保全法」も提出されることです。公務員のみならず、大学などの研究施設や民間企業で働く従業員にも懲役10年の刑罰を科する秘密保全法の目的は、軍事機密を守ることにあります。このような法律が成立すれば,軍事に関わる研究はますます公開が妨げられ、国民が必要とする情報はますます入らなくなります。 政府は、宇宙開発戦略専門調査会の報告に基づき、文部科学省宇宙開発委員会を廃止し、JAXAの所管を文部科学省と内閣府の共管に改正し、関係省庁(防衛省・経産省なども含む)が一体となって宇宙開発を進めるよう体制を整備するとしています。情報保全隊を使って国民を監視してきた防衛省や、「やらせシンポジウム」を行い原発の安全神話を振りまいてきた経産省などが何を秘密にしてきたかを考えれば、JAXA法改定と秘密保全法制定によって何が起こるかを想像することは難くありません。 軍事技術は本来、機密を旨とします。異論を排して秘密主義に陥れば、宇宙開発の分野に国民の目が届きにくくなり,重大な税金の無駄遣いや政官学の癒着の温床となります。これでは、宇宙開発の利益共同体(第2の「原子力ムラ」)が形成されることも大いに懸念されます。 JAXAでの研究が軍事目的を排除しないものとなれば、JAXAで働く科学者・技術者が業務命令で軍事研究に従事させられる恐れがあります。これまで軍事とは無縁であったからこそ、「はやぶさ」の快挙に見られるような、自由な発想で挑戦し世界的に優れた成果をあげてきた科学者・技術者を軍事に動員することは、研究の自由や思想・良心の自由を侵害することとなり、日本の宇宙開発研究にとってむしろ障害となるに違いありません。 5. 一部の人たちの議論だけですすめられており,当事者であるJAXAの研究者・技術者,および国民の声が反映されていない JAXA法からの平和目的規定を削除するきっかけとなった報告を出した宇宙開発戦略専門調査会は大学の学長・教授,民間企業経営者など14人で構成されていますが、JAXAの関係者は上杉邦憲氏(JAXA名誉教授)と向井千秋氏(宇宙飛行士・JAXA特任参与)のみです。このように、平和目的規定が削除されることで直接影響を受けることになるJAXAの科学者・技術者を排除し、宇宙開発利用に利害関係を有する人たちだけでJAXAの今後のあり方が決められることには,疑問を抱かざるを得ません。また,報告が提出された直後に、当事者であるJAXAの研究者・技術者や国民の議論を経ずにJAXA法に重大な改定を加えることは、極めて拙速との批判を免れないでしょう。 アピール呼びかけ人浅井 基文 国際政治学・平和学、元広島市立大学広島平和研究所長秋山 豊寛 宇宙飛行士・ジャーナリスト、京都造形芸術大学教授 安斎 育郎 放射線防護学・平和学、立命館大学国際平和ミュージアム名誉館長 池内 了 宇宙物理学・科学論、総合研究大学院大学教授・理事 小出 五郎 科学ジャーナリスト、元NHK解説委員藤岡 惇アメリカ経済学・核軍縮論、立命館大学教授 ?"JAXA for Peace"事務局 2012.02.18
2012年04月25日
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「水曜日のエミリア」ナタリー・ポートマン主演という情報だけで、全くの白紙で見た映画でした。ハーバード大出身の才媛のナタリーは、渋い弁護士にひとめぼれ。けれども彼には奥さんと男の子がいた。不倫を実らせ、生まれる赤ちゃんと男の子といい家族を築こうとした矢先に誕生三日目で赤ちゃんがなくなってしまう。と、いうところから始まる等身大の女性をナタリーが演じている。継母としてのナタリー、赤ちゃんを失くした喪失感、前妻との葛藤、父親との葛藤、失敗を繰り返し、けれども子供と少しずつ良い関係を築きかけた矢先にナタリーは一番こだわっていたある秘密を打ち明ける。夫の言葉は女性にはきついだろうな。「君は愛する人に厳しすぎる。(だから結婚生活は)もう無理だ」確かに彼女は厳しすぎる。女性には分かってもらいたいのだが、男はやっていけないと思うこともあると思う。けれども、ナタリー目線で話が作られているので、彼女が厳しくなった原因や、それでも母親として少しずつ成長していっている様子などが丁寧に描かれているから、最後の落し処に男の私も納得はするのである(女性は反対にあの夫が謝らなかったことに腹を立てているかもしれない。そこは議論のあるところだ)。私としては、厳しくてもナタリーならば大丈夫です。「ステキな金縛り」良くも悪くも、三谷コメディ。本人自身が「ワクワクする法廷ミステリー、ドキドキするホラームービー、大爆笑の幽霊コメディ、主人公エミの成長物語、まさかまさかの感動ドラマ」と言っているように、起承転結、最後にしんみりという枠にいろんな仕掛けをちりばめた「幽霊コメディ」である。仕掛けは例えば、誰が幽霊が見えて誰が見えないか、というところから起こるドタバタ、幽霊界の独特なルール、幽霊が起すちょっと素敵な奇跡、というところか。幾つかは成功している。私は三谷のコメディがあまり好きではない。それなりに面白いのであるが、何かが足りないのである。どうも笑いがドライなのだ。少ししんみりするのに、なぜドライなのか。つまりあまり後を引かないのだ。後々あの時に「ステキな金縛り」を見て、それからあんなことがあった、とあまり話題にできない。忘れてしまうのである。なぜか。時代性がないのである。笑いの中に社会批判が「一切」無い。それはもう、気持ちがいいくらいに徹底している。それはそれで、ありうるコメディだと思う。これも、やがて50年経ってこの映画がもし古典の部類でずっと見られていたならば、一つ一つのセットに、出てくる俳優に、時代性を感じて懐かしがる人がいるのかもしれないが、私はダメだ。「そなたは知性も勇気もあるが、ひとつ足りないものがある。それは自信だ」という落ち武者六兵衛の言葉の中に、三谷監督の思いはたぶんある。それに励まされる自分もいる。だから笑いしかない映画だとは決して言わない。要は昔から繰り返し言っている気がするが、「性に合わない」のである。「三銃士」ハリウッドの日本アニメ化が止まらない。キャラクター重視、無宗教、十二分に戦った後は敵役が新たな敵と戦うために見方になることも可能。ここの出てくる主要人物の一人も死なないというのが、それを象徴しているだろう。或いは、ダルタニアンがコンスタンスを助ける時に三銃士の一人が言う「祖国は何とかなる」という発想が、とっても日本的。本来の「三銃士」が実はダルタニアンが主人公だったのと同じように、この作品の主人公は私的にはミレディ(ミラ・ジョヴォヴィッチ)である。アクションの一番美味しいところは七割がた彼女が攫っている。「悪女ミレディ」という題名にしたほうがいいくらい。けっか、とっても退屈しないエンタメができたと思う。もっと日本アニメ化しようとしたならば、彼女の過去を少し描いて同情を買うような描写があって、最終的に三銃士に少し味方すればベスト。そこまで出来なかったのは、ハリウッドがまだ思い切っていない証拠。あと少しだ。頑張れ。(←何が?)「はやぶさ/HAYABUSA」冒頭から宇宙工学関係者にしかわからないような専門用語がびしばしと出てきて、ああだからおたく体質の堤幸彦が監督に選ばれたのか、と納得した私でした。けれども、物事は何であれ突き詰めれば、立派な仕事ができるんです。監督 堤幸彦 出演 竹内結子 (水沢恵) 西田敏行 (的場泰弘) 高嶋政宏 (坂上) 佐野史郎 (川渕) 山本耕史 (田嶋) あの竹内結子が最後まで「美人」に見えないという、素晴らしい役つくりをしていた。その他の人々も、実際のモデルそっくりの役つくりをしていたらしく、この堤さんのこだわりは「20世紀少年」とは違い、成功していると思う。竹内結子はめがねとダサい服装、常におどおどとした目つきと、ぴょんぴょんと跳ねる癖で、金にならない学者志望の20代女性を上手く表現していた。一番最後に、歴代の日本製衛星がずらりと出てくるのであるが、みんな通信や気象、オーロラ観測や放射線、太陽観測など軍事とは関係ない衛星ばかりで、ペンシル型のロケットが日本の最初の実験ロケットであることさえも、なんだか誇りたくなったのでした。日本ロケットの父、糸川氏が言った言葉、「失敗ではない、成果なのだ」とか、日本の純粋に宇宙の秘密を探る知的活動に誇りを持ちたくなる映画でした。日本映画には珍しい群像劇と言っていい作品。しかも、データを読むだけではあるが、異常にせりふが多い太った人がほとんど素人のような風貌をしているのも、リアル感があってよかった。「はやぶさ」の成功がなければ、全然注目されない地味で職人的なこういう知的世界を知ることができてよかった。「ミッション・8ミニッツ」シカゴで列車爆破事故が発生。その犯人を捜して次の爆破を阻止するためにあるミッション・プログラムが発動される。それは列車事故で死んだ男の意識に潜入するというものだった。人は死ぬ直前の8分前の記憶が残っている。その記憶に潜入して犯人を突きとめよ、といわれるスティーヴンスであるが、当の彼もどうも様子がおかしい。死ぬ直前の記憶が残っていて、いわゆるその「残留記憶」の世界を立ち回って爆弾の設置場所を探し当てたりするというのはいい。ありえるかもしれない、とも思う。軍はしきりに過去は変えられない、という。その理屈も分る。なぜ彼がそのミッションに選ばれたのか、という理由も予測はついた。ところが、最後の落とし処が上手いこと意表をつくものであった。決して騙されたのではない。この落とし処はなかなか上手い落とし方だったので、後で考えると矛盾もあるのであるが、まあいいかな、と思うのである。ところで、これは矛盾ではないのであるが、最後鏡に映った彼の姿はスティーヴンスではなく、ショーンのものであった。それはそれで、とっても哀しい結末かもしれないと思えなくもない。前作ではちゃちなセットを使ってSFを造っていたが、今回は思いっきりリアルな描写だった。そうか、金さえあればこんな映像もこの人は作れるのだ。「1911」もしかしたら、初めて孫文を正面から扱った映画なのではないか。また、日本で公開されるには珍しい「革命」映画である。その意味で、その意味でのみ大いに意義のある作品であった。孫文とは不思議な男で、ヒトラーやムッソリーニのように軍事的カリスマ性が一切ないのにも拘らず、国の運命を変えてしまった男である。私は台湾に行き、上海にも行ったが、この近親憎悪の国の両方で未だに尊敬を集め、慕われているという事実が一つの奇跡のように感じる。そういう孫文の魅力が充分に出て、辛亥革命100年にふさわしい映画が出来上がった、とは残念ながらいえないモノであった。歴史好きの中国人民にとっては当たり前の話が日本では良く分からないまま、すらっと通り過ぎるのである。例えば、黄興が絶体絶命の砲弾直撃からどうして生還できたのか、或いは黄興が一人で旗を持って馬で駆ける場面があるが、あれば史実なのか。或いは黄興は司令官と言いながら、前線で小隊長の役割もしていたり、大活躍をしていたがあれは史実なのか。等々、主に黄興の描写があまりにもかっこよく描かれすぎで、かえって興ざめをしてしまう。孫文の欧州での説得は失敗に終ったかのような描写だったのに、何故か成功している。漢陽攻防は敗戦だったのにもかかわらず、いつの間にか革命軍のほうが清朝を退位まで追い込んでいた。なぜ?袁世凱の説得は失敗だったかのように描きながら、いつのままにか退位まで追い込んでいた。なぜ?結局、あまりにも駆け足で歴史をなぞっているために映像的には素晴らしいのに、革命宣伝映画のようにしか思えないのである。あまりにも残念だ。辛亥革命は中国国内では今までどのように描かれて来たのだろうか。作られてきたのだろうか。孫文の理想は三民主義「民族、民生、民主」であるが、民主を蔑ろにする現代中国で、果たして孫文は未だに鬼門なのではないか。と、まあ映画に関係ないところでいろいろ考えた教養映画でした。
2012年04月24日
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楽天がTB出来なくなったために、映画記事は別のブログに移したのだけど、現在止まっている。根が怠け者のの私は二つのブログを運営するなんて到底無理だったようです。データとか、写真とか張るのもめんどくさいので、映画を観たときのメモをそれでもこちらに記録しておくことにします。とりあえず、この前紹介した映画の続きから。去年10月に観た映画の10月分の残りです。「チェルノブリ・ハート」2003年の米国アカデミー賞ドキュメンタリー部門でオスカーを獲ったチェルノブイリ周辺の放射能治療、小児病棟、乳児院を取材した短編である。2003年当時は、もちろん反原発のアメリカの運動家が作った映画として受け取られただろう。しかし、今は全く違う見方でしか見ることのできない映画になってしまっている。フクシマで起きたことは、その十数年後にどのような結果をもたらすのか。そのひとつの姿がここにあると、いえないことは決してない。もちろん日本とウクライナやベルラーシは違う。甲状腺がんの管理も日本のほうがきちんとするだろう。しかし、問題はパーセントや数の問題ではない。しかも、私は「ここまでは……」と思っていなかったのであるが、ここまで放射線は遺伝子に瑕をつけるものなのか。事故以来飛躍的に伸びた数はがん患者だけではない。精神病病棟や小児病棟、そして遺棄児童施設には何十倍もの精神病や異常を持った子供たちがいた。子供らしいまっすぐな瞳を持ちながら、正視に耐えない病状を見せる。ベルラーシでは現在も新生児の85%が何らかの障害を持っているという。信じられない。一体日本はどうなるというのか。冒頭と最後に監督の日本用の呼びかけの言葉が日本語字幕で流れた。おそらく、オリジナルより相当変えた作品になっていると思う。2006年に撮られた「ホワイト・ホース」という短編も付いていた。事故から20年後、初めて故郷に帰った青年の半日を映したものだ。薄い雪で覆われた北国は雑草が蔽い茂ることもなく、ただコンクリート製のアパートがボロボロになって残っている。10歳のときのベッドがあった部屋でことばをなくす青年。最後に字幕で一年後に彼は死んだと告げられた。事故があったときに、アパートの窓から事故の火を見て、両親に止められたのに見学に行ったという。なんか悪い夢を見ているようだった。「愛の勝利を ムッソリーニを愛した女」冒頭のイーダとムッソリーニの二度目の出会いの場面が象徴的である。若き日の社会党員ムッソリーニが協会の集会で、社会主義者の意見も聞いてみようと彼の意見を求める。暫く黙った彼は、おもむろに「手短に話す」とポツリ言う。ここで既に聴衆は彼の話術に嵌っている。ムッソリーニは聴衆から時計を預かる。「私は神の存在に疑問を持っている。私に五分の時間を与えよ。その間に私を殺すことができるならば、神の非在は証明されたとする」五分間はもちろん速やかに過ぎる。「神の存在は否定された!」会場は大混乱に陥る。それを見ていたのがイーダだ。イーダ7年前に官憲から追われる彼を助けたことがある。そのときからイーダは彼のことを好きだったが、今夜の茶番で決定的にムッソリーニを愛したようだ。台詞はないが、おそらくそう思ったことだろう。また目的のためにほとばしる情熱を持っていたことも、イーダは惚れちゃったに違いない。一目でムッソリーニの本質に気がつき、しかもそれを愛してしまった。けれども彼女は女である。彼女の資質はムッソリーニと同じであっても、それを表現する場はない。必然的にムッソリーニに総べてを託す。全財産を彼に与え、ムッソリーニはそれを元手にファシスト党を設立する。ムッソリーニが詭弁を重ね、「行動的中立」という理屈で第一次世界大戦の参戦を主張し、愛国主義を武器にファシスト党の党首を経てイタリアの最高指導者になる家庭を映す。イタリア映画でムッソリーニを全面的に描いたのはこれが初めてではないか。それほどまでに客観的に彼を描くのには時間を要したということなのか。一方でイーダはやがてムッソリーニ正式な妻も子供もいることを知るのであるが、自らの子供を正式にむっソー煮の子供と認知してもらうために手段を選ばない。けれどもそのせいで、権力を持った彼によって精神病院に追いやられる。ムッソリーニとイーダとの性質は同じであったが、いかんせん目的が違ったのである。彼は「自分の野望を実現すること」彼女は「ムッソリーニの愛を得ること」これはたぶん究極の「すれ違い」ドラマだったのだろう。ムッソリーニが次第とファシズムの狂気に落ちていくのと併行して、狂人がいる精神病院の中でイーダが次第と理性的になっていくのが対照的であり、なかなか見事な作劇だった。映像的には印象的なカットを繋ぎ合わせる「キュビズム的」な作り方。ちょっと注目すべき監督だと思う。「ツレがうつになりまして」一家を支える夫がうつ病という長期療養を必要とするかもしれない病気になって、ほとんど貯金もないときに、「会社を辞めなかったら、離婚するからね」とほとんど悩む間もなく夫を脅すことのできる妻というは、おそらく普通にいるのだろうな。僕なんかは、うじうじ悩むほうだから、妻が居た場合は会社を辞めようなんて、決して思わず、病気をさらに悪化させ、万が一妻がそういったとしても、気の迷いだとして聞かなかったことにする性質だ。きっとうつ病の体質を持っているほうかもしれない。もし僕が妻だったら、そうは言ってもあれこれ考えて、休職とかを考えるのが関の山だったろう。でも、宮崎あおいのぐうたらな可愛い妻はそんなことは当たり前のように説得力をもってそういう選択をする。堺雅人のツレも非常に素直に応じる。彼らが演じるから説得力がある。割れないで残っているビンだから素晴らしい。その他、一杯珠玉の言葉があって、原作よりもさらにメッセージ性の高い作品になった。今年を代表する一作ではないけれども、普遍性のある夫婦愛の話である。それにしても、あおいチャンは可愛いなあ。
2012年04月23日
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「草莽枯れ行く 下」北方謙三 集英社 「新しい政府ができたら、俺はやろうと思っている事がある」 「お前なら、結構いいところに行けると思うぜ。どうせ、薩摩と長州で官の奪い合いだろうが、薩長の幕府という非難を避けるためには、お前の様な草莽を加えるのがいい、と誰もが思うだろう」 藩を後ろ盾にしているわけで無いから扱い安い。そんなことは、総三にも分かっていた。総三がやろうと思っているのは、新政府の仕事ではないのだ。 商売をやってみる。例えば、清水には松本屋平右衛門という回船問屋がいる。清水には、幕府の米が集められ、駿府に運ばれている。幕府がたおれれば、その米が無くなる。つまり船が余るのだ。 薩摩や長州や土佐の商人は、政商になっていくのが目にみえていた。そうでない道を、松本屋とならば探れる。政商ではないものの強さも、どこかにあるはずだ。それに清水には次郎長がいた。(105p) 前巻の感想で私は「これは日本版「水滸伝」だ。革命小説だ」と書いた。 内政の腐敗の一掃と外交、二つの危機をどうするか。それを解決する方法として、「佐幕開国」「尊王攘夷」「公武合体」「薩長連合」「大政奉還」「版籍奉還」があり、僅か数年のうちにそれが目まぐるしく変わった。 その中で周辺の知識人たる相楽総三は、持てる手段の全てを打って「未来」を作ろうと(この小説の中では) している。しかし、彼らに待ち受ける未来は「敗北」であることが既に決定している。その意味で、「水滸伝」であり、「楊令伝」なのである。 岩倉という男なら、どんなことでもするだろう、と次郎長は思った。いかさまでも、半端はやらない。華奢な男だが、そういう所はあった。いかさまをいかさまと思わない。博徒にも、そういうのがいる。岩倉は似ていた。総三がなにをやったかというと、それだけなのだった。つまり、少数の人間の都合のために、殺されたのだ。殺しただけでなく、汚名も着せた。やくざでもやらないことだ、と次郎長は思った。喧嘩は勝負。終われば、汚ないことはしない。何がなんでもというのは、長脇差を抜いている間だけのことだ。幕府が潰れようと、新政府が出来ようと、次郎長にはどうでもいいことだった。(264p) 次郎長は最後に岩倉具視を斬る(それで岩倉具視が死んだかどうかは、読んでのお楽しみ)。この小説では、西郷隆盛も権謀術数を駆使する悪人として描かれている。他にも伊牟田小平、益満休之助、勝海舟、山岡鉄舟、新門辰五郎、土方歳三、板垣退助などが登場、側面から幕末を活写している。それに「ヤクザ」の視点を入れることで、幕末の「上からの革命」部分が見事に描かれていると思う。そういう所もヤクザ者が多い「水滸伝」とよく似ていると思う。
2012年04月21日
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北方謙三「草莽枯れ行く」(上)を読んだ。 相楽総三と清水次郎長の話。これは明確に日本版「水滸伝」だ。革命小説だ。 自分が武士なのか町民なのか、総三は昔から考えていた。国はすべての民からなり、武士はその中の一部である。その一部の者が、学問を修め、国がどうあるべきかを考えていた。だから今、時代の流れを導くのは武士であるべきなのだ。しかし、それは、武士以外の民に受け入れられるものでなければならない。 民の意志が作られるのは、そこからだろう。そのために、武士は命を賭ければいい。米一粒も作ってはいない武士に、出来ることは命を賭けてすべての民を縛る古い価値を打ち壊すことである。(38p) 北方謙三なので、単純な幕末小説などになるはずがない。一方の主人公に清水次郎長を選んでいることでもそれはうかが える。清水次郎長の周りは今で云う「不良の溜まり場」だ。しかし、百鬼夜行の幕末では、其処のほうが珍しい程「真っ直ぐな男たち」が居る。そして、総三も、珍しい程真っ直ぐな理想家肌の革命家という設定なのである。 「もう一ついいですか、坂本さん」「なんだね?」「私の友人に、決起を試みている尊攘派の志士が居ます。その男は、どこの 藩の人間でもない。しかし、決起すべきだと考えているのです。たった一人であろうともね。それを見て他の武士が集まる。やがてそれは大きな流れになって、時代を作っていく。そう考えている男が居るのです。」「草莽の志士か」「そうです」「草莽は枯れ行く。そしてまた新しい草莽が芽吹く。それを繰り返し、無数の草莽が、大地を豊かにしていく。その大地から大木の芽が出ることもある」「いつ?」「五十年先か、百年先か」「そんな」(173p) 益満休之助の云う「友人」の相楽総三と坂本龍馬はやがて合間見える。 「藩は大木。大木には大木の役割があり、草莽には草莽の役割がある。大木があって草莽があって、はじめてまことの大地でしょう」「気持ちは分かる。気持ちは分かるぜよ、相楽さん」「私も、坂本さんと話してみて、坂本さんの気持ちは分かるような気がします。確かに、倒幕の戦いは、薩摩と長州が組めば闘えるかもしれない。しかし私はそこに、草莽が加わったという歴史を刻んでおきたいのです。ほんの小さなものでもいい。間違いなく草莽の力があったということをね」「相楽さん」坂本は、弄んでいた靴を寝台に放り出した。「あんたの言うことは、正しいぜよ。しかし、正しいにもいろいろあるきに、それを考えてくれんかのう。このわしとて草莽よ。どこの藩の後ろ盾も無い。薩摩と長州を駆け回って、商売をしようとしちょる。草莽は、草莽の生きる場所ちゅうもんがある、とわしは思うぜよ。大木と一緒に雨や風に叩かれたら、草莽は枯れる。わしはそう思う。雨や風に叩かれるのは大木に任せ、わしらはわしらの生きる場所で生き延びればいいきに」(230p) 前の章で「草莽は、枯れ行く」と達観していた坂本は、相楽と共に草莽として生き延びようと、語っている。矛盾なのではない。これが革命の日々なのだ。 おそらく、坂本龍馬の暗殺が相楽総三を変えるだろう。それは、下巻の話になるだろう。
2012年04月18日
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今月の労働組合機関紙に連載している映画評です。「冬の小鳥」去年公開された韓国映画ではこれが一番良かった。 韓国では特に70年代、貧しい家の子が養子として外国に行くことが多かった様だ。現在韓国ドラマや映画では、そうやって成人して帰韓して「実は…」という話が絶えない。この作品はフランスに養子に行ったウニー・ルコント監督の実体験を元に作られている。 しばらく父親の顔は出てこない。父親の自転車の前に座らされて風を切って走ったこと、父親がお酒を少し飲んで知ったばかりの歌謡曲を歌ったこと、よそ行きの服と靴を買って貰ったときの嬉しさ、田舎道でバスを緊急停車させて用を足したあと田んぼの泥濘で靴を汚してしまったこと。そんなことだけが9歳の少女の記憶に刻まれる。名優ソル・ギョングの寂しくすまなそうな貌が映るのはほんの一瞬である。 1975年、児童養護施設に預けられたジニ(キム・セロン)は父が必ず迎えに来ると信じ、頑なに周囲と馴染もうとせずに反発や反抗を繰返す。秋から春にかけて、それでも仲良しの11歳のオンニ(先輩各のお姉さん)はアメリカに養子に行った。一番年長のオンニは初恋が破れ、幼くないため家政婦として出て行った。終始、不機嫌な顔をしていたジニだが、それでもフランスの夫婦から養子にもらいたいと申し入れがある。彼女がフランスの空港に降り立つ顔はまさによそ行きのような顔であった。 少女のセリフはほとんど無い。しかし、気持ちは痛いほど伝わる。門から出て、一人で父親を探そうとしたり、少しづつ穴を掘って自らを生き埋めにしようと試みたり。養子に出る少女たちを送り出す「蛍の光」と「ふるさとの春」(韓国の童謡)の歌が三回歌われるのも効果的である。三人ともまったく同じ表情をして、同じタイミングで門を出て行くのである。 女性らしい細かな演出と女性らしくない大胆な編集が、非凡なものに感じた新人女流監督だった。 「グエムル漢江の怪物」のコ・アソンが年長のオンニを演じていて、流石だった。失恋して自殺を試みて、みんなの前で反省の弁を言っているときに、なにも知らない幼児たちの笑顔に連れられて泣き顔がだんだんがほころび顔になるのである。彼女たちがまだ本当に少女なんだな、と知らされる瞬間だった。 彼女たちは死んでしまった小鳥のように深く深く傷つく。そして、秘密の缶のケーキのように甘い甘い瞬間も過ごすのだ。(2009年韓国・フランス レンタル可能)
2012年04月14日
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いわゆるデモのハウツー本の役割もあります。でも、労組や各種民主団体の幹部でデモを主催するような人も、必読の本です。或いは、3.11以降、具体的にどの様な市民の意識変化が起きたのか、模索している様な人も必読です。薄い本です。あっという間に読めます。 「デモいこ!声をあげれば世界が変わる 街を歩けば社会が見える」河出書房新社 TwitNoNukes編著 700円 「何故デモに人が集まらないのか」それを解消する様なヒントが満載です。例えば、難しい言葉で悩んでいる人「私たちは専門家集団であると同時に組織者である。国民を目覚めさせることが我々の任務である。しかし、いかにして国民の自覚を促すかが難しい」こんな人にも読んで欲しい。 第一章は総論といってよく、長いが、抜粋しながら紹介したい。 いきなり見ず知らずの人がやってきて、庭にわけのわからない物質を撒き散らし、食べ物や飲料水にも、その物質をかけてまわったとします。黙って見ている人もいるかもしれませんが、たいていの人は「やめてくれ」と言うでしょう 。それでもやめてくれなければ、警察に電話する人もいましょう。逃げ出す人も、いましょう。 やめさせることも、 逃げ出すことも 人として或いは生物として当たり前の行動です。「いやいや、これはただちに健康に影響がないから」「国が設定した基準値を下回っているから」と言われて納得出来るものではありません。 しかし、ときとして、物質をまいた人には声は届かず、或いは声が聞こえてもその行為をやめようとせず、警察に電話しても助けてくれないことがあります。 その時は、道路に出て叫んでいい。 これを複数の人たちでやってもかまいません。役所の前で、マスコミの前で、また、同じ様に被害にあっているかもしれない人たちに向かって叫んでいいのです。車道を使っていいのは、車と神輿とマラソン選手だけではありません。デモをやることは、誰に対しても法で保証されている権利です。(略) デモによって 、納得していない人たちがいることを見せていく。同意してくれる人たちを増やしていく。マスコミにも取り上げさせて、世論を作っていく。 或いはデモに参加することで、同じことを考えている人たちがいることを確認する。意見を交換することで、理解を深める。自分の知らなかった情報を得る。声を出していいのだと知る。其処で知り合うことで、別の行動を始める。 運動不足の解消だのダイエットだのといった目的 のためにデモに参加している人たちもいていいのです。どんな目的であっても、デモをやるのは自由です。 「そんなことをしても世の中は変わらない」という人たちがいます。違います。「そんなことをしても世の中は変わらない」という人たちが多いから世の中は変わらないのです。 選挙で投票していれば世の中はよくなると 思っているからこうなった。政治家に任せておけばいい。役人に任せておけばいい。マスコミに任せておけばいい。そんな考えがこの社会を作ってきました。 選挙に行くことも大事です。しかし、それだけでは足りない場合もあるのです。たとえば原発事故。いま現在、政治家になっている人の多くは原発の是非を争点にして選ばれたわけではありません。選挙民は原発事故がもたらすものを充分に知った上で投票したのでもありません。 彼らに選挙民の意思を伝えるには、手紙を出す、メールを出す、直接話しかけるという手段もありますが、デモで伝えることも出来ます。選挙という方法の欠陥を補う手段がデモでもあるわけです。 デモがそういった効果を常にもたらすわけではなく、それによって政治家もマスコミも動かないかもしれない。それを見た人たちが意見を変えることもないかもしれない。 それでもデモをやっていいのです。これは表現だからです。効果があるのかないのかわからないことをやってはいけないんだったら、テレビだって、新聞だって、出版だって、映画だって、音楽だって、ブログだってあらゆる表現に意味がないことになってしまいます。 人は止むに止まれず表現します。効果なんてものは結果出て来るものでしかなく、それはデモでも同じです。必要なのは「デモをやりたい」という意思だけです。 まさに今はデモのやりどきです。手続きを済ませれば、路上は音楽を演奏することも、歌を歌うことも、文章を読み上げることも、絵を発表することも出来る場になります。公共の福祉に反しない限り、原発に限らず、どんなテーマでデモをしたっていい。(略) いざデモに参加してみれば、ここにはもう一つの世界が広がっていることが実感出来るはずです。 (略) デモに出れば、自分と同じようなことを考え、同じようなこと で悩んでいる人たちがたくさんいることが分かります。それを大きな声で叫ぶことで自分を取り戻す。人によっては、それを契機に職場や家庭でも話し始める。相変わらずそうは出来なくても、思いや考えをインターネットで書く勇気を得る。 (略) デモをやらなければならないのは、本来不幸なことです。それぞれの人が、この不幸な時代に苦悩を抱えながらデモに出ている。しかし、デモに出ることで、その苦悩を生みだしている元凶を解消する道筋を見いだすこと、大きな声で思っていることを表現すること、知らない世界を知ること、思いを共有する人たちと行動し、語り合えること、自分を肯定出来ることはたのしい。 デモをもっとたのしみましょう。 違います。「そんなことをしても世の中は変わらない」という人たちが多いから世の中は変わらないのです。ーというのは卓見であると思う。「普通の人びと」が声を上げる。その論理を此処までまとめた文章を私は読んだことがない。平成の世の「檄文」ともいえる。
2012年04月10日
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今日の岡山の朝の空は雲一つ無い快晴のはずなのに、水平線あたりは黄色く濁っている。そうです、西日本名物、黄砂の季節がやって来ました。日本の黄砂は主に「車の窓か汚れる」「洗濯物が汚れる」と、不評なのであるが、実は中国に近い朝鮮半島の方がことは深刻なのである。先か見えないほどの黄砂が降るところもある。先週のハンギョレ新聞では、この様な記事も載ったという。外出時は帽子・傘を用意して 帰ってきたらすぐに髪を洗おう 今年も確実に春の招かれざざる客である黄砂が降り始めた。 黄砂は各種皮膚疾患と目や呼吸器疾患の他に脱毛症状を起こしたり悪化させたりもする。 黄砂に入っている重金属などが頭皮の毛穴や毛嚢を刺激するためだ。 大韓皮膚科医師会の助言を得て黄砂の季節脱毛管理法について調べてみる。まず脱毛患者および脱毛が始まった人は黄砂の激しい時はできるだけ室内に留まった方が良い。帽子やサングラスなどでも黄砂を防ぐには限界があるためだ。 外出が避けられないなら黄砂が最も激しい時間だけでも避けるようにしなければならない。 合わせて日傘や帽子をかぶることを恥ずかしがってはいけない。ただし頭にきつ過ぎる帽子を長時間かぶれば、頭皮の血液循環を妨げることがあるので若干ゆるい帽子を着用した方が良い。 また春には雨がしばしば降るので黄砂雨に当たらないように普段から傘を持ち歩くのが良い。(略)4月3日ハンギョレ新聞よりこの記事を読んで気が付いた。黄砂って、放射能被害に良く似ている。国境が用を成さない。薄く広範囲に降り注ぐ。降った時に直ぐに安全性は分からず、後からじわじわ被害が出てくる。違っているのは、ガンになるか、ハゲになるか、ということである。そして、目に見えないか、目に見えるか、ということである。毎年この季節になると、車のフロントガラスが汚れるので、憂鬱になる。目に見えない黄砂の様な放射能を浴びている人達の気持ちを少しだけ想像してみる。目に見えないということは、「慣れる」ということだろう。黄砂でさえ、私は慣れているのである。言わんや、放射能をや。
2012年04月09日
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「リーディング3.0」実はスマホiPhone4を買って以降、かなりの時間をこのオモチャに使っている。この前行った韓国への旅にしても、このオモチャの使い方で色々と喜怒哀楽があったのである(洗濯機に落として一度たくさんのデータを飛ばしてしまったり)。確かにiPhoneは携帯とは違う。ほとんどミニコンピューターである。しかもポケットに入る。例えば、ツイッターやブログ、Facebookの閲覧や書き込みは非常に易しくなったので、70%はこちらで閲覧しているほどである。「アプリ」という85円とか170円とか、無料とかで手に入れるこのできるiPhone専用ソフトがあって、豊富で、あっという間に40近くのソフトをダウンロードしてしまったこの半年であった。仕事は速くならない。けれども、情報量は非常に上ったと思う。そんなこんなで、もっと使いやすさを求めて本も読んでいるのであるが、この本によって実は「ever note」という存在を知った。「ever noteはめんどくさがり屋の人でも楽に情報を活かせるツールだ」と著者が書いているように、私にある程度ぴったりだと思った。詳しい説明はめんどくさいので割愛(^^;)。検索すればいくらでも詳しい情報は出てくると思う。で、此処まで持上げておいて落とすところが私らしい書評なのであるが、この本はever noteの使い方ではなくて、所謂「情報整理のハウツー本」である。そういう本に、「知のあり方」を要求するのは無理があると承知で書くのであるが、この記述はいただけない。3.本のスクリーニングこそ力を入れよ 「読書はよい習慣だから、なんでもたくさん読めばいい」という論はレバリッジ・リーディングには当てはまりません。 書籍代はもちろん、なにより貴重な自分の時間を投資するのですから、それにふさわしい「投資アイテム」かどうかを見極める必要があります。本を選ぶとは、株や不動産を吟味するのと同じくらい真剣になすべきことです。 第一に、自分の目的に合う本を選ぶことが大切です。「人生の目標」「現状の課題」に合致するテーマでなければ、どんなよい本でもためになりません。(略) 第二に、あまり分厚くてりっぱな本だと挫折してしまう危険があります。最初はすらすらと読めるようなとっつきやすい本を選びましょう。理論が中心になる「教養型」より、実際の自分の仕事にすぐ応用できるノウハウがかかれた「経験型」の本がお勧めです。ビジネスでプロジェクトを立ち上げる時に情報収集をするだけならば、確かにこのとおりでしょう。だけれども、この本は所謂「情報」一般を扱った本です。彼が進めるever noteの「タグ」の中には、自分の「タグ」も紹介していて、「新刊アイディア」「投資」とかと併行して「ワイン」とか「旅行」とかも入っているのです。しかし、彼は所謂「読書」とは実用とか考えていない。彼の言う「教養」とは、「理論」という理解です。こういう人は「カラマーゾフの兄妹」などを読むのは「時間の無駄」ということになるでしょう。こういう人は、ソツなく仕事をこなし、与えられた役割はきちんとこなし、将来展望も数年後は立てられるのかもしれません。けれども、あるべき未来を空想することはできないのではないか。戦争になれば、真っ先に隣組の組長になり、戦争が終れば「我々はだまされていた」というような輩のような気がします(←ちょっと言いすぎ)。
2012年04月07日
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春の嵐一過の今日は偶然にも二十四節気では「清明」に成ったばかりだった。「天地万物が清らかな明るさに輝いているさま」を表す言葉。少し風は強かったが、春らしい暖かさだった。72候は「玄鳥至(つばめきたる)」。昔は燕の訪れを待って春耕を始めたらしい。私も今日は小さな畑の草刈をした。要らない草も、要る草花も、2-3日見ないだけですくすくと伸びている。これからこの小さな畑との格闘が始まる。「100円ノート超メモ術」中公竹義 東洋経済新聞社この35年間、メモ術のためにいくつも試行錯誤を重ねている。最近はIfoneを買ったのを機に「クラウド」ってやつ ? 「エバーノート」を使い出した。その半年ぐらい前に買ったのがこの本。こちらは究極のアナログである。しかし、デジタルに匹敵する機能がある。持ち運びが簡単。時系列、ランダムに記録・検索ができる。自由な言葉でインデックスが作れる。しかし、結局100円ノートを二冊目を使っているだけだ。私にとっては、作った文章をブログや読書ノートやツイッターやフェイスブックに使う「二次使用」大きな使い方になる。しかし、これはそれができない。しかし、ほって置いたこの本を眺めるうちに、目的を限定して使うには使えるかもしれない、という気がしてきた。こうやって梅棹忠夫の「京大ノート」から始まる私の35年にわたるメモ術は、ずっと試行錯誤のままに、このまま続くのであります。
2012年04月04日
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今日は大風が吹いた。ガラス窓が至る所で破れ、救急車のサイレンがひっきり無しに聞こえてきた。岡山南部にこんなに風が吹くことはめったにない。何事かと思えば、72候では今日は「雷乃発声(かみなり すなわち こえをはっす)」という日らしい。昔からちゃんと警告は発せられていたということだ。寒冷前線が通りすぎるこのころは、雹が降り、遠雷が鳴り、花散らしの風が吹く。閑話休題、楊令の国造は財源確保の為にシルクロードから東北藤原京までの道作りを目指そうとしていた。発想やよし、まだ鎌倉幕府誕生まで間がある、史書には載っていない彼らの国だけど、見守りたい。「楊令伝 10」北方謙三 集英社文庫「役に立つのかな、それ?」「ああ」「よかった。あたしは、働いたよね」「働いた」徐絢が、眼を閉じた。唇は、動いている。羅辰が、かすかに首を横に振った。縫った傷のところから、出血が続いている。「死ぬのかな、あたし」「俺がついている」おまえには俺がいる。いまさら言っても、空しいだけだった。「何か、足りない、と思ってた」徐絢が眼を開いた。「いつも、なにか、足りなかった」徐絢の眼から、涙が流れ出してきた。「ありがとうって言ってみたけど、それでも、足りない」徐絢の躰に、なにかが襲いかかっているのを、候真は感じた。「いま、わかる。ありがとう。続きがあるのよ。ありがとう、あたしみたいな女、好きになってくれて」徐絢がいなくなるということが、候真にははっきり分かった。(226p)楊令伝、ちょっと女性に厳し過ぎはしないか?徐絢には生きて欲しかった。国造り、それぞれの処で闘いは続く。泰容が遂に動き始めた。
2012年04月03日
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@zyphide2: おはよーございます。蘇生しました。糸子。4月1日 #ohayo #カーネーション渡辺あやの「カーネーション」が終わった。宮崎あおいの「純情きらり」は、主人公が初めて死んだ朝ドラということで話題になったが、今回は何と最終回一日前に主人公が死んで、しかも五年も月日が経って、主人公の幽霊さえ見せてくれるという凝りようであった。最後は去年の10月ドラマの始まりを友人の奈津が見るという無限ループ、まさにリ・カーネーション(転生)の様に「あなたの愛は生きています」というこの花言葉のように、実に小粋な終わり方をした。渡辺あやは基本的に映画脚本家で、連続ドラマ、しかも149回も続くドラマ脚本は途中で息切れがしないかと心配していたのであるが、最後までその質を落す事なく終わらせたのは、立派だった。しかも、映画脚本家らしく台詞で説明しない効果を随所に散りばめていて(例えば最終回の末期ガンだった加奈江さんの「奇跡」の復活)、いろんな「仕掛け」がホントに楽しかった。朝ドラというのはやはり「全国区」らしく、始まる前に私が騒いでいた「渡辺あや」と「尾野真千子」という名前が、どうもこの半年で全国区になったようだ。祝着。尾野真千子の主演映画「真幸くあらば」(死刑囚との交流、脱いでます!)も観てみたが、『殯の森』『火の魚』と同じ様に死を抱えて「思い詰めているヒロイン」であった。今回の役は彼女にとっても大きな大きな転機になるに違いない。渡辺あやの脚本は、ヒロインが最後に一皮剥ける所に特徴が有ると思っていたのであるが、それは私の思い違いで、彼女は映画脚本としてそう書いていたのだと知った。連続ドラマのヒロインは、仕事と恋、人生を、そして生と死、老を、劇的にでは無く、それでも私たちに分からせる様に印象的な台詞を使いながら、徐々に「変わっていった」のである。個人的には、今私はお父さんの「仕事に行くんや無い、勉強や、勉強しに行くと思え」という台詞が心に響いています(^_^;)。
2012年04月01日
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