Time can't wait ♪ sorachi

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「この国はどこへ行こうとしているのか。」


特集ワールド 「この国はどこへ行こうとしているのか」 小田和正さん

・・・・・小田さんの記事より


徒党を組まなきゃ

どんな歌を作る時も、
意識したのは同級生の視線だった。


東京白金台にある小田和正さんの事務所へと歩く。イチョウ並木の向こうに、雨上がりのツルンとした青空。独特の高音を生かした小田さんの歌声みたいに、透明な空だと思う。ところが、小田さんの生の声はハスキーボイス。歌詞に出てくる「僕」ではなくて「おれ」。語尾も「だよね」ではなく「だなあ」。歌声から想像するよりずっと骨っぽく、硬派な雰囲気の人だった。


58歳にして今なおトップアーティスト。最近のアルバム3枚は、すべてオリコンチャート1位の最年長記録を更新した。数年前、同世代に向けたメッセージを歌い始め、「団塊世代の旗手」としてメディアに登場する機会も増えた。女性客が多かったコンサートに、現在は中高年男性が詰め掛け、一緒に声を張り上げて歌っているという。常に自分より若いファンに支持されてきた人が、なぜ今、同世代にこだわるのだろう。


「でも、おれはずっと、どんな歌を作る時も、一番意識してきたのは同級生の視線だったんだ」
意外な感じがした。
「同級生」とは東北大学の建築学科時代、ともに課題設計に取り組み、理想を語り合った仲間のことだ。多くが建築業界に就職する中、小田さんは迷いながら音楽の道を選んだ。「あいつらが選んだ道が真っ当だっただけに、おれはその分きばるしかなかった。何か青い感じでね」
70年にオフコースとしてデビュー。当時全盛のメッセージフォークは、独り善がりな感じがして共感できなかった。ヒット曲に恵まれなかった初期も、ようやく79年に「さよなら」が大ヒットしてからも、気になったのは同級生の存在だ。「商業的とか軟弱とか思われていないか」と自問し、「あいつらは、今やりたい仕事を追いかけているだろうか」と思いをはせた。


時が過ぎた。バブルは崩壊し、不況が建設業界を直撃した。リストラや倒産の噂が流れ、同窓会に姿を見せない仲間が増え始めた。ゼネコンで猛烈に働いてきた同級生が自分の心配よりも、旧友の消息を案じ合っていた。
「それはとってもかわいそうなことで。銀行がつぶれる時代なんて誰も考えてなかったから。でも、若いころに頑張ってきたことが、たとえ形を変えても、いろいろな場所で今につながってほしいなって。もう一度頑張るなら今立ち上がるしかないぜ、と伝えたくなった」


「初めて自分を優先させた」というアルバム「個人主義」(00年)で同世代へのメッセージを歌った。その中の曲「the flag」(ザ・フラッグ)では「この国のすべて」を「僕ら」が「変えてゆくんだったよね」と振り返り、「戦える僕らの武器」を見つけて「ここへ並ばないか」と呼びかけた。団塊世代への応援歌とも言われる。


でも私は、同じ歌詞の中の「僕はあきらめない」「誰かそばにいるか」の方がドキリとする。応援というより、鋭い問いを突き付けられた気がして。こんな解釈を打ち明けたら、小田さんはくすくす笑って「応援というより喚起だろうね」。
「同窓会で顔を見れば分かる。世の中を変えるなんて、もう自分の手には絶対に届かないって顔してる。でも、あのころ、ストライキとかやっててとてもつらかったんだよ。大学立法反対で半年近く毎日会議やっててさ。全く意味のない、戯れの、気まぐれの、若気の至りで闘っただけではなかったよな?」


今のこの国に思う。
「国や国民を犠牲にし、自分たちの利益を守る人たちがいて、それを告発する人たちがいる。でも告発はいずれ沈静化し、結局何も変わらない。その繰り返し。だからマイナーチェンジを叫んでもむなしい」


ふと、私の顔を見て言う。「新聞だって許せないと社説に書くけど、書くのは簡単だ。書いてる君ら、行動してる?」
だから悩む。たとえ仕事の99%で妥協しても、この手に握りしめた1%だけは譲らないぞ!と踏ん張る。それが精いっぱいだけど、と正直に答え、「小田さんは?」と尋ねてみた。
「おれの中では まだ混沌としてるな。でも大事なのは『何のために生まれてきたか』。戦争に巻き込まれるために生まれたなんてまっぴらだ。何をやるのが正しいか分からない。でも、やるべきことは本当はいっぱいあるんだ。ただし、行動には大変な自己犠牲が伴うから、結局『何なんだよ』とか思いつつ、おれだって何も行動しないで生きてるわけだ」
本当に?


かつて偏屈だとか非社交的だとか言われた小田さんが「人と何かすること」にこだわり始めた。私には、それが新たな行動に見える。
元々は徒党を組むのが苦手な人だ。学科の仲間と参加したデモで「大学立法反対」のシュプレヒコールを叫んでも、労働組合の人と「安保粉砕」を一緒に叫ぶことはできなかった。深く考えずに投石することも、ノンポリを決め込むこともできず、だから学生運動とは距離を置いた。離れたところで一人生き方を探した。


しかし、89年のオフコース解散を機に、意識して行動を変えた。「もっと人と交わろうと決めた。失うものはなかったから。年を重ねたお陰で、全部を共感できなくても、共感できる部分で折り合いを付ければいいと気付いた。妥協ではなく折り合い。そこに訴えられるものが何か出てくれば十分なんだ」
90年代には、奥尻島や阪神大震災の神戸など、被災地に向けた救援ライブ企画「日本を救え!」にも深くかかわった。これまで拒んでいたテレビの世界でレギュラー出演し、新しい音楽番組を模索したこともあった。
「最近思うんだ。人には変えられるものを変えていく義務がある。そのためには人とやること。人とやれば必ず何かを生み出せる。徒党を組まなきゃ」
なれ合いでなく?
「なれ合いだっていいさ。一匹オオカミみたいな顔をしてちゃダメ」。団塊世代大量定年の07年、自らも60歳となる。
「団塊世代の潜在的なエネルギーを集めたら大変な力になるだろう。それを束ねる役なんておれ、やる気ないけど」。それから目を閉じて少し考え、最後にこう付け加えた。「でも、誰かがやるなら・・・・。おれは手伝うな」




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