第5章 (完成!)


第5章 映画「ありがとね」そして…

■映画会社m20との出会い

自主コンサートの第2ステージの構成は「風といのちの詩」という映画を観たことで出来た。

「風といのちの詩」は宮崎県で作られた作品だ。遠い外国の海や山の物語ではない。「カーニバル」がある宮崎の自然のあるがままのドラマ。アカウミガメや岬馬やニホンザルが持っている、なんと愛情に満ちたゆったりとした時間。だが自然界の生と死は厳しい。それだけに厳かで美しい。風化した骨の横で新しい命は生まれる。人間もやはり同じ自然のサイクルの中に生きている。急いだ者にも、穏やかに過ごした者にも平等にやってくる死。自然がいつでもそれを問いかけていることを忘れるな、と静かに訴えていた。映画の最後に流れるテロップ。動物や虫や雑草と言われる小さき出演者たちが、ひとつひとつ名前をあげて丁寧に紹介されていった。このテロップを見ているだけでも、いのちの一つ一つを大切にしていくという作り手の姿勢が感じられた。
映画の中、時折登場するサルたちを見ながら考えていた。カーニバルが映画になったらいいなあ、彼らなら自然ないい表情で撮れるのではないかなあ、と。自主コンサート開催が近づけば、必ずやまたテレビや新聞などの取材申し込みがあることだろう。この時にカーニバルをきちんと伝える映像があれば、どんなにかいいだろう。今ちょうど助成金を申請しようとしている。申請内容を「映画製作費」としてもいい、などと考えながら、会場をあとにした。

しかし、車をもう一度Uターンさせて、文化会館にもどってきた。
会館の内村さんに
「今日の映画はフィルムですか?DVDですか?こんな映画作れませんか?」
と聞いてみた。すると内村さんは
「DVDですね。映画を製作した人が来ていますよ。紹介しましょう」
「風といのちの詩」を制作したのは宮崎市のm20という映画会社。映画を企画・製作したり、全国各地へと配給して上映会をしているという。私は壹岐容子さんという広報担当の方と坂元敏志さんという映画技師の方を紹介していただいた。私は開口一番、坂元さんに
「映画を作って欲しいんですけど、いくらかかるか見積もりを出してもらえませんか?」
なあんて言ってしまった。本当なら吹き出すところかもしれない。でも坂元さんは、
「はい、プロデューサーと相談の上、連絡します」
と言ってくれた。

2,3日して、坂元さんから、「バリアフリーの音楽祭」という仙台市の取組みに関する資料と手紙が届いた。彼はその音楽祭に実際に行ってきたという。あのサルサ・ガムテープの演奏も映像を撮ったとのこと。私の方からは、広報や練習のビデオなどを送った。だがしばらくは連絡がなかった。たぶん助成金だけでは、予算上無理があるだろうなあと想像していた。こんなボランティア団体なんてお金がないことは知れている。きっと気の毒で見積もりが出せないのだろうと。

9月の、カーニバルの練習日。坂元さんから見学に来たいというメールが来た。「見学はいつでもどうぞ」と返信した。撮るに値するかどうかを見て判断したり、見積もりをするのに必要なのだろうと思っていた。練習時刻よりも早く、坂元さん到着。堀有三さんというプロデューサーも一緒だった。それらしき雰囲気のある方だ。わっ本物のプロデューサー。出会いから浮き足立ってしまう私だった。しかし、それだけではない。堀プロデューサーが話す内容に驚いた。
「コンサートまでのドキュメントとして、カーニバルの映画を私たちが撮ります。お金はまったく要りません。この坂元が命かけます」
その日は、CDの録音のために浩臣さんが早く来て録音器材などの準備をしていた。楽器店の下村さんもボランティアで駆けつけてくれた。レコーディングなのに小山さんは体調不良で欠席。どうなることやらと思っていたら中井さんが来てくれる。そこへ、この映画の話。何かもう、ぐちゃぐちゃの滑り出し。お母さんたちはこの展開に目を丸くし、わあわあ、きゃあきゃあだ。私も一緒にわあわあ言いたい。いや、言ったかもしれない。

さて、すぐにクランク・インした映画の撮影。練習日にはいつもカメラが入った。大型のカメラではなく、ハンディタイプの小型カメラで、練習には支障はなかった。撮影は坂元さん。高い位置から撮ったり、時には蛇のように床を這って撮ったりで、その格好がみんなに受けていた。メンバーは撮影に慣れているのか、気にしないというより、むしろ喜んでいた。時にはメンバーの仕事場でもある福祉作業所へ撮影に出向いたり、あるメンバーの地区の運動会のシーンを撮ったり、小さい時の写真を集めるなど、構成も同時に進んでいる様子。
私は映画を作るのをこんなに間近に感じたのは初めてのこと。おそらく最初で最後かもしれない。こんな幸運がカーニバルに舞い込んだことを本当に喜んでいる。ただどのようにすれば、ドキュメント性の高い作品に仕上がるのか、私にはよくわからない。どんな映像が撮れているのか、どのように構成していくのか、できあがるまでわからないというのが楽しみでもあり、不安だ。「やっぱり作品になりませんでした」なんてことにならないよう祈るばかりだった。

■映画「ありがとね」ができた

さて。コンサートが終わって翌年2005年4月。カーニバルの自主コンサートまでの3ヶ月を追ったドキュメンタリー記録映画が、宮崎市の映画会社m20によって完成し、三股町文化会館事務室で初めての試写会が行なわれた。タイトルは「ありがとね」。
この映画のテーマは「支え合い」。小山さんと浩臣さんが音楽を作るカットから始まった。そして浩臣さんが歌う「桜が咲く頃に」(作詞・作曲/板谷浩臣)のオープニングのあと、午後の三股町の風景。語らいながら下校する児童。何気なく「カーニバル」の練習場に足を運んだカメラマンが、メンバーたちが楽しそうに歌を歌い、演奏する姿を見て、突き動かされて映画を撮ることになった…というタッチで記録が始まる。練習風景、作業所で働くメンバー、コンサート当日の様子が映し出される。自然体で柔らかな彼らの表情、ユーモラスな動きがよく収録できている。私も知らない自然な笑顔と涙もそこにはあった。私がステージで観客に見せたかった彼らの笑顔を、それも、とびっきり一番自然ないい笑顔だけを、ズームアップして、編集して、これでもかと見せ付ける。羨ましいこと、この上ない。ああ、これこれ。いくら彼らだって、この顔、絶対ステージではありえないよ!そんなカットがてんこ盛りだ。そして、それは何回でもリピート可能なのだ。完敗だ。「いやあ、映画ってずるいですねえ」
そして、テーマを美しくまとめているのは、三股町の美しい風景だ。見慣れたはずの景色も、映画で観ると違って見えた。私たちはこんな素敵な風景の中に生きていたのだ。たくさんの風景のカットの中でほっとするのは、人のいる風景だ。人のいない風景より、ずっと温もりがある。私たちはこの風景の中にしっかりと融けている。根を張って生きるということは、こういう温かい風景を作っているということなのだ。そして映画が終わった時、「ありがとう」という感情が自然に湧いてきた。映画を作ってくれてありがとう、かもしれないし、こんな素敵な仲間に出会えたことへの感謝かもしれない。私たちは出演者だから冷静にこの作品を観ることは、もしかしたら永遠にできないのかもしれない。が、映画ができたこと、私たちの取組みが一つの作品となって残ることに素直に大喜びした。そして同時に、カーニバルの強運を強く感じたのだった。この作品はm20がこれまで同様に、自作の映画を届けるという形で、全国に向かって発信していくことになった。

三股町での試写会に続き、宮崎市でもマスコミや福祉関係者ら100人を招待しての試写会が行なわれた。この宮崎市での試写会には代表として朝倉さんが出席し、親の思いを伝えた。以下の内容だ。

カーニバルの朝倉啓子です。
知的障害者と何人の人が出会い、ふれあった人がいらっしゃるでしょうか?一生のうちで一回も出合ったことのない人が結構いらっしゃると思います。諸先輩のおかげで昔より知的障害者も外で活動するようになってきましたが、まだまだ家の中で息をひそめて暮らしています。昨今の様々な自然災害の中でも、又障害者施策の大改革の中でも障害者は懸命に生きています。
さて、カーニバルは11人の都城盆地に在住する知的障害者のバンドです。昼間はそれぞれの作業所で仲間と一緒に仕事をし、近辺の方々の協力を得て、自分磨きに励んでいます。でも夜や休日はテレビを見ているか、寝ているか、何か食べているかです。他の兄弟はやれ部活や塾だと自分の好きな事をし、自分のネットをひろげ豊かになろうと励んでいます。この子らも、その機会があってもおかしくないと思います。
さて、じゃ何が出来るのだろう。何をさせたらいいんだろう。うちの子はカラオケで言葉が出だし、歌も好きだし。歌で何か出来ないだろうか。でも親一人で考えてもどうにもなりません。そこで三股町の社協に「ダメでもともと」と思いつつ小声で相談したところ、すぐさま2~3週間で指導員の先生を紹介していただき、平成15年6月に4人で歌を唄う「カーニバル」がスタートしました。第1回目の童謡カルタとりが好評で親子で楽しみました。
その後は友達を誘い11人になり、またサポートメンバーより楽器を借りて「バンドカーニバル」が誕生しました。現在サポートメンバーは20人以上になりました。サポートメンバーとの出会いは、以前から知り合いでもあったかのように自然に、一方親達は「どこの人だろう」「いくつやろうか」など興味津々。でもいつの間にか、親達も子供達に巻き込まれて、一緒に「スマイル」「スマイル」と声高に応援していました。最も驚いたのは、カーニバルにオリジナル曲が出来た事です。曲を提供してくれた人達は「子供が気に入ってくれるだろうか」が不安だったそうですが、子供達は一度聞いただけで気に入り、作業所の行き帰りや自宅で何回も何回も聞いて覚えていきます。親も必死で覚えましたが、子供の倍以上時間がかかり、脱帽でした。
「知的障害者は歌が好きだよ」とよく子供が小さい時に聞いていましたが、本当です。字が読めないので、体と耳でリズムも歌詞も覚えます。はっきり言葉が言えないのに、大きな声で唄うんです。そして体も動くんです。練習を重ねる事で仲間意識もでき、互いを励ます場面も出て来たり、好青年になっています。
「カーニバル自主コンサート」当日、今までも家族は応援はしていたのですけれど、どこか一歩引いていたお父さん達も、目に涙をいっぱい浮かべ応援してくれました。そして「感動した」「見世物にするなと言っていたお父さんがすごく良かった、感動した」「仲間の中で安心している様子が見えて良かった」「ボランティアさんが大勢いたのに驚いた」などの声が聞かれました。当日、高校ボランティアさんが「これからも大変な事があるかも知れないが今日のことを思い出して頑張ります」と涙ながらに言ってくれました。子供達はニコニコ顔で当日終わりましたが、次の日はまる一日寝ていた子もいた程、子供達は緊張しながら楽しんだと思います。
ある有名人が重度心身障害者の施設を訪問した時に「この子ら考える事ができるのか?」と言ったという逸話を聞いたことがあります。確かにこの社会で生活する事は大変厳しいです。ゆっくりゆっくり歩いていますが、納得できた事は先に進みます。納得できない事はしません。実に人間らしいです。この映画を通して障害者も健常者と言われる人たちも一緒に共同して出来る事の素晴らしさと、障害者が胸をはって生き生き出来る事があるんだと確信して欲しいと思います。皆様の益々の応援よろしくお願いします。


坂元監督は、「ありがとね」がデビュー作品となった。初めての映像編集作業はとても苦労が多かったと聞いた。しかし、デビュー作が世に出るという幸運を、この24歳の青年は手にしたのだ。私たちは、家族のように手放しで喜んだ。一人の若者や映画会社の夢までもカーニバルが巻き込んだことに、誰もが、とても誇らしいものを感じた。撮った本人である坂元さんが映画を届け、生の反応をまた伝えてくれるのだ。わたしたちの映画とこんな理想的なつながりが持てたことも、うれしい。

「ありがとね」というタイトルについて、監督は言った。
「僕の気持ちもありますし、僕らから『カーニバル』に対してもありますし、『カーニバル』から皆さんに込めた気持ちからつけたものです」
コンサートで歌う「あなたが教えてくれたもの」は、この映画の中でも特に耳に残る。この曲を作った時のことを私は前に書いた。この曲は感謝の気持ちを「ありがとう」という言葉を使わないで表現したい…と。映画のタイトルが「ありがとね」であることを知った時、私がこの言葉を呼び込んだような気さえした。鼻っ柱の強い私にとっては、非常にうれしいタイトル。だが実のところは、純子さんのお母さんが、コンサート会場を去る時に誰かに向かって発した「ありがとね」という言葉が偶然収録されていたから…ということらしい。どちらにしても、うれしい。今年の流行語大賞は「ありがとね」だと、気炎を上げる私たちだった。

また、監督は映画広報のチラシの中で、この映画に関して正式にこのようなコメントを書いている。
「この映画を通して、障害という枠を超え、福祉という大きな枠組みを意識させられたように感じています。一番身近な問題で言えば、親の介護。そして、そう遠くはないであろう自分自身が介護される側に立つこと。年齢だけの問題ではなく、病気や事故による障害は現実的に存在するものです。
『カーニバル』というコーラスグループを取り巻く環境、すなわち周囲の人々とのつながりは、僕に素晴らしい手本を示してくれたように思います。彼らは様々な形で支え合いながら生きています。障害を持つ人、健常者にもたれかからなければ生きていけないのでしょうか。決してそうではないことを、『カーニバル』に関わる人々は証明しています。互いの距離を最大限にまで縮め、出来ることを分かち合いながら生活していく。歌を歌うことで僕らにやさしさを訴えかけてくる『カーニバル』を、この映画を通して感じていただけたらと願っています。」


■上映会への取組み

堀プロデューサー率いるm20から上映会の企画の筋道が提案され、私たちは早速「ありがとね上映実行委員会」を立ち上げた。そして全国に先がけ県内での実施、先ずは三股町・都城市での上映会(昼夜2回上映)を成功させることを目標にした。この実行委員会には、カーニバル関係者以外の新たなメンバーが協力参加し、新たなネットワークの広がりを感じた。自主コンサートを成功に導いた経験を持つお母さん方が主体の実行委員会だ。メンバーの動きには、めざましいものがあった。「上映実行委員会」の名札を全員分つくり、どこへ行くのにもこの名札をつけて行動した。関係機関の後援依頼はもちろん、特に力を入れたのが企業からの協賛だ。寄付ではなく、チケットの企業への前売りという形で、動員への協力をお願いし、協力してくれた企業の名前を当日配布するチラシの中に掲載した。もちろん掲載料は無料である。この方法はすばらしい成果を上げた。多くの店舗や企業や団体が賛同してくださった。

ここでも朝倉さんの手腕が発揮された。どこへでも乗り込んで行く姿勢は他のお母さんたちにも乗り移った。初めは
「企業回りなんて」
と言っていたお母さんも、
「この子を連れて行くと、言えちゃったのよね」
「いろんなところに頭を下げて生きてきたけど、この子たちもこんなに胸張って生きていて、それが周りに勇気をあげられるんだからね」
という変化。まさに、「母は強し」と言える。この協賛をお願いする中で、活動に共鳴してくださったJAの職員組合から、多額の寄付をいただくというような嬉しいハプニングも起きた。また、新たにカーニバル・グッズを考案し、メンバーが手作りできる缶バッチを制作した。デザインはもちろん土井さんだ。
「このカーニバル・マークは本当に元気が出るわ!」
とお母さんたち。張り切って販売の作戦を練った。

結成当初、朝倉さんはこんなことを言っていた。
「親ゆえの我がままを言わないということを徹底したい。わが子かわいさのために、指導者に口出しをして、会をこわすことだけは避けたい」
と。私は初めそれがどういうことなのか、正直なところ理解できなかった。だが、私は今、それをやっと理解し、あらためて朝倉さんの賢明さに気づいた。私は「カーニバル全体が良くなるために」を優先しているが、親はやはり、わが子がかわいい。だから親レベルではけっこう不満もあったのだろうと想像する。だが、私にそれを感じさせまいとして、たくさんの細かい配慮をしてくれていたのだ。親に気を使うことなく、私がカーニバルだけに思いを集中させ、のびのびと活動することができたのは、全く彼女を初めとするお母さん方のおかげなのだ。

5月18日の「ありがとね」封切に向けて、新聞やテレビなどマスコミの取材が入り、坂元監督やカーニバルの映像や記事が多くの人の目に留まるほどになった。新人映画監督が宮崎県に誕生したということで、監督は取材で特に忙しい日々を送った。朝倉さんも私もラジオ出演して、それぞれが「ありがとね」をアピールした。初めての経験だった。ポスターもあちこちに貼った。チケットもたくさんの人が預かってくれ、販売数を伸ばした。チケット予約の電話が入ると、その度にたくさんの人に支えられた活動となったことへの感謝の気持ちが大きくなった。私の知らないところで、私の知らない人たちが、この映画を私たちの活動を伝えてくれているのだ。

そして、いよいよ三股町での上映会。開場前から長蛇の列ができた。私たちは、カーニバルのロゴ入りのTシャツで観客をお迎えした。オリジナル缶バッチもCDも私たちと一緒に並んだ。63分の映画は三股町の人々を喜ばせるに十分だった。映画のあとのエントランスホールは、まるでコンサートと同窓会が一緒になったような熱気にあふれかえっていた。
「がんばったんやねえ。みんなすごいよ」
「またコンサートしてね」
メンバーたちは、たくさんの人に声をかけられ、またコンサートの時のような感動がよみがえったようだった。コンサートに来られなかった人たちにも、映像で観てもらうことができ、映画という手法のすばらしさを感じた。同じ時間、同じ空間の中で同じ作品を鑑賞し、共通の思いを抱く。しかも手軽に何度も行なうことができるのだ。

この三股町上映会を皮切りに、都城、宮崎、佐土原、山田、小林、高原、高崎、高城、田野、延岡、日向、えびの、日南、県外は東京、千葉、名古屋、熊本(人吉・山都)、群馬で上映会が行われた。昼夜2回上映の三股町や都城市。映画としては異例の動員数を記録した。どの会場でも感動のメッセージが寄せられた。映画会社m20は、作品を作るだけでなく、独自のネットワークでこれまで多くの上映会を企画してきた。m20とカーニバルを結んでくれた「風といのちの詩」は今も全国各地で上映されている。「ありがとね」は県内では50箇所での上映を目指している。
数々の上映会の中で、私たちが大喜びしたのは「東京上映会」だ。8月27日、東京文京区にある文京シビックホール。これにはメンバー・m20・サポートメンバー・保護者たち全員で上京した。初めての「カーニバル・ツァー」は、空の便、劇団「四季」のミュージカル、上映会、ホテル一泊・ジブリの森、それにバイキングという豪勢な企画。この遠征費用は上映会での利益から捻出した。私たちの笑顔は東京まではじけ飛んだ。こうして夢の東京進出は、映画が先行した形となった。奇しくも、私が坂元さんと「風といのちの詩」を通じて出会ってちょうど1年、夏の終わりだった。1年前、だれがここまでの展開を予想できただろうか。

■地域ボランティアの「ちから」は、まだまだ掘り起こせる

私は勘が鈍い。ジャンケンなど勝ったためしがない。小さい幼児にも負けてしまうほど。そんな私が、カーニバルの活動では、どうしてたくさんの不思議な縁を結ぶことができたのか。どうして、活動を応援してくれる素晴らしい人々と出会うことが出来たのか。この謎に迫ってみたい。

行くところ、選ぶところ、全てが大当たりするこの強運に、自分でも驚く日々だった。それは今でも続いている。だが、これを神がかりなことと考えるより、もっと冷静に思いを巡らせると、こういうことではないだろうか。

出来そうにもないことに挑戦した
シロウトが知的障害者のバンドを結成。そして1年半で自主コンサート。しかもオリジナル曲を作ることからの完全手作りコンサートだ。考えただけでも無理な条件が揃っている。これが素晴らしい人と出会うためには必要だ。出来そうなことだったら、誰も助けを呼ばないし、助けにも来てくれない。

みんな自分が発揮できる場所を探している
土井さんと出会った時の彼女の言葉は、私たちに大きな勇気と希望をくれる。
「何か役に立ちたいと思っても、何をしたら役に立つのかがわからない」
そう、だれだって良かれと思ってしたのに、それが余計なことだったら、しかも迷惑をかけただけだったら、ボランティアすることが怖くなるかもしれない。それで二の足を踏んでいる人がどれだけいるだろうか。

誰に「手伝って」と声をかけるかも重要だ。今まで直接何のかかわりもないところでボランティアをするというのは、勇気がいることだ。こんなことを求めている人がいる、と聞いてもすぐに動けないのが普通だ。それは「いつ、どこで、誰が、どんな助けを求めているのか、どういう思いでしているのか」が伝わらないからではないだろうか。具体的なことが必要なのだ。もし、きちんと伝える人がいたら、きっとたくさんの力が集まると私は思う。「たくさんの不特定多数の人」に呼びかけるのではなく、「あなたの知っているあの人に、それができそうな技術を持ったあの人」に、話せばいいのだと私は思う。本当に真剣に助けを求める時には、誰だってそういう言い方をすることを思い出してほしい。

人は持って生まれた資質、育ち方、生きてきた時代環境で、ひとりずつ違っている。人の頭の中はなかなか判るものではない。長年の付き合いでも同じだ。だから、協力を貰おうと考えたら、その人の琴線に触れるまでには、たくさんの言葉を浴びせかけなくてはならない。そう、堂領さんが私にしたように。通り一遍の言葉かけでは、なかなか人は動かないものなのだ。

土井さんのことば。
「私ができることで役に立てばうれしい」
何らかの技術を持っている人。この人たちは特にそういう気持ちを持っている。私は確信を持った。しかも、これまでボランティアとはあまり縁がなかった人たちも多い。自分磨きに忙しすぎて、その機会にめぐり合わなかったのだ。私たち「カーニバル」はいい人材を発掘し、ボランティア人口を増やすことに貢献したのではないだろうか。

そう考えれば、地域のボランティアの「ちから」は眠っていて、まだまだ出会いを待っているのだとも言える。その出会いを結びつけたのが、堂領さんであり、私であったのだ。だれも損得で動いたわけではないから、純粋に手を貸すことができた。そして、その結果、大きな夢を実現するというおまけまで付いてきてしまった。こんなことがボランティアの世界ではよく起こるのかもしれない。それは、大きな富ではない。だが、お金では絶対に実現できなかった大きな大きな夢の実現。ひょっとしたら、社会はこんな「ちから」が動かしているのかもしれない。

人のつながりは、とても不思議なものだ。このカーニバルの活動を通して、私は今なぜここに居るのだろうという体験を何度もしている。今までの人脈のその先に、新しい誰かが居て、その人が私を励ましてくれたりする。またその先の人が私を支えてくれる。ボランティアの「ちから」が集まると、ボランティアした人の家族にまで喜びの輪が広がる。私たちの活動は、たくさんの人を巻き込むことで、喜びの種を更に播くことにもつながっている。そしてますます広がっていく。この不思議な感動は、「ボランティアだからこそ」のものと言えるかもしれない。「人のつながり」の神秘…これこそ、ボランティアが持っている大きな可能性ではないだろうか。

■障害者と「共に在ること」が、社会を豊かにする

知的障害者は社会的には確かに弱者の立場だ。しかし、彼らの全てを弱いもの、利用価値のないもの、生産性のないもの、すべて保護されるべきもの、と考えるのは間違いである。反対に知的障害者は「共に在ること」で社会を豊かにする存在であることを、カーニバルの活動を通して私は大きく主張したい。

カーニバルは初め、資金も何もない団体だった。助成金だけが頼りだった。CDを売って活動費の一部を作れる団体に成長した。コンサートも実現した。映画もできた。東京での上映会には、カーニバルのみんなが家族と共に上京し、出席した。私たちの夢はどんどん大きくなり、元気の種を撒き散らす団体になった。映画は反響を呼び、上映会場で知り合った県外の方が練習に参加したり、三股町の商工会の青年部の方が楽器を寄贈してくださったりした。こうした思いもよらなかった人の動きに、私はまた新たな夢を温めている。私が彼らと共に活動をすることで得たものは計り知れない。やらなかったことを考えるとおそろしいほどの差。「共に在ること」で、私の人生はこんなにも有意義になるのだ。

集まったサポートメンバーだって、どちらが助けているのか助けられているのか、お互いさまのような関係にとっくに移行している。「ありがとね」の映画も興行成績は上々。社会的な経済活動に貢献した。世にも不思議な歌声が入ったCDは、多くの人に元気を運んだ。これが豊かでなくて何が豊かというのだろうか。たとえCDが1枚も売れなかったとしても、障害のある人もない人も、一緒に助け合っている関係があることが大切なのだ。目には見えにくいかもしれないが、それは国家の福祉にかかるお金を確実に減らす。カーニバルの活動では助成金をたびたびもらうことができ、それを元手に自分たちが利益を生み出すものを購入した。楽器を買ってコンサートを開いた。録音器材はCD販売につなげた。それは、障害者だけでは難しかったし、逆もまたありえなかった。まさに、両者が助け合って経済効果までも産み出したのだ。在り得ないことだが、ボランティアの部分を公の人件費で賄うとしたら、カーニバルはもうとっくに一千万円以上の人件費を使っていることだろう。共に支え合う環境がなければ、福祉予算をいくら獲得しても、焼け石に水なのだ。

カーニバルは多くの人の夢を巻き込んで、これからも続いていくことだろう。「共に在ること」は確かに両者に公平に利をもたらす。だが、逆に支え合う環境がないことが、障害者にとってどんなに不利なことか。そして、それが障害者家族が抱えている現実なのだということに気づき、その事実を重く受け止めている。

それは昨年のこと、メンバーの一人がカーニバルを去っていった。同居の家族が亡くなった為に、引越しをせざるをえない状況になったのだ。彼女と「雪の降る町を」のソロの練習をした頃から、私はこの三股町で彼女の自立を応援したいと思っていた。町内での仕事探し。その職場に近い家探し。サポートする人探し。彼女は自立をしながら、楽しいカーニバルの活動もできる。買い物や家事をこなす彼女なら、きっとうまくいく。モデルケースとなるかもしれない。そう夢見ていた。しかし、間に合わなかった。
もし、障害者が地域の人達に見守られながら、一緒に暮らしていける社会であったら、彼女は行かなくてもよかったかもしれない。そうでないために、今まで暮らしていた家族と離れなくてはならなくなる障害者の人生を、私はその時初めて知った。メンバーを守れなかったことを本当に残念に思っている。彼女は、今までやってきたことが、一瞬のうちになくなってしまった。私たちが引越しして環境が変わるのとは、全く意味合いが違うのだ。「支える」という言葉の優しさと共に、その重み。私は彼女の何を支えてきたと言えるのだろうか。まるで足元をすくわれるような感覚に襲われた。これまで大躍進に見えたカーニバルは、危なっかしいつり橋の上にあったことに、その時気づいた。

急がなければ。今いる個々のメンバーも、楽しさと同時に、それがいつこわれるかもしれない不安を抱えているのだ。「親なきあとも活動が継続できるか」という不安は、彼女だけでなく、みんなが抱えている現実でもある。この点を抜きにしてカーニバルを守ることはありえない。今、私ができることは、カーニバルを広く知ってもらうこと。障害のある人もない人も一緒に同じ活動をしていくことの意義を知ってもらうことだ。あちこちでカーニバルのような活動が展開していったら、どんなにか住みよい町になると思う。多くの人たちが「たくさんの心と技術」とで「障害者と共に暮らせるやさしい町づくり」をしてくれる。そのたくさんの人が出会いを求めて待っているのだ。確実に。だから、そのためにも、まず上映会がたくさんの会場でできるように進めて行きたい。と同時に、継続的にコンサートやライブもできるように、また準備をしていこうと考えている。とびっきり楽しい活動がまた始まる。

これまでは私を助けてもらおうとして、たくさんの人の手を借りた。だが、「ここが喜びを次から次へと生産する場所である」と、私は今自信を持って言える。「輝きたいのなら、まずここへおいで」と。決してメンバーだけで小さくまとまったりしない。いつまでも、たくさんの人が参加して、参加したみんなが輝く場所でありたい。それがカーニバルだからだ。カーニバルを知って参加してもらうこと、みんなが輝くカーニバルであることは、親なきあとも、地域でずっと暮らしていける障害者が多くなるということ、それが社会を豊かにすることだと私は強く信じている。

私を支えてくれた存在、サルサ・ガムテープ。サルサはライブを重ねることにより、ますます進化を遂げている。福祉的な感動があった初期と比べて、音楽の楽しさをまったくひるむことなく表現して見事な演奏だ。私たちカーニバルもそうありたいと思う。今私たちに向けられている感動も、サルサがそうだったように、きっと変化していくことだろう。そして特殊になりがちな障害者の問題も、普通に親友を心配するほどの感覚で、皆が考えている社会になっているかもしれない。

《あとがき》

■インターネット

カーニバルの活動を大きく支えているのは、たくさんの人である。その人とのつながりを大きく強くしてくれたのは、インターネットの存在が大きい。
2004年3月、赤い羽根共同募金で録音器材の他に1台のパソコンを購入することができた。パソコン選びは詳しい板谷さんにお任せした。秋葉原の電器店から配送されてきたパソコンは、企業向け、デスクトップ型。さて、その立ち上げや設定にはやはり板谷さんの紹介で、温水さんというパソコンのプロが協力してくださった。選び抜かれたパソコンとプロの設定のおかげで最初からスムースに使用することができた。
格段に進歩した環境が私の仕事を助けてくれた。一昔前だったら、私が3人くらいいないとひょっとしたらカーニバルはやっていけなかったかもしれない。企画・事務・ネットワーク。すぐに連絡がつく携帯電話と経費がかからないメールはカーニバルの活動を助け、インターネットはたくさんの情報を収集したり、発信したりするのに役立った。
2005年春にはカーニバルのホームページやブログが板谷さんの手でできあがり、このネットで知り合った人たちが関わってくれるようになった。茨城県牛久市のNPO法人「おおぞら」。ここには直接訪問し、秦洋一さん・靖枝さんご夫妻にお世話になった。素晴らしい事業展開の手腕に感動。私の視野を大きく広げてくれた。熊本県の「ザ☆スクランブルーズ」という福祉作業施設のバンドともネットで交流が始まった。福岡市の「まんま・みーあ」という自閉症児のお母さんたちで結成されたアカペラコーラス。閉じ込められがちな障害児の家族を解放するがごとく、先陣を切って音楽活動。胸のすくようなハジケっぷりだ。その他、たくさんの方々がホームページを通じて、今を伝えてくれている。

「コンサート」は、直接にリアルにカーニバルのメンバーとその活動を伝えた。「CD」はカーニバルの音楽を届けた。そして私たちは、「映画」という媒体まで手に入れるという幸運を持った。大画面での映像は、彼らの笑顔を遠くまで届け、彼らの存在を知らしめる最高の手段となった。いろいろな手段で伝えることは、より多くの人にカーニバルを知ってもらうことにつながる。そして相乗的な効果をもたらす。だから、文章で伝えたり直接話をして伝えるということもこれからの課題として考えていきたい。一つの手段だけですべてを伝えることは難しいからだ。書くことや話すことは、人間のコミュニケーションの最も基本的な手段。それだけに難しいと言える。今回の本作りでも、書いて伝えることの難しさを嫌というほど感じた。最も難しい編集や推敲段階になると、賛同してくれる人たちが具体的に手を差し伸べてくれた。今まで全く面識の無かったインターネットで知り合った人たちだ。「伝えたい」という気持ちを強く持っていさえすれば、夢は実現していく。私は、またここでもボランティアだからこその不思議な人のつながりを体験した。発信していけば、世界には必ず受け止めて応援してくれる人がいる。この経験がまたカーニバルの活動に活かされる…そんな予感でいっぱいだ。

カーニバル・ファンクラブ会員ナンバー1、堂領さん。三股町社会福祉協議会を離れた今も、バリバリのカーニバル・サポートメンバーである。彼女は、練習日での保護者会議に参加し、保護者とのかかわりが私よりずっと多い。お母さんたちの努力を最もよく知るメンバーである。カーニバルは、朝倉さんの「こうなったらねえ」というつぶやきを聞き、行動に移したこの人から始まった。かかわった誰もがこんな大きな活動になるなんて、初めは思ってもみなかった。すべては、一つの行動から。たった一本の電話から始まった。


朝倉啓子さんへ

私がすることにいつも大喜びしてくれてありがとう。
カーニバルが始まってから、ずっとそうでしたね。
今度もカーニバルの本が出来たことを一番に喜んでくれることでしょう。

私のカーニバルへの愛を
私は今回ちょっと喋りすぎかもしれません。
あなたが今までかけてこられた緑さんへの愛は
こんなものではないのにね。

でも許してください。
今の私の表現力では、これが精一杯。
ステージでも、映像でも伝えられない何かを
形に残しておきたかったのです。

携帯電話だって持たないあなただけれど
軽トラックで、エプロンがけで、そのまま東京まで行ってしまいそうなほど元気。

私たちって両極端ね。
それでいて、どこか似た者同士。

これからもカーニバルの両輪は私たちです。
たくさんの仲間でボコボコと行くのも、楽しいものだって、この頃は思います。
いつも焦り気味だった私も、彼らと交わることで、少し変化したかも知れません。

スペアータイヤもない危ない私たちですが、
お互いに一息つけるまで、もう少し頑張りましょう。
あなたも、私も、みんなが輝くように。
私はカーニバルのプロデューサー、
あなたは緑さんの、人生のプロデューサーなのですから。

       くすか


敬称略
●メインメンバー
朝倉緑 家入純子 岡田拓也 村内貞雄 杉山康子 川野恵
 荒川知毅 南崎弘樹 安持ゆかり 西広大 久寿米木寿美子
●この本に登場した人々
 くすはらかずよ 堂領敦子 朝倉啓子 小山貴也 中井功 二川めぐみ
 八木裕子 小村淳子 塘尚美 塘又輔 板谷浩臣 板谷麻生 板谷なおみ
土井端絵 笠野寿子 井ノ上啓子 関至己 梶本紘子 秋永博文
 岩元勝二 山田雅人 内村陽一郎 中村初男 永山智行 上元千春    
原田真衣 中原祐亮 細川浩功 堂領梓 堂領ちとせ 大村志保美 前田いずみ
堀有三 坂元敏志 壹岐容子 原田宙 下村祐一 西田英樹 温水昌一
秦洋一 秦靖枝  棚田真代 足立希 大高貴代子
サルサ・ガムテープ グレープフルーツ THE BOOM ザ☆スクランブルーズ 
まんま・みーあ
矢車草の会三股支部  岡崎鶏卵 ミートショップながやま 
三股町社会福祉協議会 「ありがとね」上映実行委員会 
カーニバル保護者会
●カバーデザイン 土井端絵 
●協力 三股町  
■著者
くすはらかずよ
1951年 静岡市生まれ
宮崎県三股町在住
公文式教室の指導者
バンド「カーニバル」総合プロデュース 



《「ありがとね」自主上映会のご案内》


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